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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
7. 天に轟くは、闘いの宴
251/645

251. アーカーシャ・ガルバ

『さて! しばらく音声の提供が滞ってしまいましたが、私ことシーノメアも、観覧席後方へと退避してまいりました! 未だ最前列部分では「黒鬼」と兵団の戦闘が続いており、現在退避中の方も大勢おられます! 移動中の方は、先ほどのサエリ様のお達しのように、焦ることなく慎重に、兵士の方々の指示に従って退避するようお願い致しますっ』


 まくし立てて、音声担当の乙女は大きな息をつく。

 長丁場を喋り通しなうえこの非常事態とあって、彼女の疲労も限界に達しているようだった。


「お疲れじゃのう」


 隣に立つ『映し』担当のツェイリンは、汗ひとつかかぬ涼しげな顔でかんらかんらと笑い、遠縁の娘を労った。


「ツェイリンさん……疲れたりしてないんですか? 『凶禍の者』って、体力まで人並み外れてるんですか……?」


 げんなりした顔で呟くシーノメアに、超越者は「まさか」と笑う。


「我らとて人の子よ。あれを見ての通りにのう」


 そう言って顔を上向ければ、シーノメアも釣られて視線を送る。

 そこにそびえ立つは巨大な黒水鏡。移動してきた周囲の観衆たちも釘付けとなっているものだ。映るのは、凄まじいまでの苛烈さで怨魔に炎剣を叩きつけるディノ・ゲイルローエンの姿。凶悪に口の端を吊り上げた端正な顔には、しかし明らかな疲弊の色が滲んでいる。恐るべき密度の乱舞ではあるが、目に見えて速度が鈍り始めていた。


「ここまで快進撃を続けてきた小娘イチ押しのディノでも、限界はあるようじゃな」

「べ、べつにイチ押しじゃないですけど!」


 そう言いつつも、不安げに戦局を見守るシーノメアの表情は恋する乙女そのものだ。

 そのディノは森から出てしまったため、天轟闘宴の上ではもはや脱落となっている。プレディレッケと闘いたくて自ら飛び出したのか、はたまたドゥエンが焚きつけたのか。喜々としたディノの顔と機を窺うようなドゥエンの様子からして、両方なのだろう。矛の当主は、あの青年が武祭を放棄するに足る『何か』を提示したに違いない。


(仕方なしとはいえ、間の悪いことよ)


 やや芳しくない流れだ、とツェイリンは密かに舌を打つ。

 この会場には二百を超える兵たちが詰めているが、『十三武家』の面々は二割も来ていない。このような事態など想定すらしていないため当然だが、『黒鬼』と渡り合えるような使い手は他にいないのだ。

 裏方として携わるはずだった鎚の当主、ラパ・ミノスが姿を消してしまったこともあり、余計に戦力が不足している。

 怨魔退治を生業とする戟の家系、ジュデッカ一族がこの場にいれば、事態はこれほどまで深刻にはならなかったはず。もっとも、人と人とが覇を競う天轟闘宴に、彼らが足を運んでいようはずもない。ともあれそういった事情から、使えそうなディノを言いくるめたのだろう。


 が、それを含めても驚くべきは『黒鬼』か。

 ディノの炎牙を巧みに捌き、ラデイルの雷蹴を危なげなくいなし、タイゼーンの氷腕を確実に打ち払う。

 武祭で猛威を振るった『凶禍の者』やレフェ最上位の精鋭を相手取り、余裕すら感じられる立ち回り。噂に聞く怪物ではあったが、これほどのものなのか。ツェイリンとしても、正直驚愕を禁じ得ない。


(これは……いよいよ万が一の可能性も、考慮しておかねばならんかのう)


 すなわち――天轟闘宴の即時打ち切り。

 古くより八十数度も続くこの武祭は、過去一度として中途終了になったことはない。

 万を越える客や百数十に及ぶ戦士たち、各方面から足を運んだ貴族らが集っているのだから当然だ。おいそれと取り止めにできるものではない。

 参加者も客も、この催事を楽しむために高い金を払い、遠方から足を運んでいる。中途半端な形で終わることがあれば、皆の不満も募り、次回から人は集まらなくなってしまうだろう。


 ――だが。

 今回に限って懸念すべきは、客や貴族たちに犠牲が出てしまうことだ。彼らは、安全な場所で闘いを見物するために来ているのだ。『当事者』となりに来ているのではない。万一のことがあれば、間違いなく武祭の評判は地に墜ちる。次回の開催すら危うくなるだろう(すでに大概なことになっているが)。

 レフェにとって多大な収入源の一つである天轟闘宴。もはや神聖な意味合いなど完全に失われて久しいが、それでもこの国には必要なものなのだ。潰えさせてしまう訳にはいかない。

 最悪の事態――兵団が突破された場合に備え、退路を確認しておく必要がある。


 ツェイリンは遠見の術を展開した。瞳を閉じてしばし、身体が浮上するような感覚に包まれる。

 花火のように高々と『視界』を打ち上げ、俯瞰からこの会場全体を見渡す。目を光らせて、皆が素早く確実に退避できる道筋を探し――


「……む?」


 眉根を寄せる。

 観覧席最前列と川岸の狭間でせめぎ合う、兵団と怨魔。その近く――距離にして五十マイレほどだろうか。人払いが済んでいるはずの観客席に、こそこそと動くものがあった。

 それは、三つの人影。

 一人は、小柄な赤鎧の兵士。所作や歩き方からして、年端もいかぬ娘だろう。そして一人は、旅装姿の少女。黒みがかった藍色の長い髪と、目の覚めるような美貌。西の国の人間か。選手として参加していた覚えはないので、観客ということになるはずだ。そして最後の一人は、絹のような黒髪に巫女装束の子女。――『神域の巫女』。


(これはこれは)


 三人の乙女たちは、隠れるようにして最前線へと向かっている。


(何ぞ、策でもあるのかのう?)


 今代の巫女――サエリ・ユキザキ。美しい容姿や真摯な人柄、徹底して巫術を使わないという在り方から大層な人気を得ているという。先ほど、混乱に陥った民らをまとめた手腕こそ見事ではあったが、『力』に目覚める気配はないと聞いている。異国の出身で友人を作る機会もないはずだが、この三人はどういった繋がりなのか。


 なぜか死地へ近づこうとしている巫女。本来であれば、近場の兵に通信を飛ばして保護させるべきなのだろうが――


(ちょいと、様子を見るのも面白そうじゃ)


 そんな理由で、ツェイリンはあえて見逃すことにした。






 少しずつ進むベルグレッテたち三人は、いよいよ隊列を組む赤鎧の集団が見える位置までやってきた。柱の影から顔を覗かせれば、そうそうたる紅の壁の向こうでは、黒い怨魔とディノたちが交錯を繰り返している。


「…………、」


 三人の娘たちは顔を見合わせ、こくりと頷いた。

 もう少し近づこうと、柱の影から歩を進め――


「そこ、何をしている!」


 飛んできた声は、背後からだった。

 揃って振り向けば、こちらへと駆け寄ってくる一人の兵士の姿。当たり前といえば当たり前だ。周辺には二百にも及ぶ兵たちが集まっているのだ。身を隠す場所も少ない。ここまで接近すれば、どうしたって見つかるに決まっている。


「な、み、巫女様……!? こ、ここで何をされているのですか!?」


 そう。見つかるのは当たり前。

 だから、策は講じてある。


「ごめんなさい」


 落ち着き払った声でそう言って、桜枝里はやってきた赤鎧のほうへ自ら歩み出る。大柄なその兵の年齢は二十歳ぐらいだろうか。真面目そうな男性だった。


「ここは危険です! すぐに――」

「視えた、のです」

「……は……?」


 唐突な桜枝里の言葉に、兵士は眉根を寄せた。言い聞かせるように、桜枝里は――巫女は続ける。


「ですから……その、『視えた』のです。あの『黒鬼』が、倒れる様が」

「!? そ、れは……」

「ご存知ですよね。『神域の巫女』が行使したという、不可思議な力。そのうちの一つに、未来を見通す力があったと」

「みっ……巫女様……、まさか……ついに、ついに開眼なされたのですか……!?」

「ほっ、ほんの一瞬だけですけど。えと、あの怨魔が、」

「つまり、我々の勝利が視えたのですな!? こ、こうしてはおれん! 皆に知らせなければ!」

「まーっ! 待ってください!」


 いきなり踵を返した兵士の腕を、桜枝里は必死になって掴む。


「それで! それでですね、……視えたのは……こちらの方が、あの怨魔を打ち倒す光景だったのです」

「な、なんと……?」


 困惑しきりに、兵士はベルグレッテへと目を向ける。


「失礼ですが、貴女は……?」


 ぺこりと一礼し、少女騎士は名乗りを上げた。


「レインディール王国は準ロイヤルガード、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードと申します」

「レ、レインディールの……!?」


 青年兵士は目を見開いて声を上ずらせる。


「それで……今、このベル子ちゃ……ベルグレッテさんが術を行使するにあたって、最適な場所を探しています」

「最適な場所、ですか」


 その言葉には、ベルグレッテが答える。


「はい。怨魔の下まで一直線に滑空し、迫れるような……高台のようなものがあれば」

「高台……」


 思案するように呟いた兵士は、やがて『それ』の一つを指し示す。


「であれば……やはり、この近辺では物見台となりますかな」


 観覧席の通路に等間隔で設置されている、太めの柱のような台。高さは四、五マイレほど。兵士が駐在し、遠方や客席の様子を見るためのものである。体調を崩す者などが出た場合などに、ここから位置を把握することができる。頂の四方には長く突き出た細い柱が立っており、これは雨が降った場合に客席上部を覆う天幕をかけるためのものだった。


「分かりました。どれか一つ、物見台をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「無論ですとも。及ばずながら、私もご協力致しますぞ。……ところで、お主は……」


 今更ながらそう言って、彼は桜枝里の隣にいる小柄な少女兵士ことユヒミエを見下ろす。


「え、えっと……」

「成程な、言わずとも良い。お主も巫女様のお言葉を聞き、行動を共にしているということか」


 鼻息荒く頷いた兵士は、どの台に致しましょうか、あれがいいでしょうかと一人で喋りながらとずんずん先へ進んでいく。

 ふう、と一息ついたベルグレッテが横を向けば、


「……ああ……あ、あああ……」


 長い黒髪を垂らし、ガックリとうなだれる桜枝里の姿があった。


「ああ……どうしよ……すんっごい……大嘘ついちゃった…………」


 当たり前だが、桜枝里はベルグレッテが『黒鬼』を打ち倒す未来など視ていない。何の力もない日本人の少女に、視える訳がない。

 この前線に近づけば、否が応にも兵士に見つかってしまう。その対策の、口裏合わせ。皆で決めた案だったが、いざ実行したことで桜枝里は罪悪感に囚われてしまったようだ。


「サ、サエリ様。お気を確かに」


 ユヒミエがおろおろと声をかければ、桜枝里は苦笑いしつつ「ありがとお……」とかすれた声で呟く。

 そんな巫女の様子を見て、


「ありがとう、サエリ」


 ベルグレッテは心からの礼を述べた。そして、


「気にすることはないわ」


 清冽とした声音で、少女騎士は告げる。


「あなたの言葉は、現実のものとなる。嘘のままでは終わらせない。私が……必ず、現実のものにしてみせる」


 自らに言い聞かせるように。ベルグレッテは、確かな決意を固めてそう言い放った。


「お、おおお……。ベ、ベル子ちゃん、思い切りすごいなぁ……やっぱ、ここぞっていうときは平和ボケした私とは大違い」


 後戻りのできない大博打。

 ベルグレッテ自身、皆への罪悪感と緊張に押し潰されそうになる。

 だが。


(兄さま。水の神ウィーテリヴィアよ。私に、力を――)


 必ず。

 あの怪物を、打ち倒してみせる。そのために、騎士を目指したのだから。そのために、ここにいるのだから。






 どれたけの干戈を交えただろう。

 戦場と呼べる規模の人員と武力が集まったその場所は今、不気味なまでの静けさに包まれていた。

 川岸近くに陣取り、まるで武芸者のように両腕を掲げるプレディレッケ。悪魔のごときおぞましい貌と虫に酷似した異様な風体ながら、そうして身構える姿には完成された美すら備わっているように思えた。

 七マイレ強の距離を保ち対峙するは、ディノ・ゲイルローエン。左手に携えた灼熱の炎柱は、猛りながらゆらゆらと周囲の景色を歪ませている。常に余裕の表情を浮かべる『ペンタ』だが、傍目から見ても分かるほどに肩を上下させていた。


 互い、一挙動にて仕掛けられる間合い。

 しかし、どちらも動かない。


 数え切れないほどの交錯を経て、双方は結論に達していた。

 ただ得物を振るっても、眼前の敵は倒せないと。

 ならば――さらに踏み込んだ、妥協のない一手が要る。そうして均衡を破るべく機を窺う静寂が、辺り一帯を包み込んでいた。






 紅玉の瞳を細め、炎の超越者は黒鋼の怪物を注視する。


(……左……)


 森を出て以降のプレディレッケはこれまで、その攻撃の大半を左腕のみで行っていた。

 右は『隠し刃』で兵団を薙ぎ払って以降、折り畳んでの防御か、近距離で肘打ちのように叩き下ろす一撃にしか用いていない。本来の形であろう鎌としては、未だ一度も振るっていない。


(虫が一丁前に、温存してる……ってワケだ)


 手の内を読まれないように。振るったならば、確実に相手の命を刈り取れるように。

 先端部に剣の刺さった、歪な形状の二枚刃。処刑器具じみたそれは、敵を断罪する瞬間を今か今かと待ちわびている――。


(……チッ)


 対するディノは、ぶら下げた右腕にチラリと視線を落とした。傷を負い、使えなくなって久しくすら感じる己の腕。

 しかし実のところ――無茶をすれば、動かすことは可能だ。

 魂心力プラルナを注ぎ込み、擬似的に神経群を形成する。傷んだ部分の役割を、無理矢理に魂心力プラルナで代用するのだ。

 通常より多量の力を流し込まれた右腕は、再び機能を取り戻すだろう。それどころか、普段より強力な術すらも扱えるようになるはずだ。


(ま、ソレもせいぜい数分程度が限度。しかも、右腕は二度と使いモンにならなくなるだろうがな)


 犠牲を覚悟の上で、刹那の絶大な力を得るか。

 プレディレッケはいずれ、間違いなくその『右』を解禁してくる。そして、その時はすぐそこまで迫っている。


(オレは……どうする……?)


 かしゃん、と固い金属音が耳に届く。

 周囲の兵士たちが、移動砲台の次弾装填を終えたのだ。

 いつまでも睨み合ってはいられない。

 早、幾度目となるか。

 一斉砲撃を皮切りに、乱戦が幕を開けようとしている。



 ――静寂を破り、計六発の鋼弾が爆音と共に発射された。



 直後、高らかに鳴り渡る残響。『黒鬼』はその場で身を翻し、薙いだ鎌と広げた羽で全ての弾を迎撃した――、だけに留まらなかった。


「う、わあぁっ!?」


 隊列から上がる悲鳴。

 砲弾のうち数発が、寸分違わず移動砲台を目がけて打ち返されていた。

 横っ飛びで逃れる赤鎧たち。耳朶を叩く轟音。吹き上がる土砂。粉砕され、宙を舞う鉄製の骨組みや破片。


 ――最新鋭の兵器、そのうち三機が、直撃を受けて原型すら留めず損壊した。


「う、ッ……そ、だろ……」


 地面に這いつくばった兵士たちから、呆然とした呻きが漏れる。


 ――明らかに。狙って、打ち返した。


「ハハ。覚えた、ってか?」


 立ち込める土煙の中、ディノは強烈に口角を吊り上げる。

 数え切れないほどの砲撃を凌ぎ続け、ついにはそのまま返してみせた。速度。威力。軌道。もはやその全てを把握したと、言外に語るかのように。


「冗談も大概にしてくれよなァ、『黒鬼』よぉ!」


 砂塵を振り払い、巨大な氷の拳が空を裂く。

 タイゼーンの右腕から伸長した氷の一撃が、遥か射程外よりプレディレッケへと突き込まれた。漆黒の怨魔は、盾状にした右腕でその拳を受け止める。


「大砲が効かねぇどころか、打ち返してブッ壊しただぁ!? 指南書にそんな記録残したらよ、後世の連中に『お伽話は余所で書け』って笑われちまうだろうが!」


 大きく振りかぶった長く強靭な氷の腕が、

 ――がしゃん、と。

 迸った黒線によって、中ほどから呆気なく両断された。


「む、う……!」


 老兵の呻き。

 回転しながら飛んだ白氷の巨腕が、川の中へ落下して水柱を吹き上げる。


 ――これも覚えた。

 騎士のごとく左鎌を薙いだ体勢のまま。ボウと灯る怨魔の赤瞳は、暗にそう語っているかのようで。


 ぱり、と大気が白く閃く。


「魅せてくれるねぇー」


 霞むような速度で走り込んだラデイルが、瞬く間に『黒鬼』の背後へと回り込む。人ならざる鋭い跳躍から、雷纏う蹴撃を打ち放つ。

 アケローンの次男は、術の行使を主に脚で行っていた。大地を踏みしめた足から攻撃系統の術を繰り出し、その反動で超速の移動や跳躍を実現している。

 彼が跳び上がるために蹴りつけた土くれの足場は、ばごんと破滅的な音を響かせて陥没した。悠々と、その華奢な長躯が二マイレほども舞い上がる。大地を抉る威力を秘めた右の蹴りが、優美な曲線を描き今度はプレディレッケの貌へ迫っていた。

 超至近距離。鎌が入り込む余地はない。


 それはまるで、熟練した武術家のような挙動。

 すい、と――『黒鬼』は細い胴体を傾け、ラデイルの旋風脚を躱していた。


「こん、なろっ……!」


 しかし矛の次男も魅せる。

 避けられた蹴り足で空を掻き、その反動によって雷の青年は逆側の左足を閃かせた。凄まじいまでの柔軟さ。驚くべき身体能力だった。

 しかし。

 それすらも、プレディレッケは頭を振って回避した。まるで、風に吹かれた葦のように揺らめいて。


「……!」


 滞空したまま、矛の次男は口の端を引きつらせる。端正な顔に浮かぶのは、明らかな焦りの情。

 鎌の差し込めない間合い。プレディレッケはラデイルの蹴りを、二発とも触れぬように躱していた。

 連撃を避けられ、宙に浮いたままのラデイル。超至近、赤く光る隻眼で彼を見つめる『黒鬼』。

 あまりに近すぎるゆえ、鎌は来ない。

 となれば――繰り出されるのは、人外の怪物らしいともいえる攻撃手段。

 ガパリ、と。逆三角形の顔、その下半分が花咲くように裂け開いた。ダイゴスによって切断された口吻より下部、針の山が密集したおぞましい口内が露わとなる。それはまるで、冥府へと続く呪われた洞窟のような。


「わっ、どわっ!」


 ガチン! と木霊する小気味いいまでの快音。

 放たれた噛みつきを、空中のラデイルは器用に翻って回避した。勢いによって前傾した怪物の頭を蹴りつけ、後方へ大きく飛びずさる。

 華麗に着地した矛の次男は、皮肉げな微笑みを浮かべながら――がくりと、その場にうずくまった。


「野っ、郎……」


 血溜まりが、足元に広がっていく。左足の踵から、わずか上。その部分の肉が、ごっそりと削げ落ちていた。


「ったく……女の子に甘噛みされるのは好きなんだけどな……お前みたいな化物はお断りだ、畜生め」


 美青年が傷口を押さえながらそう毒づけば、『黒鬼』は口元をモゴモゴと蠢かせ――

 ペッ、と。

 吐き出された真っ赤な肉片が、水っぽい音を立てて転がっていく。

 それはまるで、お前の肉は喰うに値しない、とでもいうような。


 常々、死闘の最中であってすらも飄々としていたラデイルのこめかみに、青筋が浮かび上がった。


「オイー……調子乗んなよー? ……こーんのガキィ……」


 しかし。奮い立つ戦意とは裏腹に、青年は跪いたまま動かない。移動と攻撃、彼にとっては極めて重要な軸となる脚をやられてしまっている。

 プレディレッケがゆらりと左腕を振り上げた。距離にして五マイレ弱。ラデイルがうずくまっているそこは、死神の鎌の射程圏内。


「ラ、ラデイル殿っ――」


 隊列からざわめきが起こるも、誰も動こうとはしなかった。動けなかった。

 大砲はもはや通用しない。下手に撃てば打ち返される。何より、この近さではラデイルも巻き込んでしまう。


「……」


 ディノは舌で唇を湿し、わずか身を屈めた。

 仕掛ける。

 が、ラデイルを助ける気はない。むしろ、一撃が振り下ろされた瞬間に肉薄するつもりだった。猛獣は獲物へ喰らいついた瞬間にこそ隙を晒すという、その鉄則通りに。

 そうして、断頭の黒刃が振り下ろされた。

 実際は首が落ちる程度では済まないだろう。人としての形を保てるかも怪しい、黒き閃光。圧壊する大地。水飛沫のように撒き散らされる硬い土砂。そして――横っ飛びで、鞠のように転がっていくラデイル。


「ばばばば、ば……がはっ、覚えてろよこの野郎っ……!」


 土まみれになりながらも、軽口を叩いて。見事、今の一撃を躱して。

 そう。あれほどの使い手が、片脚を負傷した程度で容易く斃されるはずがない。

 そうして食えもしない餌へ飛びついた怪物の前に、


「――ちっとばかし頭が回るようだが、所詮は虫だな。ミエミエの手に引っ掛かりやがる」


 ディノが滑り込んでいた。間髪入れず唸る炎刃。大地にひび割れが走る。耳が痺れるほどの金属音が鳴り渡った。勢い余って地面に刺さっていたプレディレッケの左鎌が、その一撃によってさらに地中深くへと押し込まれていた。打ち叩かれた杭のごとく。

 引っこ抜く素振りを見せる怨魔だったが、埋まった左腕はびくともしない。『黒鬼』の動きは――縫い止めたように封じられた。


「ハッ、呆気ねェ幕切れになっちまったな。あばよ」


 紅蓮が尾を引いた。

 怪物の逆三角形の顔を刎ね飛ばすべく、真横から炎刃が迫り――


 ばぎん、と木霊する。


 それは、錆びた剣が折れる音に似ていた。


「――――――」


 唸った横薙ぎの炎が、討ち取ったことを確信したはずの一撃が、持ち主に手応えを伝えることなく通過してゆく。

 常として強化の施されているディノの瞳は、その瞬間をはっきりと捉えていた。

 避けられないはずの一閃をのけ反って躱す、『黒鬼』の姿を。そのために無理な力が加わり、怪物の左腕が根元からねじ切れた光景を。


(――ヤ、ロウ……! あっさりとテメーの腕を捨てて――)


 大きく振り切ったディノは刹那に動けず。紅玉の瞳だけが、『それ』を注視する。

 後方へ身を傾けることによって躱したプレディレッケ。元からねじ折れ、大地へ突き立った左腕。


 そして。


 ゆるりと掲げられる――剣の刺さった右鎌。

 怪物が温存していた、その一刃。


「――――――」


 どうする? オレもやるべきか? コイツと同じように。腕を捨てて。

 そんな惑いが浮かんだ瞬間、


「お疲れ様だ、ディノ君」


 至近から聞こえたのは、細く錆びた声だった。


 そこは全身凶器の怪物にたった今生まれた、唯一の死角。


 いつの間にか。なくなった左鎌の側に立ったドゥエン・アケローンが、右手のひらをプレディレッケの細い胴体へと添えていた。さするように、優しく。愛撫とすら思えるその手つきは、しかし照準を合わせるための挙動。



「――――極葬きょくそう――――虚空散魂縫陣こくうさんこんほうじん



 刹那に瞬いたのは青い光。バンと響いたのは破裂音。

 そこに派手さという要素は存在せず。特筆すべき現象はその二点のみ。あとは一見して、ドゥエンが『黒鬼』の身体に触れているだけ。まじないの言葉を呟く直前と、何ひとつ変わらず。


 そのまま全てが静止し続けること、実に数秒。


 プレディレッケの巨躯が、痙攣するように一度だけ大きく跳ねた。

 そして、溢れ出す。

 赤々と光る隻眼から。悪魔を思わせる裂けた口から。黒鉄めいた全身の節々から。白い煙と、黒くどろりとした液体――即ち、怪物の血潮が。


 ――傾いていく。

 どこまでも苛烈に両刃を振るい、どこまでも堅牢に攻撃を撥ねのけてきた『帯剣の黒鬼』が、ついに倒れていく。


 そして。

 わずかな地響きを伴い、プレディレッケは大地へと崩れ落ちた。


 魂が抜け落ちたかのごとく、その鋼鉄の躯体はもはやピクリとも動かない。真横の大地に突き立ってそびえる長大な左鎌だったものが、まさしく持ち主の墓標のように影を落としていた。

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