247. 伝説の聖女
地鳴りすら引き起こし、我先にと遁走する人々の群れ。悲鳴や怒号、負の情念渦巻くその光景は、要人の不安を煽るに充分すぎた。
「こっ、こうしてはおれんのではないか!?」
「わ、我々も逃げなくては……!」
責任は誰にあるだの、この事態をどう収めるだの、今の今まで喧々囂々といがみ合っていた『千年議会』の老人たちは、それまでの衝突が嘘のように足並みを揃えて駆け出した。一斉に階段へと向かっていく。
が、
「あっ……!」
その様子を見ていた桜枝里が声を上げるものの、わずかに遅かった。
「ぬわぁっ!?」
肥えた老貴族の一人が足を踏み外し、ゴロゴロと階段から転げ落ちた。
驚いた後続の一人が思わず足を止めてしまい、そのすぐ後ろに迫っていた者が激突する。そうして二人も一緒くたになって転倒、階段を落ちていく。
「げは!」
「ぐぎゃあ!」
踊り場で大の字となっていた肥満貴族の上に、次々と折り重なる形で倒れ込んでいった。
「ぐ、わ……! い、痛い! どかぬかぁっ」
「そっ、もそもお主が転ばなければ……! つっ、痛たたた……」
軽口を叩き合う余裕があるあたり、幸い大事には至らなかったようだ。
「ご、ご無事ですか!」
慌てた兵たちが駆け寄っていく様子を睨みながら、国長がチッと舌を打つ。
「何をしとるんだ、戯け共が……!」
「……!」
その一部始終を見ていた桜枝里は、ハッとして観戦席の端へ駆け寄った。遥か下方――総勢三万にも及ぶ、逃げ惑う人々の波に目を向ける。
自分より遅い者を追い抜き、あるいは突き飛ばし、必死に走る観衆たち。転倒した者に足を取られ、後続が同じく転ぶ。それが連鎖していく。
(これ、やばいっ……!)
押さない、走らない、喋らない。
日本からやってきた桜枝里にしてみれば、小学生の頃から教え込まれてきた避難の基本。だが、この世界の人々にそういった観念が定着しているとは思えない。たった今階段から落ちていった『千年議会』の面々――レフェの中でも最上位の者たち――を見ても、それは明らかだ。三万もの人々が我先にと逃げ惑い、次々とこのような事故を引き起こしてしまったなら、その死傷者数は想像もつかない規模になる。怨魔から逃れようとしているのに、怨魔に蹂躙されるのと大差ない被害が出ることだろう。
「く、国長! 退避している観衆たちの間でも、同じような転倒事故が起きています! 何か、お声がけを……!」
「むっ、うむ」
自らも下の様子を確認し、桜枝里の意図を察した国長は、やや焦りながらも通信の術式を起動させる。
赤みを帯びてきた空に波紋を展開し、人々へと呼びかけた。
『み、皆の者、落ち着けい! 落ち着くのじゃ!』
――しかし、止まらない。
不安、混乱、恐慌の連鎖。命の危機に晒され逃げ惑う者たちは、一国の主の言葉にすら耳を傾けようとはしなかった。
『ええい、落ち着かぬか――、ぐっ、げほっ、はぁ、はぁ』
国長自身焦っており、また長時間の観戦のため体力を消耗していた。単純に声量が足らず、聞こえていない者も多いのだろう。
「国長、そのまま巫術の維持を! 私が呼びかけてみます……!」
「う、うむ」
意を決して、桜枝里は音を伝える小さな波紋へ走り寄った。
『み、みなさん! 落ち着いてください!』
上空の揺らめきから発せられる巫女の声。
しかしやはり、人々は止まらない。声が聞こえていたところで、自らの命が懸かっているこの状況。止まってくれと言われて、素直に止まるはずがないのだ。
「――――――」
桜枝里は思い起こす。
これまで毎日のように続けてきた、巫女としての修業を。こんな自分を特別な存在だと信じて疑わず、恭しく接してきた民衆たちを。
古の時代、神のように崇め奉られ、民を導いたとされる『神域の巫女』。神にも等しいとされる、清廉潔白で崇高なその在り方を。
すっ、と。
自分でも驚くほど自然に、少女は大きく息を吸い込んだ。
『――皆の者! 静まりなさい!』
一喝は、真夏の熱気を裂いて荒ぶ冷風がごとく。凛、と響き渡った。
移動していた人のうねりが、わずかに勢いを弱める。
思わず足を止め、何事かと上を――自分のほうを仰ぎ見る人々の顔。天を仰ぐように。その数は少なくない。
おお、サエリ様だ。巫女様だ。巫女様、我らをお救いください――。
その場で跪き、すがるように祈りを捧げる者も現れ始める。
よし、と桜枝里は頷く。ひとまず、注意を引くことができた。
『皆さん……いいですか。落ち着いて聞いてください』
眼下の顔ぶれを見渡す。生徒会副会長として、講堂の演台に立ったときとは比較にならない数の人の波。込み上げてくる緊張を飲み込み、少女は言葉を紡ぐ。
『残念ながら……未熟な私には、今この場を収める力はございません。しかし……今もあのようにして、勇猛なるレフェの兵たちが怨魔を食い止めてくださっています』
高みから最前線を見やれば、人々も導かれたように近場の黒水鏡へ目を向けた。
やや遠いが、桜枝里の立ち位置から確認できる。黒く巨大な怪物を相手に、それでも食い下がる兵士たち。
射程の伸びた鎌に触れぬよう距離を取り、隻腕となったタイゼーンが伸長した氷腕で敵を牽制する。兵たちは横並びで盾を構え、バリケードを築く。無事な砲台を立て直し、疎らではあるが砲撃を再開している。
確かに、兵団は怨魔の一撃で大きな損害を被った。しかし当の怪物は登場して以降、未だ一歩もその場から前進できていない。
『無力な私などに、感謝の祈りは不要です。その敬意の念は、あの場で戦い続けている兵の皆に向けられるべきもの。そして……その彼らの努力を――今まさに死力を尽くしてくださっているその働きを、無駄にしてはなりません』
声を張り、少しでも聞き取りやすく。堂々と、桜枝里は続ける。人々を導くと伝わる、巫女として。
『兵団は、我々を守るために身を挺してくださっているのです。だというのに、その我々が退避する過程で死傷者を出してしまったのでは、何の意味もありません。逃げおおせたいがゆえに他の者を突き飛ばせば、その者は転んでしまう。後から来た者がそこで躓けば、それより後に来た者もまた躓き、それが積み重なって大惨事を引き起こすことに繋がっていきます』
兵の誘導に従い、後ろの者から順に退避すること。走らないこと。前の者を押さないこと。それらを丁寧に説明していき、最後にこう締め括った。
『私は……全員の退避を確認したのちに、避難させていただきます。以上、速やかに……けれど焦らず、移動を開始してください』
人ごみの最中、ベルグレッテは思わず目を見張っていた。
まだ泣き喚いている者もいれば、右往左往している者もいる。凛とした態度で語りかけた巫女に対し、ひれ伏すように跪いている者もいる。
突然のことに、戸惑っている人々は少なくない。
しかし明らかに、先ほどより混乱の度合いが弱まった。
(サエリ……)
遥か高み。王族観戦席の端から皆を一望し、ぺこりと頭を下げる巫女。その引き締まった真剣な表情には、侵しがたい神性すら感じられる。
「サエリ様が仰るんじゃ、ワシは信じるぞ! あのお方は、巫謁でワシの話を親身になって聞いてくださった!」
一人の老人が誰に言うでもなく叫べば、
「だよな……あの真面目で聡明な巫女様がおっしゃるんだ。間違いない」
近くに立つメガネの青年が頷く。
「よ、よし! さっさと行こうぜ! そうしなきゃ、いつまで経っても巫女様が退避できねぇ! ほれ、奥の奴から行った行った!」
平静さを取り戻した若者が周囲に呼びかければ、頷いた人々が近くの者を促す。先ほど恐慌が伝播したように、今度はその落ち着いた行動が広がっていく。
(……、すごい……)
ベルグレッテは、ただただ驚嘆していた。
自分には何の力もない。桜枝里は、卑下するように自らをそう評していた。神詠術――巫術を使うことはできず、巫女が行使したという不可思議な力に目覚めることもありえない、と。
(……でも)
彼女の語りかけは、こうして膨大な数の人々の行動に影響を与えている。
日々の振る舞いや人々との触れ合いによって桜枝里が獲得した、信用という名の『力』だといえるのではないだろうか。
(よーし、私も……!)
感銘を受けた少女騎士は、通りやすくなった道を抜け、避難する人々の脇を駆けていく。
流護や桜枝里が、自分にやれることをやったように。
自らの全力を、尽くす。
英雄ガイセリウスが扱った規格外の大剣、グラム・リジル。それを模した己が秘術の詠唱は、もうじき完了する。




