245. 怪獣のセオリー
『よぉう、「黒鬼」……想定通りだなァ』
白ひげを蓄えた精悍な顔つきの老人――タイゼーン・バルの広域通信が、赤みを帯び始めた夏空に響く。
「う、お……」
森の外周部。場外判定となる川岸ぎりぎりの崖際に立ち、流護はその光景を見つめていた。
プレディレッケが降り立った、客席の前方部。そこに、観衆たちの姿はなかった。その代わりとでもいうように、赤鎧を着込んだ兵士たちが遠巻きに怨魔を待ち構えていた。その数、五十は下らないだろう。
彼らの一歩前、中央に立つは今しがた声を響かせたタイゼーン。開幕前に武祭のルール説明をしていたときからは想像もつかない、獰猛な笑みを浮かべている。
その背後、身の丈よりも大きな赤い盾を構えて整然と並ぶ兵の隊列は、現代日本の機動隊を彷彿とさせた。
そんな真紅の鉄壁とでも呼ぶべき布陣に交ざって、無骨な大口径の砲が怪物へ矛先を向けている。盾として機能する堅牢な鋼の板、その中心をくり抜いて砲身を通した、車輪つきの移動砲台。全十四機にも及ぶ正真正銘の兵器が、予め分かっていたかのような素早さで敵へ照準を合わせていた。
「驚くような事ではありませんよ、リューゴ殿」
隣に立ったドゥエンが、血を拭いながら淡々と言う。
「ツェイリン殿が奴の行き先を把握し、タイゼーン殿が合わせて兵を配置していただけの事。個人的には森の中で仕留め切りたかった所ですが……奴の末路は、どの道決まっている」
居並ぶ兵士たちとプレディレッケの距離は、およそ十メートル強。怨魔が多少踏み込んで鎌を振るったとて、到底届かない位置。身じろぎする暇すらなく、砲雨に晒されることが確定している距離。
それは二十日近く前のこと。
流護自身、ベルグレッテの屋敷を訪れた折に彼女から聞いていた。
『プレディレッケを討伐する場合、現在では約三十名の兵士と移動砲台や武装馬車、弩が運用されることになるわ。ちょっとした砦なら攻め落とせるほどの武装よ。白兵戦は厳禁。各自、兵器と神詠術の射撃に終始する』
さすがに武装馬車や弩といった兵装の準備はないようだが、その不足を補って有り余るほどの人員と砲台が展開されている。
怨魔がそこへ降り立った時点で、それらの戦力と隊列、盤石の迎撃態勢が整っていた。
『み、見事! お見事です! ツェイリンさんが読んだ通り、怨魔が南西部より姿を現わしました! そしてそこに待ち受ける、我らがレフェの精鋭部隊! 不測の事態にも隙はな――し!』
熱の篭もったソプラノボイスが届く。参加者として森の中にいた流護はほとんど聞く機会がなかったが、音声担当の女性の美しい声はわずかにかすれていた。これまで実況し通しだったのだろう。
『どうやって迷い込んで来たのか知らんが……終わりだぜ、なぁ? 「黒鬼」よ』
静かな、哀愁すら漂わせたタイゼーンの言葉が響く。
怪物は自らの前に整列する赤の群れを、語りかけてきた老人を一瞥し、小首を傾げて――
『撃てェ――――ィッ!』
野太いタイゼーンの号令が轟き、重々しい大砲の発射音が連続した。
そのとき。
期せず、本人たちも気付かぬまま、有海流護と雪崎桜枝里の思考は同調していた。
一斉砲撃に晒される黒い怨魔を見て、「怪獣映画みたいだ」などと感じていた。
その様子は各所へ設置された黒水鏡という名の巨大スクリーンにも映され、兵士たちの遥か後方へ庇われた観衆たちが映像に白熱している。
次々と着弾する鉄の塊が砂塵を巻き上げ、派手な金属音と振動を轟かせた。プレディレッケは両腕を盾のように変形させ、間断なく叩きつけられる砲弾の嵐に耐えている。
比較的現場に近しい位置にいる者たちは、目の前と近場の鏡で全く同じ光景を目撃することとなった。
『ドゥエンさんや残る選手たちとの交戦を経て、傷を負いながらも外へ飛び出した怨魔ですが! この一斉砲撃の前に、為す術がありません! いや、そうでなくては困るのですが!』
シーノメアの言う通り。ここでこの怪物を仕留めてしまわなければ、大惨事に繋がる恐れがある。
客席の後方部では観衆たちを避難させるべく兵士が順次誘導を開始しているようだが、凄まじい砲撃戦に釘付けとなった客たちはなかなか動こうとしない。
テレビや映画のような娯楽が存在しない世界。こんな派手な映像を見せられては、夢中になるのも無理はないのかもしれない。
――しかし。
「……国長、皆の避難があまり進んでいないようです。何か、お声掛けをされたほうが……」
「ぬ? う、うむ」
国長カイエルまでもが眼下の戦いに釘付けとなっており、桜枝里の言葉に居住まいを正した。
「じゃが……如何に『黒鬼』とはいえ、ああなっては終いよ。となれば、避難も無駄足に終わってしまわんかのう」
「で、ですが……」
無駄足に終わるなら、それでいいじゃないか。もしもの事態が起こり、犠牲が出てしまうよりは。
そんな意見を進言すべきか迷いつつ、桜枝里は遥か下方の客席へ目を向ける。
観覧席後方に渦巻く人の群れ、それより遥か前方――最前列で繰り広げられる砲撃戦。さらにその向こう――川を隔てた『無極の庭』、ぎりぎりの崖際に立つ男が四人。
「そーいやよォ」
いつしか横並びでその光景を眺めていた四人だったが、ふと口火を切ったのはディノだった。
「ヤツはオレらを誘導しようとしてやがったが……狙いは何だったんだろーな?」
問いかけてはいるが、どうでもよさげな口調だった。
砲弾の雨に打ちのめされるプレディレッケを見れば、それも無理からぬことか。どんな思惑があったとしても、あのような状況になってしまえば意味もない。
だが、
(…………、)
流護の胸中で、言い知れぬ予感が膨らんでいく。
「……、」
「不安か? サエリよ」
国長が、少女の顔色を窺う。
「……、」
「どーかしたのか? 勇者クンよ」
超越者が、少年へ紅玉の瞳を向ける。
やはり、有海流護と雪崎桜枝里は同調していた。
胸騒ぎの正体はようとして知れなかったが――
それは、『ありえないこと』だからなのかもしれない。
怪獣映画において。
部隊の一斉掃射で、敵が倒れるなどということは。
最前列に立つ赤鎧の兵が、汗まみれの顔で叫ぶ。
「十四発目、弾着確認! ……ッ、しかし目標、未だ沈黙せず! タイゼーン殿、次弾にて一先ず撃ち切ります! 再装填が必要です!」
「ふーむ……五分もあれば充分か?」
「何としても……間に合わせます!」
「応よ」
そうして、最後の砲撃が着弾。怨魔の巨体を揺らす。
立ち込める砂塵の最中、ボウと赤い光が揺らめいた。折り畳んで構えた両腕の隙間から覗く、怪異の瞳。
全十四機にも及ぶ移動砲台、その一斉射。十五発までの連続発射を可能とするレフェ最新鋭の兵装だったが、『黒鬼』はその全てを凌ぎきった。
「とんでもねェな、お前さん」
タイゼーンが感心したように零し、一歩前へ進み出る。
「並のプレディレッケなら三度は死んでるぜ。根付いた常識を覆してくれるなよ。見なかったことにしてぇ所だが、生憎三万人が目にしちまった。最新鋭の兵装でも、一息じゃ『黒鬼』は斃し切れねぇってな。さて……お前さんは一体、何発ブチ込めば沈んでくれるのか? 調べて新たに戦術書を制定し直すのも、中々に骨なんだぜ」
しかしそうぼやく老人の口元には、豪快な笑み。
「ったく。お蔭で、俺が直々に時間稼ぎしなきゃじゃねぇのよ」
セリフとは裏腹、その状況を待ち侘びていた口ぶりで。
高齢を理由に『最強』の座を後進へ譲った老練の詠術士は、唱え終えていた術を解き放つ。
「――氷神の腕よ、来たれ――氷戟蓮華千王権」
がしゃん、ばきりと軋んだ音を立てて。
高々と掲げられたタイゼーン・バルの右腕から、瞬く間にそれが伸長した。
実際の右腕の延長として伸びる、氷柱の継ぎ足しで形成されたような歪な巨腕。寒冷地の氷樹と見紛うほどのそれは、その長さもおよそ十マイレに達する。先端部には、指を模した五本の鉤爪が花開くように広がっていた。
「鬼さんよ……ちょっくら遊んでくれや――なぁっ!」
鈎爪がギシリと握り拳を作り、剥がれた薄氷が舞い落ちる。
次の瞬間、その巨大な拳骨がプレディレッケ目がけて振り下ろされた。
「タイゼーン殿も備えが良いと云うか、戦好きと云うか。相も変わらず、若やぎ立つお方だ」
止血処置を終えたドゥエンが、かすかな苦笑を漏らす。
「初っ端から奥義のお披露目とはの。加減出来ぬ相手とはいえ……詠唱時間を考えたなら、『黒鬼』が森を飛び出す前から備えとったことになるな」
そんなダイゴスの言葉を聞きながら、流護は川の向こうで繰り広げられるその光景を見つめていた。
(なんっだありゃ……、ショベルカーかよ)
タイゼーンの『右腕から伸びた右腕』。
細くも頑強な氷柱のアーム、その先端で固められた岩石のように無骨な手。六メートルというプレディレッケのリーチをも悠々と凌ぎ、鎌の届かない範囲外から氷塊の拳を幾度も振り下ろす。その様は、まさしく廃屋を取り壊そうとしている重機そのものに見える。
「見覚えのあるツラだと思えば、開始前に規定説明してたオジーチャンか。いい歳してハシャいでんな。レフェも、ソレなりに使えそーな人材が揃ってやがるってトコか」
相変わらず上から目線なディノの感想だが、それはタイゼーンの力を認めている証でもある。
怪物の射程外から何度も叩き下ろされる氷の腕。プレディレッケは砲撃を浴びていたときと同じように、両腕を掲げて防御に徹している。流護たち四人を相手にしてすら食い下がったあの怪物を、防御一辺倒に追い込んでいる。
このままタイゼーンが怨魔を押さえ続ければ、弾の装填を終えた砲台が再び掃射を開始できる。いかに頑強なプレディレッケであっても、そうして一方的に攻め立てられればいずれ力尽きるはず。
――だが。
「…………、」
流護の中で、未だ消えずわだかまる何か。
廃墟を打ち崩すショベルカーさながらに、激しく振り下ろされ続ける長大な氷腕。しかし相手は、貧相な小屋ではない。極めて堅牢な黒鉄の砦だ。
何度目となるのか。
怨魔に叩きつけられた氷の腕が、中ほどからへし折れた。倒木のように、落下した氷塊が観覧席の一部を押し潰す。
が、想定していたことなのだろう。
タイゼーンは忍者よろしく左手の中指と人差し指を立て、胸元で身構える。何事かを呟けば、すぐさま折れた氷腕が伸長、復元した。
そして、同時だった。
タイゼーンの白氷の右腕が再形成されたのと。
その隙に両腕を高々と掲げ、頭上で交差させたプレディレッケ。ガシャンと叩き合せたその鎌の先端から、長さ五メートルほどの赤黒い刃が伸び出たのは。
「――――――――――――」
流護だけではない。
刹那、全員が絶句していた。
当然だろう。
それは、全ての前提がひっくり返る光景。
プレディレッケの鎌が――倍以上の長さに、伸長した。
『黒鬼』の射程は、長くとも六メートル。その前提の元で構築され、実行に移されていた戦術。
それが、一瞬で瓦解した。
警戒すべきその凶器は、約十メートル超の長柄へと変貌を遂げた。タイゼーンの氷腕よりも長く。展開された隊列にすら、届くほどの。
『総員ッ……楯、構えェッ! 備えろォ――ッ!』
即座にタイゼーンの怒号が飛ぶ。
見事な練度、というべきだろう。
赤鎧の兵たちは身の丈よりも大きな盾を素早く一斉に構え、防御態勢を取る。その様相はまさに紅の防壁。整然と並び立つ隊列は、この上なく強硬で頼もしく見えた。
――そこを。
漆黒の右鎌が、薙ぎ払う。
十数メートルもの射程を獲得したその刃は、阻むものなど何もなかったかのように軌跡を描ききった。あまりにも軽々と。一体どんな身体構造をしているのか。自らの体躯すら数倍するような腕を、さも当たり前のように繰る。
盾が、人が、隊列が吹き飛び、損壊した砲台が横倒しとなった。
『……――ッ』
咄嗟に身を翻したタイゼーンは、目を剥いていた。
肩の根元から切断され、血風と共に舞い飛んでいく己の左腕を見送って。
たった一撃。
強固なはずの隊列が――完全武装の兵たちが総崩れとなり、タイゼーンの左腕が千切れ飛んだ光景は、まざまざと黒水鏡に映し出された。
『え……、っ…………!?』
完全に言葉を失ったシーノメアの通信が、状況の異常さを雄弁に物語る。
強く頼もしい、レフェ自慢の正規兵団。彼らならば怨魔を打倒し、事態を収束させてくれる。誰もがそう信じて疑わなかった。
それが、呆気なく蹴散らされるという現実。
観衆たちは刹那に硬直した。
認識が追いつかなかったのだ。今、何が起こったのか。目撃しておきながら、なお。
そして。
ギィ――――ン、と、咆哮が響き渡る。
人の身体を芯から竦ませる、耳障りで金属的な鳴動。それはさながら、勝ち名乗りのようでもあった。
悪魔としか思えぬ貌で吼える、おぞましき異形。
そこでようやく、皆は理解する。
自らが注視する鏡とすぐ間近、双方から同時に響いてきた声を耳にして。
逃げなければ殺される、と。
怪獣映画みたいだ。
つい先ほど、地球という世界から……日本という国からやってきた少年と少女はそんな風に考えた。
そうして例えるなら――このとき、黒水鏡に釘付けとなっていた三万の観客は、ようやく気がついたといえるだろう。
自分たちは、映像を楽しむ視聴者などではなく。
次の瞬間には踏み潰されているかもしれない、端役なのだと。




