243. 追走
木々の合間を縫い疾駆するドゥエンは、ほどなくして森の中を直進するプレディレッケの後ろ姿を捉えていた。
(妙……だな)
追いすがりながら、ふと違和感を覚える。
遅い。細枝を弾き飛ばし、藪の草々を踏みつけながら突き進む黒い巨躯。その速度が、やけに緩やかなのだ。ダメージを受け、消耗しているのか。見失わずに済んだのは結構なことだが、しかしあまりにその速度が遅すぎる。
怪物の間合いへ入らぬよう、絶妙な距離を保ちながら追従するドゥエンは、やがてその事実に気付く。
流護の拳によって欠けた右の複眼、その奥に灯る赤く不気味な光。ボウと尾を引く瞳の色が、前を進みながらも真後ろのドゥエンへと注がれている。まるで、相手がついてきていることを確認するかのように。
「蟲が……」
ドゥエンの額に青筋が浮いた。
――態とか。
プレディレッケは、逃げようとしているのではない。消耗し、速度が出せないのでもない。この怪物は、まるで人間のように――
「思い上がるなよ、化生……!」
加速したドゥエンは獣道をわずかに外れ、やや走りづらい林へと突っ込んだ。乱立する木々を盾とするように、横合いから怨魔へと肉薄する。ほどなくして、十マイレほどの距離を隔てて怨魔と併走する形になった。この位置ならば、木立が邪魔となってあの巨大な鎌は振るえない。鎌が振るえないのであれば、相手の攻め手を気にせず存分に詠唱時間を取ることができる。
じっくりと術式を練り上げたドゥエンは、すっと右手を怨魔へかざし――
「アケローンが巫術――四之操、刺波閃耀花」
凄まじい速射だった。一本の長さは懐剣程度。針さながらに尖った細い紫電の連弾が、次々とプレディレッケの外殻へ突き刺さる。その数、数十本。瞬きの間に、怨魔の躯体は発光する針の群れを生やすこととなった。
ドゥエンの得意とする操術系統は『開放』。触れた拳足から直に術を叩き込む、近接型の詠術士として知られている。とはいえ、そこは当然というべきか。一般的な『開放』使いのように、遠距離から術を撃ち放つことに関しても超一流だった。
「!」
が、そんな最上級の使い手は瞠目する。
多量の電光針に覆われ、海胆か栗かと見紛う風体になったプレディレッケだが、その足は止まる気配を見せない。漆黒の巨躯は揺らぎもせず、平然と進撃を続ける。並の相手であれば、呆気なく不出来な仙人掌と化して転がっているはずだった。
「フン」
ドゥエンがパチリと指を鳴らせば、刺さっていた針の山が一斉に起爆した。
――それでもなお。
爆炎を突っ切り、かすかな煙を立ち上らせながら、黒き異形は前進し続ける。何事もなかったかのように。並みの怨魔ならば、呆気なく四散しているほどの攻撃術を受けて。
(……ま、構わんがね。此方が一方的に仕掛けられる現状に変わりはない)
乱立する樹木を挟み併走するこの状況。木々を盾に疾走しながら、術を撃ち込むこと幾度目か。
互いの間を鉄柵のように隔てていた林の密度が、目に見えて薄くなった。
(細い木が茂る地帯へ入ったか。より狙い易くなるな)
速度を緩めず次の詠唱に入るドゥエンだったが、
「む」
その異変に気付く。
変わらず四本の脚で前進を続けるプレディレッケ。移動には使われず、もたげられている両の鎌。その左側――併走するドゥエンの側のそれが、ゆらりと動きを見せて――
木が細くなった?
狙い易くなる?
答えが出るより先に、ドゥエンはほとんど倒れ伏す形で身を屈めていた。
それは恐るべき伐採。
横一閃、薙ぎ払われる黒い残影。疾駆する馬上から長槍が振るわれたかのような。
切断面も鮮やかに、周辺の潅木がまとめて人の腰ほどの高さで切り揃えられた。屈み込んだドゥエンの頭頂部すれすれの空間を、死神の鎌が通過していく。
切り飛ばされた勢いのまましばし滞空していた木々は、思い出したかのごとく一斉に大地へと落下した。太鼓の撥さながらに、切断された幹たちがドドンと地表を叩く。
「……チッ!」
足元を震わせるその打音はまるで合図だった。『森林』が一挙崩壊、横倒しになって覆い被さってくるという現象に、さすがのドゥエンも全力での回避を余儀なくされる。
巻き上がる砂塵と翠緑の若葉が視界を遮り、尖った枝が頬をかすめ、鮫肌のような硬い幹が皮膚を裂く。崩壊する自然に前進を止められ、プレディレッケとの距離が開いていく。
「……賢しい真似を……ッ」
辛うじて凌ぎきり、砂まみれとなった顔で睨みつけたドゥエンのすぐ脇を、一本の細い熱線が横切った。
遠ざかるプレディレッケの背中へと迫っていく真紅の直線だったが――ひょい、と。真後ろから飛来したその一撃を、怨魔は難なく躱してみせた。
「ハッ、すっかり覚えたってか? 余裕げに避けてくれんじゃねぇーの」
そう笑って後方からやってきたディノが、片膝つくドゥエンを追い越した――その瞬間。遥か前を走るプレディレッケはおもむろに足を止め、道沿いに茂る針葉樹の一本を切断した。
「?」
ドゥエンは思わず眉をひそめる。
そこには誰もいない。木を崩したところで、倒壊に巻き込まれる者はいない。そも、切断されたのはせいぜい高さ三マイレ程度の若木が一本。倒れてきたとしても、詠術士にとっては驚異になりはしない。
(何故……あの木を一本だけ――?)
考える必要はなかった。答えはすぐに示された。
そこでプレディレッケはドゥエンたちのほうを振り向く。そして、自らのすぐ眼前。ゆっくりと獣道へ倒れ込んでくる針葉樹に対し、折り畳んだ右腕を大きく振りかぶった。
(まさか)
予測と解答は、全くの同時だった。
互いの距離は二十マイレほど。しかし苦もなく、易々と。
黒い巨腕によって叩き飛ばされた倒木が、回転しながらドゥエンたちの下へと飛来した。
「ハハ、面白ぇ芸だなオイ――!」
ディノが哄笑と共に左腕を振れば、高さ十マイレにも及ぶだろう炎の壁が屹立する。
緑葉を撒き散らしながら飛んできた若木は、炎熱の絶壁へ激突すると同時、爆音を轟かせて炎上した。飛び道具と呼ぶにはあまりに大きすぎる弾だったが、それですら壁を突破するには至らず。焼け落ちるより早く、黒炭となって風に消える。
役目を終えたとばかり、朱色の揺らめきも虚空へと溶けていく。
(……全く以って出鱈目だな、『凶禍の者』という存在は)
例えば今の一手。
ドゥエンであっても、あの質量の物体に耐える防壁となれば、即座に展開することはできない。事前に行動を読み、長い詠唱を済ませておく必要がある。が、予想だにしないだろう。あのように、怨魔が樹木を叩き飛ばしてくるなど。となれば――大人しく潰されるか、全力で回避するか。常人は前者、達人は後者以外に選べる道がない。
しかし、『彼ら』は違うのだ。
いかに詠唱を早め、いかに詠唱する時間を作るか。それらを突き詰め、より迅速に式を紡ぎ、より強力な術を放つ。それこそが戦士にとっての永遠の課題であるというのに、『凶禍の者』は生まれながらにしてその工程を省く。息をするがことく、絶大な奇跡を現実のものとする。
そんな神の贔屓をまざまざと見せつけられ、やれやれとドゥエンは溜息を吐いた。
黒き怪異と詠術士二人、睨み合うことしばし。
「お、いた……! って、何やってんだ……?」
流護とダイゴスが追いついてきた。
距離にして二十メートルほど先か。獣道の途上でこちらへ視線を飛ばすプレディレッケ。離れに離れて、対峙するディノとドゥエン。
あの怨魔の仕業だろう、道の左側に群生していたらしき木々の列が、まとめて刈り倒されている。きれいに揃った切り口を見る限り、おそらくは一撃で。
(んだこりゃ、とんでもねぇな……)
こんな真似をやってのける鎌をまともに『受けた』のだ。我ながらよく死ななかったな、と流護は肝を冷やす。
それはさておき、そこそこの距離を移動した。ドゥエンの言を信じるならば、ここまで火の手はやってこないはず。プレディレッケもそれを理解し、こうして闘いの場を移したのか――
「は?」
そう理解しかけた瞬間、プレディレッケが再び移動を開始した。流護のそんな考えは的外れだとでもいうように。四人に背を向け、またしても遠ざかっていく。
「オイオイ、闘るんじゃねェのかよ」
ディノも同じ考えだったのだろう。声に若干の落胆と苛立ちを滲ませ、追跡を始める。
四人で黒き怨魔の後を追いながら、流護は疑問を口にした。
「ドゥエンさん。俺らが来るまで、ディノと二人で闘り合ってたんすよね? あのバケモンと」
「ええ。追いながら術を撃ち込んでいたところ、奴も反撃に転じて来まして。僅かばかり小競り合い、さて二戦目開始か――といった折に、二人が」
「……」
状況だけで考えるならば。
四人が揃ったと同時、また走り出したプレディレッケ。四人相手では敵わないと判断し、逃げようとしているのか。
(いや、ねぇな……)
流護は即座に自説を否定する。
攻撃性の塊と表現しても過言ではない怨魔という存在だが、逃げるときは確かに逃げる。ファーヴナールに追われ、学院へ逃げ込んできたドラウトロー然り。かつて流護自身、あの怪物たちの最後の一体が、自分に敵わず逃げ出す瞬間を目撃している。
今、前を走るプレディレッケには、あの危機感や必死さが感じられない。それどころか、悠然としてさえいる。流護がわずかに割った複眼から漏れる赤光は、まるで相手がついてきていることを確認するかのように尾を引いて――
(……、)
そこでふと浮かんだ考えは、先ほどとは正反対の仮説だった。
逃げようとしているのではない。流護とダイゴスが来るのを待って、移動を再開した。
プレディレッケは、何らかの意図があって四人をどこかへ誘導しようとしている――。
ゾッ、とした。
無感情な――無機的なこの怪物に、そんな策謀を巡らせる頭脳があるのなら。
(……は、怖すぎだろおい)
ただでさえ屈強にすぎる化物。そこに、虫らしからぬ考えを巡らせる頭脳まで備わっている。汗が引っ込むほど寒々とした何かを感じるも、
「どうしたアリウミ。何を笑っとる」
隣を走るダイゴスから投げかけられた言葉は、そんな予想外のものだった。
「え? いや、笑ってなん……」
頬をほぐしながら巨漢の顔を見上げれば、
「……ダイゴスも笑ってんぞ。しかもなんか邪悪な」
「おっと」
朴訥な男にしては珍しく、冗談めかして肩を竦めた。
数分、プレディレッケの後を追って森を駆ける。
(にしても、やっぱり……)
遅いのだ。まるで、こちらを置き去りにしないよう気遣っているかのように。体長四メートルにも及ぶ巨大生物。しかし鈍重なイメージはなく、むしろ洗練されたように感じる流線形の躯体。カバや象といった鈍い印象のある動物ですら、人間など比較にもならない速さで走るのだ。この怪物が、それらに劣るとも思えない。
「さて……奴め、我々を何処へ案内したいのかは知らんが――」
ぽつりと零すのはドゥエン。やはり、プレディレッケが自分たちを『誘導』しようとしていることに気付いていたようだ。
「蟲風情がどのような策謀を巡らせる心算やら、付き合ってみるのも一興か、と思っていたのだが……これは少々、宜しくないな」
「そうじゃの」
長兄の言葉に、末弟が頷きを返す。
「どういうことだ? 何かまずいのか?」
「このまま真っ直ぐ行けば……『無極の庭』を出ることになる」
「!」
ダイゴスの返答を聞いて、流護は思わず息をのんだ。
『無極の庭』の外。そこにいるのは三万人もの観客たちだ。レフェの要人や桜枝里、そしてベルグレッテもがその中に含まれる。
三万のうち大半は、闘う力など持たない民衆たち。こんな化物が飛び出していって暴れようものなら、一体どれだけの被害が出てしまうのか。もはや想像もつかない。
「つまり奴ァ、森の外に出よーとしてるワケか」
現状からしてほぼ正鵠を射ているだろうディノの推測に、
(妙……だな)
しかし流護は引っ掛かりを覚えていた。
森を出ようとするプレディレッケ。その行動自体は、特別おかしなものでもない。
火の手から逃れるため。外に『餌』の存在を感知したため。実際の真意は不明だが、動機はいくつか考えられる。
だが、そこで流護たちを引き連れていこうとする理由が分からない。
四人を振り切って森の外へ向かうならまだしも、全員が揃うのを待ってまで――明らかに速度を緩めてまで誘引しようとする、その意図が掴めない。
相手は怪物。それも、見た目は巨大な昆虫だ。やることに意味などなく、本能のまま無作為に動いているだけなのか。深く考えすぎなのか。
しかし、いずれにせよ――この怨魔が外へ出ようとしているのなら、何としても止めなければならない。それだけは確かだった。
「ツェイリン殿が奴の存在に気付き、タイゼーン殿が部隊の展開を済ませているだろうとは思うのだがね。しかし万に一つも、観衆たちに犠牲を出す事は罷り成らん」
ドゥエンが加速し、プレディレッケの射程ぎりぎりの位置まで接近する。流護たちも速度を上げ、その後に続いた。
鎌の届かない六メートル強の距離を保ち、油断なく怨魔に追いすがる。
斜め後方から見る怪物の貌。わずかに砕けた右の複眼、その隙間から漏れる赤光が、ゆらりと不気味な尾を引いている。
「……、」
複眼を持つ昆虫の中には、三百六十度、全方位を隈なく見渡せる種も存在するという。
互いの視線が交わっている。目が合っている。やはりこの怪物は――相手がついてきていることを、きっちりと確認しているように思えてならない。
「……ディノ君。済まないが、少々手を貸してくれないかな」
「ほう? 何すりゃいい?」
意外だ、と流護は少し驚く。
プライドの高そうなドゥエンが、そのように協力を求めるとは思わなかったのだ。もっとも、今は何としてもこの怪物の進撃を止めなければならない状況。なりふりなど構ってはいられない、ということか。
一方、応じたディノもディノで意外に思えるが、
(こ、こいつ)
その横顔を見て、すぐさま確信した。
細めた赤眼に、薄ら笑いの浮かんだ口元。
間違いない。今、この状況を楽しんでいる。強敵との戦闘だけではない。その敵の奇妙な行動。ドゥエンが何をしようとしているのか。そういった一つ一つの要素、その全てを楽しんでいる。
「私が合図したら、例の火線を二発。奴の左半身と頭部へそれぞれ一発ずつ……同時に撃ち込んで貰いたい」
「スッカリ覚えられちまったみてーだからな。避けやがると思うぜ」
「構わない」
短くやり取りを終え、ドゥエンは切れ長の瞳で怨魔を見据える。
「兄者」
「お前は何もしなくて良い。下がっていなさい」
ダイゴスの呼びかけに対し、兄は内容を聞くまでもなく即座に断じた。が、当の弟は平然と言い連ねる。
「森を抜けるまで、そう距離もない。全力で仕掛けられる機会は一度きりじゃろう。手数は多い方が良いと思わんか?」
「……私はな」
悠長に話している時間はないはずだ。それでもなお、わずかな間があった。
「私は……今、裏方の一人として動いている。この私が務める以上、何としても脅威は排除する。天轟闘宴は滞りなく終了させる。何人たりとも邪魔はさせん」
前を向いたまま、続けた。
「お前は今、競技中の参加者だろう? 此処は……裏方に任せておきなさい」
「……そうか」
そこにはどんな思いが込められていたのだろう。兄は静かに呟き、弟もまたそれ以上食い下がることはなかった。
ややしんみりとした雰囲気につい納得しかけた流護だったが、
(ん、あれ? でもディノは……)
であれば、すぐ斜め前を走る炎の超越者はどうなるのだろう。競技中のいち参加者という扱いはダイゴスと同じはずだが、ドゥエンはこの男に協力を仰いでいる。
「――よし、ディノ君。今だ」
深く考える間もなく、ドゥエンの合図が飛んだ。




