240. オブシダンの騎士
ヒッ、と観客たちの悲鳴が重なる。
周囲を見渡していたプレディレッケは、この鏡の存在に気付いたようだった。温度の感じられない大きな隻眼で、獣道から視線を飛ばす。不思議なものを眺めるように、左右へ首を傾けた。
当然ながら怨魔は黒水鏡を見つめているだけで、その向こう側――『こちら側』にいる人々の存在に気付いている訳ではない。本当に互いの視線が交わっている訳ではない。距離もある。しかしそれでも人々に悲鳴を上げさせてしまうほど、怪物の貌と視線はおぞましいものだった。
カシャン、と甲高い反響。怪物が、掲げた左鎌を開いた音。
次の瞬間――鏡は闇に染まり、何も映さなくなった。
『ちぃっ……、奴め、鏡を割りよった……!』
悔しげなツェイリンの呻きに、
『あ、あの位置から鏡を!? かなり離れてましたよね……!?』
口元を押さえたシーノメアが声を裏返す。
『奴の鎌の射程は約六マイレだからね。見た目以上に届くんだ、アイツの腕は。鏡の位置は射程内だったよ』
溜息をつき、ラデイルが首を振った。
『ラ、ラデイルさん。これ、どうなっちゃうんですか? 天轟闘宴は、もう……』
『どんな不測の事態が起きようと受け入れるのが、この武祭……ではあるんだけど……その辺は、「千年議会」の判断待ちかな。外からだと、中の参加者に事態をすぐ伝えられるような手段もないしねぇー』
そう言って、矛の次男は王族観戦席へと目を向けた。
銀色の長髪をなびかせ、精悍な顔つきの老人が王族観戦席の階段を駆け上ってきた。高齢とは思えない軽快な動き――どころではない。明らかに、常人を凌駕する身のこなしである。
「ふー……大変なことになりましたな」
「お……おお、タイゼーンか!」
現れた老人に対し、すがるような目を向ける国長。
タイゼーン・バル。『千年議会』の一人にして、国防や兵站について一手に引き受ける名うての武人だった。天轟闘宴においては、開幕前の規則説明なども担当している。
「驚きのあまり、老い先短い余生が縮みましたぞ。何故、どのようにして『黒鬼』の奴めが此処に現れたのか……。フフ、強者集うこの場の空気に惹かれ、湧いてきた……とでも云うのでしょうかな」
タイゼーンは太い笑みと共に肩を竦め、黒き森を見やる。対照的に、国長は弱々しい視線を向けた。
「奴が、あの悪名高い『黒鬼』なのじゃな……。じゃ、じゃがどうなのだ? ドゥエンならば、勝てるのだろう?」
「……私は『黒鬼』の奴めを、災害として捉えております。人は、天災の前では余りに無力。単騎では、かのガイセリウスとて厳しいのではないかと。『竜滅書記』が示すように」
「ドゥエンであっても……敵わぬのか」
がくりと肩を落とした国長に対し、『千年議会』の一人が声を上げた。
「だ、だから申したのです! ドゥエンを入庭させるべきではないと! このまま奴を失ってしまえば、我が国にとって重大な損失――」
「じゃかあァッしゃァッ!」
国長は獣のように吼えていた。
「だから申したぁ!? 貴様は森に『黒鬼』が現れるのを知っとったとでも言うんか!? ちぃっとだァッてろッ! 糞の役にも立たねぇ糞ジジイが!」
意見した老人は、ひっと情けない悲鳴を上げて後ずさった。
「はっはっはっ! 熱く滾っておられますな国長! 折角の天轟闘宴、そうでなくては!」
膝を叩いて笑ったタイゼーンは、不意に真面目な顔となって下方――観客席を見下ろす。
「さて。今、最も危惧すべきは……『黒鬼』の奴めが、森から飛び出してくることです。奴が外へ出てきて暴れようものならば、観衆たちにどれ程の犠牲が出てしまうことか……想像もつきませぬ。特に、敗北した参加者……身動きのできない怪我人たちが集っている救護キャンプにおいては、襲われてしまえば一巻の終わりでしょうな」
国長が顔を蒼白に染めた。突然すぎる怪物の出現に混乱し、そこまで考えが回っていなかったのだろう。
「既に『無極の庭』の周囲、全六地点へ兵たちを展開、待機させております。何処から奴が飛び出して来ようと、即座に対応できる所存です」
「そ、そうか!」
歴戦の武人の手際に表情を明るくする国長だったが、
「ま、待ってください!」
そこで横から声を上げたのは、桜枝里だった。
「森の中にいる人たちは……どうなるんですか? 何か、知らせる手段はないんですか?」
心配げな巫女へ、タイゼーンは強い光の宿った瞳を向ける。
「……気付いておるはずです」
「えっ?」
「先程、『黒鬼』の奴めが上げた咆哮……。戦士たちは……少なくともドゥエンやダイゴスは、あれで異変に気付いたはず。どう動くかは……奴ら次第でしょうな」
「……オイ。ありゃ何だ? アレも参加者か?」
樹上から見下ろすディノが、鼻で笑いつつドゥエンへ皮肉めいた言葉を投げる。
隣の木で佇むその矛の長も、溜息と共に苦笑を浮かべていた。
「少なくとも、参加登録は済ませていない筈だ。というより、規定に記載しておかねばならないようだね。人間以外の出場は禁止、と」
「規定を読むよーなタイプにゃ見えねェがな」
首を左右に巡らせながら、当然のように森の中を行くプレディレッケ。その姿は、周囲に異常がないか巡回して歩く騎士のようですらあった。そんな黒装の怨魔を見下ろし、高みの二人はそれぞれ鼻を鳴らす。
「プレディレッケ……か。直に見たのは初めてだぜ。最初っからその辺に潜んでたのか?」
「それは有り得ない。この地はレフェ指折りの聖地。厳重に管理されているのでね」
「なら外からか。まさか歩いてきたってワケもねェだろが、空は飛べねェって聞いてるし……どうやって入ってきやがった?」
「さてね。此処は首都の街中。魔除けや警備をどう突破し、如何様にして森までやって来たのか。興味は尽きない所だが――」
殺気が膨れ上がった。
「招かれざる客にも程がある。手早く、排除しなければな」
そのときだった。
茂みを掻き分けて現れた一人の男が、プレディレッケと鉢合わせてしまった。言うまでもなく、参加者の一人だろう。ディノたち同様、咆哮を聞きつけてやってきたといったところか。
「な……な、…………は!?」
正面から怨魔と視線がかち合ったらしい。声にならない呻きを漏らし、よろめくように後ずさる。当然の反応だ。
同時、ドゥエンが枝から中空に身を躍らせた。その位置は――プレディレッケの真上。
紫電を纏った矛の長は、そのまま真下へと――怨魔の頭上へと急降下する。
まるで落雷だった。
目を灼き、耳をつんざく白銀の電掣。黒き怨魔に、霹靂神と化したドゥエンの蹴撃が突き刺さる――
はずだった。
「!」
仕掛けたドゥエンが、枝の上からその様子を眺めていたディノが、目を大きく見開く。
頭上から叩き落されたその蹴りを――真上からの不意打ちを、怨魔は『防いで』いた。閉じた左鎌を、盾のように高く掲げて。それはさながら、楕円形のタワーシールド。
ドゥエンはその鎌を蹴りつけ、反動で間合いを離して着地する。白雷の余波が、大気をビリビリと震わせた。
「そこの方。今の内に、この場を離れて下さい」
顔は怨魔へと向けたまま、参加者の男に用件のみを伝える。
「な、あ、ドゥエン・アケローン!? な、なんなんだ!? このバケモンは何だ!? こりゃ、何がどうなってんだ!?」
「申し訳ありませんが、私にも把握できておりません」
敵、と見定めたのか。プレディレッケは巨体を巡らせ、ドゥエンへと向き直る。左の鎌を突き出し気味に構え、身体を左右に揺すり始めた。
遠い間合いで睨み合うこと数秒。
怨魔の細くも強靭な中脚が、静かに踏み込む。それにより、双方の距離がかすかに縮まる。プレディレッケの間合いへと変貌する。
同時、霞む黒の軌跡。
「――――――」
コォン、と突き抜けた音が木霊した。
咄嗟に首を傾けたドゥエン。すぐ脇を直線に飛んだ一撃。伸びに伸びた黒い左鎌が、背後の巨木に突き刺さっていた。
かすめていた頬から血飛沫を滴らせ、ドゥエンは大地を蹴る。
好機。左の一撃を躱すことに成功し、さらにその鎌は木に突き刺さっている。自滅に近い形で、奴の左腕は封じられた。右の鎌を警戒しつつ、懐に飛び込めば――
べきべきと、背後から不穏な音が響いた。
「――――」
考えるより早く、ドゥエンは横に転がる。
後ろより迫っていた左鎌。強引に幹を断ち割りながら戻された鎌が、直前までドゥエンのいた空間を薙いでいった。木片が千々に乱舞する。
中間距離。片膝をついて見上げるドゥエン。両腕を構え、見下ろすプレディレッケ。
次いで放たれたのは、単純極まりない二撃だった。
左、右。ヴォン、と聞いたこともないような風切り音が大気を裂く。
それでもレフェ最強の人間は空裂く左の鎌を屈んで躱し、続いて迫り来る右の鎌も紙一重でいなす。刹那に後方へ飛びずさり、プレディレッケの間合いから逃れる。
そうして着地したドゥエン。その首筋から、鮮血が吹き上がった。
「……、――こ、れは」
すぐさま傷を押さえ、敵へと目を向ければ――
「!」
何を受けたのか、すぐに理解した。
怨魔の右腕。鎌に突き刺さっている剣――その刃から、鮮血が滴っている。
「……フン」
右の鎌はもはや、形状の異なる別の武器といえた。『左』と同じつもりで『右』に対応すれば、避けきれずこうして傷を負うということか。
油断なく周囲へ視線を飛ばす。先ほどの参加者の姿は消えていた。この場から逃げ出すことに成功したようだ。
心置きなく、正面の相手に集中する。硬雷功と呼ばれる術式を練り上げ、無理矢理に傷口を塞ぐ。鎌を掲げ、無慈悲な瞳を向けてくる怨魔と対峙する。
(……成程。これが……『黒鬼』か)
十数年の長きに渡って、レフェという国が仕留めきれずにいる怪物。エンロカクのように、政治的な意味で倒せずにいるのではない。そのままの意味で、討伐隊の武力を跳ね返し続けている真の化物。
ドゥエン自身が遭遇・対応するのはこれが初めてだったが、
(――強い……が、問題は無いな)
危険なのはあの右だ。殊更に注視し、確実に躱していく。小手調べは終わりだ。相手の技量は把握できた。――全力で殺りにいく。
わずか腰を落とし、低く身構えた。
その、瞬間だった。
感じたのは、風。
「…………?」
ドゥエンは、自分の左耳に違和感を覚えた。何か、熱いもので塞がれているような感覚。
すぐさま左手を当てて確認する。
何も、なかった。
熱いぬめりが並々と溢れてくるばかりで、そこにあるはずの耳が――なくなっていた。
「――――――」
咄嗟に視線を下向ける。切り落とされた自分の左耳が、赤い斑点をぶち撒けながら大地に転がっていた。
一方のプレディレッケは、微動だにせず両腕を掲げて構えている――ように見える。その右鎌に伝う血の量が、わずかに増えている以外は。
(――今の、風……)
その人生において、初かもしれない。ドゥエン・アケローンは戦慄した。
気付かなかった。一撃が放たれたことに。己の耳が削ぎ落とされたことに。
そうして、察する。
小手調べは終わり。全力を出す。
そう判じたドゥエンと同じように。
プレディレッケが、それを実行に移したのだと。
「――――――」
勝てぬ相手とは闘うな。敗北の可能性があるならば撤退しろ。
そんな、アケローンの教え。幼い頃より大爺や大老らに叩き込まれていた教え。自らもラデイルやダイゴスに諭し続けてきたそんな教えが、ドゥエンの脳裏をよぎった。
「……、…………お、」
――おい。俺を舐めるんじゃあないぞ。愚鈍な化生風情めが。
「卦ェッ――!」
鋭い呼気と共に、ドゥエンが大地を蹴った。帯のように後方へ流れていく血の飛沫。額に青筋を浮かべ、強烈に口元を吊り上げ、レフェ最強の男はレフェ最強の怨魔へと肉薄する。
獣じみた疾駆だった。
前傾気味に重心を傾け、打ち棄てられた己が耳を拾い上げて回収し、ドゥエンは怨魔の射程へと迷わず踏み込んでいく。一撃絶命の鎌が待つ、殺意の結界内へと切り込んでいく。
――それは、勘だった。
咄嗟に、半身を翻していた。
限りなく同時に近い直後。
間一髪の差で、怨魔の左鎌が槍のごとく突き出されていた。ドゥエンのすぐ横を過ぎていく、破壊的な黒鉄の塊。
「――――」
歪に吊り上がる、餓狼めいた男の口元。
――『起こり』すら見えぬのか。この私が注視していて、尚。
驚愕に身を震わせるドゥエン・アケローン。
しかし同時に、捉えていた。
自分の脇を通過していく、黒い残像を。
『起こり』こそ確認できずとも、何ひとつ見えなかった先ほどとは違う。
(――捕った)
優しく、宛がうように。
伸びきった鎌へ、ドゥエンの右手のひらが触れていた。
衝撃が突き抜ける。
放たれた雷鼓閃霊掌によって、プレディレッケの左鎌が凄まじい勢いで跳ね上げられた。一体、どんな外殻をしているのだろう。掌打によって鳴り渡る甲高い残響は、金属のそれと変わりない。
そんな一撃が効いたのか、驚いただけなのか。プレディレッケは、打たれた腕を即座に引っ込める。
そしてドゥエンは、戻っていく大鎌と同じ速度で肉薄していた。
超接近戦へと移行する。
ようやく持ち込んだ、怨魔に比して小さな人間ならではの領域。プレディレッケの象徴ともいえる大鎌――全長六マイレもある長柄では、小回りがきかない距離。
「――」
そう認識し、有利を確信していたからこそ。
矛の長は、目を剥いていた。
鎌が、畳まれていた。
真上から叩き落とされたドゥエンの蹴りを防いだときよりも、さらに細く。これほどまでに薄く折り曲げることができるのか、と目を見張るほど。
人間で例えるならば――脇を締め、上腕と下腕を隙間なく折り畳んでいる状態に近しいだろうか。その状態の腕が、驚異的なまでに細く曲げられているのだ。怪物の右腕に屹立している長剣と比しても、太さを感じさせぬほどに。
それこそ人の場合、これほど窮屈に縮こまった状態から有効な打突を放つことなどできはしない。しかしこの存在は怨魔であり、肘に相当する部分では禍々しいまでの巨大な棘が鈍い輝きを放っている――。
果たして、踏み込んだのは正解だったのか。胸に些細な迷いが去来した刹那、左の刺突が叩き落とされた。肘打ちのようでもあり、騎馬兵の槍のようでもある穿撃。
怪物の膂力から繰り出されるそれは、人の知覚できる速度を遥かに逸脱していた。
それでも反応できたのは、ドゥエン・アケローンであるがゆえだろう。
右肩を抉り抜かれながらも身体を旋回させ、先端部へ掌打を叩き込む。勁を発する。響く金属音。鋼鉄を叩いたような硬い手応え。迸る白雷。衝撃にぶれる黒い穿腕。
しかし、それだけ。
(――ッ、この細い先端ですら)
折れぬのか。心中に浮かびかけた言葉を噛み殺す。
厄介極まりない鎌――今は槍に近い形状となっているが――を破壊し、接近戦でカタをつけようと目論んでいたドゥエンだったが、これがあまりに頑強すぎた。
零距離ですら優位ではない。即断し、一旦距離を離すべく大きく後ろへ跳ぶ。
それを読んでいたかのように。
キィン、ガシャンと。高らかな残響を響かせ、プレディレッケの右腕が変形した。
細く薄く畳まれていた状態から、本来の大振りな鎌へ。それはまるで、精密な構造の機械。秒も数えぬ間に展開を終え、下がりつつあるドゥエンを薙ぎ払うべく真横から唸りを上げる。
「掛かったな、蟲」
矛は嗤う。
大地と水平に飛んだ、漆黒の刃。
ドゥエンは仰向けに倒れ込みつつ、己へと迫り来たその凶器の下面を蹴り、真上へと跳ね上げた。落雷とは反対に、閃光が地から天へと遡っていく。蹴撃による発雷だった。
鎌は高らかな反響を残しながら、その動きを刹那に止める。
「ッ――ヂャァ!」
雷の使い手でありながら、その技巧は旋風めいて吹き荒ぶ。
ドゥエンは身体を旋回させ、跳び上がりながらの廻し蹴りを放つ。鎌に乱立する、名工の剣もかくやという鋭い棘――そのうち二本が、横からの衝撃を受けて折れ飛んだ。
そのまま鎌を蹴り飛ばし、反動で射程から離脱・着地する。
「フゥッ……」
左耳と右肩を犠牲にしてようやく、鎌に生えた小さな棘二本と引き換えか。
荒い息を吐きながら、ドゥエンは割に合わぬなと自嘲した。
――実のところ。
現在ほど怨魔に関する情報が揃っていなかった時代のこととはいえ、完全武装した英雄ガイセリウスを瀕死まで追い込んだとされるプレディレッケ。
そんな怪物の、それも通常の倍近くもある個体を相手に、単騎にて武具すら纏わず立ち回って鎌を損傷させたという功績は、後世に語り継がれてもおかしくないほどの偉業だった。
もっとも密かに最強を自負するこの男にしてみれば、それでは到底納得いかないのかもしれないが。
隙を窺い、呼吸を整えて――
「――――」
レフェ最強の男は、思わず目を剥いていた。
最初は、昼神が傾ぎ始めて夕刻に差しかかったのかと思った。が、違う。
より色濃い影を落とす森の木々。より暑さを増す周囲の大気。遥か上部、高々と輝く朱色の光源。
プレディレッケの真上、高さにして十マイレ程度。
ドゥエンが仕掛けた奇襲と同じように、極大なまでの火塊が怨魔目がけて落下しつつあった。
「――――――」
ドゥエンは幼い頃、目にしたことがあった。
神々の住まう天上より稀に落下するという、『隕石』と呼ばれる塊。雲上に鎮座する広大な神の居城、そこより剥がれ落ちた石塊が大地を叩き、凄まじい衝撃を巻き起こすという。もっとも、それも宗派によって諸説ある。曰く、居城の破片などではなく、裁きとして神が意図的に降らせている。曰く、神の城を修繕しようとした巨神兵が、誤って落としてしまっている。
いずれにせよ――幼少の頃に目撃した、山の向こうへ落下していく赤熱の塊。あれを想起させるとてつもない炎塊が、押し潰すようにプレディレッケの真上から迫っていた。
当然、本物の隕石ではない。その中心。核となる部分には、狂喜の表情を浮かべたディノ・ゲイルローエンの姿。絶大な炎の双牙を携え、全身に焦熱を滾らせ、獲物を飲み込まんとしている炎竜のごとく。
(……これが、『凶禍の者』の――)
ドゥエンは一目で理解した。
通常、詠唱を必要としないとされる超越者。そんな彼らが集中に集中を重ね、全霊で術を行使したならば、これほどの現象が起きるのだと。ドゥエンが立ち回っている間、術を練り上げていたのだろう。
「オォッ――ラァッ!」
文字通り降ってきたディノが、両腕に宿した炎の牙を唸らせた。長さはこれまで見せていたものと変わらないが、その太さが違う。長々と火の粉を散らしながら尾を引くそれは、さながら炎の翼。
離れた位置から見れば、真に炎の竜が喰らいついているように錯覚するかもしれない。そんな竜の顎を――
プレディレッケは、正面から両腕の鎌で受け止めた。
炸裂する烈風、木々を軋ませる衝撃と轟音。せめぎ合う、漆黒と紅蓮の双刃。
「ク……!」
押し寄せる熱波に、ドゥエンは思わず目を細める。
「…………!」
細めながら、確かに見た。
真上から喰らい潰さんと挟み込む、炎の大牙。抗い受け止めた、黒い大鎌。まるで騎士と騎士の鍔迫り。落下の勢いも加わり、有利なのはディノ――と思われた。
「!」
見開かれたディノの瞳に浮かぶは、驚きの色。
炎の双刃を受ける怨魔は、おもむろにカパリと口を開けた。逆三角形をした無機的な顔――その下部が、花咲くように大きく開いたのだ。
そして、黒い閃光が迸った。
開かれた口部。そこから放たれた黒い直線が、咄嗟に首を傾けたディノの頬をかすめていく。軌道上に存在する硬い枝葉や幹をものともせず粉砕し、ひたすらに直線の軌跡を貫き通して飛んでいく。
躱しはしたものの、その反撃に集中と体勢を崩したディノは、攻撃術の中断を余儀なくされた。絶大な術ほど高い集中力を必要とし、わずかな横槍で維持を欠く。それは彼ら超越者も同じようだった。
「チッ……!」
舌を打ちながらも素早く飛びずさり、油断なく距離を取る。同時、ひゅるると空気を切る音。次いで、ばちんと響く鈍い音。
(……成程。口吻のような器官を蔵しているのか)
プレディレッケの口から飛び出した、黒く細い線。それが撓みながら縮み、口内へ収められた音だった。
飛び道具となる何かを吐き出したように見えた一撃だったが、そうではない。鋭い針のような口部器官が伸びていたのだ。
近接戦闘は厳禁。壁盾で隊列を作り、移動砲台で殲滅せよ。
レフェのみならず複数の国でそう定義づけられるこの怨魔は、生身で対峙しているだけで次々と新たな特性が飛び出してくるようだった。事象研究の第一人者であるチモヘイ所長へ知らせようものならば、あと十年は死ねんと喜ぶことだろう。プレディレッケは個体数が少ないうえに屈強で倒しづらく、その外殻の硬さから死骸の解剖すらままならないため、各国も研究が進んでいないのだ。
間合いへ踏み入らず、ぎりぎりの外側で円を描くように。ドゥエンは敵を見据えたまま、じりじりと移動する。
隻眼の怪物の死角となる位置へ――潰れている左眼の側へと回り込む。
期せずして、反対側で対峙しているディノと共に怨魔を挟み込む形となった。
「……?」
妙だ、と。矛の長は眉をひそめた。
プレディレッケから見て、左にドゥエン。右にディノ。完全に両端を挟まれる位置取りとなっているにもかかわらず、怨魔は二人のどちらにも顔を向けようとはしない。鎌を掲げ、正面を向いたたまま、ただ静かに佇んでいる。特にドゥエンは、潰れた左眼の側へ立っているのだ。見失わぬよう、顔を向けてきてもおかしくないはずなのだが――
ディノも気付いているのか、わずかに不審げな表情を見せている。
――この死角から仕掛けてみるか。
ドゥエンがその身に力を滾らせようとした瞬間、怨魔を挟んだ向こう側の茂みから現れる影が二つ。
ここまで激闘を潜り抜けてきた証だろう。土や血に汚れ、所々破れた衣服に身を包んでいるその人影は――大柄な青年と小柄な少年。
ダイゴス・アケローンと、有海流護だった。




