238. 斬撃
身体を撫でると、ギギ、と耳に障る音が響く。強く意識を集中すれば、自らの身体が傷つくことはないようだ。
「お、おお」
カザ・ファールネスは自分でもよく分からないままに、己の全身をあちこち確かめていた。
腕を振れば、物騒な風切り音が空を裂く。足元の草薮を蹴れば、茂る草が穂先を揃えて刈り込まれる。木に体当たりしてみれば、がきんと剣戟じみた音がした。硬い幹は刺盾を打ちつけたように、浅く削れている。
全身隈なく刃と化している訳ではないようだが、少なくとも金属に近しい性質を獲得していることは間違いなさそうだった。
チャヴの解体によって浴びた返り血すら、身震いするだけで『切り散らされる』ほどの鋭さをもって。
「すげーっちゃすげーんだが……ずっとこのままでも困るな、オイ」
油断すると、何もかもを切り裂いてしまいそうになる。
すでにマントどころか衣服までもがビリビリに破れ落ち、下着姿となっていた。この状態が続けば、まともに服を着ることすらままならない。女を抱けば、貫き殺してしまうのではないか。
意識すれば切れ味を落とすこともできるようだが、ずっと気を張り詰めているのも楽ではない。もっとも、そこは神詠術だ。永遠にこのままということはないだろう。
「おっと……コレは無事だったか」
今更ながら首筋に手を当て、確かめる。
出場者の証である、頚部に巻かれたリング。指先で弾くと、コンコンと高い響きを返してくる。硬質化しているそれは、この能力の前にも切断されることなく巻かれたままだった。さすがに頑丈にできている。覚醒した瞬間にこのリングすら千切れて失格扱いになっていた、などという事態にはならず済んだようだ。
「……ハッ、フ、ァハハ」
指を開閉し、かしゃかしゃと鳴る金属的な音を聞きながら、男は実感する。
――生まれ持っていた、斬という他にない属性。今わの際に発現した、さらなる能力。カザ・ファールネス自身も外部の文化に触れることで初めて異質だと知った、魔闘術士という集団の在りよう。その中で近親交配を繰り返し、色濃く染まった血が稀に齎す、特異な能力を宿した者。
これだ。
魔闘術士が目指す、終着点。目標とする、完成形。
自分がその一つであることを確信し、高揚が湧き上がってきた。
最初からこの力を持っていれば――口布の氷盾使いにも、先ほどの肥満男にも、手こずることなどなかったのだ。
周囲を見渡しつつ、これからの行動について考える。
(まずは……糞兄貴の所に戻るか)
先ほどチャヴから奪ったアーシレグナを一枚摂取したとはいえ、消耗していることに変わりはない。
ジ・ファールのところへ戻り、徴収された葉を返してもらう。渋るようなら構わない、殺してしまえばいい。兄は、もはや一行の中で最強ではないのだから。何なら、この力の実験台とするのもいいだろう。
(いや……むしろ……)
殺すべきだ。あんな雑魚に貴重な回復手段を三十枚以上も持たせているなど、宝の持ち腐れ以外の何物でもない。
見物だ。散々偉ぶっていたあの兄が、今の自分を相手にどれほど食い下がれるのか。ヘィルティニエの風撃すら、今のこの身体ならば易々と切り裂ける自信がある。
(あとは……この力が、どの程度持続するモンなのかねー)
確信を抱いていた。これは――武祭の勝ち抜けなど、ものともしない力だと。有象無象の詠術士など、歯牙にもかけぬ能力だと。
しかし、自身でも全く性質を把握できていないのが現状だ。
術の発動による消耗は感じないが、いつこの効果が失われてしまうかも分からない。早々に優勝し、終わらせてしまうべきだろう。残り人数はそう多くないはずだ。
万能感に包まれたまま、兄が居座る広場を探そうと歩き始め――
背後でガサリと鳴った小さな音を、極限まで高まっているカザ・ファールネスは聞き漏らさなかった。
「……ヒヒ」
早速。この力の実験体、二人目のお出ましだ。
振り返る。
今の自分は、誰にも負けはしない。どんな相手だろうと、勝つ自信があった。
「――――――――――――――――――――――――あ?」
そう昂ぶっていてなお、絶対の自負を抱いていてなお、カザ・ファールネスはその身を硬直させた。
振り返った、その先にいた相手。
鉄格子のようにそびえ立つ樹木。生い茂る緑の風景に佇む、『それ』。ぱきりと古枝を踏み鳴らし、身体を揺らしながら、カザ・ファールネスに近づいてくるその敵。
黒い。そして、大きい。
「……、――…………、……は、ァ?」
何だ、こいつは。
何で? 何が? どうなってる? 何だ? 勝つさ。相手が誰だろうと、勝ってみせる。コイツにだって。が、そういう問題じゃねーんだ。前提からしておかしい。なぜ。いや、この、
何だ、こいつは。
頭の中が疑問で溢れ、思考が停止しかけた。
「……ッ」
それでも、カザ・ファールネスは身構えた。
訳が分からない。それでも理解できることが一つ。
薄暗い森の中。闇のように巨大なその影が、ゆっくりと……ゆっくりと、近づいてくる。
殺らなければ殺られる。おそらく、どんな馬鹿でも本能で分かる。実際に、この局面に遭遇したならば。
身構えた瞬間、その相手はピタリと動きを止めた。じっ……と色のない右の眼でカザ・ファールネスを注視する。左側の眼は潰れているようだった。
静止していたのも数秒のこと、その存在はゆっくりと――両腕を掲げる。
「やる気かよ……ヒヒ、いいぜ。来いよ」
キン、と。自らの能力が、精度を増していく感覚があった。神詠術とは精神状態に大きく左右されるものだが、この特殊にすぎる術もやはり同様らしい。目の前の相手には心底驚いたが、ある意味でこれはおあつらえ向きだ。
そしてこの局面において、初めて気付く。
音。
ふらつきながら森をうろついていた時、先のチャヴと闘っている最中、きんきんと頭の中で響き続けていた金属的な残響。
その正体が、これだったのだと。自らの能力が覚醒し、強固に練り上げられていく音だったのだと。
「――――……」
極限まで高まった集中ゆえか。このとき初めて、カザ・ファールネスは見た。知覚することができた。
自らの周囲を、透明な何かが漂っている。小さく細かい粒のようなものが、纏わりついている。
これこそが、己が術の正体。誰に教わるでもなく手足を動かせるように、そう自覚した。
自らの身体が刃物のような性質へと変化していたのではない。自分を覆うこの透明なモノが、接触したものを切断しているのだ。
ともあれ、今は詳細などどうでもいい。
生み出し、纏う。この透明な何かを、鎧のように隙なく身体中へと張り巡らせていく。
――この能力なら。何が相手だろうと、勝てる。
無論、この敵にも。
全身に不可視の『斬撃』を纏い、カザ・ファールネスはじりじりとすり足で間を詰める。その足の指先が、容易に地面を削ってゆく。
対峙するその存在は、両腕を掲げたまま、微動だにせず静止していた。
双方の距離、六マイレから――五マイレほど。
さらにすり足で距離を縮めようとした――瞬間。
動いたのは、相手。
左。
黒く霞んだ残像によってそう判断できたにすぎず、避けられるような速さではなかった。しかし、カザ・ファールネスは動じない。
しなるような弧を描いて飛んできた敵の左腕が、魔闘術士の首筋へ叩き込まれた。
「――――グ、ッ」
衝撃に声が漏れ、カァンと高らかな金属音が耳を震わせる。
その一撃は、首に巻かれたリングへと着弾していた。硬質化し、防具として機能するほどの強度を発揮している状態のリング。さらには、カザ・ファールネス自身も刃のような粒子を纏っている現状。
(ハッ……、……! バ、カが――!)
凄まじいパワーではある。
だが悪手だ。狙いが悪い。よりによって、硬い部分を狙ってきた。
その一閃は二重の防壁に阻まれ、届かず終わる――――――
はずだった。
意にも介さず、その黒い軌跡は振り抜かれていた。
何も、間を阻むものなどなかったかのごとく。
「……、…………あ……?」
馬鹿みたいに視界が弾け、カザ・ファールネスは困惑する。世界が二転三転しているみたいだった。上下左右に目の前が揺さぶられ、訳が分からなくなる。頭が、頬が、顎が、次々と硬い何かに激突する。ガキに蹴っ飛ばされた球に目と意思があれば、こんな風に感じるんだろうな――などと、益体もないことを考えた。
――あっさりと首を刎ね飛ばされたカザ・ファールネスに、己の死を自覚する暇があったかどうかは定かでないが。
硬質化したリングや金属じみた肉体をものともせず、容易に断ち斬ったこの相手。
彼はキョロキョロと周囲を見渡していたが、特に興味を惹くものがなかったのか、静かに移動を開始し――ようとして、ピタリと動きを止めた。
じっ……と見つめる視線の、遥か先。
鬱蒼と生い茂る樹林、その中にそぐわない人工物を発見したのだ。
即ち、生い茂る枝の一つに括りつけられた黒水鏡を。
『あっと……ここで、カザ・ファールネス選手の反応が消えました! 残りはこれで十名を切り、九名! そして……十一名もの大人数で参加していた魔闘術士、その全員がこれにて脱落となりましたっ』
客席から、ざまあみろといわんばかりの喝采が上がる。暴虐の限りを尽くし、評判も悪かった彼らが全滅したとなれば、それも無理からぬことだろう。
(あの男が……)
ベルグレッテは胸を撫で下ろしたように一息つく。
負けを認めると見せかけてからの不意打ちという形でゴンダーを下したあのカザ・ファールネスが、ここで脱落した。
ゴンダーとの闘いでかなり体力を消耗していたはずだが、あれからかなり長く生き延びていたことになる。アーシレグナの葉は魔闘術士の長であるジ・ファールに取り上げられていたはずなので、回復手段もなかったはずだ。
悪運が強かったのか、それとも実力か。いずれにせよ、その加護はここで途絶えたようだった。
『場面は……どうでしょうか』
『む……またしても、鏡の近くにはおらんようじゃのう』
ツェイリンがつまらなげに溜息を吐く。
『そうですか……。それにしても……いよいよ残り十名を切りましたね。果たして今のカザ・ファールネス選手の脱落も、果たして正当な決着によるものだったのでしょうか。森に入っていったドゥエンさんも、全く鏡に映らないですし……エンロカク選手も、あれからどうなったのか』
シーノメアが落ち着かないように視線を黒き森のほうへと向ける。残り九名。今現在、『打ち上げ砲火』は上がっていない。今、鏡には誰の姿も映し出されていない。静かな森の風景がいくつか捉えられているのみ。
『……む?』
そこで不審そうな声を上げたのはツェイリンだった。
『どうしました?』
『いや……鏡が……割れとるのか、これは。しかし何ゆえ、ここの鏡が割れよった……?』
眉根を寄せて、あれこれと空中に指を舞わせる。
どうやら、映そうとした鏡が反応しなかったようだ。
これまでにも、森の中に設置された黒水鏡は二枚が割れている。一枚は、バルバドルフが神詠術爆弾で自爆したとき。もう一枚は、ダイゴスとエンロカクが互いの秘術をぶつけ合った瞬間。どちらも闘いの結果、期せず破損してしまったといえる。
直後、観客たちの「あっ」という声と、
『む!?』
ツェイリンの呻きが重なった。
ベルグレッテも、まさにその瞬間を目撃した。観客席前方に設置された、巨大な黒水鏡。そこへ十分割ほどに分かたれて映し出されていた、森の風景。そのうちの一つが、唐突に消えたのだ。塗りつぶされたように真っ暗となり、それきり何も映らない。
『おのれ、間違いないぞ! 今、何者かが故意に鏡を割りよった!』
ツェイリンが憤慨も露にガタリと立ち上がる。
『痴れ者め……どこのどいつじゃっ。分かり次第失格じゃぞ!』
『ど、どうしたことでしょうか。見境なく暴走しているエンロカク選手が割った……とか?』
妙だ、とベルグレッテは顎下に指を添えて思案した。
こうして、闘いの様子を観客席に提供する黒水鏡。当然といえば当然だが、これを故意に破損させることは規定で禁じられている。その罰則は重く、闘いの余波で割れるならばともかく、意図的にとなれば即失格となるような扱いだったはずだ。
残り九名まで絞られた今この段階で、なぜ鏡を壊す必要があるのか。ここまで生き残っておいて、失格のリスクを負ってまで鏡を割る理由が思いつかない。かといって、エンロカクなのかどうか。これまで幾度となく暴走したあの男の姿が捉えられていたが、そもそも鏡を意識しているようには見えなかった。そんな余裕がある精神状態とも思えない。
森の中に備え付けられている黒水鏡はどれも、地上から数マイレの高さに設置されている。選手の身体や攻撃が当たって破損することがないように、という配慮だそうだが、そもそも鏡自体も術の飛び交う鉄火場に置かれるということで、それなりの強度は備えている。
高い位置にある、頑丈な鏡。それが突然壊れるとなると、やはり誰かが意図的に破壊したと考えたほうがしっくりくるところではあるが――。
(……でも誰が、なんのために……?)
不可解な現象に胸がざわつくのを感じながら、ベルグレッテは――この場の皆は、静かに戦局を見守った。




