237. 百般
「ま、何でもいい。とりあえず信用できねェから、祭りが終わるまでココで寝ててくんねェか? 後ろから襲われちゃたまんねェからな。ホレ、優しく寝かしつけてやるって」
大砲じみた一撃だった。
突き抜けた紅蓮が、わずかになびいたドゥエンの髪、その数本を塵へと帰す。熱風に混じり、毛の焼ける厭な臭いが鼻をつく。
ドゥエンを信用できないと断じたディノによる、容赦ない砲撃。
身を翻して躱した矛の長は溜息ひとつ、色の欠如した瞳で語る。
「強制ではありませんが……催事への参加に当たり、事前に知識を蓄えておく――といった準備は重要と考えます」
「あー?」
「――――無知は罪だよ、ディノ君。私の顔と……性格程度は、把握しておくべきだったね」
声は低く。侵食は刹那だった。
中間距離にいたはずのドゥエン・アケローン。餓狼めいた容貌のその男は、狼を凌駕する速度でディノの目前へと迫っていた。左足を踏みしめ、すでに攻撃態勢へと入っている。
「――」
速い。質の違う速さ。
歩幅の大きな怨魔とも、純粋な脚力に優れていた黒髪の少年とも違う。自分の知らない間に、時が飛んだのではないかと錯覚するほどの――
それでも、ディノの紅玉の瞳は捉えていた。微細なブレを。
来る。左の拳。
ディノ・ゲイルローエンがそう認識したのは、『すでに二度も拳を受けた後』だった。
右頬、そして顎先。一拍遅れたかのように弾けていく、二連の衝撃。ひりつく痛み。
「……――、!?」
来る、のではない。とうに打たれ、すでに引き戻された拳を予備動作と誤認したのだ。
意志に反して膝が傾ぎ、視界の隅を閃光の残滓がちらついていく。
咄嗟に顔を上向ける。ディノの口の端から迸った血飛沫が地面に滴るより迅く、追撃の挙動に入るドゥエンの姿。
(……、ヤ……ロウ……!)
視覚へと注ぐ身体強化の割合を増し、そこでようやく認識することができた。
一歩踏み込んでくる左足。同時、射出される左拳。構えた『縦の形』のまま、最短距離を一直線に飛来してくる拳。
ディノは首を傾け、今度はこの突きを完全に躱しきり――
瞬間、腹に鈍い衝撃を感じていた。
「……――!?」
悟る。左拳は、囮。
本命は――右脚。
突き出されたドゥエンのつま先が、ディノの腹に深々とめり込んでいた。
「……、グ――!」
それだけに留まらない。
肋骨へ引っ掛けるように差し込まれた右脚は、そのまま精緻すぎる半円を描いて上へ。ディノの身体を、そのまま真上へと打ち上げた。
「が、ばっ――!」
高々と五マイレほども蹴り上げられ、脈々と広がる大樹の枝に背中を強打する。舞い散る緑葉の中、咄嗟に枝を掴んでぶら下がれば、
「ハ、ハ」
思わず笑いが漏れた。
ドゥエンが、木の幹を垂直に駆け登りながら迫ってくるところだった。
ディノは熱波を撃ち放ち、反動を利用して隣の大きな木の枝へと飛び移る。その巨大樹の枝は硬く太く、上に乗ってもびくともしない。他に伸びた枝と干渉し合いながら広がっており、寝転がることすらできそうだった。まるで、隙間だらけの屋根裏だ。足場としては充分だろう。
一方のドゥエンは、螺旋階段でも駆け上がるかのように次々と枝から枝へ跳んで熱波を躱し、ディノの傍らへ降り立った。
ぎし、と鳴る細い樹枝。
「――――」
ディノは思わず赤い目を見開く。
ドゥエンが足場としているのは、丈夫な枝ではない。隣の木の、今にも折れてしまいそうな若枝。それも先端部。両足をきれいに揃え、両腕を水平に広げ、まるで花に留まる蝶のごとく――静かに、優しく佇んでいる。
「クク、よく折れねェなソレ。大した芸だ」
「君が斃した男は……エンロカクという名なのだがね。事ある毎に、私と比較される男だった」
レフェの両翼。風神と雷神。どちらが上なのか。エンロカクだ。いやドゥエンだ。人々のそういった詮索や興味は尽きることなく、しばしばドゥエン当人の耳に入ることもあったという。
「奴自身……私と見える事を切望していたようだったがね。しかし私としては、興味がなかった」
「ほう?」
そりゃなぜだ、と。言外にそう問えば、
「――競うまでもなく。私の方が上だという自負があったからだよ」
槍のような右の蹴りが突き出された。
顔だけを傾けて、ディノはこれをいなす。
ドゥエンは触れただけで折れそうな枝を足場に、右、左と交互の蹴りを繰り返す。どういった理屈か。細枝はきしきしと揺れるのみで、折れる気配すらない。ドゥエンはそんな不安定極まりない先端部に留まり、舞踏のごとく軽やかな体捌きを見せていた。
「クク。運営委員だの暴力禁止だの、利口ぶって冷めたツラしてやがったが――」
躱し続けるディノが獰猛に笑う。
「すっかり狼みてーなツラしやがって! そーこなくっちゃなァッ!」
炎の双牙を生み出し、叩き下ろした。
刹那、ドゥエンの姿が消失した。
「!?」
男が足場としていた細枝だけが切り飛ばされ、大地への落下を待たず黒灰となって消えていく。
「……、」
――見失ったと感じたときは。予期せぬ位置に――
時間にして刹那ほどもなかったが。その思考すら冗長だった。
超零距離。身を屈め懐へと潜り込んでいたドゥエンは、肩でディノの身体をかち上げた。
「グ、っ――――!」
飛んだ。
斜め上に吹き飛んだディノは玉突きのように次々と幹や枝葉にぶつかり、さらに上部の樹枝へと乗り上げる。
「……ぐ、おっ、と……おお?」
体勢を整えながら見下ろせば、もはや地面は遥か遠く。十数マイレは下らないだろう。干戈を交えながら上へ上へ登っていくという味わったことのない現象に、ディノは思わず吹き出しかけてしまった。
「ハッ。木登りしにきたワケじゃねェんだがな」
幹を背に、空を仰ぐ。周囲の木々は高く、これでもまだ中ほどにすぎない。生い茂った葉の波が脈々と広がっており、青空が見えないほどだった。
対面にそびえる木の枝葉をかすかに揺らし、ドゥエンが同じ高さまで上り詰めてきた。パリ、と男の周囲を紫電が舞う。
「……ハッ」
さも当然のように木々の合間を渡り行くこの男。猿も真っ青の身軽さだ。
詠術士よりは、武術家。
黒髪の少年とはまた違う、しかし恐ろしいまでの域で完成している、一個の武。回避と攻撃が一体となっているかのような、洗練された体術。そこに雷の神詠術が合わさり、爆発的な速度と破壊力を実現している。
「少しは目が覚めたかな」
「最初から寝ボケちゃいねェが」
互い、別々の木に佇んだまま、言葉のみを交わし合う。
「君達は規定に従い、与えられた枠組みの中で最強を競っていれば良い」
「一番強ぇのは自分で確定してっから、ソレ以外は勝手に二位決定戦でもやってろ……ってか?」
嘲るように返せば、レフェ最強と呼ばれる男はニコリと無機的な笑みを返してきた。
「ク、クク……ハ――ッハハハハ! そうだそうだ。最強ってのはそうじゃなきゃな。オレが一番、誰よりも強ぇってよ」
潰し甲斐が出てきたぜ、とディノは笑う。
「忠告に従う気は無い、と」
「そりゃ忠告じゃねェ。挑発ってんだよ」
「残念だ。先程も言ったが……此度の武祭、優勝は君だと思っていたのだがね」
「モチロン、オレが優勝させてもらうぜ」
「君は此処で失格だよ。そのリング、外させて貰う」
「レフェ最強のドゥエン・アケローンとやらをここでブッ潰して、本物の優勝者になってやるって言ってんだよ」
「既に私がドゥエンだと確信していながら、引く気はない……と。フフ、好きにしたまえ。出来るのなら、ね」
細く。目に悪いほどの赤々とした光が、ドゥエンの足元より遥か下方――木の幹を斜めに通過した。
「――……」
矛の長が感じたのは、微細にすぎるかすかな振動。
直後。
世界が、滑り落ちた。
「――――!」
そう錯覚するほどの衝撃。ディノが放った火線によって、ドゥエンの佇む木そのものが伐採され、派手な轟音と共に倒壊していく。
(この森の硬い樹木を、こうも容易く……これが、『凶禍の者』の力――)
その規格外な能力を噛み締めつつ、崩れていく足場から隣の木に跳び移るべく宙空へ身を躍らせた瞬間、
「!」
狂喜を宿したディノが、炎の尾を引いて滑空してきた。
その両腕に備わった、膨大なまでの炎柱。後方に火の粉を撒き散らしながら迫るそれは、さながら炎の翼。
「――チッ」
さしものドゥエンとて、術の事前保持もなしに空中で身動きは取れない。それが狙いか、と両腕を交差し防御を固め――
「シャァ!」
すれ違いざまに叩きつけられた炎柱が、ドゥエンを易々と弾き飛ばした。舞い散る火の粉と白雷。踏みしめるべき足場がないため、矛の男は受けた衝撃のままに宙を舞う。
「ぐ、――……ぬ――」
腕が、肩がミシリと軋みを上げる。咄嗟に展開した防御術――雷王方陣をものともしない炎牙。並の使い手ならば、為す術なく上下に両断されているだろう。不本意極まりないが、やはり最低一つは防御術を常備しておく必要がありそうだった。
ドゥエンは球のように飛ばされながらも反転し、最寄りの巨大樹に着地する。
「ハッ、いいねェ、耐えるかよ! そんじゃァもう一丁行くぜ、オラァ!」
迫る影。倒壊した木によって巻き起こった砂塵を突き抜け、さも当然のように飛翔してきたディノ・ゲイルローエンを迎え撃つ。
鋏のごとく左右から一閃された炎柱を、ドゥエンはそれぞれ交差させた両手のひらで受け止めた。火の粉に交じり、白い火花が空間を彩る。
「へェ……初めてだぜ。コレを真っ正面から止めたヤツはよ」
「私も驚いているよ。敵の足場ごと粉砕し、空を舞い……『凶禍の者』とは、想像以上に出鱈目なものだ」
拮抗する。挟み潰そうとする炎柱。押し止める雷掌。
「――呼ッ」
その天秤を傾けるべく、ドゥエンは息を吐いた。
阿頼耶の領域で行われる、防から攻への転換。術を受けながらの換装。わずかでも違えば、遅れれば、炎牙に噛み砕かれる――死と隣り合わせの操術。
そうしてドゥエンは、炎とせめぎ合っている雷撃を、防御術から攻撃術へと切り替えた。
「……?」
押しつけている術の手応えに違和感を覚えたのか、ディノがわずかに眉をひそめる。察するあたり、恐るべき才覚といったところか。
――しかし。もう、遅い。
「刎」
放つ。
耳朶を叩くのは、くぐもった爆発音。
ドゥエンを挟み込もうと荒ぶっていた、二双の炎。紅蓮の刃が、痕跡すら残さずに霧散した。
「――――――」
見開かれる紅玉の瞳。
己の拠りどころたる術が砕かれれば、呆然となる者も少なくはない。が、ディノの反応は違っていた。咄嗟に腕を交差し、防御の構えを取った。
続けざまに、自らの武器を無に帰した一撃が来る。そう判断してのことだろう。一見して傲慢でありながら、恐ろしいほど冷静な状況判断能力を持ち合わせている。強いはずだ。
だが、足りぬのだ。若いゆえに、不測の事態を打破する知識が。強いゆえに、格上の敵との戦闘経験が。
(この敗北は……確かな、君の糧となるだろう)
固められた防御。ディノの腕の上へ、ドゥエンは右手のひらを添えた。優しく宛がうように。
勁を発す。
この技巧は、レフェにおいて古よりそう呼ばれていた。
迸る紫電。ぱん、と鳴り響く快音。
防御の上から放たれたその掌撃は、ディノ・ゲイルローエンを『貫通』した。防御術を、構えた腕を、そして肉体を通過し、背中から突き抜けてゆく。
「……、……ご…………!」
ディノの背から白煙が吹き上がり、衝撃に弾け破れた上服が木の葉ごとく舞い散った。
「アケローンが巫術・裏・陸之操――雷鼓閃霊掌」
見た目に地味な技であるゆえか、幼き日のダイゴスはあまり興味を示さなかった一手。しかしその実態は、相手を内側から破壊する究極の術理。前のめりに倒れていくディノを眺めながら、そんな束の間の追憶に思いを馳せて――
その倒れ方が不自然だと気付き、
「――」
顔を上げれば。
ドゥエンの目前に、振り下ろされる脚――靴の踵が迫っていた。
何より速く首を逸らすも、降ってきた右踵が牙のようにドゥエンの首元を穿つ。
「グッ……!」
それは、前方回転しながらの踵蹴り。不安定な枝の上、倒れると見せかけてからの妙技。放った男――ディノ・ゲイルローエンの顔に浮かぶのは、敗北者のそれではありえない――至上の笑み。
よろけたドゥエンと、蹴りを放ったディノ。双方同時に、足場としていた枝から転落する。
「チッ」
矛の長は幹を蹴り、若枝を掴みながら体勢を整える。鈍く痛む首筋を押さえつつ、術の噴射によって樹冠の合間を飛び回るディノを目で追う。
すぐさま、次の術の詠唱に入る。一瞬たりとて気が抜けない。
(……思えば彼は……鉄機呪装の麻痺毒を吸って尚、平然としていたな)
それに加え、雷鼓閃霊掌に耐えた頑強さ。今しがたの前転蹴り。
身体強化による補強があってこそなし得ているものに違いないが、あまりにその練度が高い。何より、発動時間が長すぎる。少なくともこの戦闘中、常時発動しているように感じられる。
『凶禍の者』ゆえに可能としているのかもしれないが、そもそも思うままに術を振るえる超人が、なぜ身体強化などという技巧をこれほどの練度で会得しているのか。
そんなドゥエンの疑問をよそに、
「――そうだ。コレだ。こういうのなんだよ」
飛翔する獄炎の声が木霊する。
「こういう闘いを期待してたんだよ、オレは――――!」
炎の塊と化した紅蓮の男が、彗星のごとく飛来した。
「ふぅ……」
額の汗を拭い、流護は小さな溜息をつく。
もはや見飽きた暗い森の景観。その枝葉の隙間から空を見上げるが、競うように瞬いていた『打ち上げ砲火』が今はさっぱり見られない。各自戦闘を終え、休息中なのだろうか。かなり人数が絞られてきたのかもしれない。
「もっと上げてくれてええんやで、っと」
大きく波打つ根を跨ぎながら、小さく独りごちる。
神詠術など使えない少年としては、誰かが打ち上げるのを待ち、その場へ向かうことしかできないのだ。そろそろ、宛もなく森中を徘徊して敵を探すのは終わりにしたい。体力を温存し、間違いなく残っているだろうディノやエンロカクとの決着に向け備えておきたいところだった。
懐中時計を取り出してみれば、開始から四時間半。タイムリミットはまだ二時間半も先だ。が、懸念があった。
(……よくもまあ、ここまでボロボロになったもんだよな……)
自らの身体を見下ろせば、思わず溜息が零れる。所々破れ、裂けた衣服。万遍なく滲んでいる赤い染み。
ここまでの闘いで負った、決して軽くない傷の数々。それらの痛みは現在、アーシレグナの葉によって抑えられているだけにすぎない。その効果が切れてしまえば、疲労や痛みが噴出してくることになるだろう。
まず間違いなく――終了時間までは、もたない。
そんな若干の不安を胸に歩を進めていると、
「……ん? おお」
唐突に森が開け、見通しのいい崖際に出た。眼下に広がる緑の草むら。吹き抜けていく風が心地よい。
「――……あ」
風景を眺めていた流護の口から、思わず声が漏れる。
下に緑の野原を望むその一角。離れた崖縁に一人、落ち着いた風情で佇む男の姿があった。同じように林道を抜けてたどり着き、景色を見つめていたのだろう。
こざっぱりとした短髪。大柄な体格。開いているのか閉じているのか分からないほど細い糸目が特徴的な、泰然とした雰囲気の巨漢。
「――お主か」
その男、ダイゴス・アケローンが振り返った。
ぬちゃりとした感触に気付き、彼は視線を下向けた。
端張る枝葉が影を落とす薄暗い大地には、ぶち撒けられた赤黒い液体と、大小様々な塊が転がっている。立ち込める生々しい臭気と相俟って地獄のような様相を呈している森の片隅だったが、彼はそれらに対してまるで無関心だった。
首を巡らせ、気付く。
自分が今、自由に動けるという事実に。
認識したのは、ただそれだけ。
彼はキョロキョロと辺りを見回しながら、その場からの移動を開始した。
ひとまずは――、大地に滴り落ちている血痕が続く方角へ。




