235. ズルフィカール
「そんじゃァ、いいんですかい? 好きにやっちまってよォ」
はち切れんばかりの大男が発した言葉に、
「ああ。さっき言ったことさえ守ってくれれば、他に注文はない」
褐色肌の青年は、窓の外を眺めながら頷いた。
レフェ巫術神国が首都、ビャクラク。
元々この国随一の超巨大都市ではあるが、今は天轟闘宴を間近に控えて賑わうゆえか、夜になっても街の灯火や人の往来が絶えることはなかった。決して安くない宿の四階から見下ろす夜景は、まるで星空の煌めきがごとし。この美しい絶景も、割高な料金のうちに含まれているのだろう。
そんな広々とした豪奢な一室にいるのは、二人の男。オルケスター団長補佐ことデビアス・ラウド・モルガンティと、団員の一人にして掃除屋のチャヴ・ダッパーヴである。
「気になるか? どんな意味があっての指示なのか」
眼前に広がる宝石箱のごとき夜景から目を離さずデビアスが問えば、
「いんや。オイには関係のねェ話だ。事が終わった後、好きに解釈させてもらいますぜェ。いつも通りに、ね」
磨き抜かれたガラスに映り込むチャヴのむくんだ顔が、ニタリと歪んだ。
「いつも通り……か」
聞こえぬよう小さく独りごちたデビアスは、振り返って部下の顔を直接に見やる。
「そうだな。いつも通り、『氷天羅将』の力……存分に発揮してくれ」
「……了解しやしたぜェ」
待ちきれないのだろう。巨躯に戦意を滾らせ、チャヴは荒々しい足取りで部屋を出ていく。
窓の外に広がる奇妙な景観の街並みを見下ろしながら、デビアスは思惟を巡らせた。
今回、ある目的のためにチャヴを武祭に参加させることとなったが、当人は『ついで』の用件であるディノ・ゲイルローエンの始末に熱意を燃やしているようだった。
それも無理からぬこと。『ペンタ』と闘える機会など、そう滅多にあるものではない。そしてかの超越者と呼ばれる存在を下したとなれば、戦士としてこれ以上ない箔がつく。
無論、相手は常人と一線を画す神の申し子。並の者なら、鎧袖一触に返り討たれるが必然。しかしやはり、強者たる自負を持つ者であれば、この類稀な機に奮い立つのは当然ともいえるだろう。
(……チャヴ。お前は……決して退かず戦い続けることができる、勇敢な戦士だ。だからこそ……)
デビアスは礼服の内ポケットから『それ』を取り出した。
色は漆黒。大きさは飴玉程度。表面にはマーブル模様が浮かんでいるが、それらは水流のように絶えず揺らいでいる。
キンゾル・グランシュアと名乗るあの老人から提供された、今回の目的の要となる品。武祭前日、これをチャヴに服用させることで下準備は完了となる。
(……あまり口に入れたい見た目じゃないね)
丁寧に仕舞いつつ、デビアスは今回の計画について思いを馳せた。
(さて。一応、実績もある。キンゾルの弁が確かなら、霊場とて問題はないはずだ。成功する公算は高い。が……)
今回の人選は正直なところ、デビアスにとっても本意ではなかった。
なぜなら――
(……チャヴ。お前は、強すぎる)
「く、そがァ! うるせぇってんだ……!」
「おっとォ」
やけくそ気味に振り回された細腕を、必要最小限、体幹をずらすのみの動きで躱す。引っ掛かった礼服の裾が、少しだけビリと裂けた。
(やっぱり……この一帯に、鏡は無ぇみてぇだなァ)
周囲の景観に気を配りながら、チャヴ・ダッパーヴは裏拳気味に右腕を薙ぐ。
「がっはァッ……!」
直撃を受けて吹き飛ばされた黒マントの男は、そのまま老樹に叩きつけられた。
「オイオイ……お前よ、魔闘術士とかいう奴だろォ? 優勝候補だとか聞いてたんだがなァ、勘違いかァ?」
万全の状態ならば多少は違ったのだろうが、この敵は出会った時点で満身創痍だった。もっとも相手が何者だろうと、やることに変わりはないのだが。
どういう意図があってのことか分からないが、デビアスからチャヴ・ダッパーヴに下っていたその指令。
『可能な限り、黒水鏡に映らぬよう立ち回れ』。
期せず、鏡にその姿を晒してしまった自覚があるのはこれまでに二度。
初出場のため完璧にとはいかなかったが、森をぐるりと回った結果、黒水鏡の設置されている位置や法則性については概ね把握できていた。
基本は見世物であるため、遮蔽物や障害物が多い、見通しの悪い場所には設置されていない。同じく、極端に薄暗いところにも置かれていない。各々で動き回る白服も鏡を持ち歩いてはいるが、初出場の個人に張りついてくるようなものでもない。
結果、チャヴはほとんど人前に姿を晒すこともないまま、闇に紛れた影のごとく勝ち抜けていた。
デビアスの意図するところは不明だが、チャヴには関係がない。演出家の命じるまま、役を全うするだけだ。オルケスターの兵として、これまでもそうして動いてきた。全てが終わった後、己の演じた役柄にそのような意味があったのか、と知るのもまた楽しみの一つだった。
チャヴ・ダッパーヴは、組織内の掃除屋である。
二つ名は『氷天羅将』。
荒事や殺しを得手とする、暴力に特化した元用心棒。
オルケスター最強と名高い『魔煌弾』のテオドシウスや『黒灯夢幻』のナインテイルにはさすがに及ばないと自覚しているが、壊し、片付けることにおいては彼らより上との矜持があった。
この巨体が通った後、そこには何も残らない。
デビアスが描いた脚本に従って、己は役割を全うするのみ。壊すのみ。オルケスターの演者の一人として。
「く、そがぁ、うるせぇ、うるせえええぇ!」
魔闘術士の男が、後退しつつ苦し紛れの右腕を振るう。
その手には何もない。間違いなく無手だったが、
「おっとォ」
汚物から飛びのくように、チャヴは大げさな挙動で回避した。
不可思議なことに、この相手は己の手や触れたものを刃へと変える能力を持っている。極めて珍しい力だったが、それだけだ。ただでさえ遭遇した時点で大きく消耗していた。意思を持って動き回る錆びた短剣のような相手にすぎない。
(さっきから「うるせぇうるせぇ」って何だァ、コイツはよォ。耳でもイッちまってんのか? さァて……)
隙をついて体当たりで弾き飛ばし、魔闘術士を近場の巨木へと叩きつけた。
「が、は……!」
はち切れんばかりの巨魁であるチャヴのぶちかまし。細身の男は強かに全身を打ち、為す術なく崩れ落ちる。
(こんな野郎と遊んでてもしょうがねェ。さっさと、あのディノって小僧の所に向かわねェとなァ)
がし、と相手の頭を掴み、力を込めた。
先ほどは振り解かれてしまったが、もう逃がさない。
(オイが天轟闘宴を勝ち抜けることで、何が起きんのか……楽しみにしてるぜェ、デビアスさんよォ)
「……あ、が、……は……うるせぇ、ちくしょう、が……」
やわな果実のように。魔闘術士の頭が、めきめきと音を立てた。
「分かっておろうな。特異なのは、お前だ」
「あー、分かってるよ。爺さん」
隣の部屋から聞こえてくる雑音を聞き流しながら、カザ・ファールネスは相槌を打った。
「確かにお前の兄は強力な使い手ではある……がしかし、所詮は凡庸な風属性。真に希少なのはお前だ。最悪、他の連中は万が一の事があっても構わぬ。お前だけは、無事に戻れ」
「分かってるって」
老衰も著しく、歯が欠けている長老の声は聞き取りづらい。隣の部屋がうるさいため尚更だ。
「ヒヒヒ、隣は盛り上がっておるの」
落ち窪んでいながらもぎらついた目を横向け、長老はニタリと下卑た笑みを浮かべる。薄く小汚い壁の向こうから聞こえてくるのは、男の声と女の声。後者は耳をつんざかんばかりの悲鳴だった。それも一人や二人ではないからやかましい。
すぐ隣の部屋では、女たちが犯されていた。名前も、詳しい素性も知りはしない。
魔闘術士の同志が外へ出かけた際に回収してきた、『獲得物』だった。金や食い物とその扱いは変わらない。
適当な女をさらい、連れ帰る。交配し、子孫を増やす。そうやって一族は繁栄し続けてきた。男が生まれれば戦闘員に、女が生まれればやはり子を成すための存在として酷使されることになる。
そのように集落内での交配を繰り返し続けているためだろう。魔闘術士の一団は、誰も彼も顔の造作が似通っており、またどこか歪だった。育たず死亡する者も少なくなかった。
しかしそうして色濃くなった血にこそ、異能が発生する。
古くよりそう信じられ、集落内の誰もがその行為を禁忌と認識しなくなって久しい現在――人としての基準を満たさぬ者も多く生まれたが、事実、稀に異質な能力を備えた者が現れることがあった。
カザ・ファールネスこそ、その希少な存在の一人だった。
うるせ……、……?
――……――あ?
――――あぁ。音が、消えた。
キンキンと喧しかった、あの音が。
何かが終わったみてーに。満足したみてーに。やっと、完成したみてーに。
「!?」
カザ・ファールネスの頭を鷲掴みにしていたチャヴは、鋭い痛みに思わず手を離した。例えるなら、いたぶっていた虫に刺されたような感覚。
思わず、己の右手のひらをまじまじと見つめる。
何ともない。そう、思った瞬間。
親指以外の四指が。ぶつ切りにされた葱みたいに、ボトボトと落下した。
「――――――――はァ?」
爆発したような血飛沫が吹き出しても、チャヴはしばし呆然と自分の手を見つめていた。
「……は、あ、が!? ォオオオ――!?」
遅れること数秒。ようやくに事態を認識し、右手を押さえ悶絶する。
「おう、デブ」
投げかけられた声。チャヴが脂汗を流しつつ目を向ければ――
崩れ落ちていたカザ・ファールネスが、ゆっくりと立ち上がるところだった。ゾッとするほどの無表情。こけた面立ちと飛び出しそうなほど大きな両眼からは、何の情も伝わってこない。
瀕死であることは疑うべくもない。わずかよろめきながら、傍らの幹に手をついて身を起こす。その指先が硬い幹に突き刺さり、易々と沈み込んでいく。食い込んだ部分を取っ掛かりに立ち上がり、カザ・ファールネスは再び両の足で大地を踏んだ。不自然かつ、糸に吊られた人形のような立ち上がり方だった。
「調子乗ってんじゃねーぞ、デブ」
言い捨てて、魔闘術士は唇から伝う血を手の甲で拭う。
「……そりゃァ……」
額に青筋を浮かせたチャヴが、その場で左手を大きく振りかぶる。指を切り落とされた右手は――氷漬けとなって、血が止まっていた。
「オイのセリフだ、こんボゲがァ!」
怒号と共に放たれたのは、大小様々な氷塊の乱舞だった。
「――ブッ潰れろ……!」
小さなものは手のひら程度、大きなものは岩石ほどもある白氷の殺到。倒壊した崖際を思わせる、氷礫の一斉掃射。
まともに受ければ、人間はおろか怨魔の群れですら瓦解する蹂躙の嵐。周辺の木立の幹が豪快に抉れ、枝葉が次々と弾け飛ぶ。
――しかし。
敵の姿が覆い隠されるほどの氷嵐を叩きつけていながら、チャヴは妙な音を耳にしていた。
土砂崩れのような重々しい破砕音の中、かすかに交じるそれは――高らかな金属の反響。
「…………な、にィ……?」
直後、その音の正体が判明した。
白靄と土埃が舞う、その最中。
平然と佇む――カザ・ファールネス。
避けてはいない。そもそも避けられるような密度ではない。確かに術は直撃していた、その証として。魔闘術士の象徴である黒いマントは千々に破れ、敗戦国の旗もかくやといった惨状になっている。
が。
もはやボロ切れと呼ぶのも躊躇われる黒を纏う張本人には、傷のひとつも刻まれてはいない。
「ヒ、ヒヒ」
白靄漂う中、カザ・ファールネスは嗤い、一歩踏み出す。
び、と音を立てて。身体の揺れに合わせて裂かれたマントの破片が、その下に着ていた質素な上衣が、破れ落ちた。
「……て、めェ……そりゃァ……、まさか……」
その結論に至ったチャヴが、顔を歪める。
「そう、みてーだな。は、ははは」
カザ・ファールネスは、自分でも知らなかったといった含みを持たせて笑う。
両腕を刃と化し、触れたものを凶器と化す能力。
それが――生命の危機に際し、進化を遂げたとでもいうのか。
カザ・ファールネスは今や、その全身を刃のような何かへと変質させていた。
触れたチャヴの指を切断し。激突した氷岩を斬り砕き。身を揺すれば布が裂け、歩を進めればつま先が靴の先端を突き破る。そんな、鋭い凶器そのものへと。
「は、はは。爺さんが言ってたのは、こーいうコトか? はは、ヒヒ」
自分の身体をあちこち見回しながら歩き。
驚愕して固まるチャヴの前に立った時点で、カザ・ファールネスの纏っていた衣服は破れ落ち、ほとんど半裸となっていた。
「ヒャハハハ、すげーぞこりゃ。自分でも何がどーなってんだか分からねぇ。どの部分が、どーして切れるんだ? ヒヒ。分かんねーコトだらけではあるけどよ――」
眼前のチャヴを見上げ、引きつった笑みのまま言い放つ。
「今のオレがトンでもなく強ぇってことだけは、確かみてーだぜ……?」
瞬間、屹立する氷柱。
チャヴの喚び出した極大な氷剣が、真下からカザ・ファールネスを突き上げ――なかった。氷の柱は魔闘術士を避けるように中央から爆ぜ割れたままそびえ立ち、均衡を失ってあっさりと倒壊した。剣先と剣先がぶつかり合い、負けた側が真ん中から裂けたような光景だった。
「……な、んだァ……ッ!?」
「ァハハハハハ、おーびっくりした。串刺しになるトコだったぜ。術規模のワリにゃ詠唱早ぇなテメー。それとも保持数が多いのか? でもよぉー、」
ぴっ、と迸る。
それは、血だった。
先ほどカザ・ファールネスが手の甲で拭った、唇の血。軽く手を振ったことで飛散した、そのぬめりの雫が。
ぞぶ、と音を立てて、チャヴ・ダッパーヴの喉を貫いていった。
「……、…………が、ぼ」
大男が、血の泡を吹きながら崩れてゆく。
「そんなンどーでもよくなっちまうぐれぇ、今のオレは強ぇみてーだぜ? 信じられねーモン見るような目ぇしてんなァ、オイ。無理もねーか。オレ自身、信じられねー気分なんだからよ。ァハ、ハハハハハ、ハハハハ――!?」
――こうして、成った。
魔闘術士という業深き集団が追い求め続けた頂点の一つが、今ここに完成した。
運が悪かったのか狙われたのか。
頸部に巻かれたリング、その少し上に穿たれた小さな孔。
「……ひュー……」
しかし、人が機能を停止するには充分すぎるほどの損傷。巨大な肉を纏うチャヴ・ダッパーヴは、微細な傷によってその意識を闇の中へと飲み込まれてゆく。
(馬鹿……な、この、オイが――)
何ということか。
いつも一歩、二歩先を見据えていた、オルケスター団長補佐であるデビアスの慧眼。あの男が自分を抜擢したからには、必ず何か理由があったはずだ。
それが――勝ち抜くどころか、ディノ・ゲイルローエンと出遭うことすらないまま、ここで終わろうとしている。
(……あ、り、えねェ――)
そう。デビアスの計画に間違いなどありえない。ということはつまり、自分はこんなところで死ぬはずがないということで――
(そ、うだろォ――、オイが、負け……死ぬ、わけ、が)
両手の人差し指をかち合わせると、キンと澄んだ音が鳴った。強めに擦り合わせれば、ジャリンと刃を研いだかのような鋭い感触。かすかに肌が切れ、血が滲み出す。
「! こりゃァ……」
さして痛みこそ感じないものの、カザ・ファールネスは思わず目を見張る。
自分の神詠術で、自分が傷つくことはない。
これは子供でも知っている大前提のはずだが、この能力はそんな原則から外れているようだった。自らの護符を施している黒マントが裂けたことからもしやとは思ったが、相当に奇異な力であるらしい。
小さな血珠の浮かんだ指先をピンと払う。撥ねた飛沫が、近場の幹にドスドスと音を立ててめり込んだ。
「ハ……」
チャヴに対して本能的に繰り出した一手。当然というべきか、今までこのような真似などできはしなかった。他に、今までと何が違うのか。何ができて、何ができないのか。それはカザ・ファファールネス自身にすら分からない。自らを傷つけてしまう可能性があるという点も含め、慎重に把握していく必要があるといえた。
「……おっ、そーだ」
戻した視線が、眼前でうつ伏せとなったチャヴへと固定される。巨大な猪じみたその男は、もはやピクリとも動きはしない。首に巻かれたリング。かすかな風にはためく礼服の裾。そして――その広い背に担がれたずた袋。このむくんだ大男と比せば小さくも見えるそれは、開始前に参加者全員へ渡されている荷物だ。肝心要のアーシレグナを頭領兼兄に徴収されてしまったカザ・ファールネスとしては、早々に投げ捨てたものでもあったが。
「よっ、と」
巨体に背負われ限界まで張り詰めている袋の紐を、カザ・ファールネスはつま先でスッとなぞる。ただそれだけで硬い編み紐はブツリと切れ、チャヴの背中から麻袋が転がり落ちた。
「よーっと」
そして何気なく突き出した右足が、丈夫なはずの袋をいとも容易く貫通する。
「ほっ」
膝を曲げ、袋を自分の胸元へ放り上げる。両手で掴めば、袋はビリビリと音を立てて裂けてしまった。中身が――地図や水筒がドサリと、そして一枚のアーシレグナがひらひらと落下する。青々とした大振りの葉は、伏して動かなくなったチャヴの頭のそばへと舞い降りた。
「チッ、一枚だけか……。ま、ねーよりマシか」
この男の技量や消耗ぶりから考えて、やむを得ず二枚も使ったとは考えにくい。武祭の時間経過に合わせ、適当に使ってしまったのだろう。
「もったいねーな」
屈み込んで、その緑葉をうっかり刻んでしまわぬよう、慎重に摘み上げる。
アーシレグナの葉。一人に三枚のみ支給される、貴重な回復手段。魔闘術士の一員としては、開戦前に頭領に没収されてしまっていた品。そして――武祭の規定上、倒した相手から奪うことが禁じられているそれ。
が、問題はないのだ。
奪ったことが、明るみにさえ出なければ。
「……ヒヒ、ヒヒヒヒ」
辺りを見回せば、ただただ静かな樹林が広がっているのみ。木々の枝に鏡は見当たらず、白服の姿もない。
「オレが有り難く貰っといてやるよ、ブタ」
呟いて視線を戻せば、
「やらねェよ、ツクシ野郎」
チャヴの血走った両眼と、至近で目が合った。
「……な、」
力尽きうつ伏せになっていたはずの大男は、両腕で大地を押しのけるようにしながら起き上がりかけていた。
「このブタ、まだ――、!」
カザ・ファールネスは驚愕に瞠目する。
チャヴの太い首。その中心に穿たれたはずの穴が、氷漬けとなって塞がれている。血が止まっている。そして、そのすぐ下。
(そうか、まだ首輪が――)
新しい力を会得したことによる高揚や、武祭初参加という不慣れな点もあり、完全に失念していた。首に巻かれたリングが解けていないのだから、まだ終わってなどいなかったのだ。
それらは時間にして数瞬の惑いだったが、戦闘においては充分すぎるほどの隙。
瞬間的に頬を膨らませたチャヴが、ヒュッと鋭く息を吐く。
「!」
慌てて飛びのくが、遅かった。
ばきん、と鈍い音。同時、歪なガラス越しのように湾曲する視界。額や頬を隈なく包み込む、冷たい感触。そして――
(……、息が、できねぇ……ッ)
カザ・ファールネスはそこで悟る。顔全体を、万遍なく氷結させられたのだと。
(ケッ、小細工が……くだらねぇッ)
こんなもん削ぎ落としてやる、と自らの顔へ指を近づけ、そこでハッとした。それはたった今しがたのこと。新たな力に覚醒し、確認のため自分で自分の指を擦ったその時。微細ながら、傷がついたというその事実。
(……、)
つまり。
この薄氷を削ぎ落とそうと両手の『刃』を振るったなら、自分の顔も裂いてしまうのではないか。なにしろこの切れ味だ。よほど慎重に切り剥がさねば、危ないのではないか。
しかし今は戦闘中。そんな時間や余裕など、当然あるはずもなく――
不意に影が差し、カザ・ファールネスは顔を上向ける。
「――――」
暴虐の限りを尽くしてきた凶人ですら、思わず言葉を失った。
立ち上がったチャヴが、傲岸と見下ろしていた。
荒く乱れる呼吸。目に見えて震える巨躯。止血したとはいえ、首の中心を貫かれたのだ。無事でいられるはずがない。虚勢だ。そう判じてなお、カザ・ファールネスの視線は、相手の――左腕へと吸い寄せられた。
そこにあったのは、『暴力』そのもの。
肩から指先までを硬い氷塊で幾重にも覆い、砲身じみた巨大さを獲得した――まさに鈍器。角ばった白氷の塊。「ああ、こんなモンで殴られたなら死ぬな」と。誰でもそう理解できる、凶悪極まりない破壊の権化。
「ツクシ野郎よォ……、強ぇなら、最初ッからそう言えやァ……」
限界が存在しないかのように、チャヴの口の端がゆっくりと吊り上がっていく。『塊』としか表現できない左腕が、静かに振り上げられていく。
「そうすりゃ、こっちも……全力の持て成しで、応えてたってのによォ――」
大男の笑みがひどく歪んで見えるのは、視界を覆う薄氷だけが原因ではないだろう。魔闘術士の男はそう自覚する。
過剰なほど肉づき、どこかとぼけた印象のあったチャヴの丸顔。それは今や、ほとんど別人へと変貌を遂げていた。裂けた唇、剥き出しとなった歯列。血走った殺意の眼光。
その怖気を誘う形相はまるで――
(――――鬼、)
思うと同時、薙ぎ払われた。
「――、――――……」
横殴りの衝撃が、カザ・ファールネスの肩へと着弾する。
そして、実感する。
ああ、死ぬ。
こんなモンでブッ叩かれたら、人間は死ぬ。普通は死ぬ。
――つまり。
弾け飛んだ氷の破片が、荒れ狂う血風が、周囲にパラパラと降り注ぐ。
「……、――――な、にィ」
必殺の一撃を仕掛けたはずのチャヴ・ダッパーヴが、限界まで眼を見開いて。
肘から先のなくなった、己の左腕を凝視して。
「つまり……今のオレは、普通の人間じゃねー。とんでもなく強ぇ、別格の存在ってコトだ――」
衝撃で氷の仮面が割れ落ち、自由になった口から。カザ・ファールネスは、その結論を紡ぎ出した。
人が原型を留めぬ肉塊となるには充分すぎた、チャヴの横一閃。カザ・ファールネス自身、「これは無理だろ」と思った一撃が。
名剣に叩きつけた大根のように呆気なく切断され、終わった。
ただ立っているだけのカザ・ファールネスに触れるや否や、自ら千切れ飛んだ。
「認めるぜ、ブタ。おめーには、ウチの兄貴でも勝てねーだろうよ。『さっきまでの』オレが万全の状態でも、まぁ無理だったろうな」
それはある種の成長だった。他者即ち、蹂躙する対象。そのような考えしか持たない魔闘術士が、部族以外の者を称えた――という。
「ま、『今の』オレには百回挑んでも勝てねーだろうけどよ」
無論、限りない高みからの見下しが前提のものではあったのだが。
踏み込んで、一刺。
カザ・ファールネスの左腕が、チャヴの胸をゾブリと突き抜けて。バシャン、と背中から赤い指を覗かせた。
「……お、前も、死ね、やァ」
それでもなお、大男の顔には凄絶な笑み。
血反吐を撒き散らしながら、チャヴは自らの身体に刺し込まれた細腕を抱え込む。自爆狙いの最後の一手。
しかし。
「……、……こ……ッ」
そうして自らを貫く相手の腕を掴もうとしたチャヴの手が、指が、手首が、肘が、切り分けられた食肉のようにボトボトと落下して。
一方でそのカザ・ファールネスの腕は、岩に突き立てられた伝説の剣さながらに。大男を貫いたまま、不動。
「ァ、ハハ……悪ィな、ブタ。大した根性だがよ……もう、格が違うみてーだ」
胸に差し込んでいる腕を、真横へ薙ぐ。
真一文字に払われたカザ・ファールネスの細腕が、遮るものなどないかのように軌跡を描く。一拍遅れ、鮮血の飛沫がその後を追う。
「…………オォイ……終わり、かァ……?」
「……、本当に人間か? おめーは……」
刻まれ笑う巨魁と、刻み慄く細身の男。
しかしそこから先は、戦闘ではなかった。
カザ・ファールネスは両手を閃かせ、眼前の大男を刻んでいく。
むせ返るような血煙にまみれようとも、相手の造型が人の形から遠のこうとも、その中身が散々に撒かれようとも、止まらず刃を振るい続ける。
第三者が目撃したなら、さぞ凄惨な光景に映ったことだろう。黒水鏡が捉えていたなら、卒倒する観衆も出たに違いない。
しかしこの酸鼻極める解体作業には、カザ・ファールネスにとって三つの意味があった。
一つ。この敵に対する恐れ。
喉を貫こうが、胸に風穴を穿とうが、反撃に転じてきた相手。確実に殺し尽くさねば、心が休まりそうになかった。
一つ。チャヴに対する称賛。
この大男は、間違いなく強敵だった。この闘いがあったからこそ、自分は目覚めることができた。それほどの相手が長く苦しまずに済むよう、一刻も早く息の根を止める。傍から見れば歪ではあったが、そこにはカザ・ファールネスなりの敬意が込められといた。
そして、最後の一つ。
「……ハッ、ハァッ……、ゼェッ……こんなモンで、充分だろ……」
視線を血と臓腑にまみれた大地から――チャヴの『いなくなった』そこから、脇の草薮へと移す。膝丈の枝葉が茂るそこには、大振りな緑色の葉が引っ掛かっていた。
歩み寄ったカザ・ファールネスは、それを摘み上げると同時に握り潰す。そうして固めた拳を頭上で掲げ、その真下で顔を上向けながら唇を開く。握った手を開けば、緑の雫が口腔へと滴り落ちた。
「さっきも言ったが……この一枚は、オレが貰っとくぜ」
唇から伝った水滴も丁寧に掬い上げ、舐め取る。
アーシレグナの使用状況については、事細かに調べ上げられ、不正があったなら即時失格の裁定が下されるという。だが。
「あー……いーねー、効くじゃねーか、こいつはよー……、ァハ、ハハハ、ハヒヒヒ……!」
いかに厳しい調査がなされるとはいえ――
持ち主や荷物が粉々になり、当人が使ったかどうかも判別できない状況になってしまえばどうか?
「こうグッチャグチャになっちまえば、さすがに分かりゃしねーよなあ? ァハハハハ、ハハハハ――!」
やはりこの男は、どこまでも魔闘術士であった。




