234. 心の充足
その邂逅は必然。
身を潜めることなど無縁とばかり、威風堂々と闊歩してきた獣と獣。
長き時間を経て餌も乏しくなってきた、現在のこの猟場において――
自らの最強を露ほども疑わぬ彼らが出遭うのは、ごく当然の事象であった。
「……、…………?」
獣じみた所作だった。
エンロカクは、手首から先が焼失した己の右手を呆然と見つめる。黒く焦げ、『先端』と化したその部分。手や指など、最初からそこに存在していなかったかのような。
「先に仕掛けたのはオメーだ、恨むなよ。……で、首輪してねェけど……闘る、ってコトでいいんだよな?」
真正面から相対するディノの美貌を彩るは、残虐な笑み。
「――来いよ」
左腕をクイと挑発的に振り、炎の『ペンタ』は紅玉の瞳を輝かせる。
「ブ、ヴフフウ、」
もはや痛覚が正常に機能していないのか。エンロカクは苦痛に呻く素振りすら見せず、
「ヴ、ハ ハアァ――!」
砲弾めいた右の前蹴りが、ディノの腹部目がけて繰り出される。
暴悪な風切り音を伴って放たれるそれは、『死』そのものだ。しかし炎の超人はわずかほども臆さない。半身をかすかに傾ける挙動、ただそれだけでこの砲弾めいた蹴撃を完璧に躱し、
「次は脚か?」
ディノの右手、指先に紅蓮の灯火が点る。突き出されたままとなっているエンロカクの太い右脚へ、制裁のような手刀が振り下ろされた。鈍い音と手応え。舞い散る火の粉。
「!」
目を見開いたのは――ディノ。叩き斬るつもりで閃かせた、炎熱の一撃。しかしそれは、太い脚を削ぎ落とすことなく止まっていた。正確には、止められていた。エンロカクが脚に纏わせた、防の極致・逆風の天衣によって。
何事もなかったかのように、巨人は両の足で大地を踏みしめる。
「ヴフ、フ……!」
超至近の間合いとなった直後、上背で勝るエンロカクがディノ目がけて左肘を打ち落とした。
ディノはまたしてもこれを半身でいなし、下から突き上げた右拳を巨人の顎へと叩き込む。一方でエンロカクはこの反撃をまるで意に介さず、手首から先の焼失した右腕を振り回す。戦槍と見紛うかのようなそれは、咄嗟に屈み込んだディノの赤い頭髪、その数本を薙ぐのみに留まった。
双方の間合いが弾けるように離れ、中間距離で向かい合う形となる。
「ふーん……」
ディノは己の右手へ視線を落とし、興味深げに目を細めた。甲や指がかすかに擦り切れ、血を滲ませている。
「防御術……ねェ。ブッ飛んでるワリにゃ、ズイブンと慎重に立ち回るじゃねェか。……で、ジャレ合いはこんなモンで充分か? そろっと詠唱の一つも終わった頃だろ?」
そんな超越者の薄笑みに応えるかのごとく。
「ブ…………フ、フ……」
エンロカクは、残された左腕に旋風を現界させた。気流は瞬く間に肥大していき、やがて黒々と渦巻く竜巻へと変貌を遂げる。
片腕ではあるものの、それは紛うことなき奥義。
全てを粉砕せしエンロカク・スティージェの秘術、羅劫颪。
理性が失われてなお顕現する大技は、並ならぬエンロカクの才覚を示したものだったに違いない。
その隻腕を中心とし、世界が荒れ狂う。周囲の草葉は波打ち、木々は穂先を躍らせて揺れる。まるで、恐怖に打ち震えるように。
旋風すら児戯に見える膨大な気流を左腕に宿し、黒き怪人はディノへと掴みかかった。渦巻く風の末端が触れるだけで、人間など刹那にすり潰されることは明白。本能的に恐怖を覚えるほどの威容と轟音が、その場を席巻する。
「ハッ、面白ェッ!」
しかし、ディノという男は微塵も怯まない。
それどころか喜々として絶大な炎の両刃を生み出し、正面からこの気流に切り込んだ。
防壁さながら黒く渦巻く豪風、叩きつけられる紅蓮の刃。激突の余波が、爆音となって大気を振るわせる。
「……、ウ、オ……!?」
押し負けたのは――ディノだった。
後方へ大きく弾かれ、周囲を席巻する烈風によってさらに後退する。
「ヴ、ハ、 ハハ ハハハハ――!」
下がったその分だけ、エンロカクが豪快に間合いを侵略する。
左腕を取り巻く黒い渦が、より激しく濃く密度を増す。
「ガアァァハ、ハハハ……!」
そして、嵐を宿した左の豪腕が薙ぎ払われた。
奥義・羅劫颪。
ダイゴス戦では不発に終わった――否、放たれる前に割り込まなければならなかったその絶技が、出番を待ち兼ねたかのごとく空間を蹂躙する。
「……お!?」
まずディノの立つ大地そのものがバキリと割れ、傾いた。直後、彼の四方を風の壁が取り囲む。
「こりゃァ――」
気付く。長大にそそり立つ竜巻の内側へ、閉じ込められたのだと。豪大な風が、周辺の大地を削り取っていく。砂礫と呼ぶには大きすぎる土砂を、竜巻が優々と呑み込んでいく。翻弄され、躍り狂う巨岩と砂煙。もはや、ディノの姿は外側から確認できなくなっていた。
「……う、ぐぅあ!」
離れた位置で伏せていたサベルとその腕に抱えられているジュリーが、荒れ狂う風の余波を受けて転がっていく。
「ブ、ヴ、フフフ……!」
エンロカクが高く掲げた左手を握り込んだ瞬間、天を衝くかに思われた竜巻が爆ぜ飛んだ。
土砂が撒き散らされ、鎌鼬がその全てを喰らい、散々に砕く。降り注ぐのは砂の雨。一帯は、黄土色の薄靄に包まれた。それすらも、風の余波がすぐさま吹き払っていく。
――にわかに霞がかった、世界の終焉のような光景。
内側へ閉じ込められた存在は無残な塵芥と化すだろう、上位怨魔ですら無事には済まないだろう暴虐がようやく治まった――そこに。破壊の限りを尽くされ、歪な荒地へと変貌を遂げたその大地に。
「――コレがオメーの全力か。悪くねェ一撃だ」
消えることのない炎が、傷の一つもなく佇んでいた。
「……、お?」
――否。防御術を展開していたディノの頭から、一筋の赤がドロリと伝い落ちる。
唇の脇を通ったその血流を舌で舐め取り、
「――へェ。いいぞ、デカブツ」
嗤う。
隻腕、かつ満身創痍の身にありながら、『ペンタ』の全力防御を突破したという事実。その戦果に応えるような、力を振るうに足る相手だと認めたかのような、獰猛にすぎる笑みだった。
「……グ、ブ……?」
一方で、狂気に染まって以降、初めて。
エンロカクは相手を仕留められなかったことを認識し、驚いたようだった。
嵐の余韻も消えた静寂の中、睨み合うこと瞬刻。
再び、エンロカクの身体を気流が包み始めた。見えないその力は、瞬く間に濃度を増していく。
同時。その紅眼と同色の光条が、ディノの指先から迸る。
細く、針のごとき熱線。
先の『打ち上げ砲火』と同じそれは、暴れ狂う嵐の前にも軌道を変えることなく奔り、エンロカクの眉間目がけて直線を描く。巨人は恐るべき身のこなしでこれを躱すが――完全回避することはできず、左腕が容赦なく弾け飛んだ。回転しながら宙を舞う豪腕から、渦巻く風の力が霧散していく。
「ブ、フ、ハハハ ハ ハハハハハハハハハ――!」
しかし両腕を失ってなお、エンロカクは怯む素振りすら見せなかった。地を蹴り、全身に禍々しいまでの気流を纏いながら、ディノへ向かって突進していく。その容貌はもはや、人の領域を逸脱している。さながら、暴風を纏いし破滅の化身。
しかし。
「いいねェ、そう来なきゃってモンだ――!」
ここで迎え撃つ男もまた、比肩する者なき超越者だった。
漆黒の砲弾と化したエンロカクが、爆音を残して一直線に迫り。
煌々たる炎の両刃を生み出したディノはその場で身体を捻り、遠心力をもって迎撃する。
交錯。
渦巻いた烈風が、舞った獄炎が、衝突の余波だけを残して吹き飛んだ。
すれ違った両者は、しばし時を止めたように静止する。
「……――」
ディノの頬に奔った一筋の赤が、追って飛沫を迸らせて。
隻腕にして満身創痍。それでなお、『ペンタ』の防御を突破するその威力。
それは。
裏を返せば、そこが限界であったという証に他ならない。
――腰の位置から上下に両断されたエンロカクが、壊れた玩具のように崩れ落ちた。
殺戮に次ぐ殺戮。転戦に次ぐ転戦を繰り返した巨人は、とうに限界など突き抜けていた。これまでの闘いの数々が、その頑強な肉体に確かな傷を刻んでいた。
まず上半身がべちゃりと落下して転がり、朱色を撒き散らす下半身がそれに倣うかのごとく後を追って横倒しになる。全身にまとわりついていた風の塊が、直前までの猛々しさも嘘のように、主に見切りをつけたかのように霧散していく。
暴悪無比。数え切れぬほどの死を生み出した凶人が、無双と思われるほどの闘いぶりを見せた巨人が、ついに沈んでゆく。
ディノは両腕を一振り、炎の柱を虚空へと消失させた。転がったエンロカクに静かな眼差しを向ける。
「……潰し合いの欠点……かねェ。オメーが万全なら、さぞかし楽しめたんだろうがな」
率直な感想だった。
頬の血を指で拭い、やや冷めた声で……惜しむような声音で呟く。
勝ち残った者として気になる点があるとすれば――この相手の首輪を外し、ここまで追い込んだ者の存在といったところか。
「随分と期待できそーなヤツがいる……ってコトでいいのかねェ。少なくとも、コイツらじゃなさそーだしな」
地に伏したエンロカクから目を外しつつ、そちらへと視線を向ける。
巨人の絶技で破壊の限りを尽くされた大地とは反対側。
わずかに開けた森の風景。その場には六人の戦士たちがいたが、全滅といっていい様相を呈していた。三人は身体の一部が損壊し、明らかに絶命している。一人は首がねじ曲がっており、生死を問うまでもない。残る二人は息こそあるものの、リングも外れ、自ら立ち上がることもできない状態となっていた。
「……、あ、んた……何、者だ……?」
生き残りの片方、地面に這いつくばった青年が呆然と声を絞り出す。その腕には、瀕死の若い女性が大事そうに抱えられていた。
「ハッ、女連れたぁイイ身分だな。ま、ソレで殺られそうになってりゃ世話ねェが」
ディノとしては名乗る義理もない。リングが外れている以上、彼らに興味もない。かなりの重傷を負っているが、知ったことでもない。もっとも随分と派手な戦闘を演じたことで、そろそろ白服の一人もやってくる頃合いだろう。適切な処置を受ければ、この二人は充分に助かるはずだ。
もうこの場に用はない。次の敵を求めてその場を後にしようとしたディノだったが、最後に一度だけ振り返る。血の海に沈んだ巨人は、これまでの暴威が嘘のような静けさで横たわっていた。
「……」
その様子は、なぜか。
遊び疲れた子供が、満足して寝転がっているような。そんな光景にも、見えた気がした。
――そもそも、ドゥエン・アケローンとの闘いを望んだ理由は何だったろう。
考えるまでもない。あの男が、最強だったからだ。自分以外で、最も強い男だったからだ。
つまり。強い男と、闘いたかった。血湧き肉踊るような、至高の殺し合いがしたかった。どいつもこいつも、つまらなかったんだ。脆くて。弱くて。
ならば。
「……、……――フ、ハ」
叶った――、いや、『叶っていた』のではないか。
「――――、……ハ」
そう。何も、ドゥエンに固執していた訳ではない。あの男以外に、強者がいなかっただけなのだ。己の周囲には。
持って生まれた、異常な肉体。人より優れた、巫術の才覚。それを全力で試せる相手が、欲しかったのだ。
『エンロカクッ……お前は、加減を覚えなさい。お前は……人とは、違うんだ』
『なぁ……アイツの身体、どうなってんだよ? あの歳で、二マイレ超えたんだって……?』
『見ろよ、あの筋肉。何をどうしたら、あんな身体になるんだ……?』
うるせえよ、雑魚共。
『エンロカクよ。賊を相手にあれだけの大立ち回り。全力で暴れ、気が晴れたろう? しばらくは、大人しくしていてもらいたいのだが……』
全力? 馬鹿言え。出す前に死にやがったんだよ。まるで物足りねえ。
『化物だ』
『人間じゃない』
うるせえ。お前らが弱いんだ。
「……――、ああ……」
何も考えず、子供のように。全力で、思いきり、暴れたいだけだったのだ。そのうえで拮抗した闘いが、したかったのだ。
軋む肉体に刻まれた傷が、痛みが、思い起こさせる。
ひりつくような脚の痛みが、潰された鼻が、あの黒髪の少年を。
重い身体が、飛んだ記憶が、アケローンの末弟を。
そして――分かたれた肉体が、もはや動かぬこの身が、突然現れた赤髪の青年を。
太い唇に、これ以上ない笑みを浮かべ。
「……ハ、んだァ……そりゃ……よ…………」
――何だよ。充分に楽しめたんじゃねえか。楽しみを探してたはずなのに、楽しかったことに気付かねえなんざ……間抜けにも程がある。
ああ、今のヤツなんてもったいねえ。万全の状態で当たれたなら、どんなに楽しめたことか。だってよ、羅劫颪を凌ぎやがったんだぜ。ちくしょう、下らねぇ調整なんざするんじゃなかったな……ってぇのは言い訳か……。
それでも。
たまらねえ。
ああ、楽しかった。
やや惜しみつつも。生まれてこの方、満たされることのなかった己の中の何か。そこに、味わったことのない充足感が広がっていくのを覚えながら。
エンロカク・スティージェの思考は、静かな深淵の底へと沈んでいった。




