231. 暴力の世界
(……久しいな、この森も)
林道を駆けるドゥエンは、周囲の景色を眺め胸中で独りごちた。
今にも何かが飛び出してきそうな、濃密な気配漂う暗き森。三年ぶりに入庭したこの聖域は、時が止まったかのように当時と変わりなく見える。もっとも、厳重な管理によってそう保たれているのだが。
(……さて)
疾風のように走り抜けながら、男は思惟を巡らせる。
ついに、この手でエンロカク・スティージェを始末する時がやってきた。
結果として、エンロカクの思惑通りになったと考えるべきか。もっともどちらにせよ、暴走したあの男を早急に止めねば、武祭は台無しとなる。
正直な話――突入許可が下りたのは、ドゥエンにとっても好都合だった。
エンロカクは元より、自らの手でダイゴスを捜すことができる。
(あの馬鹿者め。消耗度合いによっては、離脱させる。……無理矢理にでも、な)
折り曲げられたドゥエンの指が、ぱきりと音を立てた。
ようやく下った突入指令。保守的な『千年議会』にしては、これでも素早い決断だったといえるか――
(……)
ふと、巫女の顔が脳裏をちらついた。
毅然とした態度で国長を代弁したあの少女。この異例といえる決断の早さも、彼女が何らかの意見を主張してのことなのか。
「!」
刹那、思考と足を止められた。
その原因は、横合いから迫る朱色の光。木々の合間を縫い、赤熱する火球がドゥエン目がけて飛来していた。首を傾けるのみでこれを躱し、発生源へと視線を向ける。
「ちっ、避けやが……えっ!?」
茂みから顔を出した狙撃主の男は、ドゥエンの姿を認めて慄然とした。
「ドゥエン・アケローン……!? な、何であんたが……!?」
ふむ、とドゥエンは己の姿を見下ろす。稽古着の下衣と、袖なしの上衣。普段通りの装いだが、今は天轟闘宴の最中であり、この場は『無極の庭』。白装束でもない以上、他の参加者と間違って襲われても文句は言えないだろう。急な話だったとはいえ、これはこちらの落ち度だな――と覇者は納得した。
軽く一礼し、ドゥエンは男へと語りかける。
「失敬。現在、森で少々不測の事態が発生しております。問題解決の為、及ばずながら私が参りました。直ぐさま対応致します故、参加者の皆様はこのまま変わらず天轟闘宴を続行されますよう、お願い申し上げます」
「は、はあ……。ご丁寧に、どうも……」
頭を掻きながら頷く男にもう一度頭を下げ、ドゥエンは再び移動を開始した。
鬱蒼とした獣道を走り続けることしばし。薄暗い木陰を抜け、広々とした青空が視界に入る。
(……拙いな)
ドゥエンは小さく舌を打った。
開けた空に次々と打ち上がる、属性も様々な巫術の煌めき。『打ち上げ砲火』。残り少なくなった参加者たちが出会うために高々と示している合図だが、当然、エンロカクも反応するはず。飢えた魔獣に餌の場所を知らせているようなものだ。
暗殺者はより足を急がせ、木々の合間を影のように駆け抜けた。
「はぁ、はっ、ぐ……ちくしょう、兄貴ィ」
参加者の一人であるガドガド・ケラスは、半ベソをかきながら必死で袋を探っていた。限定三枚のみ支給された、アーシレグナの葉。一枚一枚を細かく切り分け、少しずつ節約しながら使っていたのだが、ついに底をついてしまったようだった。
「く、くそぉ! どうすりゃいいんだよ! このままじゃ、兄貴が……!」
ガドガドの目の前には、血まみれとなった痩せぎすの男が横たわっていた。
ラルッツ・バッフェ。ガドガドの兄貴分に当たる男だった。その全身は傷だらけで、目を背けたくなるようなケガを負っている。とうにリングは外れていた。
「……馬鹿、野郎。俺の、ことは……いい。お前は、早く……逃げろ。奴が、来るぞ」
「やめてくれ! 兄貴を置いてなんて行けねぇ! あいつ、とっくにリングの外れた兄貴を殺そうとしやがった! このまま置いてったら兄貴、殺されちまうよ!」
遡ること十五分ほど。
次々と空高く打ち上がる神詠術に気付き、二人は思わず舞い上がった。
『打ち上げ砲火』が始まるまで生き残れた。つまり、残り人数はかなり少なくなっている。そのうえ、この砲火のおかげで敵の居場所が分かるのだ。このままさらに人数が減るまで身を潜め、上手く立ち回ることができたなら、まさかの優勝も――
などと、浮かれていたせいもあったのだろう。
ばったりと、その男に遭遇してしまった。
『打ち上げ砲火』が始まったことで、敵の居場所を掴んだ気になっていた。自分たちと同じように、砲火を上げず行動する者がいる可能性を見落としていた。
そも、この『打ち上げ砲火』自体、いつしか常連たちの間で始まった暗黙の了解でしかないのだ。義務でもないうえ、下調べをしていない初出場の者などは知らなくてもおかしくはない。
結局のところ。
油断したほうが悪いのだ、と。
山賊時代、敗者に対して散々言い捨ててきたそんな台詞が、そのまま自分たちに跳ね返ってくることとなった。
ここまで直接的な戦闘は避け続け、漁夫の利に徹し、体力を温存し続けていたラルッツとガドガドだったが、目の前に敵が現れてしまったとあっては仕方がない。戦闘に自信がない訳ではないのだ。二対一、体力にも余裕はある。返り討ちにしてやる、と意気込んだのだが――
敵は、率直に言って格が違っていた。
茶色いマントに身を包んだ、不精ひげの壮年男。正直、顔だけを見ればどこにでもいる日雇い労働者のようにしか見えず、何ら脅威を感じるものではなかった。単純な見た目だけで勝てそうだと判断してしまったことも、また慢心だったのだろう。
しかし当然というべきか、この後半戦まで生き残っている参加者。『まとも』であるはずがなかったのだ。
ガドガドを庇ったラルッツが深手を負わされ、万に一つも勝機はなくなった。
幸いにしてガドガドの神詠術は高速移動に特化したものであったため、瀕死のラルッツを連れた状態でも一か八か虚を突いて逃げおおせることができた。
しかし二度、同じ手は通用しないだろう。
もし追いつかれてしまえば――
「ちくしょう、兄貴の……血が、血が止まらねぇよ……!」
顔、胴体、腕、脚……およそ無傷の箇所がないほどに創傷を負っているラルッツだが、殊更にひどいのは右腕だった。ぐずぐずに痛ましく裂け、服の裾を破って包帯代わりに巻きつけても、あっという間に赤く染まってしまい全く効果がない。このままでは――
途方に暮れたところで、背後の茂みがガサガサと音を立てた。
「……ひ!」
ガドガドは跳ね上がりながら振り返る。
こんなに早く追いつかれるはずはない。それとも、他の参加者か。頼む神様、白服であってくれ――と願いながら、揺れる枝葉を凝視した。
しかし、
「……ち、くしょう……ちくしょうがあぁっ!」
現れた相手は白装束ではなく。
ガドガドは、神に祈ることを諦めた。
「……ち、くしょう……ちくしょうがあぁっ!」
遭遇した相手が親の仇でも見つけたかのような叫び声を上げたため、流護は少したじろいでしまった。
その男は涙すら流して、ただならぬ気迫で睨みつけてくる。
不精ひげを生やした悪人面の、やや太り気味な小男。中年男のようにも思えるが、顔つきは若干幼さを残しているようにも見え、また声も若々しかった。この世界では珍しいことに、その背丈は流護より低いかもしれない。
その後ろには、同じく疎らなひげを生やした細身の男が血にまみれて転がっていた。首にリングは巻かれておらず、まさに虫の息といった様相を呈している。一刻も早い処置が必要なのは明白だった。
「……、」
その惨状を目にして、流護は思わず眉をしかめる。
――あれはまずい。急がなければ、手遅れになる。
「兄貴は……死なせねぇっ!」
倒れている男を背後に庇い、ナイフを抜き放ち、ひげ面の小男は歯を剥き出して威嚇してきた。
流護は両手を上げ、なだめるように語りかける。
「待った待った。兄貴って、その後ろの人のことか? リングも外れてるみてーだし、何もしねえよ。つか、こんなことしてる場合じゃねえだろ。早く処置しねえと……やべえぞ、その人」
「な、なんだよ、あんた……」
「何って、そりゃただの参加者だよ。殺し合いしにきてる訳じゃねぇんだ。まず、その人の治療を優先しねえか? そのケガはやばい。こんなことしてる場合じゃねえって。まじで手遅れになっちまうぞ」
所詮は見ず知らずの他人。流護にしてみれば、こんなことを言う義務も義理もない。だがやはり、こんな状況に出くわしてしまった以上、見捨ててしまうのはあまりに後味が悪かった。
しかし、
「し、信用できるかってんだ。油断させようったって、そうはいかねぇぞ」
ひげの男は警戒を解こうとしない。
何という皮肉か。死なせないと言いつつ、立ちはだかるその行為こそが、瀕死の男の寿命を刻一刻と縮めている。
とはいえ今は、何でもありの潰し合いの真っ最中。ごく当たり前の反応ではあった。
……が、あの出血量。一刻を争う。やや苛つきを滲ませたように、流護は言い放つ。
「あのな、ちょっと落ち着いて考えてみろよ。俺がその気なら、とっくに仕掛けてる。あんたはその後ろの人を庇いながらとなりゃ、それだけで不利なんだ。大体俺には、こんな押し問答する理由なんてねえ。ここから術を叩き込めば、それで終わりにできるんだぜ」
当然ながら神詠術など使えない訳だが、そこは嘘も方便というものだ。
「う……」
「早くした方がいい。アーシレグナの葉は?」
「も、もう全部使っちまったよ……」
「……よし、分かった」
わずか迷った流護だったが、決断した。
処置をするにも信用を得るにも、こうするのが一番早い。
背負っていた袋から、アーシレグナの葉を取り出した。流護が所持している、最後の一枚。そんな大振りの緑葉をひらひらと掲げ、
「これで治療しよう」
やんわりと、説得するようにそう言った。
「へ……?」
小太りの男は思わずといったようにポカンとする。
流護自身、重々自覚していた。
支給された三枚限定の回復アイテム。一枚は自分で使ったが、一枚は名前も知らない若者に使っている。そうして残った最後の一枚を、またしても見ず知らずの他人のために使ってしまうなど、いくら何でも甘すぎる。
「……じゃ、さっさとやっちまうぞ」
とはいえ、死にかけている人間を助けることの何がおかしいものか。自分にそう言い聞かせ、未だ現代日本の感覚を持ち続ける少年はケガの処置に取りかかった。
「……、誰、だ……」
「喋らんで、じっとしててくれ」
血まみれのまま警戒した目を向けてくる男の前に跪き、ざっと状態を確認する。
……刃物で斬りつけられたような切創が多数。大小様々な赤い線が、全身におびただしい痕を刻んでいる。
(……ひでぇな。釘バットで殴られたって、こうはならねーだろ……)
どんな攻撃を受けたらこうなってしまうのか気になるところではあったが、とにかく優先すべきは右腕の処置だ。上腕の内側を深く抉られており、とめどなく血が溢れ出していた。おそらく動脈が傷ついている。このままでは失血死してしまう。
「一人じゃ間に合わねぇ。……ほれ、あんたも頼む」
「お、おう……」
葉を中央から二つに割き、小太りの男へ手渡した。
流護は右腕の対処に専念し、小男はその他の傷口に葉を宛がっていく。
――ほどなくして、
「……にしても、アーシレグナの葉っぱってすげぇよなあ。こんな早く血が止まっちまうんだから。縫合する必要すらなさそうだし。まあ、一時的なものではあるんだろうけど」
流護はそう呟き、大きく安堵の息をついた。見るも無残な状態だった男の出血は止まり、今は安らかな寝息を立て始めていた。予断は許さないが、すぐに適切な治療を受ければ助かるだろう。
そういった点を伝えると、小太りの男は安心からかその場で泣き崩れてしまった。
「兄貴ィ……よかっだ、よがっだよ、ちくしょう……!」
涙を拭いつつ、そのまま流護へ土下座した。
「あんた、本当にありがとう……! この恩は一生忘れねぇ! なぁあんた、是非とも名前を教えちゃくれねぇか!?」
「え? 有……、リューゴ・アリウミだけど……」
「俺っちはガドガド・ケラスってんだ! あんたが助けてくれたのはラルッツの兄貴! あんたのことは、リューゴの兄貴と呼ばせてくれ! 自分のアーシレグナを使ってまで……すげえよ、あんたぁ漢だ! 本当に……本当に、ありがどう……! ぅおぉぉ――い!」
ひげ面を歪め、ガドガドと名乗った男はおいおいと泣き出した。感謝されるのはいいのだが、流護としては何ともむず痒くなってきてしまう。
「いや、まあ……それよりさ、まだ完全に治療が済んだ訳じゃないし……早く、連れ出した方がいいっつーか」
そう笑いかけたところで、
「茶番……だねぇ~~」
ざらついた第三者の声が割り込んだ。
「!」
不揃いに乱立する木々の群れ。距離は十五メートル程度か。木陰が闇のような影を落とすその一角で、傾いだ木に身を預けて立つ男が一人。
不精ひげにまみれた顔から推し量れる年齢は四十前後。卑屈そうな中年男といった印象だが、特筆すべきはその瞳。妙にぎらついており、危険な雰囲気を醸し出している。その身は茶色いマントに包まれており、体格は一見して分からない。
「あ……あいつだぁ!」
ガドガドが悲鳴にも似た声を絞り出した。
「ラルッツの兄貴をこんな目に遭わせたのは、あいつなんだ……! 見つかっちまったぁ……!」
マントの男はくつくつと笑い、
「ちびっけぇ黒髪の兄さんよ。お前さん……どっか、ドでけぇ宗教団体が抱える期待の聖人とか、そういう奴なのかねぇ~?」
ぴっ、と流護を指差し、心底小馬鹿にした口調で言う。
「はあ?」
「関係ねぇ赤の他人にアーシレグナ使うなんてさ、初めて見た訳よ、そんなお人好しは。何か? そういった偽善で、奇抜な賞の獲得でも狙ってんのかねぇ~?」
「いや、別に」
「だよなぁ。ここには鏡もねぇから誰も見てねぇ訳だし……それじゃあ、ただの良い子ちゃんじゃないの。気に食わないねぇ~」
「俺はてめーの喋りの方が気に食わねーんだけど。性犯罪の常習者みてぇなツラしやがって、つか何で俺に話しかけてんの? こら事案発生ですわ」
挑発は伝わったのだろう。
ばじゃあ、と耳障りな音が大気を割った。
それは、氷。
形状は、鞭――というにはあまりに太い。例えるならば、触手だろうか。リーチは二メートル程度。しなやかで太い、蒼氷の得物。
男の右腕に、でろりと波打つそんな神詠術が現界していた。柔軟性など皆無な硬い氷で構成されているはずのその武器は、驚くほどしなやかに穂先を揺らす。
さらに――かちかちかち、と硬質の音が連続する。男の周囲に漂う白靄が触手へと集束し、次第に固まっていく。氷でできた触手の表面に、長短様々な突起が形成された。不揃いで無秩序な乱杭歯は、ひどく暴力的な印象を与えてくる。
(……触手プラス釘バットかよ。また悪趣味っつーか……斬新な武器だな)
流護としてはそうとしか表現できない、異質な得物だった。
「あ、あれだ……ラルッツの兄貴は、あれを食らって……!」
ガドガドが怯えきった声を震わせる。
「……なるほど」
触手の表面をびっしりと覆う、凹凸に富んだ氷の棘。これならば確かに、一撃であの痛ましい傷を負わせることができるだろう。
「おじさんはさ、コレでビシッ! とブッ叩くのが好きでねぇ~。打撃と斬撃の感触が同時に味わえる、便利な得物さぁ。歳のせいかな……あんまり手応えが良いとさ、ちょっと出ちゃうんだよねぇ~、……ピュッ、って。へっへ」
「性犯罪者みたいなツラしてると思ったらガチじゃねーか」
口の端を引きつらせつつ、しかし少年は拳を鳴らしながら前へ進み出る。
「リューゴの兄貴ィ! だ、だめだ! その野郎はやべェ!」
もう兄貴で確定なんだ……と苦笑いしつつ、
「っても、この変態親父が見逃してくれるとは思えねえし……俺も一応、優勝を狙ってるからな。一丁、コイツにはここで脱落してもらうってことで」
敵を見据えたまま、少年は深く息を吸い込んだ。
(…………)
油断なく辺りを見渡し、ドゥエン・アケローンは静かに考えを巡らせる。
風にさざめく静かな森の風景。この場にあるのは、深緑の木立と――首のない二つの死体、そして原型を留めぬほどに破壊し尽くされた赤黒い肉塊。
黒水鏡に捉えられた殺戮劇、その現場までやってきたドゥエンだったが、当然ながらエンロカクの姿はすでに消え失せていた。
(さて、何処へ向かったか)
本来であれば水分の補給を念頭に置いて行動するエンロカクだが、今やあの男は理性を失っている。驚異的な回復力を有しているとはいえ、即座に全快するようなものではない。瀕死の状態であることに変わりはない。
(であれば……)
本能で動く獣さながら、『打ち上げ砲火』に導かれるまま次の獲物の下へ向かったと考えるのが妥当だ。そのうえで疲れきった身体を引きずってとなれば、起伏に富んだ歩きにくい地形を通ることは避けるはず。
(……此方か)
その条件に合致する道は、一つしかなかった。平坦な草むらに踏み入り、ドゥエンは足を急がせる。行く先の短い草は横倒しに踏みつけられているものがあり、点々とした血痕も残っていた。土に残された足跡の大きさ、歩幅からもあの男のもので間違いない。推測は的中していたようだ。
(…………)
間違っても今のエンロカクを、ダイゴスと出遭わせる訳にはいかない。
あの『魔剣』は闘争本能に突き動かされるまま、己に深手を負わせた相手を探し求めているはず。ダイゴスとて、あの怪物と干戈を交えて無事でいるはずがない。一度でも勝てたことが信じられないのだ。二度、奇跡は起きない。
こうして森を行くうちに自分がダイゴスと出会い、安否を確認できれば最良なのだが、そう都合よく事は運ばないだろう。
まず優先すべきは、あの忌まわしき魔剣の排除だ。
……が、やはり思わずにはいられない。
(あんな女の為に、馬鹿げた真似を……。全く、手の掛かる弟だ……)
苛立ちに胸を焦がしながら、長兄は風となって林を疾駆した。
「!」
やがて枝葉の隙間から、『打ち上げ砲火』の疎らな煌めきが視界に入り始める。
(……宜しくないな)
本来であれば選手同士が互いの居場所を知らせ合う『打ち上げ砲火』だが、今は理性を失ったエンロカクが徘徊しているのだ。あの怪物に餌の所在を知らせてしまう自殺行為に他ならない。が、
(利用させてもらうとしよう。向かうか)
砲火に反応し、エンロカクが釣られるならば好都合ともいえる。残された足跡に目を凝らさずとも、遠からず追いつけることになる。
ドゥエンは行き先を変更し、最寄りの砲火が上がった地点へと足を急がせた。
『ああ、また……』
脱落者を知らせる音が鳴り渡り、シーノメアが落胆の声を震わせる。
本来ならば参加者が次々と減り、いよいよ優勝候補が絞られてくるか――と盛り上がりを見せるはずの後半戦。しかし、会場は沈んだ空気に包まれていた。
『ブ、ハハ、ハハ ハ ハハハハ、ハ』
轟くのは、悪魔のような哄笑。為す術なく倒れ伏した戦士。返り血を浴び、身を震わせて笑う黒き巨人。
規定を踏みにじり暴れ狂うエンロカク・スティージェによって、参加者がまた一人その命を奪われた。
『……、』
言葉を失う音声担当、ざわめく観覧席。
止まらぬ惨劇を前に、ようやく誰もが予感し始めていた。
――このままでは。天轟闘宴そのものが潰される、と。
『ドゥエンさん……早く来てくださいようっ……』
弱々しいシーノメアの声に答える者は、この場にはおらず。
『ブハ、ハァハ ハハハハ、ハハハ』
狂ったように響く壊れた巨人の笑い声のみが、三万の観衆の耳を打つ。
黒き怪物は、次の獲物を求めて暗き森を彷徨い歩く。
「警備隊長殿! 南西部、兵の配置が完了しました!」
「よし。他は?」
「北と東が、もう十分ほどを要するかと思われます!」
「そうか。各員、森から注意を逸らすなよ。奴を人と思うな。猛獣や並の怨魔すら上回る化物と思え」
「は、はっ!」
(やはり……こうなって、しまったか……!)
今年十四年目となる熟練の警備隊長は、万が一の事態に備え、森の周囲に兵を展開しながらも嘆息した。
――そして、いつしか。
(リューゴ……ダイゴス……っ)
無意識に拳を握りしめ、戦局を見守る少女騎士も。
(大吾さん、流護くんっ……お願いだから……!)
組み合わせた両手を胸に、無事を祈る巫女も。
(あの黒ゴリラ……完全に人間辞めてやがる。もう一回となると、さすがに『あれ』は通用しねえはず。またダイゴスと遭遇しちまうのだけは避けてえ……。間に合えよ、兄貴)
端正な口の端をわずかに引きつらせ、手にしたコップを握り潰すアケローンの次男も。
きっと彼らだけでなく、多くの人々がその思いを抱いていた。
彼が。彼女が。あの人が。あのお気に入りの戦士が。自分の賭けているあの選手が。
エンロカクと遭遇しませんように、と。
第八十七回・天轟闘宴。
レフェの聖域たる黒き森は、理性を失った鬼が徘徊する魔境と化した。
優勝者の予想はおろか、無事の終結すら危ぶまれ始めたこの事態。最悪、エンロカクが『無極の庭』から飛び出してくることも想定し始めたのだろう。森の周辺には、物々しい赤鎧を着込んだレフェの兵士たちが集いつつあった。
緊迫した空気が漂ってきたこの局面において――悠々と、黒水鏡を眺める者が一人。
(……フフ)
長い脚を組み直し、男は胸中で笑う。
(確かに強い……けど、滑稽だね。エンロカクさん)
ベルグレッテの右隣に座る、チャコールグレーの礼服に身を包んだ褐色肌の青年。
(井の中の蛙……という言葉がぴったりだよ。どうせ君も……もうすぐ、『奴』に殺されるのに)
哀れむような目で――オルケスター団長補佐、デビアス・ラウド・モルガンティは口の端をわずかに吊り上げる。
エンロカクの姿が鏡から消えてしばし。
観客たちは皆、安堵したような、それでいて不安が増したような、とかく複雑な表情で鏡を注視していた。エンロカクの暴虐ぶりを目の当たりにしなくて済むという一抹の安堵。しかし姿が見えなければ、どこで何をしているか分からないため不安でもある――といったところか。
客席にて悠然と戦局を見守るデビアスは、ただ一人、この場の誰とも共通することのない思考をもって鏡に注目していた。
(これまでに二回……か。上出来だ。とにかく、その瞬間を見られるのだけは避けたいね)
幸いにして、今――観客、主催、この場にいる全ての者たちの意識は、エンロカクへと向いている。これが劇なら、彼に名脇役賞を贈呈したいところだな、とデビアスは心中でほくそ笑んだ。
(さて……そろそろ頃合いだ。観客の皆さんに、更なる驚きを提供しようじゃないか。あんな偽物の鬼じゃない。本物の鬼の出現を、ね)
舌で唇を湿し、誰にも悟られることなく紳士は嗤う。
(もう終わりでいいぞ、チャヴ)




