230. 巫女と雷神
武祭が台無しになるぞ、早急にドゥエンを投入し奴の排除を。しかし明らかに十年前よりも強い、ドゥエンに万が一の事があれば……。そんなことを言っている場合か、一刻も早く――ええい、こんな時にカーンダーラめは何処へ消えたのだ!
そんな喧々囂々とした老人たちのやり取りが、どこか遠く聞こえる。
「……………………」
雪崎桜枝里は、ただ放心していた。
参加者が無残に首をもがれようと、白服が風船のように弾けようと。感情のない人形みたいに、ただ黒水鏡を見つめていた。
――どうして。
大吾さんが、勝ったのに。
終わったんじゃ、ないの? どうしてあのエンロカクは……まだ、あそこにいるの? なんで、平然として闘っているの?
「……、」
桜枝里のすぐ後ろでは、掴みかからんばかりの勢いで老人たちが激しく議論を交わしていた。国長カイエルを含めた、『千年議会』の重鎮たちである。
すぐさまドゥエンを向かわせ、エンロカクを排除すべきだ。いやドゥエンにもしものことがあっては困る、まだ様子を見るべきだ。
噛み合いそうにない平行線。今こうしている間にも、エンロカクは次の獲物を求めて彷徨っているのだろう。
「……――」
もし……もし再び、ダイゴスや流護がエンロカクと出遭ってしまったら。二人とも、もう限界が近いはず。
何より。
あのエンロカクは、とうに脱落者として名前が消えている身。こんなこと、許されてたまるものか。
ダイゴスも、流護も。約束通り、あの怪物と闘ってくれた。そして、無事でいてくれた。勝利を掴み取ってくれた。それなのに。――それなのに。
(……け、……いでよ)
ここで、初めて。
(ふざけ……ないでよ……っ!)
桜枝里の心に、恐怖以外の感情――抗いの精神が、怒りが火を点けた。
(いい加減にしてよっ……!)
拳を握りしめ、机に叩きつけ――そうになったのを、すんでのところで堪える。
次々と降りかかる凶事、理不尽な状況。自分ではどうしようもないことばかりの現実に、今まではただ受け身でいた。
(でも……っ)
一歩、踏み出す。そんなどん底の現状を悲嘆するだけでなく。
(もう……、もうたくさん……! 今度は……、今度は、私が!)
少女は席から立ち上がった。
机上に置かれている金色の杯を荒々しく掴み取る。兵士が飲み水を入れて渡してくれたものだった。少し口をつけた程度で、まだ中身は並々と残っている。
派手な意匠の施された、豪華な器。高価かつ、特殊な巫術の力が込められた品なのだろう。器はこの暑さの中でもひんやりとしており、水も冷たく保たれていた。
「ふんっ!」
気合一声。桜枝里は杯を両手で高々と掲げ、勢いのまま逆向ける。そうして、頭から冷水を引っ被った。
「サ、サエリ様!? な、何を……!」
さぞ驚いたのだろう。慌てて駆け寄ってくる兵士を、桜枝里は「大丈夫です」と静かに押し止めた。
(――よし! しゃっきりした! いけ、私!)
真夏の炎天下に加え、三万人の熱気が篭もったこの会場。冷たくて気持ちがいいぐらいだ。
ぴしゃりと己の両頬を叩き、濡れた前髪を払い、終わることのない言い争いを続けている『千年議会』の面々の下へと歩み寄る。
「あの、よろしいでしょうか」
割って入る形で声を投げかければ、老人たちが一斉に血走った瞳を向けてきた。相手が桜枝里――巫女だと気付き、殺気立った空気がにわかに薄まる。
「サエリ……」
唯一、穏やかで意外そうな目を向けてきたのは国長カイエルだ。
被せるように、小太りの老貴族が甲高い声を響かせる。
「何用ですか、巫女殿――、なぜ、そのように濡れて……?」
わずか困惑した老貴族だったが、気を取り直したように続ける。
「ともかく。申し訳ありませぬが、今は立て込んでおりまして」
抑えてはいるものの、苛立ちは明白だった。この緊急時に小娘の相手をしている暇はない、と言いたいのだろう。
「把握しております。そのうえで、僭越ながら意見させていただきます。この現状……ただちに、ドゥエン殿に対処していただくべきかと」
きっぱりと桜枝里が言い放てば、『千年議会』の面々はざわついた。当然ながら賛同する者と反対する者で、それぞれの声が上がる。
「巫女殿! 万に一つもドゥエンを失ってしまう訳にはいかんのですぞ! 分かっておいでか!」
すぐさま、赤ら顔の老人が食ってかかる勢いで異を唱えた。
「存じております」
桜枝里が静かに返せば、男はさらに顔を赤くして言い募る。
「ならば、下がっていて頂けますかな! ドゥエンの奴めは、唯一無二……替えの利かぬ、我が国の至宝なのですぞ! 貴女と違――、いえ、とにかくですな、」
失言したとばかりにどもる老人だったが――
凛と。桜枝里は、表情ひとつ変えず首肯する。
「仰る通りです。ドゥエン殿は、私のようなすげ替えのきく小娘とは違います。比べるべくもありません」
真っ向から視線を結べば、老人のほうが気まずそうに目を逸らした。桜枝里は清冽ともいえる声音で言い連ねる。
「ドゥエン殿はレフェの最高戦力。ここであの方を動員し、不慮の事態に陥るようなことがあってはならない。絶対に失うわけにはいかない。そんなことがあれば、国力の低下にも繋がりかねないから。それは、私にも理解できます」
では、と桜枝里は顔を横向ける。皆が、釣られてそちらへと目をやった。
そこにあるのは、大きな横長の黒水鏡。桜枝里や国長、この場にいる者たちが利用しているものだ。先ほどの惨劇から一転し、今は静かな森の風景がいくつか分割して映し出されている。
桜枝里は一同を見渡し、試すように問いかけた。
「このままエンロカクの処置に手間取っていた場合……どうなると思われますか?」
戸惑う空気が流れたが、やや間を置いて、厳格そうなひげの男が重々しい口調で答えた。
「エンロカクとて、『不死者』などと呼ばれてはいるが……そこは人の子。今は暴れ狂ってこそおりますが、これまでにない深手を負っている状態。いわば瀕死の獣です。このまま闘い続けていれば、いずれは自ずと力尽きるはず。ドゥエンを出すまでもない。エンロカクを消し去る絶好の機会とも言えましょう」
「ですが……それまでに参加者や白服含め、どれだけの犠牲が出るでしょうか?」
「……それは……気が進みませんが、必要な犠牲として切り捨てる他ありますまい。ドゥエンの価値と比較しても、致し方ない事です」
「では……今回は、それで事態が丸く収まったとしましょう。ですが……次回、どうなるとお思いですか?」
「次回……ですと?」
意図を掴みかねたのだろう。会話のやり取りがそこで止まる。そして、桜枝里は『未来』の話に言及する。
「不測の事態もまた一興とされる天轟闘宴ですが、今起きていることはそういった次元で済まされる話ではありません。とうに資格を失った者が好き勝手に暴れ、それが野放しになっている、という状態です」
規定の穴を突いて際どい手段に訴えることや、見つからぬよう反則行為に及ぶなどといったこととは訳が違う。もっと根本の部分で、守られるべき前提が堂々と踏みにじられている。そしてそれが、のうのうと放置されている。
「この現状を皆が目の当たりにして……果たして次回の天轟闘宴、人は集まるでしょうか?」
参加者としては、高い金を払ってまで危険な闘いに身を投じるというのに、そもそも主催側に規定を守らせる力がない。観客たちも、ルール無用の殺し合いを見にきた訳ではない。暴走する資格なき者、それを止められぬ運営。事情を知らぬ三万名の瞳には、そうとしか映らない。
淡々と、少女はそう説いていく。
「こんなことがまかり通れば、間違いなく人は離れます。今後、天轟闘宴は廃れていくでしょう。未来視の力を持たない未熟な私ですが、それだけは確信を持って言えます」
桜枝里はきっぱりと断言した。
あまりに堂々とした態度のためか、しばし場を静寂が包み込む。
日本人の少女ですら少し考えれば分かる、想定し得るこれからのこと。
非常事態に動転しているゆえか、はたまた最初から能力がないのか。それとも意見した結果、自分が責任を負うことになるのが嫌なのか。エンロカクについて詳しいカーンダーラが不在であることも、なかなか結論を下せない一因だろうか。
ともかく、決定打に欠けて平行線が続く『千年議会』たちの議論を終わらせるため、桜枝里は自らが契機となるべく切り込んだ。
「し、しかしですな……それは、巫女殿の個人的な見解であって――」
「よい」
なお返そうとする異論派を、一人の老人が遮る。これまで静かに成り行きを見守っていた、国長カイエルその人だった。
「ドゥエンを出せば、奴を欠き、国の戦力低下を招く恐れがある。逆に出さねば、天轟闘宴の質が問われ、国の収益低下に繋がる恐れがある。つまり現在……どちらにせよ、国に悪影響が出かねん状況下に置かれている。そういうことじゃな、サエリよ」
その要約に、巫女は「はい」と頷く。
「ならば、選択の余地など無きも同然。ドゥエンを向かわせるぞ」
迷わず断じた国長の言に対し、またも周囲の老人たちが騒がしく声を上げ――
「黙らっしゃいッ! ええ加減にせんかッ!」
鋭く響き渡ったのは、国長カイエルの一喝。場が水を打ったようにシンとなった。
(……、び、びっくりしたぁ)
桜枝里も内心、思わず飛び跳ねそうになってしまっていた。いつも温厚で、ともすれば弱々しくも感じる老人の、力強い一声。国長がそのように叱責を飛ばすなど、思ってもみなかったのだ。
そこでさらに、国長は唐突な問いを投じる。
「魚料理が旨いと評判の店へ行き、粗悪な肉の塊が出てきたとしよう。しかもそれは、ザルバウムの肉じゃった。ほれ、お主ならどうする」
「え……、はっ?」
矛先を向けられた老貴族がうろたえた。動揺しながらも、謹直に受け答える。
「ザルバウムなど……冗談ではありませぬ。二度と、そのような店には行かぬでしょ――、あ」
「そういうことじゃ」
頷き、国長は一同へ視線を巡らせた。
「この場に集いし三万もの人々は、戦士たちの競い合いを見に来ておる。決して、図体ばかり大きな戯け者の残虐ショウを見に来た訳ではない」
言い放ち、視線を外向けた。高台に設けられた王族観覧席からは、遥か下方にある客席の様子が見渡せる。桜枝里の位置からざっと眺めただけでも、数千は下らないだろう人波が確認できた。
「よいか。現状、金を返せと暴れる者が出てきてもおかしくない局面じゃと余は思うておる。しかし見よ、あの観衆たちの姿を。今もああして、席を立つことなく鏡を注視しておる。それは何故か」
妙に活力の宿った瞳をぎらつかせ、国長は断言する。
「期待しとるんじゃよ。どのような形で、あのエンロカクが制裁を受けるのか。好き勝手やっておるあの戯けが、どのように排除されるのか」
言葉に熱が篭もり、饒舌さを増していく。
「第一お主ら、悔しくはないのか? 腹立たしくはないのか? 思う侭に振る舞いよる、あの痴れ者めがっ……、ぶ、ごほっ、」
感情の昂ぶりが身体に障ったのか、国長は激しく咳込んだ。支えようとする兵士たちを押しのけ、なおも熱弁を振るう。
「思うたことはないか? レフェ最強の両翼と呼ばれた、ドゥエンとエンロカク。果たしてどちらが上なのか? この二人が激突したならば、一体何が起こるのか?」
兵から渡された水を一口含み、秘密を暴露するような口調で語る。
「余とて、若かりし頃は武の修練に明け暮れた身。国長という立場から口にはせんかったがな、常々思うておったよ。奴らは……どちらが上なのか、とな」
国長カイエルはかつて、弓の家系に属する戦士だったと桜枝里は聞いている。しかし術者としては凡庸の域を出ず、より秀でていた政の道に進んだという。
そうして無心に働き続け、気付けばこの国を率いる王となっていた。国長といえば聞こえはいいが、必ずしも絶対的な権力を持っている訳ではない。国長自身も飽くまで為政者集団『千年議会』の一員であり、意向に沿わぬ決に同意せざるを得ないこともある。
『肩書きは立派なんじゃがな。存外、損な役回りじゃよ』
酔っていたのだろう。ある夜、赤ら顔の国長と廊下で偶然出会い、少しばかり立ち話に興じた際。そんな風に零していた老人の疲れきった顔が、桜枝里の脳裏に強く残っていた。
さて。
それは果たして――国長としてなのか、『千年議会』の一人としてなのか、元戦士としてなのか。
「ここでドゥエンを投入してみよ。冷めかけとる観衆たちは、瞬く間に熱気を取り戻すぞ。投入の頃合いとしては、まさに今が旬じゃろう」
まるで黒い取引を持ち掛けるように、カイエルという国の長はニタリと笑った。
「……そ、そうは言いますがな、国長。それでもし、ドゥエンを失うような事態になれば……」
未だ首を縦に振らない一人に対し、国長はふんと鼻を鳴らした。
「その時は、責任取って国長なんぞ辞めてくれるわ。ドゥエン一人が死んだ程度で傾く国ならば、元よりそう長くもたぬじゃろうよ」
暴言に等しい発言だったに違いない。またもざわつく『千年議会』の面々だったが、国長は無視して通信の術式を紡いだ。
「どうした。反対する者は、力づくで止めてもよいぞ。なぁに、無礼講じゃ。折角の天轟闘宴、余らも盛り上がっていこうじゃねぇか。文句のある奴ぁかかって来いやぁ」
波紋を展開しながら、ギョロリと血走った目を巡らせる。貴族たちは怯んだように視線を逸らし、その言葉に乗る者は皆無だった。いかに老いたとはいえ、国長は元々『十三武家』の詠術士である。兵の付き添いがなくてはこの観覧席への階段を上ることすら困難な為政者たちに、どうこうできるはずもない。
通信を飛ばして間もなく、
『……こちら、ドゥエンですが』
すぐさま温もりのない声が応答する。
「うむ、ドゥエンよ。余じゃ――、が、げふ、ごほっ」
興奮しているためだろう、またも国長が激しく咳込む。
『国長? 如何されましたか。ご無理はなさらぬよう』
本当に気遣っているのかと思うほど冷淡な声。一刻も早くという思いもあってか、桜枝里は自分でも驚くほど迷わず、宙に浮かぶ波紋へと駆け寄っていた。
「ドゥエンさん。私です、桜枝里です」
『!』
冷淡漢ともいえる男が漏らした、明らかな驚きの吐息。彼といえど、全く予期していなかった相手に違いない。一瞬、少しだけ気分が晴れた自分を小さな人間だと自己嫌悪しつつ、桜枝里は簡潔に用件を伝える。
「ドゥエンさん、国長からの要請です。エンロカクの阻止に向かっていただけませんか」
『……国長。それは真ですか』
「う、むぐっ、げふっ」
「本当です。私の言葉では信用できませんか?」
『いえ。念の為の確認です。何かの間違いで誤った指示が伝わった、という事では困りますので』
それを信用していないと言うのだろうが、今はそんなことなどどうでもよかった。
「つい今ほど、国長が……」
「ふー、そうじゃ、サエリの言う通りじゃ。ドゥエンよ、お主に命ずる。あの痴れ者を排除せよ。ぶち転がせ。仮にお主がここで奴に殺られるようなことがあらば、国長なぞ辞めてやる。いや、この場で、三万の観衆の前で自害してくれる。負け犬同士、煉獄で一緒に一杯やろうや。それはもう、惨めにな」
ぜえぜえと息つきながら、国長がそう絞り出した。またもかすかに、ドゥエンが息をのむ気配が伝わる。畳みかけるように、桜枝里も追従する。
「私からも、重ねてお願いします。もう……頼れる人は、ドゥエンさんしか……」
都合のいい話、なのかもしれない。結局自分には、何とかできる力なんてものはなくて。形だけの巫女でしかなくて。
桜枝里にできることは――ダイゴスと流護を助けられる手段は、これしかない。ただ、ドゥエンという最強の矛を当てにすることだけ。
『……了解致しました。向かいましょう』
その言葉を聞き、桜枝里は相手に見えないと分かっていつつも頭を下げていた。
「あ、ありがとうございます! ……その、えっと……大吾、ダイゴスさんを……お願いします」
『……サエリ様が心配なさる必要は御座いません』
余計なことを言ってしまっただろうか。明らかに、ドゥエンの声質が低くなった。
桜枝里とダイゴスの関係に気付いているのだろう。この生真面目な長兄にしてみれば、桜枝里は弟にひっつく煩わしい虫という認識でもおかしくはない。
『ちょっ、ほ、本当ですか! よく分かりませんけど、ドゥエンさんが森へ入るのですね!』
そこで響き渡ったのは、音声担当を務める乙女ことシーノメアの声。
「!?」
ハッとして振り返れば、黒水鏡には大きく二分割された場面が投影されていた。解説席――ドゥエンたちの様子と、この場の様子。集いに集った『千年議会』の面々、苦しそうに胸を押さえる国長、そして通信に食らいつくように張りついている桜枝里の姿が、はっきりと映し出されていた。
一体いつからなのか。
今の通信。必死に応答している(びしょ濡れの)桜枝里の姿は、三万名の人々に目撃されていたのだ。――当然、恥ずかしげにダイゴスのことを託した場面も。
(……いっ……、言ってから映してよぉ……!)
全てが終わってから、今さらのように顔を紅潮させる巫女だった。
(サエリ……)
顔を赤くしていながらも、どこか吹っ切れた印象を受ける巫女の姿(なぜか全身ずぶ濡れなのだが、どうしたのだろう)。急に成長したような感じがするその少女を眺めつつ、ベルグレッテは分割されたもう片方の場面へと目を向ける。
音もなく。表情ひとつ変えず立ち上がる、その男。
エンロカクを阻止せよ、などという難題を託された男は、しかし用足しにでも行くかのような何気なさで席を立った。
(レフェ最強の戦士、ドゥエン・アケローン……)
引き締まった身体つきをしてはいるが、決して背は高くなく、弟のダイゴスの後ろにすっぽりと隠れてしまうに違いない。餓狼のような細長い面立ちからは何の感情も伝わってこず、閉じられたように細い眼からは内面を読み取ることもできそうにない。
『け、決定のようですね! な、なんとここで! 暴走するエンロカク選手を止めるべく、ドゥエンさんの投入が決定致しましたあっ!』
シーノメアの通信に続き、地鳴りめいた声援が爆発した。
観客たちの大半はレフェの民である。自国最強の戦士が出陣するとのことで、その盛り上がりはこれまでのどの闘いをも凌駕するものとなっていた。
観衆たちも疲れを滲ませてくる後半戦。エンロカクの暴走からドゥエンの投入までもが、新たな燃料を投下するべく当初から予定されていた筋書きであったかのような――と考えてしまうのは、さすがに穿った見方か。ともあれ誰が決定を下したのかは分からないが、その人物は観客の心理というものを分かっている。
「おや……彼が出てしまうのか」
ベルグレッテの右隣から聞こえてくるそんな声。ちらりと視線を横向ければ、例の紳士が何やら思案顔で顎に指を添えていた。
『では……少々、席を外します』
抑揚のないドゥエンの声が響く。
『あ、あの、ドゥエンさん!』
『何か?』
『お、お気をつけて! ご武運を!』
やたらとかしこまった表情で見送るシーノメアへ向けて、最強の男はニコリと微笑んだ。そうして、軽快な足取りで駆け出す。
数万人を収容できる広大な観覧席。その最後尾付近に設けられた解説席から森までは、かなりの距離がある。その森は大きな川によってぐるりと囲まれているため、南北に架けられた橋から入らなければならない。解説席から森へ入るには大きく迂回せねばならず、まずそのためだけに走っても四、五分を要する――はずだった。
「!?」
どっと沸く歓声。ベルグレッテも思わず目を剥いた。
軽快な走り、と呼ぶにはあまりに速い。次第に加速していったドゥエンは、限界と思われる領域からさらに速さを増していく。ほどなくして、馬に匹敵する流護と同等か、それ以上の速度へと到達した。
さらには、
『ドゥ、ドゥエンさんっ! 前、前!』
シーノメアの焦った通信が響く。
それも当然だ。一直線に走るドゥエンの前方は――川。その幅は三十マイレにも及ぶ。流れにも勢いがあり、とてもではないが迂回して橋を渡らなければ越えられない――
「……っ!?」
ベルグレッテは愕然となった。観客たちからも喝采が上がる。
それはさながら、水切りの石。
速度を緩めることなく川へ突入したドゥエンは、当たり前のように次々と水面を蹴りつけ、かすかな飛沫を残しながら川の上を駆け抜けていく。そのまま沈むことなく渡りきった彼は、変わらぬ速度を維持しつつ黒き森の中へと消えていった。
『いや、ちょ、ええええぇぇ!? ドゥエンさん、水の上を走ってっちゃいましたよ!?』
『奴に掛かれば朝飯前じゃよ』
拍手や歓声が巻き起こる中、ひたすらに動揺するシーノメアをツェイリンがころころと笑う。
ベルグレッテにしてみれば、シーノメアと同じ心境だった。神詠術の噴射力を利用しての擬似的な飛翔、または高速移動という技術は決して珍しくないが、今のは明らかに違う。無論、純粋な武術のみによるものではないだろうが――
「ははは、いや凄い凄い。人は水の上を走れるものなんだね」
隣席の紳士は周囲の観客たち同様、手を叩きながら楽しげに笑っていた。
どういった理屈で可能としたのかは分からないものの、ドゥエンがただ者でないことを示すには充分な演出だったといえる。
――ともかく。これで遠からず、エンロカクは排除されるはず。
少女騎士としては、それまで流護やダイゴスがあの怪物と遭遇しないことを――これ以上、規定に沿わない犠牲が出ないことを祈るばかりだった。




