229. インサニア
炎と氷が絡み合い、爆音にも似た響きを轟かせる。
変則的に振るわれる白氷の鉤爪を避け、掻い潜る。踏み入って業火の刃を振るえば、細くも強靭な脚たちが受け、その軌道をねじ曲げた。それだけに留まらず、下向いている数本の脚が大地を蹴り、人ならざる速度で間合いを保つ。
――興味深い、と。
干戈を交えながら、ディノは胸中で驚嘆していた。
涙を流しながら次々と攻め立ててくるグリーフットという男はあまりに珍妙だが、その技量は驚くほど高く、速く、鋭く、そして巧妙だった。
この男の背中から生えた、五対の氷の脚。これは、『創出』の操術系統に属するものだ。既存の何かを模倣し、形作る系統。剣や斧、槍や盾――といった武装を具現化させるのが一般的だろう。 ディノも例外ではない。明確な武器を思い浮かべている訳ではないが、『獄炎双牙』の二つ名に示される通り、二振りの炎を固定化し、長柄として扱っている。
が、グリーフットは違うのだ。
武器や防具ではなく、生物の身体の一部分を模倣した。ディノはクモのようだと思っているが、実際はどうだろうか。
時には大地を駆ける足として機能し、時には木々の合間を跳び回る脚として機能する。ただの変幻自在な武器ではなく、高い機動力を備えた移動手段としての役割も兼ねている。攻撃術の噴射力を利用して移動する者はいる――ディノ自身も稀に行使する――が、それとはまた異なる生物的な動き。
考えもしなかった、『創出』の――攻撃術の奇抜な扱い方。目から鱗とでもいうべきか、ディノは素直に心を打たれていた。
とはいえ、世の中にはその『創出』の究極系として、意志を持つ怪物のようなものを具現化する使い手すら存在するという。そう考えたなら、生物の一部を模倣する程度はどうということもない。ただ、ディノにはこれまでそんな試行錯誤が必要なかったため、発想も浮かばなかったというだけの話なのだろう。
そういった特徴に加え、グリーフット自身の奇妙な挙動。あるいは逆さになり、あるいはのけ反り、あるいは低く地を這う。その体勢ごとに、氷の脚の軌道もまた大きく変化する。
それらの要素が、振り回される乱撃を極めて常識外れで読みづらいものにしていた。並の者では、数合ともたず叩き伏せられることだろう。
――ぶつかり合う強打と強打、幾度の乱撃を交えて。
「くっ、うぅ……!」
大きく弾かれて後退したグリーフットが、恨みがましげな目でディノを睨めつける。
炎の超越者は――この相手に感銘を受けながらも、全てを的確に分析し、危なげなく捌ききっていた。
「なんという……! つ、強い……! この無力感……絶望感……貴方はまるで、あの日の……あの恐ろしいクモのようだ……!」
「はァ? クモ?」
「それは、僕が六歳の時でした。家の花壇を毎日のように訪れる、美しい蝶がいました。いつしか僕はその蝶がやってくるのを心待ちにするようになり、彼女をエミリアと名付けました」
グリーフットは突然立ち上がって饒舌に語り出した。思わず眉をひそめるディノなどお構いなし、涙する青年はハキハキとした口調で続ける。
「ある暖かな安息日のことでした。花も美しく咲き乱れ、天候にも恵まれたその日。いつものように、僕はエミリアを待っていました。しかしいつまで待っても、彼女は現れません。庭中を捜す僕ですが、やはり彼女の姿はありませんでした……、あっ」
そこで。つっかえた歯車のように、グリーフットの淀みない語りが止まった。
「?」
「ええ、彼女の姿はありませんでした。ありませんでしたとも」
不審に思うディノだったが、涙の青年はすぐさま何事もなかったかのようにそう継いだ。それはどこか、朗読している絵本の嫌いな場面を飛ばしたかのような不自然さで。
「しかし、それは間違いでした。彼女は、すでにやってきていたのです」
歯を食いしばり、グリーフットは首を左右に振る。
「エミリアは……庭の片隅に張り巡らされた、大きなクモの巣に囚われていたのです! 糸に絡め取られ、身動きもできなくなって! 大きく獰猛なクモでした! 無力で臆病な僕は、彼女が……エミリアが無惨に喰われていく様を、為す術なく見つめることしかできませんでした……」
役者のように、激しい身振り手振りを交えながら。青年はそう締め括り、静かにかぶりを振った。
神詠術とは、当人の精神に大きく左右される力でもある。
蝶を食らうクモという、ごく小さな自然界の一場面。そこで目にした捕食者の姿が、強く恐ろしい存在として幼少のグリーフットの脳裏に刻み込まれ、今の能力を獲得する礎となったのか。
ディノにとっては心底どうでもいいことだったが、首を鳴らしながらそんなことを考えた。
「そう……あまりに強い貴方は、あのおぞましいクモを思い出させる……、いや、そうか……!」
ぎり、と。歯を食いしばる音が、ディノの耳まで届いた。
「クモか……! 貴様、あの……時の!」
喉の奥から絞り出す怨嗟。ほとんど白目を剥いた眼光。言うが早いか、グリーフットは凄まじい形相で地を蹴った。
「!」
ディノが「来る」と分かっていてなお、迎撃できないほどの速度。直線的に突っ込んでくることを予想していながら、刹那にして鍔迫り合いへと持ち込まれるほどの接近。
噛み合う氷と炎が軋みを上げる。
(……ナルホド、ねェ)
蹴り足となる『脚』の本数を変えることで、移動速度を変化させることができるのだ。今はより多くの鉤爪が大地を叩き、ほとんど姿が霞む領域での高速移動を実現していた。初見にて、思わず見失ってしまったことも納得できる。
「貴様……、あの時のクモなんだろう!?」
ディノが冷静に分析する間にも、グリーフットは涙を流しながら背中の鉤爪を押しつける。
「答えろ……ッ、貴様だろう! 人に化けて現れたんだな!? 貴様がやったんだろう! エミリアを……貴様、貴様があぁッ!」
血走り、正気を失ったとしか思えない憎悪の眼光。普通であれば、気が狂れた男の戯言――と、まともに取り合う者はいないだろう。
しかし。ディノ・ゲイルローエンは、不敵に笑うのだ。
「――だったら、どうすんだ?」
瞬間。剣戟の速度が、一段階加速した。
「ぉおお、おお、ぉげえええぇ殺してやる! 殺してやるぞ悪魔め! 待っててエミリア! すぐコイツの腹を引き裂いて……君を助け出してあげるからねぇッ……!」
二本の炎柱では十本近い高速の『脚』を捌ききれず、ディノの頬を幾条かの白刃がかすめていく。傷ひとつなかった端正な顔に、細かな赤い線が刻まれていく。しかし。
「どーした? そんなモンか?」
凄まじい乱撃を交えながら、傷を受けながら、わずかに押されていながら、獄炎の支配者は心底楽しげに口の端を裂く。
「あんまチンタラやってっとよ……オメー『も』……喰っちまうぞ?」
「このォォッ……オポォ――! 邪悪の化身がああぁッッ!」
重く激突した一撃により、両者の間合いがかすかに離れた。
美青年の凄絶な形相とは裏腹、周囲の空気が一際に冷え渡る。
「――氷神、キュアレネーよ。矮小なりし僕に、罪深い僕に、その絶大なお力の一端を、どうか――」
グリーフットの卑屈にすぎる祈りとは相反し、顕現した力はこの上ないものだった。
青年の頬から滴った涙の雫が、瞬間的に凍りついて散らばるほどの。
白靄と共に太く長く、『脚』が肥大化していく。急成長を遂げるかのように、凶悪に美しく花開いていく。
「――――氷獄爪閃」
『のわああぁぁ! グリーフット選手の背中から生えてる脚っぽいのがっ……巨大化したあぁ――!』
『ふむ。氏が秘める二つの切り札……その内の一つ、より直接的な方を出してきましたね』
打てば響くようなシーノメアの反応と、どこまでも淡々としたドゥエンの口ぶり。
解説席のこの対比もすっかりおなじみのものとなりつつあるが、
「な……!」
果たしてもう何度目となるか。ベルグレッテは一人の観客として、鏡に釘付けとなる。
(なんて規模の術……!)
あのディノと互角以上の剣戟を繰り広げながら、裏でこれほどの神詠術を練り上げていたというのか。
グリーフットの背中から生えていた白氷の鈎爪が、およそ二倍ほどにその長さと厚みを増していた。
遠方から今の彼の姿を目撃したなら、氷の怨魔と見紛ってしまうかもしれない。
これがかつての撃墜王。西の『ペンタ』、レヴィン・レイフィールドに「背筋が凍った」とまで言わしめたものの正体か――
「ほう……」
ベルグレッテの右隣から聞こえてきたのは、例の紳士の感嘆だ。
「細かい術の練度は、チャヴより上だろうな」
長い脚を組み直し、不敵に微笑みながら続ける。
「とにかく、これで決まるね。勝者が」
それは、数秒先の未来を示した予言だった。
ああ、あの時と同じ。エミリアが死んでしまったあの時と同じだ。
死は悲しい。
こんな風に、彼女は鋭く凶悪な鉤爪に囚われて。
この一撃で死を創り出せば。
また、悲しめる。
それは絶大なまでの死の抱擁。
途方もない規模に膨れ上がった八本の鉤爪が、ディノに覆い被さる形で降りかかった。包み込むように、握り潰すように。
当の『ペンタ』はこれを避けず、二双の炎柱を交差して真っ向から受け止める。耳をつんざく爆音が大気を震わせた。
「……ハッ……!」
あまりの衝撃に、踏みしめたディノの両足が土くれの地面へと埋まり込む。生じた風圧によって、土煙が逃げるように吹き散らされていく。脆い家屋程度なら倒壊するだろう、絶大な爪撃。
「……グ!」
屈強な怨魔にも引けを取らない重撃が、身体強化の施されている『ペンタ』の肉体を確かに軋ませた。バダルエのハンドショットによって穿たれた腹の傷から、止まったはずの血流が溢れ出す。そして同時に、冷気によって凍りつく。
しかし、お構いなし。
耐えきったディノは膝へ力を込めて、
「――オッ……ラアァ!」
全力で双牙を振り上げ、拮抗していたはずの氷の脚をことごとく粉砕した。長大な鉤爪が弾け飛び、融解し、煌きを放ちながら霧散する。
揺らめく炎が、翼のように緩やかな尾を引いた。
「……、……な、ぁ……」
驚愕にその顔を染めるグリーフット。対するディノはやはり笑みを崩さない。
「ハッ、今のがオメーの全力か。悪くねェ一撃だった」
振り上げた両腕の力を緩めぬまま、今度はその勢いを――下へ。
「ひっ」
氷の脚を再展開し、防御を固めた泣き顔の青年へ向かって、
「――ちったぁ楽しめたぜ」
溢れ返る紅蓮の双刃を、容赦なく叩きつけた。
――赤。一面に広がる、朱色。
薄れゆく意識の中で、その光景が甦る。
――よくも。よくもエミリアを。
そうして僕は黒く恐ろしげなクモを、その巣を焼き払った。煙が上がったことで、何事かと駆けつけてきた両親にこっぴどく叱られた。
――だって。仕方ないじゃないか。だってアイツが、エミリアを――
ああ、でも。そもそもどうして、エミリアはクモの巣に引っ掛かってしまったんだっけ?
エミリア。ああどうして、触れさせてくれないの? 僕はただ少し、君に触れたいだけなのに。どうして逃げるの? どうして。どうして逃げるんだ。この――
――。
ああ。そうだった。僕は、自分に都合のいいことだけを覚えていて。自分のやったことを、忘れて――
「…………あ、あ」
蒸し焼きになりそうな熱い白靄の中で。グリーフットは、呆然自失となって立ち尽くす。
吹き散らされ、陥没した大地。押し負け、完全消失した氷の神詠術。叩きつけられた衝撃によって、今にも崩れ落ちそうな身体。全身全霊で防御に徹していなければ、どうなっていたか分からない。
かすかな風に靄が散らされ、対峙する赤き青年の姿が露となる。まるで炎そのもののような――禍々しさと激しさ、美しさを兼ね備えたその男。
「……あ、あ……」
――ああ、とんでもない。クモなどではありえない。むしろ。あのクモの巣を焼き払った炎のような、苛烈たる焦熱の支配者。
紅い瞳を輝かせながら、火の粉の残滓を周囲に舞わせながら、その青年はゆっくりと歩み寄る。
「オメーの技は、イロイロと興味深かった」
そのまま。
止めを刺すでもなく、グリーフットの脇をただ素通りしていく。散歩にでも行くような、気楽な歩調で。下衣のポケットに、手を突っ込みながら。
「じゃーな。楽しめたし、参考になったぜ。オレはまだ――強くなれる」
凶悪でありながら、新しい遊び方を見つけた子供のような笑顔で。
がくり、と――グリーフットの両膝がその場にくずおれ、首に巻かれていたリングが解け落ちた。
『ふむ。決着、ですね。……まさか、これ程とは』
『け、決着、決着ですっ!』
ドゥエンの溜息に続き、シーノメアが通信を青空へ響かせた。
『お、終わってみれば圧勝――ッ! 私、もう思わざるを得ません! 今現在、優勝候補の筆頭と言ってしまって過言ではないと思います、このディノ・ゲイルローエン選手! 強い強い、強すぎる――っ! しかも何ですか! 「オレはまだ――強くなれる」とか! ひゃああ! これ以上強くなってどうするんでしょう!』
激しい炎と氷の激突。その決着に、歓声を沸き立たせる客席。そんな中、机をばんばんと叩きまくる音声担当の乙女。
『小娘、もはや隠しもせんのう……』
苦笑気味に呟くツェイリンへ、シーノメアは噛みつく勢いでまくし立てる。
『で、ですけど! 実際、これで優勝候補と名高かった選手は全員が脱落ですよ! 手元の資料によれば!』
建前上では謎の巨人だったエンロカク、狂信者バダルエ・ベカー、魔闘術士の首領ジ・ファール、そして前々回の撃墜王グリーフット・マルティホーク。事前資料に載っていた注目の参加者は、シーノメアの言葉通り現時点で全員が脱落となった。
もっとも、そのうちの一人であるバダルエ・ベカーが、あんな兵器を身につけて参加するとは誰も予想だにしなかっただろう。しかしそれですら、まさしくディノによって撃破されている。この音声担当の『ディノ贔屓』も、決して的外れと一笑に付すことはできない。
『ドゥエンさんドゥエンさん! どうでしょうか、どの選手が優勝すると思いますかっ』
鼻息荒く話しかけるシーノメアだったが、
『…………』
解説担当の覇者は、またしても森の出入り口――『無極の庭』へ繋がる橋のほうを注視していた。
『もう、ドゥエンさん! 聞いてますか!?』
『……遅すぎる』
シーノメアへの返答ではない。ただ、独りごちてそう呟いた。
『え? えーと……救護班のことですか? エンロカク選手の運び出しに向かった』
『ええ。ツェイリン殿、申し訳ありませんが救護班の様子を――』
そこで。
まさにそのツェイリン・ユエンテが、血相を変えて唐突に立ち上がった。
『こっ……れは……』
慄然とした呟き。驚愕を露にした彼女のその表情は、血縁のシーノメアですら見たことがなかったのだろう。雰囲気に呑まれてか、焦った様子で尋ねかける。
『な、何ですか、ツェイリンさん。どうしたんですか』
『……見よ』
説明するのももどかしいとばかり、『映し』担当の超越者は鏡にその場面を投影する。そうして現れたその場面は、一つの戦闘の様子。しかし。
『ちょっ、え!?』
『やはり……!』
がたりと立ち上がるシーノメア、細い眼を見開くドゥエン。
鏡越しに、逼迫した怒号が届いてくる。
『ふざっけんじゃねえぞ、この野郎! ブッ倒してやる!』
『で、でもこいつよ、首輪つけてねえぞ!?』
『知るか、いきなり仕掛けてきやがったのはこいつだ! やらなきゃやられんだろうが!』
組んで行動しているらしき二人の参加者と――対峙する、巨大な影。黒い肌に、人の領域を逸脱しているかと思わせるほどの巨躯。その身を包む毛皮の衣服は、最初からそうだったかのごとく朱に染まっている。見開かれた両眼は、闘いに身を置かぬ者でも感じ取れるほどの、尋常ならざる狂気を宿していた。戦士の一人が発した言葉通り、首に巻かれているはずのリング――参加者の証は失われている。
敗北し、運び出されるはずの――エンロカク・スティージェ。
とうにこの場で闘う資格を失っているその男が、全てを破壊する嵐のごとく暴れ狂っていた。
『この……デカブツが!』
戦士の一人が、中間距離から炎の連弾を掃射する。さすがにこの後半戦まで勝ち残っている参加者だけあって、鋭く精度の高い攻撃術。それはさながら、炎の散弾。
しかしエンロカクはその全てを流麗な足捌きで躱し、避けきれぬものは風の拳で叩き落とす。その光景に対し、シーノメアが声を裏返しながら叫んだ。
『うそっ……当たらない!? あの距離で!?』
『あ奴は本来、優れた体術の使い手なんじゃ。並みの戦士では、触れることすら難しい程にの。此度の武祭に於いては、わざと敵の攻撃を受けておったようじゃが』
『そんな、それじゃ……!』
素人のシーノメアでも、容易にその脅威を認識できたのだろう。攻撃を当てることすら難しく、また当てたとしても恐るべき頑強さで倒れない。さらには異常な回復力により、すぐさま持ち直してしまう。
――そんな怪物の両手から、螺旋を描く風が唸りを上げた。
当然、守りだけではない。その攻め手もまた、一騎当千。
放たれた黒い風は弧を描き、変則的に宙を舞い、獲物へ喰らいつく大蛇さながら二人の頭部を軽々と粉砕した。
同時、会場内に脱落者の発生を告げる音が連続して鳴り渡る。
とうに脱落し、資格を失った者による参加者の殺害――。
『なっ……なんということを……っ!』
シーノメアのかすれた呟きは、客席に座した三万名の思いを代弁したものだったに違いない。
『エンロカク、貴様――!』
そこで草薮を突っ切って躍り出たのは、一人の白服だった。もはや無駄な警告などはせず、肉薄しながらその両手に氷の槍を創出する。
『疾ッ!』
並の参加者を凌駕する体捌き。白い巨漢は、次々とエンロカクに向けて鋭い刺突を繰り出すが――
『あ……当たらない……』
シーノメアの声が空しく消える。
その巨躯からは想像もできない軽やかさ。男が内包する、風という属性を体現したかのような婉然たる動き。当たらず、かすりもせず。あるいは身を翻して躱し、あるいは腕に纏わせた風で弾く。繰り返し、エンロカクは刺突の嵐を丁寧に確実に捌いていく。
――まるで。『風』を傷つけようとすることなど、不可能だというように。
規定に背き暴虐を尽くすエンロカク。しかしその体術は、この上ない手本と呼んで差し支えない領域のものだった。
職務を忘れてしまったかのように、シーノメアが鏡に釘付けとなりながら零す。
『す……すごい……、全然……これまでの闘い方と、違う』
それに答えるのはドゥエンの静かな――どこか懐かしささえ含んでいる声。
『ツェイリン殿も言われましたが……あれが、あの男の本来の姿です。普段は不意打ちに対応する為、逆風の天衣を纏っていますが……いざ敵を前にしての立会いとなれば、防御術は使わず武術のみで捌く事が多い』
『え、どうしてですか? 逆風の天衣で防いでしまえば、そちらの方が楽で確実なのでは……』
『逆風の天衣という防御術を行使していては、攻撃術を扱う事が出来ないからです』
問答するよりも雄弁に。その答えを実演するかのごとく、エンロカクが攻勢に転じた。
――もっとも。攻勢と呼ぶには、あまりに一瞬の出来事ではあったが。
白服が気合と共に放った一閃。エンロカクの心臓目がけて突き出した氷槍。これを巨人は半歩右に動くだけでするりと躱し――
続く『引き』の動作。
槍を引き戻す動きに合わせ、エンロカクは全く同じ速度で踏み込んでいた。
そして。
無造作に、左手のひらで白服の顔面――口元を鷲掴む。
直後。
瞬きの間に、白服の腹が膨脹した。
詰め込みすぎた袋のように膨れ上がり、純白の上衣が弾けて破れる。がっちりした体格だった判定員の男は、一瞬で楕円形の酒樽じみた姿に変貌していた。
『ひっ!?』
異常すぎる光景を目の当たりにして、シーノメアと観客たちの叫びが重なる。
直後の惨劇は、きっと誰もが予期していたものだったろう。しかしそれでも、これまでにない阿鼻叫喚の悲鳴が渦巻くこととなった。
――破裂した。
血飛沫が、肉片が、骨が、臓腑が、何かの塊が、『内側』から弾け飛んだ風によって撒き散らされる。木端微塵という表現では足りぬほどの、酸鼻極める粉砕。どんな理由があって、これほどの死を突きつけられねばならないのか。そう悲嘆したくなるほどの蹂躙。
鏡の視点がぐるんと横向き、何の変哲もない川の流れが映し出された。
『胸糞悪いわ、痴れ者め……!』
吐き出したのはツェイリンだった。悠々としていた超越者が『映し』を放棄してしまうほどの惨劇。
そうして、木霊する。
『ブ、ハハ、ハ ハハ ハハハハ』
視界だけは森を俯瞰したまま、巨人の不気味な哄笑のみが高々と轟いていた。




