224. 死闘の果て
――さすが……に、強い、のう。
……おっと、いかん。意識が、飛びかけた。
ダイゴスが目を見開けば、エンロカクが猛獣めいた狂相で迫ってくる瞬間だった。素早く雷節棍を奔らせると同時、後ろへ跳ぶ。
紙一重。
打突を受けたことなどお構いなし、エンロカクは竜巻のような両腕を唸らせた。風圧が顔のすぐ横をかすめていく。巻き込まれたなら、人の身などその場で細切れ肉と化すことだろう。
「……――……、」
血を流しすぎたためか。意識が、朦朧とする。
穏やかな春の日。
城の中庭に植えられた色とりどりの草花は、暖かな天の恵みを受けて美しく咲き誇っていた。
そんな庭園の一角に、黒紫と純白の花が入り乱れている。その色合いは、どことなく『神域の巫女』が纏う装束を彷彿とさせた。
「フ、そうか。ダイゴスは、殺生が嫌いなんじゃの」
ボサボサに広がった白ひげの先を摘みながら、大老が目を細めて笑った。
嫌いです、と小さな少年は頷いた。武を競うことは好きです。しかし、相手の命を奪うことは嫌いです、と己の意志を訴えた。誰の命も奪われることのない世の中が来ればいいのに、と夢を語った。
「うむ、それは立派な考えじゃ。しかし……無理なんじゃよ、ダイゴス」
生きるためには、必ず何かを殺さねばならない。
菜を食み、肉を噛んだその口で、「何者も殺めてはならない」などと宣うことは許されない。意思の通じぬ草木や動物たちは別だというのなら、それは何という傲慢だろう。人も、草木も、動物も、虫も、そして怨魔でさえも。等しく、一つの御霊を宿して生きている命なのだから。
黒紫色の花へ寄ってきた獰猛そうな蜂に目を向けながら、大老はそう説いた。
「神様は残酷じゃよな。何故……互いに殺し合わねば生きられぬよう、我等を創り給うたのか」
しゅんとしてしまったダイゴスに対して、横から小生意気な声がかかる。
「ガイセリウスに憧れて不殺の「武」にかぶれるのもいいけどよー、無茶言うなよなーダイゴス。大体さ、コロシの仕事がなくなったら、俺らは飯食っていけなくなっちまうんだぞお」
次兄ラデイルに言われ、ダイゴスはいよいよ泣きそうになってしまった。
「ま、まあ、あれだよ。無理するこたぁないんだ。きつい仕事なら、俺が代わってやるからさ」
何だかんだで優しい次兄は諭すように続ける。
「不殺の精神もいいけどさ! お前もほら、そのうち好きな子の一人や二人できるだろ? その子が危ない状況になるかもだろ? そういうときは、心を鬼にしてきっちりやらないとダメだぜー。ぬるいこと言ってたら、誰も守れず終わっちまうよ」
優しいと甘いは違うんだからな、と。次兄は心配げに、そう言ってくれた。その言葉は、長兄ドゥエンの受け売りだったが。
「――シッ!」
突然、ラデイルが手刀を閃かせた。黒紫色の花の周囲を飛んでいた蜂が、火花に焼かれてポトリと落下する。
あっ、と声を上げたダイゴスへ、次兄は耳をほじりながら説明した。
「山賊蜂つってな。そいつ、気に入った花を見つけると次々に仲間呼んで、養分を根こそぎ奪って枯らしちまうんだ。蜂は、生きるために花に集まる。俺は、アイジブ姉お気に入りの花が枯れないよう守る。これもまた、避けられない殺し合いの一つ……なのかねー」
次兄は溜息と共にそう言い結び、遠い目で青空を見つめた。そんな気障ったらしい少年を見守る大老が、優しく語りかける。
「のう、ラデイルや」
「なんだよ? 大老様」
「そやつ、生きとるぞ」
気絶していただけの蜂が復活し、ラデイルと死闘を繰り広げたのは――また別の話。
この暖かな春の日、密かに思ったのだ。
殺し、殺されることが避けられぬのなら。せめて武人ガイセリウスのように、堂々と渡り合いたい――と。
――そのわずか一月後。
伝説とまで謳われる暗殺者だった大老は、目標の殺害を果たせず死亡した。その長き生涯において、最初で最後の任務失敗。
老い衰えていた。相手が只者ではなかった。目標の子と遭遇し、躊躇が生まれた。
様々な憶測が飛び交ったが、証拠を残さぬよう自ら四散して消えた大老、その真実を知る者などおらず。
やがてダイゴスは、初めての任務を見事成功させる。
子供であることを利用しての不意打ち。大老の仇を討った。幼き少年が夢見た果たし合いとは程遠い、賎劣な――しかし暗殺者としてこの上ない手段を用いて。
そうして、最も新たなアケローンの矛は磨かれてゆく。
誰よりも小さかった身体はいつしか兄たちを超え、幼き頃の思いなど幻想にすぎぬものだと知り、ひたすらに効率よく命を刈り取る術を覚え――
その生き方が当たり前となって、何も感じなくなって。異国の情勢を探るためにミディール学院へ編入して。
二年目の生活が始まってしばらく経ったある日、唐突に現れた少年。
彼が、とうに忘れ去っていたはずの思いに火を点けたのだ。
術を扱えぬという、小柄で地味な黒髪の少年。
しかし彼は、およそ通常では考えられないような体術を会得していた。その武で次々と難敵を撃破し。救えぬはずの少女を取り戻し。
そして今もまた、誰かを助けるためにこの『無極の庭』で奮闘している。
愚直なほどまっすぐに正面からぶつかり、力なき人々を救う。
幼き日のダイゴスが夢見た在り方を、体現するかのように。
――ワシ、も……――
首を振って躱せば、突き抜けた旋風が背後にそびえる巨大樹の枝を弾き飛ばす。
――羨んだのか。それとも、
「ハァッ!」
ダイゴスの雷節棍を意にも介さなくなったエンロカクは、豪風渦巻かせた腕で掴みかかる。身を翻して避ければ、硬い老樹の幹や頑丈な岩盤が、柔らかな肉のように引き千切られた。
――望んだのか。
この身をもぎ取られてはたまらない。迸る紫電を盾に、素早く飛びずさる。
――おそらく、両方だろう。
致命打をもらわぬよう下がり続けていたダイゴスだったが、苔の緑に覆われた巨大樹が背中へ触れた。
一際長大にそびえ立つ、樹齢千年は越えそうな霊樹。その高さはいかほどか。周囲に端張る根も太く長く大地で波打っており、足場の悪さに拍車をかけている。
緑が織り成す天然の袋小路。逃げ場のない、行き止まり。
ゆっくりと間を詰め、忌まわしき魔剣と称された大男は笑う。
「さァて……お前は所詮、ドゥエンをおびき出すための生贄……ってぇコトで、期待なんざしちゃいなかったんだがな。思ったよりは楽しめた」
紫色の舌で太い唇を湿し、エンロカクは両腕を水平に掲げる。
「弟のお前でこれだけ遊べたんだ。奴が相手なら……この上なく楽しめそうだぜ」
――そうして。
黒く太い両腕に、宿る。その密度ゆえ黒々と染まった渦を巻く、絶大な風の流れ。周囲の全てが引き寄せられるかのように、エンロカクの腕へと集束していく。
細枝や落葉までもが宙を舞って吸い寄せられていくが、両腕の竜巻に触れた瞬間、粉々に砕かれて四散する。
その一帯は、荒れ狂う大気が支配する異界へと変貌を遂げた。
「……!」
ダイゴスは細い眼を限界まで見開く。
これまでとは明らかに規模の異なる術。間違いない。この技が――
「終わりにしようや。我流、奥義――羅劫颪」
話には聞いていた。エンロカク・スティージェが誇る、最終奥義。全てを物言わぬ塊へ変えるという、滅殺の風。この男が扱う属性の究極形。
その両腕に渦巻く竜巻は、エンロカク自身の背丈を数倍した規模にまで膨れ上がっている。巻き込まれた木々の枝が千切れ、粉砕し、疎らな礫となって竜巻を彩った。
黒き巨人の顔に浮かぶ薄笑みは、絶対的な自信の表れ。
ダイゴスを葬る自信、ではない。
黒水鏡越しに、ドゥエンがこの技を目撃しても。己の秘術――手の内を晒したとしても、ドゥエン・アケローンと渡り合えるという揺るぎない自信。
巨人は、目の前の相手など見てはいない。その濁った瞳はすでに――あるいは最初から――次を見据えている。
「……フ、」
ダイゴスの額に浮かんだ汗の雫までもが、風に吸われ消えてゆく。
敵の両腕に渦巻く凄まじい暴風。果たしてこれを――振るうのか、放つのか。およそ想像もつかなかったが、一つだけ確実なことがあった。
逃げ場は、存在しない。
(……やはり……やるしかないようじゃ、ラデイルの兄者。さて……もう少しだけ……待っておれ、サエリ。まずは――)
胆を括り、少女のために闘う不器用な若者は身構える。不敵な笑みと共に。
黒水鏡に投影された光景が、前後左右に激しく揺さぶられる。鏡を括りつけられた樹木そのものが、エンロカクの風に煽られているのだ。
揺れる視界、規格外の竜巻、耳朶を叩く唸り。
その全てで、誰もが予感した。
もうすぐ終わる、と。
三万の観衆たちも。驚愕に目を見開くベルグレッテも。その隣席で戦局を眺めるオルケスターのデビアスも。涙に瞳を濡らす桜枝里も。
そして――
『な、な……、なん……ですか、あの技!?』
『エンロカクの奥義、羅劫颪。私も……目にするのは、これが二度目です』
疲れたようなドゥエンの声が通信に響く。
あらゆるものを飲み込み、そして破壊し尽くす、まるでエンロカクという男の本質を体現したかのような螺旋の渦。
ドゥエンは確信する。この男は間違いなく――十年前よりも、強い。あの頃とは別物だ。
こんな奥の手を出さずとも、エンロカクならばダイゴスを倒すことは容易だろう。むしろ、ここで使わず秘匿しておくべきだったはずだ。それを今、あえて披露するという――挑発。
見せつけるために。
弟を殺す様を。現在の己の力量を。
「…………ッ」
ドゥエンの握りしめた左拳から、一筋の赤色が伝う。
『よう、弟。このまま飲み込まれて終わるか? そこに鏡もある。遺言の時間ぐらいはくれてやるぜ』
エンロカクが視線を向ければ、三万の観衆たちと目が合った。黒水鏡越しとはいえ人のものとは思えぬ濁った瞳に見据えられ、客席からにわかな悲鳴が上がる。
『……不要じゃ』
『そうか。じゃあ、とっとと消え――』
『アケローンが巫術、参之操――六王雷権現』
喚び声に呼応し、現れる。
それは――六対の光条。
ダイゴスを守るように空中へ展開した、目に眩い白の槍が十二本。宙に浮かぶ閃光その全てが、先端をエンロカクへと向けて静止している。照準を合わせるかのごとく。
『のおわあぁ!? ダ、ダイゴス選手も凄まじい技を発現させました! 応戦する気だあ――っ!』
その技を目にして、
「……、……ダイ、ゴス……、」
ドゥエン・アケローンは、ついに鉄のようだった無表情を崩壊させた。
眉間に皺を寄せ。歯を食いしばり。苦悶に満ちた、弟を思う兄の顔へと。
『にいさま。ぼくも、にいさまみたいな技を使えるようになりたいです! あの、ピカッ! って光る……きれいな、すごい巫術!』
『……ふむ。先日見せた、参之操の事か』
『兄貴さー、なんだったら、軽くでもいいから教えてあげなよ。もうあれから興奮しちゃって、うるさいったらないんだよ……ダイゴスのやつ』
『お前にはまだ早いよ、ダイゴス。いずれ、時が来れば――』
『すぐ……すぐに教えてほしいです! ……だめ、でしょうか』
『……全く。基礎的な、型のみだぞ。一朝一夕で扱えるような代物ではないからね』
『ほ、本当ですか! やった!』
『十年は要するぞ。上手くいかずとも、諦めず鍛練を積まなければならないよ』
『は、はい!』
『良い返事だ。真摯に、直向きに訓練を続けなさい。ダイゴスならば、いつかきっと――』
そこはもはや、奇跡の力が彩る異界と化していた。
轟々と天地揺るがす竜巻。煌々と世界照らす白雷。対をなす風と雷が、森の一角を席巻する。
『こ、ここ、これはっ……いったい、どちらが勝利するのでしょうかっ……!』
そんな音声担当の乙女に答えたのは、
『ダイゴスは……勝てません』
ただ静かな、『兄』の声だった。
『ドゥエン、さん……?』
感情の滲んだ声を聞き、驚いたのだろう。シーノメアが顔を向けて――わずか、息をのむ。
ドゥエンには、自分で知りようもないことだったが。みっともない顔を、していたのかもしれない。
『全くどこまでも、私を驚かせる……。まさか参之操を習得しているとは、思ってもみなかった。しかし、あの技では……エンロカクには、届かない』
そう零したドゥエンに呼応するかのごとく、鏡の向こう側から低い声が響いた。
『ドゥエンの技か。悪いが、それは知ってるぜ。威力も性能もな。俺には通じねえ』
『そうか』
『兄貴の技と一緒に散るか。まァ、それもいいだろうよ』
エンロカクが身構え――、ダイゴスが「ニィ……」と不敵な笑みを浮かべる。
もういい。
逃げろ。逃げるんだ、ダイゴス。
勝てぬ敵とは闘うな。お前が小さな頃から、ずっとそう教え続けてきただろう?
お前はどうして、兄さんの言う事を聞いてくれないんだ。お前の気持ちは……気迫は、よく伝わった。もう分かった。『絃巻き』の力を持ちながらも、弛まぬ努力を重ねてきたことはよく分かった。
そんなにあの女が気に入ったなら、兄さんが何とでもしてやる。エンロカクは、私が斃してやる。だから――
『ダイ、ゴス…………!』
お前は、私の指示に従っていれば良い。私の言う事を聞いていれば良い。
私に守られていれば、それで良いんだ――――
伝う汗さえも豪風が飲み込んでゆく中、ダイゴスは歯を食いしばり意識を集中する。
成功するか否か。生きるか死ぬか。ふと我に返りそうになる。なぜ自分はこんな博打を仕掛けようとしているのか。余計なことは考えるな。集中しろ。次兄ラデイルとの訓練で散々に練り上げた想定。己が秘術として昇華した『この技』を。それらを信じ、貫き通せ。
刹那の刻ですら、機会を見誤れば――
(……怖い、のう……)
全霊の一撃に賭け。
若きアケローンの矛は――敵を射抜く瞬間を、待ち構える。
おかしなガキだ。何を薄笑み浮かべていやがる。闘いを楽しんでるつもりか? これだけの力量差がありながら。
対峙するアケローンの末弟を眺め、エンロカクは理解できないと鼻を鳴らす。
さて、この生贄の役目はここで終わりだ。見てるんだろ? ドゥエンよ。せいぜい怒れ。俺を憎んで、全力で殺しに来い。
『千年議会』も、これだけの傷を見せれば好機と思って奴をけしかけてくるだろう。連中は所詮、闘いのことなど何も知らない、耄碌した死に損ないの集まりだ。俺の体質のことなど何も理解してはいない。おそらくは、あのドゥエンでさえも正確には把握しきれていない。
……それはいい。だが。
(……チッ、鬱陶しいぜ)
鼻。そして、右腿。ここまで調整のために様々な攻撃を受けてきたが、この二ヶ所がかすかな痛みを訴えていた。
あの黒髪の若者との戦闘。その後半戦で、別人のような気迫を漂わせた少年が放った、たった二発の打撃。下段の足蹴り。そして体勢を崩した相手の膝から駆け上がり、肘を叩き落すという見たこともない大技。
(……クソ、うざってえ……)
ジンジンと。気に障る程度に、痛みが残っている。
(――次は、アイツだ)
これを片付けて、あのガキを見つけて。続きを闘る。もうくだらん横槍なんざ入れさせねえ、叩き潰してやる。そして最後に、ドゥエン・アケローンと闘る。
悪くない。
この連戦、存分に楽しめそうだ。
そして交錯する。
眩いばかりの白が、唸りを上げる竜巻が、全てを包み込んだ。
「…………っ!」
声を発することも忘れたベルグレッテが、ただ呆然と鏡を見つめる。
「いやだ、大吾さ――」
桜枝里の慟哭が、爆音に飲まれる。
そして。
観客席から幾分離れたその場所。屋台の売店付近に設置された鏡にて、戦局を眺めていたその男が。民族衣装を着崩した、端正な容姿の美青年が。
「そう、それでいい。完璧だ、ダイゴス」
矛の次兄、ラデイル・アケローンが――薄笑みを浮かべて呟く。
「――――死んでくれ」
十数秒後。
観客席に鳴り響くは、脱落者の発生を告げる音。
激突した両者のうち片方の名前が、消失した。




