222. 疾風迅雷
視界に入るのは、さざめく森の深緑。耳に届くのは、きらきらと光を弾く清流のせせらぎ。
ともすれば、生き残りを賭けた闘いの最中であることを忘れそうになる、穏やかな自然の風景。
他者との遭遇も目に見えて減った。かなりの人数が脱落したのだろう。
「…………」
ダイゴス・アケローンは、森の中に張り巡らされた川を沿い静かに進む。
言わずもがなエンロカクを捜しているところだが、これまで遭遇する気配すらなかった。行き違いとなっている可能性も低くない。
さて、どうするか。
このまま、川の流れに従って探索を続けるか。他の水源に戻ってみるか。
――そう沈思していたところで、すぐ脇の茂みがガサリと揺れた。
それは、獲物に飛びかかる獣のごとく。藪を突き抜けて飛び出してきた黒く太い拳が、ダイゴスの鼻柱へ直撃した。
「ご――ふ……――!」
二マイレもあるダイゴスの巨体が、易々と吹き飛んだ。二転三転し、川へ突っ込んで派手な飛沫を上げる。
「……ぐ!」
すぐさま起き上がり、血と水と涙に霞む視界で襲撃者を睨み据えた。
「ン~……ようやく見つけたぜ」
腹の底に響く低い声で、その男は言い放つ。
ダイゴスを遥かに上回る巨躯。獣の生皮を剥いでこさえたかのような、雑にすぎる衣服。隆々と発達した黒肌の肉体には、意外にも多くの生傷が刻まれている。が、それらを意に介した様子は見られない。小さなピアスの通った太い唇は不敵な笑みを象り、濁った瞳が悠然とダイゴスを捉えていた。
――エンロカク・スティージェ。
雪崎桜枝里を解放するために、ダイゴスが排除しなければならない障害。捜していたその相手と、ついに会敵した。
「お前に恨みはねえんだが……ま、運がなかったと思って諦めな。死んでもらうぜ」
どこまでも不遜に告げるエンロカクの言葉を、
「……フ」
ダイゴスは笑う。
――運が無い?
莫迦を言う。いくら意気込もうとも、互いの遭遇が確約されないこの武祭。ようやく捜し求めていた敵と出会えたのだ。これ以上の幸運があるものか。
ダイゴスは曲がった鼻を掴み、ぱきりと強引に矯正する。拭い捨てた血が、川面に飲まれ流れていく。他人には細目だと言われる眼で敵の姿を睨み据え、ずぶ濡れになりながらも立ち上がった。
「ほう……ドゥエンの弟だけあるな。いいツラしやがる」
風の巨人は目を細め、
「少しは楽しませてくれよ」
その体躯からは想像もできない身軽さで、瞬く間に距離を詰めた。
「!」
ダイゴスは咄嗟ながらも雷の棍を喚び出し、これを迎え撃つ。
二合、三合。旋風を纏わせたエンロカクの拳と、紫電散らすダイゴスの雷棍が、大気を震わせてせめぎ合う。
「……!」
踏ん張りのきかない川の中、ダイゴスが押し込まれる形で後退した。
――迅い。そして、重い。
まさにその属性を体現するかのごとき速度。荒れ狂う嵐さながらの重撃。だが。
「水場に立つ雷使いへ近付くのは……些か迂闊じゃろう」
言い終わるや否や、手にした雷棍を足元の清流へ突き立てた。白雷が水面を迸る。川そのものが発光したかのような瞬きと同時、術者であるダイゴス以外はその身を焼かれる――はずだった。
「!」
アケローンの末弟は目を見張る。
平然と。川の流れも疾った雷撃もお構いなし、悠然と佇む巨人の姿に。
「ドゥエンから聞いてねえか? 俺には逆風の天衣がある。指先ひとつ痺れねえよ、そんな小細工じゃ」
肩を竦め、つまらなげに言い連ねる。
「雷使いねえ……それこそ相手がドゥエンでもねえ限り、関係ねえな」
蹴り上げた。清らかな川の流れが、荒れ狂う津波となってダイゴスへ躍りかかる。
「――――ッ!」
ただ蹴り飛ばされただけの水流は、ベルグレッテの秘術アクアストームにも勝る勢いでダイゴスを飲み込んだ。軽々と吹き飛んだ青年の巨体を、水に交じって飛んだ無数の石つぶてが打ち据える。
「が……、は!」
川から追い出される形で、ダイゴスは砂利の上を転がった。ざぶざぶと歩いてきたエンロカクが、清流から上がって息をつく。
「まァ、こんなモンだろ」
分かっていたことだった。
――強い。これが、エンロカク・スティージェ。
国が『なかったこと』にしたがった、闇に葬られし存在。実際に亡き者にするためには多大な損害を覚悟せねばならず、結果として黙認することになった、禁忌の魔剣。
追撃に備え、ダイゴスは肩で息をつきながら身を起こす。
「ン~……」
しかしエンロカクは仕掛けるでもなく、ポリポリと頭を掻きながら周囲を見渡した。
「……調整はもう充分なんだが……ここじゃ意味がねえな。立てよ小坊主。場所を変えようじゃねえか」
「……?」
エンロカクの意図が分からず、ダイゴスは眉をひそめる。
「お前には死んでもらう……が、誰も見てねえ所じゃ意味がねえんだ」
「!」
その言葉で、ダイゴスはようやく悟る。
今、この場所には黒水鏡の括りつけられた木が存在していない。誰も、この闘いを見ている者がいない。
だから、あえて見せつけるために。
ダイゴスの死に様を、観客たちに――ドゥエンに、桜枝里に見せつけるため、鏡のある場所へ移動しようというのだ。
――が、それだけではない。
「……成程の。貴様が妙に傷を負っとる理由も……つまりは、そういうことか」
合点がいった。
今ほどエンロカクの口から飛び出した、『調整』という言葉。頭ひとつ分は飛び抜けた実力を有しているはずのこの怪物が、意外にも傷だらけとなっている理由。
全ては――ドゥエン・アケローンと闘うため。
弟を殺し、その様を見せつけ、長兄の怒りを煽る。
しかしそれだけでは、『千年議会』の承認が下りない。
『手負いの奴を相手取るならば、許可も下りるだろう。そうなれば――私が、奴を始末してやる』
かつての、そんな長兄の言葉が脳裏に甦る。
だから――ある程度の傷を故意に負い、『千年議会』が自分の抹殺指令を出すよう『調整』した。ドゥエン・アケローンが自分を殺しにやってくるよう、仕向けるために。
「まァ、それだけじゃねえんだ。お前を殺すよう、頼まれてもいるんでな」
「頼まれた……? ……ふむ、やはりの。カーンダーラと繋がっておったか」
「おっと」
口を滑らせながらも、巨人はわざとらしく肩を竦める。もっとも、本心としてはどうでもいいのだろう。深刻さが全く感じられない。
(……予想はしていたが、の)
不可解に思っていたのだ。
城にまで乗り込んできたうえで天轟闘宴への出場を取り決め、優勝した暁には桜枝里を我が物にすると宣言したエンロカク。そんな騒ぎがあった後、その桜枝里を手込めにしようとしたカーンダーラ。
ここで起きた出来事のみを単純に考えた場合――
カーンダーラは、エンロカクが狙っている女を横からかすめ取ろうとしたことになる。かつてその抹殺を諦めたほどに、誰よりもエンロカクの恐ろしさを骨身に沁みて思い知っているはずのカーンダーラが、だ。
傲慢ではあるが、その行動方針は実に慎重かつ保守的。臆病、と言い換えてもいい。そんな『千年議会』の老人が、そのような真似をするだろうか。
カーンダーラの背後にエンロカクを恐れずに済むほどの何かがついていると考えるよりは、そもそもエンロカクと繋がっていると仮定したほうがしっくりくる。『エンロカクが狙っている女をカーンダーラがかすめ取ろうとした』のではない。『カーンダーラが狙っている女をエンロカクが確保しようとした』のだ。
そう考えたなら、あの臆病な老人らしからぬ大胆な行動にも納得がいく。
余談だが。桜枝里を助けた時点でこの違和感を覚え、カーンダーラを見逃せばエンロカクとの繋がりを露呈させるかと思い泳がせたのだが、足跡を煙に巻かれてしまっていた。老人と巨人が繋がっているのでは――というこの推測をラデイルに伝え、協力も仰いでいたのだが、そこまで簡単に事は運ばなかったらしい。腐っても『千年議会』の重鎮、それほど甘くはなかったというところか。
「まァ、そういうワケでよ。少しばかり気の毒に思わんでもねえが……俺にとってもあのジジイにとっても、お前は死んでもらわにゃならん存在ってこったな」
言い捨てた巨人が、駆ける。
「それは……奇遇じゃな」
迎え撃つ巨漢が、笑う。
やはり、桜枝里を解放するためには。エンロカクとカーンダーラ、双方に消えてもらう必要があるらしい。
邪魔者は消す。この上なく単純で分かりやすい、人と人とが争う理由。アケローンという家系が当たり前の生業としてきた、その行い。
つまり。いつも通りやれば、彼女は救えるということだ――。
荒ぶ旋風と、瞬く紫電。
決して相容れることのない風と雷が、激しく交錯を始める。




