220. 代償
やはり妙だ。どう考えてもおかしい。
ジ・ファールが異変を再認識したのは、それから一分も経たずしてのこと。
「ハッ……、ゼェッ」
アーシレグナによって痛みを乗り越え、体力も気力も充実した状態。決して敵の間合いへは踏み入らず、渦巻く風の球を放つ。己が喚び出した膨大な風の怪物は、敵へのしかからんと暴れ狂う。
ジ・ファール自身とヘィルティニエの連係によって、相手は防戦一方。
優位なのは、間違いなく自分。
――そうだ。このガキ、避けるだけで手一杯じゃねーか。一発。たった一発当たりゃ終わんだよ、当たりゃ……なのに――
その一撃が、当たらない。
渦巻く風の塊を、空裂く斬撃を、少年は次々と躱していく。吹き荒ぶ暴風の剛腕を、潜り、屈み、いなしていく。その小さな身体は、数瞬たりとて同じ場所には留まらない。
流れるがごとき体捌きは舞踏のようで、しかしこの上ない武闘の極致であった。
(なん、だ、コイツは……! チョロチョロチョロチョロと……、ハエみてーによッ……!)
ジ・ファールとて自覚している。まかり間違ってもハエなどではありえない。例えるならば――蝶。
だが、他者に捕食されるだけの脆弱なそれではない。凶悪な両刃を備えた、極めて好戦的な、触れられぬ黒き蝶――
(クソが、見えねー風をああも楽に躱せるハズがねーんだ……ってコトは、やっぱり――)
それは、先ほどもたどり着いた結論。
(ヘィルティニエの……オレの速度が、落ちて……)
そこで気付く。
またも、だ。
風の猛攻を捌きながら。流護が、表情のない顔でジ・ファールを見つめていた。何か。相手を観察しているかのような、その黒い瞳。
「何見てんだ、クソガキッ……!」
圧縮した風の球を投げ放つ。見切ったとばかりに、流護は身を翻して危なげなく回避した。横合いからヘィルティニエが太い腕を閃かせるが、これも悠々と捌く。
ジ・ファールはその隙にアーシレグナの葉を一枚取り出し、口の中へ放り込む。
「ゼッ……ハァッ……!」
目前で舞う相手とはあまりに対照的。自分の身体とは思えないほど、手足が重い。これまで経験したことがないほど、息が苦しい。これだけアーシレグナを使っているのに、なぜ――
「必死だな。あんま意味ねぇと思うんだけどさ……まあ、好きなだけ使ったらいい」
そんな言葉と同時、急加速した。
その姿が膨張したかと錯覚するほどの接近。地を蹴り、瞬きの間に迫った流護が、ジ・ファールの右脇腹へ左拳を突き入れた。
「……げ、ぶふ……――!」
まるで臓腑を掴まれ、押し上げられるような一打。無理矢理に肺を追い出された空気が、否応なしに口から溢れ出る。それでも打たれた刹那に後ろへ跳び、威力を軽減すると共に間合いを離す。
「ぎ……!」
悶絶しそうになりながらもヘィルティニエへ意識を向け、流護を叩き潰すべく集中した――はずだった。
「……!?」
動かない。
風の化身はその場に留まったまま、反応しない。揺らめきながらも、しかし微動だにしない。
悠々と、無警戒に。硬直しているヘィルティニエの脇を、流護が通り過ぎる。
「ま、召喚術みてえで凄ぇ技なんだけど……分かりやすいんだよ。お前がダメージを受ければ、その分だけこの……ヘルナントカの動きが鈍る。こっちにしてみりゃ、お前の体力ゲージが常に見えてるようなもんだ」
「ワケ分かんねーコト言ってんじゃねーぞ、ガキ……、優位に立ったつもりか、あ?」
「実際優位に立ってんだよ。強がったって無駄なんだって。口で何言おうが、てめえの術は正直なんだからよ」
鼻で笑い、流護は目を細めた。
またその目か、とジ・ファールは歯ぎしりする。観察するような、値踏みするような、覗き込むような。
「……『チアノーゼ』……って言っても分からねぇよな」
「あぁ……?」
肩で息をつきながら返せば、少年が酷薄な笑みをたたえて言い放った。
「そろっと頃合いか。お前……もう、沼の底に――地獄に堕ちたんだよ」
『一撃いぃぃ! リューゴ選手の鉄拳が、またも容赦なくジ・ファール選手の腹を突き上げるッ!』
これまでは被弾しながらも風の力で受け流すなど、直撃を避け続けていたジ・ファールだったが、ここへきて痛打をもらい始めていた。苦悶の表情を浮かべ、胃液を撒き散らす。
いよいよ追い込まれつつある魔闘術士の首領の姿に、客席も熱気を一段と増していた。
『し、しかし……ジ・ファール選手、急に失速した感があります。最初に少し拳を受けた程度で、あとは風の巫術にて終始リューゴ選手を寄せ付けなかった印象なのですが……』
『その最初の拳……が、今になって効いているのです』
顎の下へ指を添えたドゥエンが、慎重にそう零す。
『戦闘開始当初から……そして今も、ジ・ファール氏は幾度となく腹部を打たれています。腹打ちだけで人を倒す事は難しいと云われますが……ここを打たれると、後々響いてくる事になります。じわじわと体力を奪われ、やがて足が止まってしまう。無論、個人差はありますがね』
己の腹をポンポンと叩き、武術の達人としても名高い覇者はそう解説する。
『それだけでなく……ジ・ファール氏が鼻血を拭う場面も幾度かありました。鼻に損傷を受けた事で、呼吸が阻害されている。氏自身も気付かぬ間に、息切れを誘発させられている』
さらには、腹打ちの放たれる超接近戦の間合い。この距離では、慣れていない者は無自覚に呼吸を止めてしまうのだとドゥエンは語る。いつ攻撃が飛んでくるか分からない重圧に、意識しないまま息を止めて身構えてしまう。それを繰り返せば必然と呼吸のリズムが崩れ、息が切れやすくなってしまう。
じわじわと、真綿で首を絞めるように。少しずつ、しかし確実に、ジ・ファールは体力を奪われていたのだ――と解説者は断言した。
『闘争の理想とは、相手に実力を出させず完封する事。敵に何もさせぬまま、一方的に仕留めてしまう事です』
誰だって、敵の攻撃など受けたくはない。できることなら傷を負わず、一方的に勝ってしまいたい。
そんな性質は、この天轟闘宴にも自然と表れている。不意打ち上等。見つかる前に、殺られる前に殺れ。暗殺者たるアケローンの当主にとっては、基礎中の基礎ともいえる鉄則。
『リューゴ氏は……その逆を実行した。強力な巫術を扱うジ・ファール氏相手に、即効性のない腹打ちを続けた。敵の攻撃に晒されながらも、延々と。苦行に耐えるかのように。そうして……相手の『百』を受け切ったそのうえで、完膚無きまでに捩じ伏せようとしている。術を全く使わないまま、覚霊級の使い手を……最上級と言って差し支えない詠術士を、封殺しようとしている』
ごくりと唾を飲み込んだシーノメアが、当然浮かぶだろう疑問を口にする。
『どうして……リューゴ選手は、わざわざそんなことを……?』
『思い知らせる為、でしょう』
ドゥエンの口元に、ニヤリと冷ややかな笑みが浮かぶ。
『人は……悔いる生き物です』
あのときこうしていれば。あそこで選択を間違えなければ。誰しも、そんな思いをしたことの一度や二度はあるだろう。
闘争においてもそれは同様だ。
あの攻撃を喰らわなければ。あの一撃さえ当たっていれば。
言い訳とも取れるが、しかしそれらは次回への希望や目標に繋がる。苦い経験として、確かな糧となる。あの攻撃だけはもらわないようにしよう。次こそ当てられるように、勝てるように腕を磨こう、と。
『リューゴ氏は……そういった可能性の一切を、摘み取ろうとしている』
勝てない。
全力を尽くしても、何をどうしても、『百』を出し切っても通用しない。
ジ・ファールという生物は、有海流護に及ばないのだと。
言い訳をさせず、悔いる余地すら与えず、絶対的な敗北を突きつけようとしている――。
『そ、それは……また容赦がないというか、怖いですね……』
『ええ。負ける側としてはたまりません。まず再起は出来ないでしょう。容赦も慈悲もなく――そして圧倒的な実力差がなくてはできない事を、氏はやり遂げようとしている』
『……、』
思わず息をのむシーノメアとは対照的。わずかではあるが、ドゥエンの弁には珍しく熱が篭もっていた。
『リューゴ氏とエンロカク……氏が、先の闘いでその片鱗を見せていましたね』
敵の攻め手をあえて受ける。そのうえでねじ伏せようとする。
『戦術として考えたなら、愚策としか言いようがありません』
しかし、とその前提を覆し、覇者は口にする。
『――それは、この上無き完勝の証でもある。敗者の心は、間違いなく折れる』
早くその結末を見せろ、と。言外に、ドゥエンの唇が笑みを刻んだ。
もはや、ジ・ファールには理解が及ばなかった。
見えている。迫り来る拳は、はっきりと見えているのだ。
「……ご、ぼはっ!」
なのに、躱せない。
流護の左拳が、吸い込まれるようにジ・ファールの腹へと叩き込まれた。
手足が、身体が、鉛のように重い。そのくせ、意識は妙にはっきりとしている。散々に取り込んだアーシレグナが仇となったか。突き上げる拳が己の腹を叩く瞬間を、克明に認識している。痛みを、苦痛を、鮮明に伝えてくる。
(……こん、な…………)
殴られたなら、こんな思いをするのか。ひりつく痛み。明滅する視界。今まで自分が殴り飛ばし、蹂躙してきた者たちは、こんな苦痛を味わっていたのか。
(じ……冗談……じゃ、ねぇ……)
喉の奥から競り上がる酸味。鉄錆のような、むせ返る血の臭い。軋みを上げる腹の肉。連動したように鈍っていく呼吸。
「ぎ……、……ひ……」
――最高の、極上の苦痛だ。
(これを……よ、こんな、モンを、相手に……味わわせて、いいのは――)
狂気の形相で、右腕を閃かせた。
「オレだけだァッ! こ、の、エサが、ぁはあああぁッ!」
刹那、激昂が苦痛を凌駕した。
怨嗟にまみれた絶叫に応え、へィルティニエが動く。その巨体を旋回させ、拳を流護の顔面へと叩きつけた。轟音と共に血飛沫が舞い、魔神の旋風がその朱色を虚空へと散らしていく。
(直撃イイィッ……! 殺ッ――、――た!?)
そして、凶人は目を剥いた。
口元や鼻から血を流し。わずかにぐらついた――『だけ』の、有海流護の姿を認めて。
頭や鼻から伝う赤い筋をペロリと舐め上げ、ヘィルテニエ渾身の拳を受けたその少年は。微塵も怯むことなく、愉しげに笑う。
「いーいツラすんねー。『このオレがこんなガキに手こずるワケがねー。イッパツ当たりさえすりゃ、倒せんだよ』……とかって思ってただろ? 必死になってブン回してたもんな。何つーか、カワイソーになってきたからもらってやったよ。で、その儚い希望も無に帰したワケだが……今、どんな気持ちよ?」
歯を砕かんばかりに噛み締めて、
「ふ、ざああアアァ――ッけんな、こんクソガキャァアアアァ!」
ジ・ファールは咆哮と共に躍りかかった。
前方から自分自身が。側面から、ヘィルティニエが今一度見えざる豪腕を振りかざす。
ぱん、と。ジ・ファールの腕を、流護の左腕があっさりと払いのける。明後日の方向へ飛んでいく旋風。流れるような体捌きで、真上から降ってきたヘィルティニエの風拳を難なく躱す。次いで、凄まじい衝撃がジ・ファールの鼻を圧し潰した。赤黒い血潮が宙を彩り、砕けた歯が虚空を舞う。
「……、………………――」
爆発するような轟音を残し、ついにヘィルティニエが霧散した。制御を失った風の魔神が崩壊し、烈風となって主でなくなったジ・ファールを吹きつけていく。にわかな突風に煽られ、疲弊しきった痩躯がよろめいた。
一方で対峙する流護は、地面に根差した巨木のごとく動じない。右拳を前に突き出した姿勢のまま、どっしりと。
(野、郎……、なん、で……)
当たらねえ。当たっても倒せねえ。
疲弊しきっているはずなのに。瀕死のはずなのに。拳の威力も、明らかに上がっている。
『素人には分からんだろうけど……俺は今、わざと打ち抜かなかった。カウンターを「合わせただけ」だ』
この闘いが始まった当初。少年の発した言葉が、ジ・ファールの脳裏を駆け巡る。
(ふ、ざ……、野、郎)
疲労から力が出せなかった訳じゃねーのか。
つまり。このオレを相手に。
本当に、手加減して打ってやがったってのか。
「ふ……、ふざけ……!」
血泡を吹きながら睨んだ瞬間、常緑の広場を強い風が吹き抜けた。
「!」
懐に収めていたアーシレグナの葉の数枚が、風に乗って散り散りに飛んでいく。
「おっと」
そのうち一枚を、流護が掴み取った。
「なんか偶然イイもん手に入れちまったなー。白服さーん、これって使っちゃってもいいんすかねー?」
手にした葉をわざとらしくはためかせて、離れた位置で佇む白服へそんなことを問う。厳つい顔をした坊主頭の判定員は、ニッと口の端を吊り上げた。
「んじゃ遠慮なく」
流護は葉をビリビリと切り、握り潰し、傷だらけとなった身体へ塗り込んでいく。
「なッ……、ふざッけんじゃねぇオイ、オレのモンだろうがァッ!」
「いや、元々お前のでもねえだろ……。俺は、たまたま飛んできた葉っぱをゲットして使っただけ。『倒した相手のアーシレグナを奪ってはいけない』ってルールには触れてねぇ訳だ。白服のおっさんも、そう判断したんだろよ。……あ~、スッとして気持ちいいわー」
「く……!」
ジ・ファールは慌てて懐から葉を取り出し、口へ突っ込んで咀嚼する。またも数枚が風に飛んでいったが、もはや気にする余裕はなかった。
「お前、さっきからバカみてーに食いまくってるけどさ……あんま意味ねぇと思うぜ」
「あぁ……?」
「今のお前はチアノーゼって症状を起こしてる。俺がコツコツとボディを繰り返した成果だ。苦労したぜ。お前みてーなモヤシ、ちょっと力込めたら一発KOしちまうからな」
自らの腹をポンと叩き、流護は薄く冷たく笑う。
「身体を動かすために必要な酸素が足りてねぇんだよ。アーシレグナで多少の苦痛はごまかせても、根本的に不足してる酸素を補える訳じゃねえ。あ、酸素って分かる? つか言ってる意味分かるか?」
「あ? クソガキ、何を……」
「まあ……分かんねーならいいよ。どうでもいいことだしな。どうでも」
またも、膨張した。
一瞬で間合いを侵食した流護が、掬い上げる軌道の左拳を放つ。これまで幾度も受けた、その打撃。
(何回も、同じ手が通じると――)
ジ・ファールは重く軋む腕を動員し、腹部で交差する。防御に身構える。間に合った。腹を狙う一撃。腕の一本も持っていかれるだろうが、問題ない。防いだ瞬間、反撃に転じる。残る魂心力の全てを集めて成した風の刃で、その首を落としてやる――――
殺す。殺す殺す殺す殺す殺す……ッ! 腕の一本ぐれエェくれてやるよ、クソガキッ……!
一方的に奪うことを当然とするこの男が、ここで初めて犠牲覚悟の反撃を決断した。
それほどの戦意に滾るジ・ファールの視界を包んだのは、白い閃光だった。
「……、……――、――……ッ、ッ……!?」
声が消失する。呼吸が止まる。膝が崩れ落ちる。衝撃に備えた覚悟も、反撃を期した気概も、敵に対する殺意すらも、全てが根こそぎ崩壊した。
左拳の着弾点は――防御した位置を逸れ、わずかに右。
ジ・ファールは腹を押さえ、丸まって崩れ落ちた。
奇しくも、これまで己が蹂躙してきた者たちのように。
「今のが肝臓打ち……リバーブローだ。これまでのボディとは違うだろ。間違ってもテメェみてえな、根性なしのモヤシが耐えられるモンじゃねえよ」
「……、……~~~~ッ、げ、は、が」
そんな流護の嘲りも、ジ・ファールの耳にはどこか遠く届く。もはや、反応する余裕など微塵もなかった。
白に染まった視界と思考の後、溢れ出すのはただひたすらの負の思考。
何だこりゃ。痛ぇ。苦しい。ふざけんな。冗談じゃねえ。なぜ。何でこのオレが、こんな目に。
ただ。訳も分からなくなった思考のまま、大地を這う。
「ひ、……ゅ、…………」
朱の混じった胃液と、潰れた鼻から流れる鮮血と、大きな両眼から溢れる涙。さらには、下腹部を濡らす湿り気。ありとあらゆる体液を垂れ流しながら、ジ・ファールは這う。地面を、震える手足で這いずる。
ダメだ。まずい。やばい。逃げなければ。
這うたびに、怒りが抜け落ちていきそうになる。代わりに身体を蝕もうとするのは――――
「おーおー、逃げようとしてんの? だっせーな、最高だわお前。テメェの部下のヒョヌなんたらとかその他大勢なんかは、全然怯まねーで向かってきたってのに。ボスのお前は、とんだ腰抜けときた」
当たり前だクソ野郎。オレが負けたら終わりだろうが。薬で恐怖をなくした廃人共と一緒にするんじゃねぇ……!
「が、は、あ、ァ?」
――……、あ? 恐怖……?
オレじゃない。
それは。オレが相手に与えるべき感情であって、間違ってもオレが味わうモノじゃない。
冗談じゃねえ。冗談じゃねえ。こんな、術もロクに使えねーヤツに、ふざけんな。オレが、このオレが――……ッ!
「おう、芋虫みてえに這ってどこ行くんだよ。トイレか? 残念ながら、いい歳こいて間に合ってねーみてーだけど」
追撃を加えるでもなく、流護はただ冷ややかな言葉を投げかけるのみ。もはや、仕留めることなどいつでも可能だと。余裕げに、這いつくばるジ・ファールを見下ろすのみ。
「……ふひゅ、……ば……が、は」
ジ・ファールにしてみれば、何もかもが不可解だった。
たった一撃。到底堪えきれない激痛。霧散した思考。挫かれた意志。息も絶え絶えになりながら、しかし外れない首のリング。まるで、まとわりつく呪いのように。
「肝臓ってのは、とにかく耐えられねえんだ。何もかもどうでもよくなっちまう苦しさだろ? 俺も何回ジジイに打たれて悶絶したか、思い出したくもねぇや」
――コイツ、わざと。オレに、この苦しみを味わわせるために。手加減してやがったんだ。
「最初から分かってたんだよ。お前が、俺の相手にもならねぇクソザコだなんてことはさ」
静かに。草を踏む音が、ジ・ファールの耳へ届く。
「ただ、ずっと考えてた。この数日、頭がおかしくなりそうだったよ。ミョールに上等コイてくれたクソを、どうやって終わらせてやろうか。どうやって、一生忘れられねー思いをさせてやろうか、ってな。安心しろ。殺しやしねえ。代わりに、治る傷なんかで終わらせるつもりもねえ。一生だ。俺のこと思い出すたびに、トラウマでションベン漏らし続けるよーな余生にしてやっから」
いっそ穏やかですらある声色で、独白しながら。
最悪の破壊者が、近づいてくる。
「――言ったろ。死にたくなるまでド突き回してやる、ってよ」
声が。足音が。
負の権化が、近づいてくる――。
「……ぎ、ひ」
ダメだ。勝てねえ。
必死の形相で振り返り、魔闘術士の首領は首を横へ振った。
このままでは消える。折れる。
――もうたくさんだ。やってられるか。
「……も、ういい……、オレの、負けだ……も、もうやめ……」
「お前はさ。そうやって負けを認めた相手とか、見逃したことあんの? つか、リング外れてねぇんだよなぁ~」
拳をパキパキと鳴らして見下ろす流護を前に、ジ・ファールは慌てて自身のリングへ指をかけた。
「こ、こんな、もん……いらねーよ、クソ、くれてやらぁ……ッ!」
忌まわしいとばかりに引っ張れば、頑なに巻かれていたリングは硬度を失い、一本の紐となってするりと解けていた。
バシュン、と脱落者を告げる音が鳴り渡る。
三万人の観衆が見守る中――159番、ジ・ファールの名前が消失した。
『こ、これはっ……、決っ……着――っ! 優勝候補の一角として注目されていた魔闘術士首領、ジ・ファール選手! ここで自ら敗北を宣言! なんと降参により脱落だ――!』
気合の入ったシーノメアの通信にも、場内の空気は満足と落胆が半々といったところか。ジ・ファールが派手に打ちのめされることを期待していた者も少なくないのだろう。結果として数度の腹打ちで根を上げてしまった男に対し、ちらほらと罵声も飛んでいた。画としては地味であったため、見る側としてはそういった不満が出ることも致し方ない。が、
(到底……耐えられる打撃ではないがね)
ドゥエンとしては納得の結末だった。
体力を奪う腹打ち。肝の臓へ狙いを絞った一点打ち。人体の急所を知り尽くした者、修練に修練を重ねた武芸者でなければなし得ない、堅実な武。巫術が発達したこの時代、自分たち以外にあれだけの強兵が存在していようとは――と目を細めて頷く。
――正直、気に入った。
(……む)
愛でるように鏡越しの流護を眺めていたところで、動きがあった。
『く、そが……お前、の……勝ちだ……』
よろめきながらも立ち上がったジ・ファールが、手にしたリングを突き出す。
『いやー、あのジ・ファール選手が完全に負けを認めて……すごいですねっ』
シーノメアが興奮しきりな口調で語る間に、
『くれてやる……持ってけよ、オラッ』
そのまま、リングを流護へ向かって乱暴に放り投げた。ひらりと宙を舞う紐状の輪――
『はい! これで完全決着――』
『――まだです』
ドゥエンは鋭く遮った。
『え』
ぽかんとしたシーノメアに応じることすらなく、矛の長は鏡を注視する。
ひらひらと空中を漂った紐状のリングが、遮った。
刹那に。
有海流護とジ・ファール、双方の視界を。
――もうたくさんだ。こんな武祭、やってられるか。
だから。
死ね、クソガキ。
ああ認めてやる、と魔闘術士の長は口の端を引きつらせる。『武祭』では、『試合』では勝てない。元々、性分ではないのだ。上品な規定に則り、気を使った『闘いごっこ』に臨むなど。
茶番は、ここで終わりだ。
ジ・ファールの詠唱は終わっていた。
くだらない武祭の規則に従い、リングを受け取るため棒立ちとなっている相手に、哀れみすら感じる。
(武祭? 規定? 知るかボケ、くっだらねーなァッ……!)
右の腕に集束させた、不可視の風刃。
(――バカが、くたばれ――)
滞空するリングによって目隠しされた一瞬の隙に、その腕が閃いた。
ぱん、と。
『その腕』が。流護の左腕が、放られたリングを払いのけていた。
「は?」
呆然となったのはジ・ファールだ。
お前、何してんだ。リングだろ。それを集めるのがこの武祭の目的だろ。規定の内容、理解してねーのか。馬鹿正直に回収しろよ。
流護の黒い瞳には、リングなど映っていなかった。
闇のような色の両目は、ただジ・ファールのみを見つめている。それは先ほどまでの、顔色を観察する視線ではなく。ただただ冷たい、冥府の色。もう、相手の弱り具合を確認する必要などない。ただ終わりを告げようとしている、そんな冷めた――
「何を意外そうなツラしてんだ。最初に言ったじゃねえか」
静かな声で。色のない顔で。
少年は、告げた。
「――――俺は、お前を殴りに来たんだよ」
打ち抜いた。
着弾の瞬間に止め、手元を引き戻す拳ではない。コツコツと続けた、絶妙な加減の篭もったボディブローでもない。
有海流護が放ったのは、フルスイングの右フック。着弾点はジ・ファールの左頬。
拳から手首へ。手首から肘へ。肘から肩へ。肩から――全身へ。敵を、人体を破壊する感触が、隈なく伝わっていく。
びき、ごきん、と。致命的な音が木霊した。繊維を、傷つけてはならない何かを引き千切る破滅の音。
玉のようにジ・ファールの顔が跳ね弾けた。頬骨が砕け、ただでさえ細い顔が歪に陥没する。押し出される形で、左目がニュルリと白目を剥く。顎の接合が外れ、開いた口の隙間から舌が飛び出す。
一撃で倒れゆこうとする細い魔闘術士の身体を、さらに破滅的な音が拾い上げる。
続いたのは、左のアッパーカット。粉砕する顎。吹き飛ぶ歯。挟み込まれ厭な音を発する舌。巻き起こる血風。倒れることを許さないとばかり、沈みゆく身体を強制的に立たせる一打。
そうしてわずか浮き上がった痩躯を、目に見えて歪に変形した顔面を、再度の右が容赦なく薙ぎ払った。
右、左、右。電光石火のトリプルパンチ・コンビネーション。
ジ・ファールの細い身体が、横殴りの衝撃を受けたことで風車のように空中回転した。螺旋を描いて赤い飛沫が舞う様を見れば、風車よりも水車が近しいか。そして人身事故のごとく、細身が頭から大地へ叩きつけられる。びしゃあ、と大量の血雨が降り注いだ。
返り血を浴びながら冷たく見下ろす流護と、動力を失ったように倒れたジ・ファール。その間に、
「そこまで。終わりだっ」
傍観していた白服が素早く割って入る。
有海流護対、ジ・ファール。
完全決着の瞬間だった。




