219. 深き沼の底へ
閃いた紫電の稲妻が空間を灼き、男の顎を打ち抜いていく。
「かはっ……」
糸が切れた人形を思わせる動きで、黒マントの男が力なくくずおれる。後を追うように、その首へ巻かれていたリングがはらりと解け落ちた。
「む」
白光散らす雷棍を一振り。虚空へと消失させ、ダイゴス・アケローンは低い声で呻く。
周囲の景色を観察する。鬱蒼と広がる深緑の木々に、黒水鏡が括りつけられている様子はない。鏡が発する独特の気配も感じない。つまり今の戦闘は、観覧席の者たちには見られていない。
(仮にドゥエンの兄者が見とったなら、顔を顰めたじゃろうな)
開始から四時間。なぜか単独行動をしていた魔闘術士の構成員とようやく遭遇したところだったが、反撃の一閃にて沈めてしまった。これでは誘導するべくもない。
しかし。
(……これで、はっきりしたがの)
実際に対峙し、改めて認識する。
確かに、魔闘術士の実力は決して低くない。
だが、無意味だ。
この程度の連中をいくらエンロカクへ宛がったとて、あの怪物を消耗させることなどできはしない。命じたドゥエンとて、そんなことは百も承知のはず。
つまり。やはりこれは結局のところ、査定なのだ。
その内容に意味がある訳ではない。若手たちが、下された任務を全うできるか否か。その仕事ぶりを見るための、試験。
エンロカクを消耗させる、などという理由は建前のもの。雪崎桜枝里を助けることなど、やはりドゥエンは微塵も考慮していない。
もっとも、それが当然なのだろう。
とうに神性の失われた、すげ替えがきくただの女。巫女の――桜枝里の存在をそのように考えている者は、『千年議会』内にも少なからずいるはずだ。桜枝里を手込めにしようとしていた、カーンダーラ然り。
「…………」
音を立てず、息を潜め、ダイゴスは川沿いの樹林を進む。
『いいんだぜ、ダイゴス。お前ぐらいは、あの子の味方をしてあげても』
甦る次兄の言葉。
『もう、後悔はしたくねえ。俺には……力があるんだから』
浮かぶ少年の言葉。
(さて……残るは――)
一通り、エンロカクが立ち寄りそうな水場は回ってきた。しかし、未だ遭遇せず。エルゴやハザールはどうしただろう。すでにあの怪物と接触したのだろうか。
考えつつ、最後に残った候補地である、清流煌めく東の川へと足を向けた。
(……サエリ、待っておれ)
ただ一人の少女を、古の悪習から開放するために。巨漢は、潅木を掻き分け進み行く。
「ふー……、お」
第三者の気配を感じ、気だるい息を吐いたジ・ファールは目だけをそちらへと向ける。木々の間からまろび出たのは、純白の装いの大男。判定員たる白服だった。
「ギャラリーの登場か。っても、開幕当初からオレの近くをウロチョロしてたみてえだが。優勝候補ってのは目ぇ付けられてツレーなァオイ。……ところでだ。もしかしてよー、リューゴ」
くつろぐように倒木へ腰掛けるジ・ファールは、見えない風と格闘する流護をつまらなげに眺めながら問う。
「規模のデカい術の、長時間行使……それでオレがヘバるのを待ってる、って訳じゃねーよな。まさかとは思うがよ」
荒い息をつきながらも足を止めない流護。避けることに精一杯で、反撃の糸口が掴めずにいると見える少年。その返答を期待していた訳でもなく、髑髏は笑う。
「言っとくが無駄だ。オレがその気になりゃ、このヘィルティニエを半日は維持できる」
唸りを上げる、不可視の豪腕。流護は身を屈め、これをきれいに躱しきる。
「ハ……大した武術の才覚だ、リューゴ。ボロボロの癖しやがって、上手く避けるようになってんじゃねーか」
嘲りの交ざった称賛を送りつつも、ジ・ファールは命じる。
「が、もう飽きたな。潰していいぞ、ヘィルティ……?」
生温いぬめり。思い出したように鼻から伝った鮮血が、言葉を中断させた。忌々しいとばかりに拭いつつ舌を打ち、必死で抗う少年を圧殺すべく、己が術へ意識を集中する。
大気を掻き乱すように旋回する、ヘィルティニエの巨腕。凶悪な風撃そのもの。しかしそのうねりを、対峙する少年は潜る。いなす。篭手で弾き、流しきる。
(……コ、イツ……?)
――おかしい。
上手く避けるようになった――どころではない。先ほどから、明らかに当たらなくなってきている。見えないはずの風を前に、吹き飛ばされることがなくなっている。
(どうなってやがる)
優れた体術使いとはいえ、この短時間で不可視の攻撃に対応できるはずはない。そうでなくとも流護自身、すでにボロボロなのだ。その足取りは、間違いなく最初より重くなっている。
となれば、
(落ちてやがるんだ。ヘィルティニエの速度の方が)
しかし先ほど流護に語った通り、まだ疲弊による集中切れなど起こしはしない。なのになぜ――
「!」
そこで、その視線に気付く。
風の猛攻を掻い潜る流護。その黒い瞳が、じっとジ・ファールを見つめている。覗き込むような、観察するような、その視線。
「……欝陶しいガキだ。とっととくたばれ」
ここは確実を期す。ヘィルティニエと自分自身によって挟み打ちにするべく、ジ・ファールは倒木から立ち上がって――
「……!?」
そこでようやく、異変に気付くこととなった。
足が、全身が――重い。知らぬうちに身体を鉛にすり替えられたかのような倦怠感。思わず手のひらへ視線を落とせば、指先が薄く青紫に染まっている。
「な、ん……ッ」
なぜ、そんな状況に陥っているのかが分からない。震える、上手く動かない手でアーシレグナの葉を取り出し、口へ突っ込む。咀嚼し、勢いのままに飲み込む。
眩暈を起こしたように、足がふらついた。
(なんッ……だ、どうなって、やがる……!?)
「はは。アーシレグナって、食っちゃってもいいのかよ」
完全に動きの鈍ったヘィルティニエの攻撃を悠々と躱しながら、流護が余裕げに笑う。
「うるせーぞ、クソガキ……!」
さらにもう一枚取り出し、同じように口へ入れて嚥下する。原因は不明だが、これで少しは持ち直すはず――
「三枚、使ったな」
唐突に投げかけられたのは、風と格闘を続けている流護の言葉だった。
「あ?」
「アーシレグナの葉っぱだよ。お前……三枚、使ったよな」
それは確認だ。
「!」
そこでジ・ファールは相手の言わんとすることを理解した。天轟闘宴の規定。一人に三枚のみ支給。倒した相手から奪うことが禁じられている、その回復手段。
そんな思考の隙を突くように。
凄まじい速度で飛んできた石が、ジ・ファールの鼻柱に命中する。血飛沫を撒き散らしながら、魔闘術士の首領は倒れ込んだ。
「おっ……と!」
流護はのけ反り、勢いよく唸った風を紙一重で躱す。
術者であるジ・ファールが派手に倒れたにもかかわらず、風の怪物ヘィルティニエは健在だった。それどころか主への追撃を阻むかのごとく、空間を歪ませて立ちはだかる。先ほどジ・ファールが被弾しかけた際にはこの風の動きも一瞬止まったが、今度は隙を埋めるように唸りを上げていた。
動きの精度こそ格段に落ちたものの、この風の魔神は未だ消える気配を見せない。詠唱に一時間もの手間を費やして生み出された術は、その持続力も桁違いということか。
ともあれ好機。流護は速度の鈍った風を掻い潜り、倒れたジ・ファールへと肉薄する。
拳足の間合いへと到達した瞬間、
「!?」
驚いたのは流護だ。
地に突っ伏していたジ・ファールが、勢いよく跳ね起きた。
額に、こめかみに浮かぶ青筋。血走った両眼。憤怒の形相。それはいい。問題は――ジ・ファールが今、口にしているもの。その歯で噛み砕いているもの。緑色が瑞々しい、大振りの葉。
(は? なん……アーシレグナの……、四枚目……?)
思わず流護の動きが止まり、その隙を縫って黒の死神が攻勢へ転じる。右手を大振りに風の刃を放ち、その勢いのまま後方へ跳んだ。流護は体幹をずらしてこの一撃を避け、
「!」
背後からの風圧を察し、飛び込むように真横へ身を踊らせた。
直後、粉砕する大地。
転がりながら目を向ければ、立ち込める土砂粉塵。土色のカーテンの中に浮かび上がる、人型の上半身を模した巨大な影。
ジ・ファールとヘィルティニエによる挟み打ち。
「クソガキ……、調子に乗ってんじゃねーよ、なあ、オイ」
低く呻きながら、ジ・ファールはさらに二枚、三枚と緑葉を懐から取り出す。ねじ曲がった鼻を拭い、次々と口の中に放り込んで咀嚼していく。
「おいおいおい……」
流護は思わず、先ほど登場した白服へと顔を向けた。
一人に三枚のみ支給されるアーシレグナの葉。あらかじめ持ち込むことも、倒した相手から奪うことも禁じられている、三枚限定の貴重な回復アイテム。それをジ・ファールは、六枚も七枚も使用している。即時失格となってもおかしくない行為のはずだ。
が、流護の視線に気付いた白服は、わずか首を横へ振るのみ。
それは――問題なし。続行、という裁定だ。
「まじか」
この白服は、ジ・ファールの行為に不正はないと判断した。それはつまり――
「ふ、ふ。オウ……よーやっと……効いてきた、ってトコか」
散々にアーシレグナを摂取したジ・ファールは、狂気すら宿した表情で口の端を笑みに裂く。鼻からは血が、唇からは涎が伝っていた。一枚ですら強い興奮作用を齎す葉の連続使用。精神的な昂ぶりは、異常な領域へと達しているだろう。
「……アーシレグナ何枚持ってんだよ、てめぇ」
そんな流護の問いを喉の奥で笑った男は、
「あぁァ? んなモン、いくらでも持ってるぜ。正確にはあと……二十六枚だ」
言葉と同時。
前方で術を放つジ・ファール。後方から迫るヘィルティニエ。
双つの颶風が、少年を挟撃した。
『どど、どういうことですか!? 二十六枚って!?』
鏡の向こうで荒ぶ風を流護が捌く中、ガタリと立ち上がったのは音声担当のシーノメアだ。
『あの人これまで闘ってないし、倒す前に誰かから盗ったってことはないですよね!? なのに失格にならないって、どういうことなんですか!? あそこで見てる白服の人、買収でもされてるんですか!?』
直接の運営委員でない、素人娘を起用したからこそ飛び出した際どい発言にも、ドゥエンはフフと落ち着いた笑みを返す。
『此度の武祭、当初より魔闘術士の一行は優勝候補と目されていました。あの白服は、常に目玉である彼等――ジ・ファール氏の動向を追えるよう、ああして張り付いています。氏が不正行為に及ぶ可能性もあったため、監視していたという意味合いも強いのですが』
『か、監視してたなら、尚更……!』
『監視していたあの白服が、判断したのです。不正ではないと。つまりジ・ファール氏は、規定に抵触しない形でアーシレグナの葉を確保した事になります』
む、と声を上げたのはツェイリンだった。
『……成程のう。そういうことか。ようは見えんかったが、今程ジ・ファールめが使った葉の数は恐らく七枚じゃな。残り二十六枚と合わせて――』
『ええ。ジ・ファール氏は、三十三枚のアーシレグナを所有していたと考えられる』
『さ、三十三枚って……そんなにたくさん、どうやって……、え? あっ……三十三……?』
その数を聞き、シーノメアもようやく気付いたようだった。
頷くドゥエンが結論を述べる。
『一人に支給されるアーシレグナの葉は三枚。そして、参加している魔闘術士は総勢十一名。つまりジ・ファール氏は、他の仲間達全員からアーシレグナの葉を徴収していた』
観客たちがどよめく。その困惑を代弁するように、シーノメアがかすれ気味の声で呻いた。
『そっ……れは、……なんて、ことを』
『規定では「倒した相手から荷物を奪うことは禁止」となっているのみですからね。多数の仲間と出場したが故の手段といえるでしょう』
時を同じくして気付いたのか、黒水鏡から流護の声が流れた。
『使ったのと合わせて、三十枚ちょいってとこか……なるほど。仲間の分も、全部てめぇが一人占めにしてたって訳か。よく納得したな、あの狂犬みたいな連中が』
魔闘術士の首領は舌を出して嗤う。
『語弊があるな、ガキ。最初から、勝つのはオレ一人だ。他の連中の役割は、オレの優勝を補佐するコト。下級兵どもに深く考える知能なんざねーしな、カザやバルバドルフには何だかんだ言い含めて納得させてある。まァ、ようは等しく捨て駒だ。捨て駒にアーシレグナなんざ持たせたって、意味ねーだろが』
ケタケタと嗤うその様は、生者全てを食い物にする屍鬼のよう。大量の回復を溜め込んだ死神に対し、流護は――
『……はっ、好きにしろよ』
鼻で笑っていた。
『いいぞ、好きなだけ使え』
拳を打ち鳴らし、白い歯を剥き出しにして。
『テメェが回復したその分だけ、余計に多く殴れるってだけの話だろ』
気丈な宣言に、観客たちが沸き立った。
すでに満身創痍の流護。多量の回復を温存するジ・ファール。考えるまでもなく、絶対的に不利な状況。自らを奮い立たせるため、あえて口にした挑発。
――と、大半の者が思っていることだろう。
(どうやら私は……まだ、君の事を過小評価していたようだ)
喉の奥で、ドゥエンは静かに笑う。
視点も遠方からの俯瞰気味。鏡越しゆえ、断定はできない。アーシレグナの摂取によって持ち直したように見える、ジ・ファールの狂相。しかしその顔色は悪く、唇は濃い青紫色に染まっている。
(あの症状……)
これまでの闘いぶりを吟味し、腕前にそぐわぬ甘い少年だと思っていた。しかし。
(……フフ。彼は観察している。ジ・ファールがゆっくりと沼地へ沈んでいく、その様を)
流護の黒い瞳。深淵の闇を思わせる静かな両眼が、じっと獲物の変化を逃さぬよう捉え続けている。
(素質があるかもしれんな。ダイゴスよりも、遥かに)
『その道』の専門家が、細い眼を光らせた。
(人殺しの素質が……ね)




