215. 矛盾の殺意
「いつまでよぉー」
対峙する両者の間に割って入ったのは、干からびた甲高い声だった。
「いつまで……つまんねぇ格闘ゴッコで……乳繰り合ってんだ? この、俺様を……差し置いてよぉー」
流護とエンロカクは同時に目を向ける。
その視線の先――声を発したバルバドルフは焦点の定まらない瞳のまま、肩を震わせて嗤っていた。
「……邪魔だな。ブッ壊れた風見鶏みてえで見苦しいぜ。先に片付けちまうか」
冷淡な重低音で呟き、エンロカクが手のひらを魔闘術士へと向ける。流護は妨害するでもなく、その様子を静かに観察していた。
先ほどの意趣返し。バルバドルフへ仕掛けた直後のエンロカクを、横から狙うつもりで。
――しかし。
瀕死の魔闘術士へ照準を合わせた巨人は、時が止まったかのごとくその身を硬直させた。
「………………、」
薄く黄ばんだ白目を限界まで見開き、信じられないものを見るような顔で。
「あぁーん? どうしたよ、黒ブタ……。撃たねぇのかぁ~? 撃ってみろよ……オラ」
鼻から流れ落ちる血を滴らせながら、身体をふらつかせながら、バルバドルフが前進する。こちらへとやってくる。まるでゾンビを思わせる、おぼつかない足取りで。
エンロカクが一撃放てば、間違いなく倒れるだろう。
しかし。
「て、めぇ……、正気か……?」
黒き巨人の口から漏れるのは、低い驚愕の呻き。
(……? なん、だ……?)
流護にしてみれば、信じられない光景だった。
あれほど泰然自若としていたエンロカクが、間違いなく動揺している。ふらつくバルバドルフに攻撃を仕掛けないどころか、瞠目しながら後ずさっている。
(……何だ……ってんだ?)
これまでの戦闘で流護に対してすら見せていない、無法の巨人の明らかな驚愕。近づくバルバドルフ、下がるエンロカク。
「チィッ……!」
エンロカクが舌を打つと同時、強風が発生した。しかしそれは、敵を倒すための攻撃術ではない。
「く……!」
至近で発生した烈風に流護が顔を庇った瞬間、
「冷める真似しやがって……!」
ただ、その言葉だけを残し。
風が収まる頃には、消えていた。エンロカクという男の、姿そのものが。
「……、」
流護が呆然となる間にも、乱立する木々の枝葉を散らす音が遠ざかっていく。
間違いない。
あのエンロカクが一目散に、なりふり構わずこの場から離脱していた。
「は……?」
流護にしてみれば、まるで意味が分からない。
いきなりエンロカクが逃げた。あの怪物じみた男が。何で? こんな急に?
理解が追いかつないまま、耳障りな哄笑が河原に木霊する。
「ひゃぁはははは! ダッセェなおい! 黒ブタ野郎がよ、ケツまくって逃げちまったぞ!? はぁっはは、ははっ……ひは、ひひ……!」
馬鹿笑いするバルバドルフだが、当人は苦しげに片膝をついている。今ほどのエンロカクの風に煽られ、体勢を崩していたのだ。それでいて、そのまま立ち上がれずにいる。それほどの消耗。押せば倒れる、瀕死の状態。もはや、神詠術を使えない一般人でも勝てるだろう。
そんな相手を前に、あのエンロカクが、止めを刺さないどころか逃げ出した――?
「なぁ、アリウミリューゴよぉ……テメーは……違うよなぁ? 逃げたり……しねぇよなぁ? 黒ブタみてぇに、無様によぉー……」
「…………」
この状況。
エンロカクが逃亡し、今にも倒れそうなバルバドルフと一対一。勝敗など決したようなものだ。どうするかなど、考えるまでもない。
――はずなのだが。
「オラ、来いよ……アリ、ウミ……リューゴ。テメーが……昨日、連れてた女も、鏡の向こうで……見てんだろ? いいトコ、見せとかなくて……いいのかぁ? ひひ」
「…………、」
息も絶え絶えに吐き出しているその陳腐な挑発が、まるで――
(こいつ……俺を、この場に留めようとしてる……?)
なぜ、エンロカクはバルバドルフに止めを刺さなかったのか。
違う。
刺さなかったのではなく。刺せなかったのでは?
「――――――」
ふと、以前ベルグレッテから聞いた話が脳裏に甦る。それは、魔闘術士という集団の特徴についてだ。
遥か南の一部地域にて、力に自信のある者たちが「己は詠術士より優れた存在だ」との意味を込め、差別化を図る目的で魔闘術士と名乗っている。
その自負に違わず、強力な神詠術を扱う厄介な連中。特筆すべきはその『凶暴性』。女子供に対しても一切の容赦をせず、敗北を悟ったなら、自分自身に神詠術爆弾を仕掛けてでも相打ちを狙う。
自分自身に、神詠術爆弾を仕掛けてでも――
考えがまとまるより早く。
流護は、全力で駆け出した。バルバドルフに背を向け、一目散に。先ほどのエンロカクと同じように。
「おぉ!? てめーもかよ、臆病モンがアァ! ひゃはははぁはは!」
罵声を背に受け、それでも流護は駆ける。なりふり構わず、頭の中で結論が出るよりも早く、この場から離れ――
――どいつもこいつも、俺様を前に逃げ惑う。
女子供も、黒ブタもアリウミリューゴも。
そう、俺様が強いからだ。誰も敵わず、無様に逃げ出す。あいつだって同じ。『あの女』も同じはずだ。今の俺様を前にすれば――
「……ぁあ」
――今の今まで思い出せなかった女の顔が、なぜか今この局面になって、ようやく鮮明に浮かんだ。
本来であれば、溜息が出るほど細く美しい造形といえる小顔。桜色の唇。高く整った鼻梁。そして――
両眼があるべき場所へ穿たれた、闇の深淵を思わせる穴が二つ。
目の亡い女だった。
可憐な顔立ちを穢すようにぽっかりと開いた黒穴。その様相はまるで、眼球をはめ込み忘れた高価な陶磁器人形。歪で美しい人形を思わせる、それでいてそら恐ろしい、どこか現実離れした女。
そんな瞳を持たぬ女は、しかし確かに『視線』を向けて問うたのだ。
『あなたの、お父さん?』
完全に思い出した。
「あひ……ひひひ……」
今の今まで忘れていた理由は至極単純。
恐怖。魔闘術士の兵隊たちからは取り除いているその感情。上等兵として――精神改造をされず育った自分には、皮肉にも残ってしまったその感情。
可憐な容姿とは裏腹。冥府のような闇を顔に張りつかせた女が、ひどく恐ろしかったのだ。記憶が拒否し、容易に掘り起こせない奥底へと封じてしまうほどに。
怖くてたまらないから、自分を慰めた。あの眼窩の闇と同じ黒を纏い、他人を恐怖させることで、自身を慰めた。金髪の女を蹂躙することで、あの女の上に立ったと錯覚した。
そしてそれは、諦めの裏返しでもある。
あの異常な女に敵う気がしなかったから、他者を貶めることで必死に自分の価値を保ち。黒髪の少年と風使いの巨人に手も足も出ないから、『こんな真似』をしてまで優位に立ったつもりになって――
逃げだ。
あの女からも、あの二人からも、勝ったつもりになって逃げ出すために――
「ち、が……違う。違う違う違う違う……! 俺様が、最強なんだ――――」
『だれ、だよ……おまえ……?』
『ふふ。口の悪い坊やね。わたしは、エリ――』
その最期の瞬間まで、己の感情すらねじ曲げ、偽ったまま。
バルバドルフという男は、自らの内側から炸裂した眩い閃光に包まれた。
地を揺るがす爆発音が轟き、観客席から悲鳴が上がる。
音だけではない。バルバドルフの姿が白光に包まれた瞬間、彼らの戦況を伝えていた黒水鏡は何も映さなくなった。同時、皆の前に広がる森――『無極の庭』の一角から黒煙が立ち上る。
『こ、これは!? いったい何が!? 大きな爆発が起きたようですがっ』
『ふ。イカレとるのう……鏡を割ってくれおって……!』
超越者たるツェイリンですら、引きつった笑みを無理矢理に浮かべていた。
『何が氏をそこまで駆り立てていたのかは、我々に知る由もありませんが――』
参加者の名前が表示されている部分へ細い目を向け、ドゥエンは淡々と結論する。
『三つ巴の闘い……一先ずは終結、といったところでしょうか』
『あ……!』
シーノメアがハッとする。爆発音に紛れ、見逃していたのだろう。慌てて宣告した。
『脱落……! 068番、バルバドルフ選手が……ここで脱落です……!』
ベルグレッテは呆気に取られ、場面の欠けた黒水鏡を見つめる。
流護たちの様子を映していたその一角のみが、塗り潰されたように真っ暗となっていた。
他の場所の様子や、魔闘術士の一人と奮闘するゴンダーの模様は、今も変わらず映し出されている。ツェイリンが言っていたように、流護たちを捉えていた鏡が破損したのだ。
「……、」
ベルグレッテ自身、正直なところ半信半疑だった。いかに魔闘術士が狂気的な思考を持っていたとしても、まさか本当に――
「んー……、自爆とはね。どうしてそこまで……俺には、ちょっと理解できそうにないな」
隣席の紳士が、目頭を押さえながらそう零す。閃光に目が眩んだようだ。
五年前。レインディール王都でテロを起こした魔闘術士らは、対応したナスタディオ学院長によれば『悪』という言葉を体現したような存在だったという。
敵わないと見れば、相打ちすら厭わないその思考。実際にこうして目の当たりにし、やはり危険すぎる存在だ、とベルグレッテは肝を冷やしていた。
(……、でも)
同時、にわかに安堵する。
今の爆発があってなお、点灯し続けるリューゴ・アリウミの名を見据えて。
鏡に投影されている場面が変遷し、驚きに満ちた国長や、顔を青くした桜枝里の様子も映し出された。
(サエリ……)
彼女の気持ちは痛いほど理解できた。ベルグレッテもすでに、驚き疲れてしまった感がある。今だって、もうだめだと思ってしまった。
流護や桜枝里のいた世界はひどく穏やかだったという。この闘いの連鎖は、彼女にとって衝撃的なものに違いない。
(……大丈夫よ、サエリ)
それでもベルグレッテは思う。信じる。
未だ輝き続ける、リューゴ・アリウミの文字。そして、エンロカクの文字。
次に両者が見えるそのときには、きっと――




