214. 業
拳を受けた直後、同等の衝撃が後頭部を強かに叩いた。
殴り倒されたバルバドルフが頭を地面へ打ちつけたことによるものだったが、反響する揺れによって天地の区別すらつかなくなっている当人は知るよしもない。仰向けとなった魔闘術士の目に飛び込んだのは、
(光……、…………金、色の……)
端張る樹葉によって覆い隠された空。生い茂る枝葉の隙間から降り注ぐ光。
(……金、髪……、無術……)
金色に錯覚する昼神の恵みと、術を使わないという信じがたい敵が、刹那に過去の記憶を垣間見せた。
いつもと同じ、暑い砂漠の朝。
その日は『狩人』らが間違って捕えてきた男たちの解体し方を父から教えてもらう予定だったが、その父親が起きてこない。
やむなく、起こすために訪れた寝室。
代わり映えすることのない、狭く薄汚い部屋。その中にあった異常。敷き詰められた床石の溝をなぞるように流れ、伝っていく赤。
そこにいたのは、修道服姿の女だった。
心臓部を一突き。針のように細い漆黒の剣を胸へと刺され、絶命している――と子供の目にも明らかな父親。その死体の前で佇んでいたのは、神に仕える職務の――修道服を纏った金髪の女だった。
――こいつは、違う。同胞たちが捕らえてきた餌じゃない。こんな奴、見たことがない。何だ。何だ、こいつは。
彼女がこちらへと振り返れば、燦々と注ぐ朝の恵みを受けた黄金の髪が、良質な絹のように輝いて揺らぐ。
美しい、と。
ただ、目を奪われた。胸が高鳴った。
女など、ただの道具でしかないというのに。父が、目の前で殺されていたというのに。
――その顔が、思い出せない。
『あなたの、お父さん?』
少し鼻にかかる、間延びした甘い声。
がくがくと頷けば、女は「そう」と微笑んでバルバドルフへと歩み寄る。
殺される、と直感した。この女は自分よりも遥か上の存在なのだ、と本能が知覚した。自分が子兎で、この女が獅子なのだと。それほどの、生物としての差。
魔闘術士の集落へどのようにして入り込んだのか、他の誰もこの女の侵入に気付かなかったのか、といった思いも浮かばなかった。
女は、身を硬直させる少年の肩へ優しく手を置いて。身を屈め、耳元で囁く。
『これもお仕事なの。ごめんね、坊や』
形のいい桜色の唇が、ひどく印象に残っている。
抑揚のない声で言い残し、女は去っていく。父を殺した女は堂々と、少年には手をかけず扉から出ていく。
『は……、は――ぁ』
バルバドルフの息は荒くなり、心臓はうるさいほどに脈打っていた。
耳元で囁かれた、吐息混じりの声。頬に触れた、繊細な金色の髪。刹那に漂った、女の甘い芳香。肩に置かれた手の、やわらかな温もり――
少年だったバルバドルフは、絶頂を迎えていた。
下衣を湿らせる生温いぬめりの不快感とは裏腹、身体中を満たして広がる心地よい感覚。それは一際強烈な印象として、少年の脳髄へと刻み込まれた。
強力な術者だった父を殺害した女。その正体は、精鋭の調査をもってしても判明しなかった。
術の痕跡をたどる能力に反応がなかったことから、この女は、侵入、殺害、逃走――全ての過程において一切の神詠術を使わなかったという驚愕すべき結論が出ている。だが、そんな真似のできる人間が存在するはずはない。結局、集落の同胞たちは幼少のバルバドルフの証言を信じようとはせず、妄想として片付けられた。父は恨みを買い、誰かに不意をついて刺されたのだろう、ということで決着した。
そうした同胞間での面倒を防ぐために大半の者を狂操霊薬で縛りつけているのだが、それでも薬に依存していない『狩人』同士であれば多少の揉め事が起きてしまうことはある。
これはそんな、ただの集落内でのいざこざ。
あの事件の真実を知るのは、バルバドルフのみ――。
(こ、のガキ……同じ……)
術という術を避けきり、ついには素手で己を叩き伏せた少年に、バルバドルフはあの女と同質のものを感じていた。
連鎖するように、思い起こす。
(――ひひ、ひ。負け、られ……ねぇ)
あの女を捜す。
バルバドルフが外の世界へ踏み出した理由の一つはそれだ。
父の仇討ち――などというつもりはない。
そもそも一族は、外部からさらった女たちに次々と子を生ませることで繁栄している集団。あの親が実父だったかどうかも怪しいところだ。そんなことはどうでもいい。
(あの女を――)
犯す。殺す。
煌めく美しい金髪。鼻にかかった甘い声。桜色の艶っぽい唇。顔の思い出せない、あの女。想うだけで、それらを汚すことを夢想するだけで、理性の箍が外れそうになる。
少年時代に味わったあの甘美な感覚を、再び堪能するために。あの女を、この手で蹂躙するために。
(こんな、ところで……寝て……られねぇよなぁ……)
狂気を宿した両の瞳に、再び鈍色の光が戻る。
殴り倒されて血まみれとなったバルバドルフの顔面が、凄絶な笑みを刻んだ。
グッ、と流護は己が拳を握る。
日々繰り返していたベルグレッテやクレアリアとの訓練。即ち水属性の使い手との模擬戦、その成果といえるだろう。自分でも驚くほどに、水の軌道を読むことができた。
(けど、このモミアゲ野郎……凌ぎやがった)
バルバドルフは拳が直撃する瞬間、顔を引いて飛びずさろうとすることで威力を軽減していた。手応えは浅く、その証として倒れ弾んだ魔闘術士の首輪は外れない。追撃に移ろうとする流護だったが、
「ちっ」
その前に振り返る。風を操る巨人が、滑るような速さで眼前へと肉薄していた。
「ほう、気付くかよ」
「ったりめーだ、何回目だよその手口……!」
獣は、獲物へ喰らいつくその瞬間にこそ隙を晒すという。そんな俗説に則るがごとく。バルバドルフへ牙を突き立てた直後の流護を狙い、エンロカクが風を唸らせていた。
渦巻く暴風を纏った拳が数発。躱してなびく髪を巻き込まれそうになりながら、手甲で防いだ腕を弾かれそうになりながら、しかし少年は全てを捌ききる。
「フッ……あの不規則な水撃を躱し切るだけのこたァある。受けの技量は一級品だな」
「そりゃどーも」
吹き荒ぶ連撃の最中、
「……フム、そういやぁよ。攻め手で術を使う、なんて言っておきながら……まだ、見せてなかったな」
巨人は、失念していたとばかりに太い唇へ意味ありげな笑みを浮かばせる。
「あ?」
「防の極致、逆風の天衣。あの風量を一点集中して、そのまま攻撃に使うと――」
ぐ、と巨人が拳を引いて身構えた。
「こうなる」
嫌な予感を覚えた流護は、何が来ても対応できるよう咄嗟に身構えて――
「――攻の極致、爆風陣」
見えていた。流護の目には、映っていたのだ。迫り来るのは、拳ではない。微風を纏った手のひらだった。
(掌底――)
廻し受けで迎え撃つ。円の軌道をなぞる鉄壁の防御技。長年鍛え上げてきた空手の技術が――ガン、と。
(――――、は?)
当然のごとく弾かれて。
『受け』をものともせず飛んだ掌底は、流護の左脇腹へピタリと宛がわれる。優しく、まるで寸止めのように。
(――――ま、ず――、ッ)
それは例えるなら、大砲の発射口を直に押しつけられているような。
流護は直感的にゾッとする悪寒を覚え、素早く身をよじる。
刹那、爆音と共に炸裂した。
エンロカクの手のひらから発せられたそれは、もはや『風』と呼んでいい代物なのかどうか。瞬間的に突き抜けた見えない力が、周囲の砂塵を巻き込んで唸りを上げる。
その衝撃は、躱そうとした流護の脇腹をわずかにかすめていた。
そして、それだけで。
爆裂した風の力が、この世界では重いはずの流護の肉体を易々と吹き飛ばしていた。
「――――――、ぶ――、ふ、……!」
血液が逆流し、口から盛大に溢れ出す。水切りの石さながら跳ね飛んだ流護は、老木の幹へ全身を打ちつけて、そこでようやく慣性の力から開放される。
「…………、が……、……」
ずるりと、そのまま大地へ転がった。
「ン~……、大した勘だぜ。直撃は避けたみてえだが」
静けさを取り戻した森に、エンロカクの低い声だけが木霊する。
「ま、関係ねえな。そこそこ楽しめたが……結局、こうなっちまうか」
大の字で横たわったバルバドルフ。吹き飛んで転がった流護。そしてただ一人佇む、エンロカク。
しかしまだ、倒れた二人のリングは外れていない。
「ふむ……少しばかり物足りん気もするが……これで幕引きだな」
伏した二人に止めを刺すべく歩き始めた黒き巨人は、
「ほう」
ふと足を止める。
血まみれの顔に、裂けるような笑みを刻みつけたバルバドルフが。
荒い息を吐きながら、有海流護が。
それぞれ、身を起こした。
「……、ぐ……がぁ……!」
流護は起き上がりながら、被弾した腹部へ手を当てて状態を確認する。
(……、ギリギリ、だな……)
肋骨が数本。折れてはいないが、電撃のように激痛が迸る。かすっただけでこの有様。ふざけた威力だ、と流護は口に溜まった血を吐き捨てる。
(……くっそ)
まんまとしてやられた自分に腹が立つ。防げる――捌ける攻撃を散々見せておいて、最後に防御などおかまいなしに突き抜ける超威力の一撃を打ち放つ。
(立派なフェイントが成立してんじゃねーか……やってくれるなおい……)
ちら、と視線を横へ滑らせる。
「ちっ……」
まんまと痛撃をもらっている間に、バルバドルフも立ち上がってしまっていた。
「……あー……どんなツラだっけなぁ……。出て……こねぇんだよなぁ……」
鼻は砕け、血まみれとなった口元には凄絶な笑み。その瞳は虚ろながらも危険な光が宿っており、意味不明な言葉をぶつぶつと呟いている。この男元来の気性も考えたならば、もはや何をしでかすか分からない。
(……は……やべぇぞ、こりゃ……)
息を荒げながら、少年は拳を握る。
「見上げた根性だな、お前ら」
労ってすらいるような口調で、黒い巨人が両者へ言葉を投げる。
「だが……もういいんだぜ」
そして、疾駆する。
「存外楽しめた。が、俺もまだやることが残ってるんでな、ここいらで幕引きにしようや。もうお前らに……用はねえ」
エンロカクの太い両腕へと集う風、顕現する二つの竜巻。それは――両の腕が数倍に肥大化したかと錯覚するほどの、暴風による武装。この渦巻く螺旋に触れれば、人体などいとも簡単に引き千切られることだろう。
「――終葬・爆風双連陣」
同時、流護は前に飛び出していた。エンロカクの腕へと集束する風に、乗るかのごとく。
(表向きは殺し禁止だってのに……こいつら、はっちゃけ過ぎなんだよ。…………もう、……)
目を血走らせ。口の端を吊り上げて。
――やるしかねえ。
『同じ土俵』に立つしかねえ。
流護は己にそう言い聞かせた。
少年の振るう武術には、原則として絶妙な力加減が存在している。それは決して、手抜きや手加減といった意味ではない。無意識下で働く抑止力とでも呼ぶべきか。おそらく、誰もが本能としてそういった感覚を備えている。それはきっと、荒事に慣れたこの世界の住人でさえも。
自分や相手の『明日』を考えた闘争。飽くまで敵を制し、押さえるための力。敵を倒すための力。
今から流護が振るおうとしている力は――それらとは、対極に位置するものとなる。
敵を斃すための力。敵の『明日』を顧みない闘争。
つまり。
『でも、師匠。そ、そんなの……』
『では……どうするかね? 今まさに自分の命が危ない、という状況に於いて、まだ法に縋るかね? 綺麗事を口にしたまま、無様に死ぬのかね?』
能面のような、老人の貌が。
『いいんじゃよ、流護ちゃん。おじいちゃんが許そう』
笑う。
『そういう状況ではな。教えた通りに――』
嗤う。
かつてドラウトローやファーヴナールの頭を割り、暗殺者デトレフの腹を損壊させたような――暴力と呼ばれるものが齎す終着点。相手を、『その行き止まり』へと追いやるための力。倒すためではなく、斃すため。
拳を握りしめて、少年は前へ進み出る。
箍が、外れそうになっていた。自分の中にいる何かが、檻を食い破ろうとしていた。
迫り来るは、触れた瞬間に肉片となりそうな暴風の拳。右フックの軌道で薙がれるそれを大きく回避し、竜巻を掻い潜って内側へ入り込む。
「――シッ!」
大旋風が渦巻いていなければ、乾いた音が響き渡っていたことだろう。
踏み込みと同時に放った渾身の左下段蹴りが、エンロカクの右脚を傾がせた。
「ぐ、お……!?」
相手の『明日』を顧みない一撃。折れようが、歩けなくなろうが、お構いなしの蹴撃。
常人ならば粉砕骨折してもおかしくない一撃だが、巨人は中腰となるのみに留まる。そしてそれは、流護の読み通りだった。
刹那、腰が落ちて直角となったエンロカクの右膝。流護はそこに足をかけて踏み台とし、高々と跳び上がっていた。
「何ィッ――――」
太い唇から発せられる、太い驚愕の呻き。
この背丈を誇る大男が『上』を取られたのは、これが初だったのかもしれない。
ファーヴナールの時のように、この世界へ訪れて日が浅い訳でもなく。デトレフの時のように、近しい誰かが危険に晒されたゆえの怒りでもなく。
この異世界で命を賭した実戦に触れ続けたことで、自らの命が危ういと否が応にも認識せざるを得ない状況へ置かれたことで、それが『ついに』揺り起こされたのかもしれない。
箍は外れ、飛び出した。
『――教えた通りに。殺めて、しまいなさい』
頭上から覆う影に目を剥くエンロカクの顔へ注いだのは、容赦なく叩き落とされた右肘。硬いものへと叩きつける衝撃。鼻骨が折れる感触。びちゃりと生々しい音が耳朶を叩く。
そうして立てた右肘――握った右拳へ左手を添え、容赦なくねじりながら押し込んだ。
少年が本能的に繰り出したその業。名を、貌滅と云う。
師たる老人が『なぜか』仕込んでいたその闇は、決して格闘技の技巧でなどありはしなかった。
「ぼ、はぁ、お お、ごおおおおぉぉッッ――――……!」
獣のような絶叫と同時、巨人の腕に渦巻いていた竜巻が霧散する。太い指が顔を押さえ、その隙間から赤いぬめりが溢れ出す。
その巨体をくの字に折り曲げてよじりながら、凄まじい咆哮を発する。たららを踏んだ大きな足が、砂煙を立ち上らせる。滴る赤い斑点が、大地に染みを作る。
冷めた感情の中で、流護はにわかに目を剥いた。
「倒れねーのかよ」
信じられないような頑強さというべきだろう。
しかし思考はすでに切り替わっている。倒れないのなら、倒れるまで――斃れるまで打ち込むのみ。殺し合いを続けるのみ。
着地するなり追撃に移ろうとする流護は、
「…………」
その前に、油断なく視線を横向けた。
棒立ちとなっているバルバドルフの横槍を警戒してのことだったが、魔闘術士は虚ろな目をしたまま動く気配がない。アーシレグナの葉を使おうともしない。
先にこちらを片付けるべきか迷うほどの隙を見せているものの、
「フ、ハ、ハハ、ハハハハハ……!」
そんな時間を与えるエンロカクではないだろう。流護は警戒を強め、顔を押さえながら笑う巨人を静かに睨み据える。
「いい……ぞ……、打撃に……『殺る気』が篭もったなァ……。いよいよ、楽しくなってきやがったじゃねえか……!」
みち、と濡れた音。エンロカクはひしゃげ曲がっていた自分の鼻を掴み、強引に矯正した。血にまみれた巨人の顔は、この上ない狂喜に満ちている。
「……ああ。気に入ったなら、何発でも打ち込んでやるよ。あんたマジ強えからな、もう遠慮はしねえ。ちゃんと死ぬまで、打ち込んでやるよ」
何のことはない。
殺られる前に殺る。
単純明快な、この世の摂理。
一個の生物として至極当然な本能に従い、流護は静かに外敵を見据えて――
――結論からいうならば。
予想外、といわざるを得ないものだったのだろう。
殺意という一点において、異常なまでに突出していたその男。そんな存在によって齎された、この闘いの結末は。




