213. バトルロイヤル
「は……、はぁ、ぐっ……、」
太い幹を背にして、杖の家系が若手――ハザール・エンビレオはガクリと崩れ落ちるように座り込んだ。
――やりきった。
魔闘術士の一員であるあの男を、エンロカク・スティージェへと引き合わせることに成功した。
「へへ……、痛ッ……」
もっとも、その対価は――バルバドルフを引きつけ続けた代償は大きい。ここへ至るまでに、決して浅いとはいえない傷を負ってしまっていた。もうアーシレグナの葉も使いきった。血を流しすぎたせいか、意識が朦朧とする。
(くっそ……調子乗りやがって、あの蝙蝠野郎……)
ともかく、やれることはやった。たった一人しか引っ張れなかったが、あのバルバドルフは手練だ。有象無象を複数ぶつけるよりも、効果は望めるはず。
(せいぜい互いに潰し合いやがれ、くそ野郎どもめ……)
少し気がかりなのは、エンロカクと対峙している少年がいたことだ。歳の頃は、エルゴとそう変わらないのではなかろうか。巻き込んでしまう形になったのは不憫だが、正直そこまで気を使う余裕もなかった。彼には、己の不運を嘆いてもらうしかない。どちらにせよ、あのエンロカクと向き合っていた時点で未来はないかもしれないが……。
(まいった……な……、ったく、ボロボロだよ、くそ)
果たして、ドゥエンは評価してくれるだろうか。無為な傷を負うな、と言われていたような気もする。朦朧として、もうよく分からなかった。
(ああ……疲れ、た……、ダイゴス……エルゴ……、あと、頼む…………ぜ)
バシュン、と脱落者を知らせる音が鳴り響く。
『ああっと!? 凶悪な面構えの三者が睨み合う中、これは……』
035、ハザール・エンビレオの名前が消失した。
『つ、杖の家系から出場しているハザール選手! 先ほどリューゴ選手とエンロカク選手の前に姿を現し、すぐに消えてしまったハザール選手が脱落です! な、なにが起こったのでしょうか!?』
『ふむ……彼も、深手を負っているようでしたから。限界だったのでしょう。若手の戦士ですが、これまで健闘したのではないかと』
『あのバルバドルフなる者に、しつこく追い回されておったからのう』
満足げにドゥエンは頷く。
(一先ず役目は果たしたな、ハザール)
戦闘の腕前ではエルゴに大きく劣るものの、言いつけた命令を遵守したという時点で、エルゴよりも評価に値するとドゥエンは判ずる。いくら腕が立とうとも、指示を守れないようでは使えないのだ。かつてのエンロカクのように。
(……ダイゴス……後は、お前だ)
冷たい瞳が、黒水鏡を見据える。
(この兄を……失望させてくれるなよ……?)
おもむろに懐から小石を二つ取り出した流護は、
「シッ!」
エンロカクとバルバドルフ、両者へ向かって投げつける。
微動だにせず逆風の天衣によって平然と弾くエンロカクと、
「おっと!?」
慌てて身を翻すバルバドルフ。
そして流護は、投擲と同時に地を蹴っていた。この魔闘術士の男へ向かって。
「なッ――」
バルバドルフが大きな眼を殊更に見開く。その速度に驚いたのだろう。
瞬く間に最短距離を駆けた少年は、まだ持ち直していない黒衣の無法者へ右ストレートを打ち放った。
「がば、ぁ!?」
ディノやエンロカクのように反応できる者など、そういるものではない。だからこその必勝、黄金パターン。当然のごとく反応できず、バルバドルフは剛の拳を頬へ受けて宙に舞う。
「雑魚の掃除、お疲れさん」
そして流護の背後に猛然と迫るは、黒き巨人。咄嗟に屈み込めば、頭のすぐ上を豪風が過ぎていく。その正体は、気流を纏った右の拳。並ならぬ風圧が、少年の黒髪をにわかに逆立たせた。
「どういたしまして、ってか!」
振り返りざま反撃に転じようと試みる流護だったが、
「!」
すぐ目の前。殴り飛ばしたはずのバルバドルフが、器用にバック転しながら持ち直した光景を目撃する。
「痛ッ――てええぇええぇッッな、こンッのクッソガキャアアアァァ!」
目を血走らせた魔闘術士は、何かを投げるように大きく腕を振りかぶった。咄嗟、流護はエンロカクへの反撃を中断。横へと転がりながら跳ぶ。
バチィン、と乾いた音が耳朶を叩く。
直前まで流護のいた位置を突き抜けた水が、すぐ真後ろに立っていたエンロカクの顔面へと着弾した。
「!」
その光景に、流護は目を剥く。
水の塊。うねうねと蠢く透明の薄膜が、エンロカクの顔面にまとわりついていた。
「ちっ、黒ブタに当たっちまったか。まァいい、とりあえず先に死んどけ」
血の混じった唾を吐き出し、バルバドルフが笑う。
意思を持ったかのような水は、巨人の顔面へと密着して離れない。このままでは間違いなく窒息するが――
「憤ッ!」
気合一閃、凄まじい烈風がエンロカクを中心に円周状となって発せられる。顔に付着していた水は、一滴残らずあっさりと吹き散らされた。巨人は忌々しげに唾を吐く。
「ペッ。男に汁なんぞ掛けられて喜ぶ趣味はねえんだよ」
「おっほ。俺様も、どうせブッ掛けるなら女がイイね~。しっかし風使いたぁ、見た目のワリに似合わねぇなぁ黒ブタよぉ~」
首を振りながら笑う黒衣の男に、流護は嘲笑を投げかける。
「は、お前の水属性ってのも人のこた言えねえだろ。ジェット噴射ションベン野郎」
少年が右拳を振ると、生温い飛沫が大地に滴った。バルバドルフを殴った拳が濡れている。おそらくこの男は何らかの術で、殴打の威力を軽減した。その細身で流護の拳を受けて倒れない理由は、それ以外にありえない。
三者は、それぞれ不敵な笑みを浮かべながら睨み合う。全員が悪役としか思えない面構えで。
天轟闘宴ならではとでもいうべきか、三者入り乱れた戦闘。
派手な乱戦が始まった傍ら、観客席の前方へ設置された大きな黒水鏡は、中央から場面を分割し、もう一つ別の闘いを映し出していた。
『この三者の凄まじい衝突も見逃せませんが、つい先ほど捕捉されました、こちらの闘いがいよいよ決着の時でしょうか……!』
「……、」
ベルグレッテとしては、先ほどから両方の闘いを見つめているため忙しい。
「あっちの方も……君の知り合いなのかな」
「え、ええ。お世話になっている宿のかたで……」
「へえ」
隣席の紳士の声に頷き、少女騎士は戦局を見守る。
「ぐ……、ぬぅっ」
肩膝をつき、霧氷の術士ことゴンダー・エビシールは荒い息を吐いていた。
黒い礼服は所々裂け、赤が滲み出している。その暗色ゆえ目立たないが、濡れそぼった感触からして、己が考える以上に出血しているのかもしれない――と黙考する。
「随分と粘るじゃねーか、雑魚」
数マイレ離れた位置から余裕げに見下ろすは、魔闘術士の首領ジ・ファールの弟だと称する男、カザ・ファールネス。その身体には未だ、傷ひとつ刻まれていない。
斬属性という聞いたこともない性質を操るその男は、手に握りしめたそれをポンポンと弄ぶ。
それは、ただの木の枝だった。子供がごっこ遊びに用いるような、少し力を込めれば折れてしまう程度の。
――しかし。
「そろっと終わりにしよーや」
カザ・ファールネスが小枝を一振りすれば、物騒な風切り音が空を裂く。
(自身の手そのものや、枯れ枝など……手や触れたものを、鋭い刃へと変える力……)
これまでの闘いから、ゴンダーは相手の能力をそう判断していた。
そして、その切れ味がとてつもない。生み出した氷の小盾で受けた瞬間、盾がまるでバターのように切り裂かれてしまった。勢い余ったその刃によって、腕にも傷を負わされてしまっている。
その能力もさることながら、カザ・ファールネス自身の剣技も卓絶していた。間違いなく、王宮の上位騎士クラスに匹敵する。
軽薄な態度や卑劣な行動とは裏腹、実直で裏表のない強さ。戦士として、間違いなく自分より数段上の相手。
(……なればこそ……!)
痛みをおし、立ち上がる。
(なればこそ、リューゴ殿を追わせる訳にはいかぬ……!)
彼の消耗を防ぐために。無論、それだけではない。ミョールの無念を晴らすためにも、己が戦士としての矜持のためにも。二度も、逃げ出す訳にはいかない。
「何だァ、その目はよー。まだ諦めてねぇ、終わりじゃねぇってかー? 暑っ苦しいぜ、失せな」
軽やかに地を蹴り、黒のマントを翻して、魔闘術士が迫り来る。
傷を負い疲労の色濃いゴンダー、無傷のカザ・ファールネス。技量も後者が圧倒的に勝る。
そのうえでゴンダーには、この難敵を一気に畳み込まねばならない理由があった。
カザ・ファールネスは無傷。それはつまり、未だアーシレグナの葉を残している――ということ。回復させる暇を与えず一気に倒してしまわねば、とうに葉を使い切っているゴンダーのほうが早く力尽きる。
弱者にとって逆転の切り札ともなり得るアーシレグナだが、それは強者の勝利をより磐石なものとする礎でもあった。
「――――」
短い間ではあったが――宿での、二人との訓練がゴンダーの脳裏に思い起こされる。
カザ・ファールネスの剣技は確かに手強い。だが、流護の拳ほどの鋭さもなければ、迅さもない。ベルグレッテの剣のような、繊細さも持ち合わせていない。
(そう思わば――)
集中する。見逃すな。命を刈り取るべく飛んでくる、その閃き。必ず来るその一撃にのみ、意識を注ぎ――
「死んどけオラァ!」
放たれる、剛の一閃。しかし、止めを意識した大振りの一撃。真上から振り下ろされた両断の斬撃を――ゴンダーの携えし氷のバックラーが、横の軌道で打ち払う。
「!」
黒衣の男が驚愕する。
(確か、パーリング……廻し受け、と呼んでいたな)
そうして、
「……ッの、雑魚が――!」
熱くなる。格下と侮っていた相手に凌がれ、冷静さを欠く。
魔闘術士は左の素手――五指を尖らせ、弓引くように身構えた。鋼の輝きこそなくとも、細剣と何ら変わらぬ鋭さを宿すその腕。右に枯れ枝、左は無手。しかしこの男の能力にかかれば、それらは実剣と遜色ない二双の刃と化す。
(――だが……!)
二刀流ならば、ベルグレッテとの鍛錬で経験した。より長い射程と、よりしなやかな剣閃を。付け焼き刃にすぎぬとも、ゴンダーはすでに質の高い二刀流を『知って』いる。
「死ねッ――」
(――ここだ!)
そして、打ち払う。
怒りに任せて突き込まれた尖鋭の一矢を、ゴンダーは右の小盾で『廻し受け』ていた。
「な……に、」
無法者が呻く。
――これが最初で最後の機会。
ゴンダーを格下と侮った止めの一撃。それを凌ぎ、生まれた隙。
この反撃で仕留めきれなければ、終わりだ。半端な手傷を負わせるのみに留まれば、回復され、警戒され、この男は二度と隙を見せなくなってしまうだろう。
両腕を弾かれよろめいたカザ・ファールネスへ、霧氷の術士は力強く一歩踏み込む。
「シャ――!」
身を引こうと下がりかけた男の側頭部を、左腕――氷のバックラーで横薙ぎに打ち据えた。
「がはッ……!」
痛撃に動きが止まったその瞬間、身体ごと捻った右の裏拳――シールドバッシュが、カザ・ファールネスの頭を薙ぎ払う。
軽快な破砕音。
「ぐごっ」
黒衣の裾が翻る。痩躯が傾ぐ。膝が折れる。
血反吐を零しながら、カザ・ファールネスが崩れ落ちてゆく。
(勝っ――)
意図した反撃が成功したゆえか、アーシレグナの葉の興奮作用ゆえか。はたまた、その両方か。
わずか、ゴンダーの反応は遅れることとなった。
(――、否、終わっておらぬ!)
ふらつき、マントの裾をはためかせながら、後方へ下がる黒衣の男。その首へと巻かれたリングに、外れる兆しがない。浅かった。まだ倒れない。
気付き、すぐさま追撃に移ろうと間合いを詰めるゴンダーだったが、
「……、ぐ!?」
一歩踏み出した右膝が、激痛を訴えた。
何事かと見下ろし、驚愕する。
(な、に……?)
膝下がざっくりと斬り裂かれ、鮮血を撒き散らしていた。
(馬鹿……な、いつ受けた!?)
目の前には、痛撃を受けよろめく無法者。
携えていた細枝は取り落としたのか、その右手には何も握られていない。左手は羽織ったマントの上から、苦しげに胸のあたりを掴んでいる――
(……マントを……掴んで……?)
男の痩躯を包む、大きな黒マント。動作に従い、バサリと翻る長い裾。その端から滴る、赤い雫。
手にしたものを、刃へと変える能力――。
「ぐうっ!」
何によって斬撃を受けたのか理解すると同時、ゴンダーはたまらず膝をついた。
(不覚……!)
触れていたのだ。鋭利な刃と化したその部分が。翻ったマントの、その裾が。たった今しがた踏み込んだ、その瞬間に。
ふらつきながらも後退したカザ・ファールネスは、しかし倒れずゴンダーを見下ろす。
「おー……雑魚が……どーしてくれんだよ……歯が……折れちまっただろーがよ……」
「……笑わ、せるな……」
歯の一本や二本、何だというのか。ミョールを徹底的に痛めつけた人間が吐く言葉か。女性の顔をあそこまで傷つけた輩が抜かす科白か。魔闘術士全員の顎を砕いたとて、到底足りはせぬ。
そう怒りに燃える霧氷の術士だったが、意志に反して戦況は極めて最悪。
(仕留め……損なった、か……)
ゴンダー自身、痛手を負いすぐさま動ける状態ではない。
この隙に、カザ・ファールネスは回復してしまう――
「……殺す」
しかし呟いた黒衣の男は、回復を――アーシレグナの葉を取り出すでもなく、
「殺す、あー殺す……」
ぶつぶつと呟きながら、血走った眼球を巡らせながら、周辺を徘徊し始めた。
「ふざっけんなよ……」
そうして二本の長枝を拾い上げ、両手に身構える。リーチに優れた『武器』を探していたようだ。が、
(……何故……回復しない……?)
不可解だった。
反撃を受けてなお、ゴンダーを侮っているのか。格下の相手に深手を負わされたからこそ、回復することを矜持が許さないのか。出会ったその時点で、消耗している様子すら見られなかった。とうに三枚全てを使用済み、とは考えられない。
理由は不明だが、ともかく――
(奴に……回復する心算がないのであれば――)
まだ、光明はある。
切り裂かれ痛む膝に鞭打ち、霧氷の術士は立ち上がった。
バルバドルフの生み出した長大な水の鎌が、流護とエンロカクをまとめて薙ぎ払うべく空を裂く。しかし少年は身体を反らして躱し、巨人は風を纏わせた腕で事もなげに受け止める。
「おぉ……?」
「生温い水だ」
刹那、動きの止まる巨人と凶人。そこで狙いを巨人のほうへ絞った流護が、側面から上段廻し蹴りを打ち放つ。腕に風を集束させている今、逆風の天衣に阻まれることはない。
「おォっと」
しかし巨大な素人は体幹をずらすのみで、空手の蹴撃をきれいに躱しきる。その重厚な肉体からは想像もできないほど軽やかな体捌き。
と同時、エンロカクは反撃に転じる。
「!」
黒く大きな左裏拳が流護の顔面へ。生半可な丸太より太い右脚が、バルバドルフ目がけて突き出される。
頭を屈めて外す少年と、
「グッ!」
防ぎはしたものの、あまりの威力にわずか身を浮かせる魔闘術士の男。
エンロカクのその巨体には、二人を同時に相手取って楽々と対応できるだけの圧倒的なリーチがあった。
そうして幾度目となるか。三者は各々、間合いを保って身構える。
「いやあ……俺だったら、恥ずかしくて死にたくなっちまうんだけど。昨日の粋がってた勢いはどこ行ったんですかねえ」
心底馬鹿にした口調で言い放ち、流護は『そちら』へと顔を向ける。
「フッ」
鼻で笑ったエンロカクも、釣られるように『そちら』へ視線を投げた。
「あぁ? 何見てんだクソ共、オイ……」
即ち――肩を上下させ、荒い息を吐くバルバドルフのほうへと。
「勢いよく乱入してきといて五分もしねーうちにイッパイイッパイんなってる貧弱鶏ガラ野郎とか、笑う要素しかねえだろ。三万人のお客さんも、今頃爆笑してんじゃね?」
それぞれが敵同士、互い譲らぬ乱戦模様。その均衡は、数分ほどで崩れ始めていた。
「吐かしてんじゃねぇぞ、クソガキが……」
しかし、バルバドルフの額に浮かぶ汗の量は尋常でない。それも無理からぬ話、魔闘術士の男は未だかつて味わったことのない重圧をその身に感じていた。
一撃必殺の術が飛び交う修羅場。そんなものは、幾度となく経験している。だが、それに加えて――
流護の筋力。エンロカクの圧倒的体躯。それらから繰り出される、詠唱を必要としない原始的な暴力。神詠術のような間を置かず繰り出せる、致死の連撃。単純な拳足の全てが、細身のバルバドルフにとって致命の一撃となり得るこの現状。
それでいて流護やエンロカクは、それぞれ頑強な肉体を以って互いの打撃に耐えることができる。バルバドルフのみが、何を喰らおうとも一撃で倒されてしまう可能性を孕んでいる。
(ふざけんじゃねえぇぞ、不公平だろうが……。原始猿共が……人間なら術を使いやがれ)
それだけではない。
単純な体力面でも、やはりバルバドルフは二人に及ばない。もっとも、この二人が規格外なだけなのだが――それは今、この鉄火場において言い訳にすらならなかった。
(ふざけんなよ……外の世界は、餌だらけだっつったじゃねぇかよぉ)
歯を食いしばり、男は敵を――二匹の怪物を睨めつける。
(冗談じゃねぇ、負けたくねぇ……この俺様が、負けるハズがねえぇ……!)
殊更、有海流護を強く睨み据えた。何しろ、この相手はまだ神詠術を使う素振りすら見せていないのだ。バルバドルフにしてみれば、舐められているとしか思えない。
――そこで。
「おい」
魔闘術士の視線を真っ向から受け止めた少年が、目を細めて言い放つ。
「――何見てんだ、モミアゲデメキン三流野郎。殺すぞ」
飛んだのは、またも石。
それもバルバドルフにではなく、エンロカクへ向かって。
巨人が防御に気を取られた刹那、流護は一挙バルバドルフへと接近する。
(猪みてぇに、何度も何度もよぉ――)
身構え、詠唱していた術を撃ち放つ。
「同じ手が通用すると思ってんじゃねぇ、クソガキが!」
無色透明、直線の水撃。人間の首程度ならば軽々と吹き飛ばす尖鋭の秘術は、しかし横へ跳んだ流護にあっさりと回避される。それどころか着地の反動で大地を蹴り、少年はさらに加速して――
「避けた、と思ったかぁ!?」
目を血走らせ、不揃いな歯列を剥き出しに、バルバドルフは嗤う。
術を撃ち、かざしたままとなっていた手のひらを、胸元へグッと引き寄せる。その挙動に従い、直線を描いて飛んでいた細い水流が――湾曲した。
「!」
撓み、軌道を変える放水の刃。
気付いた流護が反応する。
「遅えぇ!」
そのまましならせ、真横へ薙ぎ飛ばす。
もはや十数マイレの尺を誇る剣と評していいその水流を、流護は潜り抜けて回避した。わずか、切断された黒髪が宙を舞う。勢い余った水刃は、次々と樹木の幹を削り、枝葉を切り飛ばしていく。
「近付けると思ったか、あぁ!? 外から刻んでやんぞぉぁ!」
勢いに乗ったバルバドルフは曲がる放水を操作し、続けざまに薙ぎ払う。紙一重の差で、少年はこれを躱しきる。
「おーおー、粘るじゃねぇかぁ、ひひ」
しかし時間の問題だ、と黒衣の男は嗤う。
雨が降ったなら濡れるように。注がれる水から逃れ続けることなど、絶対に不可能。昨日の街中での一瞬のやり取りから、この程度はやると予想していた。
――だが。
「ほう……」
投石をあっさりと凌ぎ傍観していた黒巨人が、感心したような低い響きを漏らす。
「……!」
バルバドルフも、ようやく事実を直視し始める。
――当たらない。
いかに水流をしならせ、撓ませ、振り回そうとも、流護は躱す。躱しながら、確実に距離を詰めてくる。
(コイツ……)
――当たらない。なぜ、当たらない。
幾度目となるか。放水を潜り抜けた瞬間、流護は急加速した。一気に間合いを詰められると判断した証に他ならない。
「舐めんじゃ……ねええぇ!」
やけくそ気味に振り回した水流――されど不規則に荒ぶり軌道の読みづらい一撃――も、流護は身体を傾ける挙動のみで完全に回避した。
――なぜ当たらない。なぜこうも、易々と躱せる。
変則的な軌道を描く水流。極めて避けづらいはずのその術は、直撃どころか触れることすら叶わない。まるで、予め全てを知っているかのごとく。
そうして間合いが縮まり――戦闘領域は、ついに零距離へと移行した。
触れれば届く距離。
いつ。
あの棍棒のような拳足が、いつ飛んでくるとも知れぬ距離。身構える少年の瞳は、ただ静かにバルバドルフを見据えている。まるで、飛びかかる機会を窺っている猛獣。
(コイツ、は――ッ)
焦りに突き動かされたバルバドルフは、術を水の長剣へと切り替え、袈裟掛けに斬り下ろす。
ぱしゃ、と軽い音。煩わしい虫でも散らすように篭手で打ち払った少年は、腰溜めに拳を構えて――
(コイツッ……、水属性と闘い慣れてやがるんだ――――)
当たらない理由を悟ると同時、硬質の打撃がバルバドルフの鼻っ柱を圧壊した。




