212. 確かな敵
刹那、万物全てが吹き飛んだ。
「――――、……っ、ぶ――」
鼓膜が破れそうな破裂音。
水が――川が爆ぜ飛んだ音だと有海流護が知るのは、十秒ほど未来の話。
エンロカクを掴み沈めていた流護が砲弾のように飛んだのは当然として、川の流れそのものが霧散した。
「がはっ!」
冗談のように飛んで転がった少年の肉体は、頑強な木幹に激突することでようやく移動を停止した。
咳込みながら顔を上向けた瞬間、流護の目に信じられない光景が飛び込んでくる。
爆風が上流を押し返し、下流を押し流す。そうして一時期に、その部分から水が消失した。エンロカクという男が存在する、その場所から。
(……、…………! は、モーゼの十戒かよ……!)
海が割れ、道ができるという有名な一場面。映画で見たその現象を思い起こす。
十数メートルも離れた位置で伏した流護がそんなことを考えると同時、川が再び流れを取り戻した。
直後、スコールのような土砂降りが激しく大地を打つ。にわか雨などではない証として、雫に交じって魚や土砂が降り注ぐ。
「でっ……!」
思いのほか大きな石が肩に激突し、流護は慌てて木陰へ転がることで難を逃れた。
それも数秒のこと。通常ではありえない事象が連続した森に、ようやく静寂が戻る。
川の中央に立つ大男は、口元を太い指で拭いながら、物珍しげな目で己の身体を見下ろした。
「……フム。初めてだぜ。ここまで痛え思いをしたのはよ」
ただ低く。しかし、負の感情が篭もった声ではなかった。生まれて初めて経験した出来事を珍しがるような、純真さすら感じられる独白。
ビチビチと跳ねる見たこともない魚たちを跨ぎながら進んだ流護は、川岸で足を止めた。
「……よう。今度からアメフラシって呼んでやるぞ」
薄く虹すらかかる中、静けさを取り戻した清流の只中で佇む巨人へ呼びかける。ジロリ、とやけに落ち着いた瞳が流護を見据えてきた。
「……オウ、悪かったな」
大男の口から漏れたのは、なぜか謝罪の言葉。
「昔っからのクセでよ。カッとなると、ついつい術使うよりも暴力が出ちまう。大概それだけで何とかなっちまう、ってぇのもあるんだが」
太い唇が歪む。笑みの形に。
「ガキのケンカはお互い様だったなァ。調整はひとまず止めだ。お前とは『闘る』。こっからはキッチリ攻め術を使う。お前は倒すべき『敵』だ。そう認識するぜ」
そんなエンロカクの宣言に、流護も笑みを返す。
「ああお構いなく、気にすんなって。てめぇが何しようと、俺が勝つって結果は何も変わんねーんだから」
静寂。
河原に立つ流護と、清流の最中に立つエンロカク。距離は五メートルほど。足場は思わしくないが、それでも双方、数歩にて詰められる距離。
水のせせらぎのみが場を支配し――
魚が一匹、ぴちゃんと水面を跳ねる。
瞬間、エンロカクが川を蹴り飛ばした。
そうとしか表現できない現象。
水の塊が暴風に乗り、荒波となって流護へ押し寄せる。流護は横っ飛びでこれを避け――
「我流、豪風掌」
地に響くような巨人の声。まるで発射口のごとく、巨大な両手のひらが流護の行く先へと向けられていた。漫画や格闘ゲームでなじみあるような、不可思議な『飛び道具』を放つ構え。
そしてここは、そんな技が実現する世界。
「!」
分厚い手から撃ち放たれたのは、突風の奔流。水や砂利、進路上のあらゆるものを弾き飛ばし、横向きの竜巻とでもいうべきものが流護を襲う。
かつて風の『ペンタ』であるリーフィアが、テロリストのブランダルを上空へと巻き上げた一撃。規模こそ劣るものの、あの術によく似た技。
(間に合わねえっ)
回避は不可と判断し、流護は深く腰を落としながら両腕を掲げ――
「――、な!?」
篭手で風撃を受けた瞬間、流護の身体が横に回転した。まるで扇風機――この世界でいえば冷術器の羽だ。その場で数度回転した挙句、受け身に失敗して横倒しとなる。
「でっ! ……、!」
その隙に、エンロカクが走り込んでいた。
力強い助走から放たれたのは、右の蹴り上げ。サッカーボールキックとも呼ばれる一撃を、しかし流護は篭手でがっちりと受け止める――
「ぐっ!?」
ことができず、右腕を跳ね上げられた。
がん、と甲高い破砕音が木霊する。
(ッ、何だ――、クッソ硬ぇ……!)
先ほどまでとはまるで違う。とても人体によるものとは思えない、硬質の衝撃。金属バットのフルスイングを受けたような痺れが腕を軋ませる。
体勢を崩した流護へ向かって、エンロカクは追撃の準備を終えていた。先の蹴り上げとは対照的な、右拳の振り下ろし。それはまるで、天空から叩き落される神の鎚。
(――、)
嫌な予感を覚えた流護は、今度は受けずに身を翻して躱す。
直後、爆発した。
巨人の鉄槌は大地を叩き、石粒と砂塵を派手に巻き上げる。転がって間合いを取った流護は、ただ目を疑った。
「……!」
エンロカクの拳――否、手首の中ほどまでが、深々と地面に埋まり込んでいた。硬い砂利の敷き詰められた河原。そんなことはお構いなしといわんばかり、屹立する鉄柱のごとく。
「……その避け勘は大したモンだ」
腕を引っこ抜きながら、黒き破壊者はニタリと笑う。
「!」
そこで気付く。エンロカクの拳。硬い石を突き、ぬかるんだ土に潜り込んでいたはずの右手には、傷ひとつついていなければ、一片の泥も付着していない。
「なるほど……例の防御術……逆風のなんたら、ってのを使いながらの格闘戦って訳か」
その流護の推測に、
「いいや」
しかし巨人は否定を返す。
「理想としてはそれなんだがな。逆風の天衣ってぇのは飽くまで防御技、暗殺だとか不意打ちを防ぐために考案した術だ。あれは、派手に動きながらじゃ維持できねえんだよ。とてもじゃねえが、纏ったまま格闘戦なんざ出来やしねえ」
大きな拳を掲げ、笑う。その右手を、緩やかでいて強靭な旋風が包み込んだ。
「こうして、身体の一部分にのみ特化集束させる程度なら余裕なんだがな」
「なるほどねー。でもよー、そんな情報、ペラペラ喋らん方がよかったんじゃねーの?」
流護としては、エンロカクが攻勢に転じている間は逆風の天衣を警戒する必要がなくなった。そういった神詠術の性質が知識として得られれば、それだけ有利となる。
が、巨人は含み笑う。
「問題ねえさ。竜巻が来ると分かってたところで、荒ら家がブッ壊れるのは避けられねえ。それと同じだ。俺の術についてどれだけ知ってようと、お前が死ぬことには何の変わりもねえ」
「はっ……上手いこと言ったつもりかよ、バーカ、アホ、デカ……えーとデカ野郎」
そんな悪態に反して――憑き物が落ちたかのように、流護の心の裡はすっきりとしていた。
(……こいつは……)
この巨人に、かつて自分が敗北した相手の――桐畑良造の幻影を重ねていた。それでいて、その強さを認めたくなかった。大した相手ではない。勝てる敵だと。
しかし、違う。
(……やべえ。強ぇなあ、この野郎……)
あの空手家と対峙した時のように、負けるかもしれない。そんな懸念や不安を、心の奥底へと封じ込めたかったのだ。だから、この男の強さを直視したくなかった。勝てる相手と強がり、無理矢理ねじ伏せようとした。
しかし、そんなものが通じる敵ではないと痛感した。
(……うん。やべえ。くそ強え)
間違いなく――あの男と同じように、強い。しかし、違う人間だ。
この相手はエンロカク。
優れた体躯と術の力をもって荒れ狂う、異世界の強者。岩そのもののような、現代日本のあの格闘者ではない。
幼稚な思考にとらわれるまま意地になっていては、絶対に勝てない相手だろう。
(……ったく。勝手に気負って、勝手に自己解決して……何やってんだか、俺は)
再び場を支配する、静寂と緊張感。
再度身構える両者。
先ほどまでと違うのは、今や双方とも互いを認めている、ということか。
有海流護も、エンロカク・スティージェも。
相手がいかに動こうとも対応できるよう、この上なく集中を高めていた。目の前の強者に集中していた。
だからこそ、というべきか。
突然の第三者の乱入に、わずか驚くこととなる。
七メートルほどの距離で向かい合う流護とエンロカクだったが、すぐ脇の茂みを突っ切り、その人物は現れた。
「はっ、ぜぇっ……、ッ!?」
激しく息を切らせながらも二人の存在に気付き、
「!」
さらにエンロカクの姿を凝視して、その顔を驚愕に染める。
(何だ……?)
流護もいきなりの乱入者に少し戸惑ったが、その人物の驚きようは尋常ではなかった。
年の頃は二十歳前後か。額で切り揃えたボブカットの茶髪。派手さの感じられない平坦な顔立ちは、レフェの街中では珍しくもない造形だ。
一見、何の変哲もない若者。
しかし今この場に、市井の民がいるはずもない。
この男もまた、天轟闘宴を潜り抜けてきた戦士の一人。その証か、流護にも一目でレフェの人間だと分かる独特な民族衣装は、所々がほつれ血に赤く染まっていた。……などと分析するまでもなく、首へと巻かれているリングによって、参加者であることは一目瞭然なのだが。
「野郎、やっと……!」
エンロカクを睨み、ボブカットの青年は凄絶な笑みを浮かべる。
「あぁ? 何だァ、てめぇは」
当の巨人は、不快げに眉をひそめていた。親の仇のごとくエンロカクを睨む青年だが、そのエンロカクは彼に心当たりがないように見える。
「盛り上がってきたところだ……水差してんじゃねえ」
煩わしいと言いたげな溜息と共に。エンロカクは何らかの術を放つべく、乱入者へ向けて手のひらをかざす――
より早く、
「玻ッ!」
青年の掛け声が轟いた。
瞬間、河原一帯が瞬く。
目を灼く閃光に、流護の視界は白一色となる。
(っ、目眩ましか……!)
狙い撃ちを警戒し、立ち位置をずらしながら身構える流護だったが、
「……、?」
思ったよりも早く、何らかの攻撃を受けることもないまま、視界が戻る。素早く視線を巡らせれば、同じ位置で変わらず佇んでいるエンロカクの姿。
「チッ」
目頭を押さえているあたり、流護と同じく目が眩んでいたのだろう。これほどの男が馬鹿正直に閃光を受けたのは意外にも思えるが、それこそ逆風の天衣を纏うことで奇襲に備えていたに違いない。
ともかくとして、先刻までと同じ景色、立ち位置。
ただ――乱入してきたはずの青年の姿だけが、消えていた。
(……なんだってんだ……?)
意味が分からない。
エンロカクに対して敵意を向けていた若者だったが、派手な閃光を放っておきながら、それに乗じて仕掛けるでもなく姿を消してしまった。
有海流護には終ぞ、青年の意図は掴めなかったが。
直後、『誘蛾灯』という言葉が脳裏をよぎることとなった。
彼のその行いは――この闇を呼び寄せるための灯火だったのではないか、と。
「何か光ったぞぉ!? こっちかぁ、キノコ野郎よおぉ!?」
甲高い声と共に飛び出したのは、無色透明の光条。草薮の一角を突き抜いた水の直線が、枝葉を吹き飛ばす。
そうして無理矢理に伐採されて作られたその道に、黒い影が躍り出た。
「!」
その姿を見て、流護は瞠目する。
「お? おぉ、お? なんだぁ、アリウミリューゴじゃねぇかよ~」
ギョロついた大きな目を細め、馴れ馴れしく名前を呼んでくるその痩躯の男。昨日、街中で遭遇した魔闘術士の一人。開幕式でも、人を舐めきった態度を見せていた黒装束。
「……バルバドルフ……とか言ったっけな」
無意識に――めき、流護の拳が音を立てる。
「オウ、生き残ってくれてて嬉しいぜぇアリウミリューゴちゃん。テメーは、俺様が直々にブッ殺す予定だったからなぁ~」
小刻みに身を揺すって笑うバルバドルフへ、野太い声がかかる。
「さっきから何だってぇんだよ。今度は細っけえ鶏ガラか。次から次へと、いい加減に鬱陶しいぜ」
「はぁ~?」
首をぐりんと巡らせ、その巨人の存在に今気付いたとばかりに、魔闘術士の男はギョロリとした目を見開く。
「何だこの……でけェなおい、人間なのかぁ、テメーはよ? 二足歩行の黒ブタじゃねぇのかぁ?」
「鶏ガラに黒ブタに……ラーメンでも作るのかよ。動物ばっかだな、人間は俺だけじゃねえか」
そのやり取りを、流護は鼻で笑う。
こうして、三人の男を起点とする歪な三角形が出来上がる。
有海流護。
エンロカク・スティージェ。
バルバドルフ。
それぞれが、自分以外の二人と睨み合った。




