21. 戻る日常
「――彼は、寡黙になってしまった」
愉悦を含んだ声だった。
ゴミのように打ち棄てられた『それ』が、絶え間ない黒を垂れ流している。実際は黒でなく赤だったが、腐臭漂う薄暗い路地裏において、それはやはり闇を象徴する色にしか見えなかった。
『それ』を前にした声の主――仮面の者は、堪えきれないのか喉の奥でくくと哂う。
顔を覆う、異様な仮面。
全体が緑色の鱗のようなもので覆われており、目の位置には黒く窪んだ大きな真円。鼻はなく、そこから下半分を占める大きな口は、ざっくりとした笑みを象っている。どこか爬虫類じみた醜悪な貌だった。
身体は極限まで削ったのかというほどの痩身。纏うは細い体躯の線を浮き彫りにする、黒一色の装束。異様な仮面と相俟って、その容貌は人外を彷彿とさせる薄気味悪さを演出していた。
そこへ、
「――ケロヴィー様」
音もなく。仮面の者――ケロヴィーの脇に、影が跪いた。
その影もまた痩躯、黒一色。剃り上げているのか、毛髪が全く見当たらない禿頭と、痩せこけた頬。ぎらつく双眸。餓えた猛禽を思わせる男だった。
「シヴィームか……何事かな?」
「新たな仕事の依頼でございます。それが――」
影――シヴィームは、ケロヴィーへその内容を告げる。
「な……に?」
あまりに衝撃的だったのか。時間が停止したように、仮面の怪人は動きを止めた。
その肩が、小刻みに揺れ始める。
「それはそれは……面白い。この私が直々に、話を聞きに行こうじゃないか」
「そ、それは拙いのでは? 貴方は、この街の――」
「シッ……誰が聞いているか分からんぞ? この私のことに触れてはいけない」
聞く者など皆無であることを理解しながら、ケロヴィーは実に楽しげな様子で人差し指を立てた。
「かつてない……大きな仕事だな。くく。このようなゴミの始末ばかりで、少々うんざりしていたところだよ」
目の前で黒を垂れ流す『それ』を蹴りつける。
仮面で顔が見えずとも分かる。哂っていた。
「し、しかし……本当に、良いのですか? ケロヴィー様、貴方は――」
「何を言おうとしている? シヴィームよ。……何度、言わせる気かな……?」
「ッ! い、いえ、出過ぎた真似を……失礼致しました」
「シヴィームよ。私はな、常々……想っていたんだ」
ケロヴィーは空を見上げる。
そびえ立つ建物によって切り取られて見える路地裏の狭い空は、不気味なうろこ雲を浮かべていた。血のように朱い空。
ファーヴナールの年。六十年に一度とされる厄年。
六十年に一度などと、勿体をつけるだけのことはある。
こんな奇縁が巡るとは――実に、素晴らしい年だ。
「ずっと、想ってたんだよ。あの子たちの顔を、恐怖で歪めてみたい……って」
口調が変わっていた。
純真さすら感じさせる声色で、仮面の奇人はそう呟いた。
「……九百九十八……、九百九十九……ッ」
学生棟脇――中庭の一角に、少年の声が木霊する。
「千……!」
ドンッと、それが重々しい音を立てて芝生にめり込んだ。
黒い石で作られたダンベルが二つ。
「はっ、はぁ……、はあっ……」
滝のような汗を流しながら、流護は肩で息を整える。
「お疲れさま、リューゴ。……それにしても、ほんともう……言葉がないわね」
流護のトレーニングの様子を見ていたベルグレッテは、ほとんど呆れた様子でそう呟いた。
「よくこんなものを持って……千回って、ほっ、こんな……、くっ、むむ……」
「おいおい、ケガすんなよー」
ダンベルの一つを両手で持ち上げようとする少女騎士だが、持ち上がるどころかビクともしない。
「はー、さすが黒牢石製ね……」
「……さっさと、筋力戻したいしな」
ファーヴナールとの戦いから、二十日が過ぎた。
流護が約二週間の入院生活を経て無事退院したのが、二日前。
ロック博士――岩波輝の予想通り、流護の筋力は大幅に低下してしまっていた。……のだが、事は一週間前に遡る。
前代未聞の怨魔襲撃によって、ミディール学院は十日ほど休校となった。
そんなある日のこと。仕事がなくて暇だったのか、手ぶらで見舞いに来たロック博士が、ベッドに横たわる流護を見て意外そうに言ったのだ。
「あれ? 思ったより、筋肉落ちてないみたいだねえ」
「え?」
「……あ。そっか、ボクとしたことが見落としてたな……」
白髪の頭をボリボリと掻きながら、
「ボクたち地球の人間と、この世界の人たちとじゃ、生まれ持った筋肉の質や骨格そのものが違うんだよね。それぞれの世界の重力に見合った肉体で生まれるんだから。流護クンの身体は衰えた下限の状態であっても、それなりの筋量が残るワケだ」
同じ地球人でもボクなんかは運動しないからこんな細くなっちゃったけど、と付け加える。
「それにもしかすると、魂心力も何らかの作用をしてるのかもね。……んー、キミの筋力。何とかできるかもしれないな」
博士が意外なことを言い出した。
「……え?」
「地球にいた頃と同じトレーニングをしても、筋力は維持できないって言ったよね。だったらさ、それ以上のトレーニングをすればいいんだよ」
「あ」
全く考えていなかった。ロック博士に言われるまま、『力を使い果たした勇者様』にでもなってしまったつもりでいた。
「……と言いたいとこだけどね。トレーニングに使う器具を思いっきりハードなものにしたとしても、トレーニングの量を増やしたとしても、二十四時間、常に受け続ける重力の影響が弱いことに変わりはないんだよねえ」
「……、」
流護はもう理解していた。
このグリムクロウズという世界。この世界は、ひどく死が近い世界だ。誰かが、思いもよらない形で唐突に死んでしまう可能性の高い世界。
『ただ肉食獣が森へ餌を探しに来た』。それだけのことで、あれほどの惨事が起きてしまった。
未だに、忘れられない。
仰向けに横たわっていたミネットの顔。血を流してぐったりとしたミアの顔。
この先、あれ以上のことが起きない保証などどこにもない。
考えずにはいられない。
もしベルグレッテが、あんなことになってしまったら――
「……博士。それでも何とか……何とかできませんか?」
自分には、護れるはずの力があるのだ。その力を、失わずに済むのなら。
「んー。この世界の人たちは、神詠術があるおかげで、身体を鍛えるって発想があんまりないからねえ。まともな器具ってないんだよなあ。……よし、トレーニング器具作ってみようか。ちょうど休みで暇だし」
「マジで……いいんすか?」
「キミが強くて困ることはないからね。研究者のボク個人としても、キミの筋力と重力と魂心力の関係に興味がある。よし、黒牢石を取り寄せてちょっと作ってみよう。ちなみに黒牢石ってのは、この世界にある、少量でも凄く重い石で……」
「あ、ありがとうございます!」
――そんな訳で。ダンベルで鍛え始めただけではなく、今は両手両足に黒牢石製のパワーリストを装着し、さらに服や学ランの裏側にも石を仕込んで生活している。
それこそ昔のバトル漫画のようだった。だが筋力低下を防ぐには、それでも足りないぐらいだろう。
そんなことを考えていると――
「とおおーっ!」
よく分からない声を出しながら、どこからともなくミアが走り寄ってきた。
「ベルちゃん、リューゴくん! さあさあさあ、夕ごはんの時間で……、おおーリューゴくん、シュギョーしてたん――」
そこでなぜか元気娘は流護を見たまま固まった。
「…………」
ミアはじっと流護を……いや、正確には流護の身体を凝視している。
そういえば。トレーニングを始めたのは昨日からだし、薄着になった流護の姿をミアが見るのはこれが初めてかもしれない。
「な、なんだよミア。意外とゴツゴツしてセクシーな俺の身体に見とれ」
「うわあ! リューゴくんの腹筋、なんかカブトムシみたい! やだ!」
「………………………………………」
カブ……ト、ムシ……?
六つに割れてちょっと自信のあった腹筋が、カブトムシ……?
「わ、あ! ご、ごめん!」
愕然とした顔をする流護に気付き、慌てて謝るミア。
「ちっ、違うの! ほら、そ、そんなすごい筋肉見たことなかったから! ちょっと気持ち悪いぐらいだなって……じゃなかったあぁああ!」
謝ったと思ったら追い打ちだった。
「は、はは……ははは……」
鍛えられた筋肉が生理的に苦手、という人はいる。特に女性は多い気がする。
とはいえ、そこそこ仲良くなった(つもりでいる)ミア――しかも本人には絶対言えないがぶっちゃけ可愛い――に「カブトムシ」とか「やだ」とか「気持ち悪い」とか言われてしまうと、思春期の少年としてはやはりショックを隠しきれない。
罵倒されて喜ぶような上級スキルは持ち合わせていなかった。……まだ。
「……あ、えーと、メシ、でしたっけ。じゃ俺、シャワー浴びてから行くからさ……ははは」
「わーリューゴくん! ごめんごめんごめんなさいっ」
「ミア……無理すんなって……ははは……ま、たしかに……気持ち悪いかもなー……この世界にも、カブトムシいるんすね」
「ううぅっ、違うんだってば! か、かくなるうえはあっ! ほらこれでどうだっ! むっ!」
ミアは思いっきり目をつぶって、唇を突き出した。
言っては何だが、せっかくの可愛い顔が結構アレなことになっている。
「…………なにしてんだ、それは」
「リューゴくんのこと気持ち悪いなんて思ってないもん。だ、だからキスしていいよ」
「よくねえよ!」
「よくないでしょ!」
苦笑しながら静観していたはずのベルグレッテも一緒になってツッコんでいた。
「じゃ、じゃあ、代わりにベルちゃん……しません?」
「しません」
やっぱりミアだった。
「まあ、とにかく……シャワー浴びて行くから、先に行っててくれよ二人とも」
「リ、リューゴくーん……」
捨てられた子猫みたいな瞳で見つめてくる。
「くっ、だから別に気にしてねえって……」
「……うう」
「だー、んじゃ夕飯で一品おごってくれ。それでおしまいな」
「へ、へへえ! 了解です旦那!」
苦笑しながら二人と別れ、シャワーを浴びるべく自室へ向かう流護だった。