209. 思いの拳
「…………、なるほど……なぁ」
手のひらを開閉し、流護は右手の感覚を確かめた。
腕の痛みが引いているだけではない。疲れを感じ始めていた身体が――明らかに、軽くなっている。それに伴い、妙なやる気が高まってくる。
これが、アーシレグナの葉の効果。鎮痛作用、疲労抑制、さらには気分の高揚。まだまだ闘い続けられると『勘違い』し、状況を見誤って、より深刻なケガを負ってしまってもおかしくはない。
(……けど)
勘違いだろうと何だろうと、止まる訳にはいかない。
この闘い、負けることは許されないのだから。
背中のずた袋からびしょ濡れの地図を取り出し、周囲の環境と照らし合わせる。
魔闘術士の首領、ジ・ファールが佇んでいたという常緑の広場は、ここからまっすぐ北の方角。『無極の庭』を縦に両断している大きな川沿いに歩いていけばたどり着けるようなので、このまま行けば迷うことはない――
「!」
前方で蠢く気配に気付き、流護は近場の茂みへと身を隠した。
……気のせいではなかったようだ。一人の男が、息を潜めながら歩いている。ディノやゴンダーといった顔見知り以外の遭遇で考えれば、随分と久々のような気すらしてくる。
(……ああいや、さっきのゴンダーさんに任せてきた魔闘術士もいたか)
葉の効果なのか蓄積し始めた疲労のせいなのか、思考も散漫としがちだった。
さて、他参加者を発見した。今までであれば、「バトルしようぜ!」と躍り出てみないでもないのだが――
(…………)
しかし少年は気付かれないよう、息を殺し続ける。
今滾るこの力は――ジ・ファールを倒すために、温存しておくべきだ。そう判断した。
男の姿が見えなくなったことを確認し、流護は行動を再開する。
『おーっと、これは!』
久しぶりとでもいうべきか、やや明るいシーノメアの音声が響く。
観戦しているだけで疲れ始めていたベルグレッテも、釣られて鏡へと目を向けて――
「あ!」
思わず声を上げてしまっていた。
『健在、健在です! ディノ・ゲイルローエン選手によって奈落の底へ突き落とされたリューゴ・アリウミ選手! なんとここで、その姿を捉えられました! 平然と森の中を歩いています! なんといいますか……頑丈ですね!』
草木の陰に身を隠しながら、獣道を行く黒髪の少年の姿。目立った傷もなく、体力的にもかなり余裕があるように見える。確かに湖へ落ちた証なのだろう、短い黒髪は濡れ、薄手の服は水を吸って色濃く染まっていた。
ほっと胸を撫で下ろすベルグレッテの顔を見て、隣の席の紳士が微笑む。
「良かったね」
「は、はい……」
『あっ。ドゥエンさん、おかえりなさい!』
そこで、しばらく席を外していたドゥエンが戻ってきたようだ。確か――『十三武家』より出場している剣の家系の若手、エルゴ・スティージェが敗北してから席を外していたはず。
鏡に映るその表情は眉根を寄せており、やや険しいものに見えた。
『……お集まりの我が国の皆様に、お知らせしなければならない事が御座います』
戻ってきて早々に発せられる、これまで聞いたことがないほど深刻なドゥエンの声。
『レフェ巫術神国は我等「十三武家」、剣の家系より出場していた一人……エルゴ・スティージェの陣没が確認されました。勇敢に闘い、散っていった若き兵に……ささやかな祈りを捧げて頂きたく思います』
観客席に動揺が広がった。
ベルグレッテもそこまでレフェの内情に詳しい訳ではないが、その報告がどれだけ衝撃的なものであるかは理解できる。いわば、レフェのロイヤルガードにおける中心的系譜。そこから出場していた若手――それも次期当主と見なされていた優秀な戦士が、ただ敗北するだけではなく死亡してしまったというのだ。
深刻な顔のドゥエン、絶句しているシーノメアの表情を見れば、あまりに想定外の出来事が起きてしまったのだと理解することは容易い。
「ふむ……剣の家系の次期当主候補がね……。これはまた、後が大変そうだねレフェも。ご愁傷様としか言えないな」
隣の紳士がやれやれと肩を竦めた。その言葉からしても、やはりこの男性はレフェの人間ではないようだ。
流護が森を散策する様子を映しながら、解説席の会話は続く。
『しかし……あのエルゴ選手が、その……』
『ええ。優れた戦士であった彼が斃れてしまった事は残念ですが……それだけ、天轟闘宴の質も上がっているという――』
そこで、不意にドゥエンの言葉が途切れた。
それだけではない。
『あ……!』
シーノメアが呆然と声を漏らし、
『ふむ……これはこれは』
ツェイリンが興味深そうに小首を傾げ、
「……、リューゴ……っ……!」
もう何度目となるのか。ベルグレッテが、鏡に映る少年の名を呼ぶ。
黒水鏡の向こう側。
ついに出会ってしまった、というべきか。まさにばったりと。川沿いに歩く流護の行く先。
水浴びにでもやってきたのか、それとも水分補給か。
『ほう……』
流護の姿を認め、川岸に佇むその男は腹の底へ響く低音を発する。
木々が影を落としているためもあるだろう、もはや漆黒にも見える肌。隆々と盛り上がる筋肉。そびえる上背。獣の生皮を剥がして誂えたような、雑な出で立ち。激戦を潜った証なのか、それとも一方的に獲物を屠った証なのか。その上衣や腰巻には、赤黒い斑点が付着している。
『何だよ……お前、参加しねえんじゃなかったのか』
金色のピアスが通った太い唇を楽しげに歪め、流護へと声を投げかける。
有海流護とエンロカク・スティージェが、邂逅した。
「…………」
アーシレグナの葉のせいにする訳ではないが。やはり、注意力が落ちているのか。
警戒して歩いていたつもりで、あまりにもあっさりと出会ってしまった。
いや。この馬鹿が、黒すぎて気付かなかった。それだけだろう。
闇のような巨人は水浴びでもしていた獣さながら、気持ちよさげに身震いする。
「ン~……ツイてる、とでも言うべきかねえ。まだ楽しめそうな奴が残ってて、嬉しいぜ」
流護は、己に言い聞かせる。
――体力を温存しておくべきだ。
流護は、荷物をしっかりと背負い直す。ディノから逃げたときのように。
――余分な力を消費できない。今は、この先にいるジ・ファールに備えて。
流護は、拳を握りしめる。
――ここは、闘えない。後回しにするべきだ。どうせコイツは終盤まで残る。
流護は、地を蹴って駆け出す。
後ろではなく、前へ。エンロカクに向かって。
状況から考えた最善の行動だとかそんなものは、全て投げ捨てて。
「いぃーねぇ、やる気満々じゃねえか! 来いよ小坊主!」
土煙が舞う。蹴散らした砂利が弾け飛ぶ。
瞬く間に詰めた至近の間合い。しかしエンロカクは流護の速度に驚くこともなく、その大きな眼を楽しげに歪める。
握りしめた少年の右拳が、鋭く弧を描く。身長差ゆえ弓なりとなる、オーバーハンドライトの軌道。当然のように反応したエンロカクは、顔面へ飛んできた流護の右拳をその巨大な手のひらで受け止めた。
パシィン、と甲高い音が木立の合間に反響する。
「!」
刹那、少年の拳に奔るわずかな痛み。
しかし。
「――、お!?」
一撃を止めたはずの巨人が目を剥く。
押し込む。
止められた拳をお構いなしに、かすかに感じた痛みなどものともせず、全力で振り抜く。突き抜ける。
流護の右拳を握ったままの巨大な手のひらが、押された手の甲が、エンロカク自身の頬を叩く。そして――
「うおおおぉ――らああぁぁッッ!」
殴り抜けた。
防御した手のひらごと、エンロカクの顔面を殴り飛ばす。さらに中途で軌道を下方へ曲げ、巨人を後頭部から大地へと叩きつけた。
「、が……!」
黒い巨体が豪快にバウンドする。鼻と口から血飛沫が舞う。
少年は大の字となって倒れた男を悠然と見下ろしながら、言い放った。
「――お前。桜枝里のこと、泣かしてんじゃねぇよ」
「……、…………! 流護、くん……っ!」
瞬間的に爆発する歓声の中。桜枝里は両手で口元を押さえ、溢れ出しそうになる涙を必死で堪えていた。
確かに聞こえた。熱狂に飲まれてしまっていたが、彼の発した言葉が確かに聞こえた。
まるで。いじめられている小さな女の子を助けるような、飾り気のない言葉。けれど桜枝里にとっては心が震える、そんなセリフ。
すごいパンチだった。もう充分。もう充分だから、今のうちに逃げて――
「っ!?」
すでに。半身を起こしたエンロカクが、流護の脚を掴んでいた。ごつい鼻と太い唇から、鮮血を流しながら。
『いィ~い拳だ。気に入ったぜ、小坊主』
『そりゃ何よりだ。なら、何発でもご馳走してやるよ』
脚を掴まれていることなどお構いなし、流護は迷うことなく下段突きの構えへと移行する。瞬間、その彼の身体が冗談のように一回転した。
「なっ……!?」
エンロカクが流護の脚を引っ張った。それだけで起きた現象だった。
しかしどんな反射神経をしているのか、少年は倒れず膝をついて持ち直す。その間に、エンロカクも身軽に立ち上がった。
そのやり取りを受けて沸く観客席。
「……!」
すごい。すごいけど、もういい。殺されないうちに、逃げて……!
そう願う桜枝里の下へ、鏡の向こうから声が響く。
『……ここでコイツぶちのめしてやっから。安心して待ってろよな』
「……、う、うぅ……!」
逃げてほしいのに。もう、充分なのに。
嬉しくて、涙が溢れた。




