203. 破戒者
逃げ場のない空中。それでも相手は、炎の一撃を防ぎきった。
しかし、そこにはもう着地するべき大地がない。あとは、遥か下方の奈落へと飲まれるのみ。
落ちていく寸前の少年と、目が合った。
足場を失い、崖下へ吸い込まれる以外になくなったあの有海流護という男は、
笑っていた。
それは何とも。
にっくき相手を、ものの見事に陥れてやった、といわんばかりの笑みで。
その瞬間、ディノは確信を得るに至る。
(コイツ、初めから――)
それは、この場での激突の寸前に覚えた違和感。
荷物を手放さず、背負ったあのとき。
何かと戦闘を避けたがっていた流護だったが、ようやく腹を括ってディノと闘うことを決意した――のではなかったのだ。
いつでも逃げられるよう、荷物を背負い。全力で仕掛け、本気を匂わせて。その結果呆気なく吹き飛ばされ、落下した。
逃げることに、成功した。
ディノはまんまと乗せられ、騙された。
崖際へと歩み寄る。見下ろせば、遥か下の湖には大きな波紋が広がっていた。それは――あの男が逃走に成功した証。
「フ……」
そう。驚くようなことでもない。最初から、あの男は自分との闘いを避けたがっていた。徹頭徹尾、その目的を貫き通したというだけの話。
「フハ、ハハハ……」
ものの見事に騙された自分がおかしくて、しかし同時にそんな小細工がなぜかあの少年らしいとも思え、笑いが込み上げてくる。
「ハ――ッハッハッハハハハハ――!」
ああ、感じているのだ。
楽しい、と。
たまにはこういうのも悪くない、と思えるほどに。
(さーて……どうすっかね)
ひとしきり笑い、ディノは満足げに思案する。
実のところ、今から追いつくことも別段難しくはない。術を応用すれば、飛び降りることなど容易だ。逃げおおせた気になっている少年の前に現れ、驚いた顔を見てやるのもまた一興だろう。
――たが。
「……ペッ」
親指で口元を拭う。ディノも所詮は人の子であることを証明する、赤い血液。久々に流した朱色。
対峙して確信した。あの男は、以前よりも強い。
増した速度もさることながら、両腕に巻いた灰色の篭手が戦術の幅を広げている。自分の炎にも耐えられるとなると、よほどの逸品だろう。材質が気になるところだ。
――やっぱアイツは、メインディッシュにするか。
現時点では退屈と言わざるを得ないこの武祭、あれほどの参加者が他にいるかどうかとなると、やはり怪しいものだ。楽しみは最後に取っておくというのも悪くない。ここで喰ってしまうのはもったいない、という思いが出てきた。
何より、
「…………」
行く先。森へ引き返そうとした道の中途に、異様な存在が現れていた。
それを全身鎧、と表現するべきか否か。比喩でなく全身を覆い尽くす金属の質感。でありながら、暗殺者が纏う黒装束のようにぴったりと張りつき、身体の線を露わにしている奇妙な装い。しかしなぜか、両腕の部分のみが異様に太い。人の形をしていながら、ひどく歪な印象を受ける。
年齢や性別すら不明に見えるが、その体格からして男なのは間違いなかった。
「何だその……鎧? ダッセェなソレ。暑くねェの? そのカッコ」
ディノが鼻で笑いつつ声を投げかければ、
「ハハ……思いのほか快適なんですよ、これが」
返ってきたのは、意外にもしわがれた老人の声だった。顔の部分までもがすっぽりと覆われているにもかかわらず、その声はくぐもることなく明快に響く。
「……で? わざわざ出てきたってコトは……オレと闘るつもりなんだよな? オジーチャン」
「貴方は、『凶禍の者』……『ペンタ』ですな」
「あー? ま、そうだな」
「おお、やはり。今ほどの闘いぶり……堪能させていただいた。対峙していた少年も凄まじいものでしたが……やはり、選ばれし者は違う。流石は神の子と申しましょうか……恐ろしいまでの手練だ。なればこそ……相応しい」
歓喜すら含んだ声で感慨深げに言い、全身金属の老いた男は一歩進み出る。
「私はかつて、神に仕えていた身でして……ジェド・メティーウ神教会に属し、片田舎で教義を説いていたことも御座いました。最終的には、『イル・イッシュ』に身を置くことになりましたがね」
ジェド・メティーウ神教会。
その名の通り創造神ジェド・メティーウを信奉する宗派で、複数の国に多数の信者がおり、その数はおよそ四十万人にも及ぶ。レインディールの総人口を上回るほどの数。かつて、ディノの両親も信者だった。街を歩けば、周りにいる者のうち数人は信者だったりしても不思議ではない。名実共に最大規模の宗教団体である。
……が、人数が多くなれば、その分だけ異質なものを孕みやすくなるともいえる。
神教会の中でも特に信仰心が篤く、狂信的とも呼ぶべき者たちで構成される一派が存在した。
その名を『イル・イッシュ』。
神こそが全てという思想に基づいて行動し、命を投げ出すことすら厭わない者たち。その盲目的な信仰を唯一絶対とし、また他者にも強く押しつけようとするため、殊更に異端視され疎まれることが多い。まさしく、教団の『闇』と呼ばれていた。
厄介なことに、その闇の中には権力を持つ者も多数存在する。敬虔であるがゆえ教団内での地位を高め、その出世を神の慈悲によるものと考えて、さらに信奉を深めていく……の繰り返しでそういった者が生まれるともいわれるが、真相は定かではない。
さて、そんな彼ら――『イル・イッシュ』にとって『ペンタ』とは、神に選ばれし者。神にも等しき存在と認識される。
であればこの老人にとって、ディノは崇めるべき対象となる――が。
「……『イル・イッシュ』……だった、ねェ」
過去形。
つまり今は、従順な神の僕ではないということになる。しかし。
「元お仲間が、色々とうるせーんじゃねェの?」
この男のかつての同胞――他の狂信者たちが、脱退を許すとは思えない。まず間違いなく、命を狙われることになる。
「はい。ですので、降りかかる火の粉は払いました。自分の手で」
わずか頭部を上向け、懐かしむように老人は語る。その金属の装いゆえ、表情は微塵も窺えない。
「生を受けて七十余年。私は、一度も神の御姿を目にしたことがない。私が苦境に立たされた時、救いの手を差し延べてくださったことなど一度もない」
かしゃり、と。鋼に包まれた拳を握る。隙間なく銀色に覆われたその指はしかし、驚くほど柔軟に曲がるようだった。
「ですので。自分の身は自分で守る。己の道は己で切り拓く。それこそが、真理であると悟ったのです」
それが、長きを生きてたどり着いた境地だと。終着した到達点だと。重々しく言う金属の老人に対し、ディノは嘲笑を返す。
「ふーん。その歳んなって、よーやっとそんな当たり前のコトに気付いたのか? 随分と遠回りしたな、オジーチャン」
『ドゥエンさん!? ど、どういうことですか? 規約違反? あの鎧の人物が? 中身は老人のようですが……あの鎧がダメなんですか!?』
天轟闘宴は個人で持ち込める範囲内ならば、武具の使用も認められている。その全身鎧は造形こそ奇妙ではあるが、別段規定に反しているとも思えない。
そう考えたのだろう、シーノメアが緊迫した空気に困惑しつつまくし立てる。そんな彼女に対し、ドゥエンが黒水鏡から目を離さず答えた。
『あれは……ただの鎧などではありません』
『え?』
『全く……次回からは、しっかりと規定に組み込まねばなりませんね』
やれやれといった様子で、ドゥエンは溜息と共に吐き捨てる。
『例えば……天轟闘宴の規定に、「大砲の持ち込みを禁ず」とは記載されていません。これは、言われなくともそんな物を持ち込む人間など存在しないからです。常識として、考えるまでもなく有り得ない事だからです』
いかに『何でもあり』とはいえ、そこは個々の技量――強さを競い合う武祭。大砲を持ち込む者など、いるはずがない。語るまでもない前提、暗黙の了解として、いちいち記されていないだけの話。
『あの男が身に着けている武装は……決して、ただの鎧などではありません。あれは――兵器、と呼んで差し支えない類の物です』
薄く細められたその目は、侮蔑の色すら宿している。
『我々はあの武装を……便宜上、鉄機呪装と呼んでいます。……あんな代物を持ち込むとは……老練の術士バダルエ・ベカーも……堕ちたものだ』
わずかに惜しむような声で、そう零した。
鏡を通して響く、カシャン、という金属音。
(え、いや、あれって……)
日本という国からやってきた雪崎桜枝里は、ただただ目を見張る。
ファンタジー色溢れる世界観にも、文明のレベル的にも、個々の武力を競う場においても――ひどく似つかわしくない、サイバースーツとでも呼ぶべきスリムな鋼鉄の装い。
その左腕。肘から手首にかけての異常に太い部分が、花咲くようにバカリと開いた。
(あれって……、機械、だよね……?)
機械そのものは、この世界にも存在する。それは例えば時計の歯車であったり、冷術器の固定機能であったり、主に日常生活で利用されているささやかなものだ。
しかしこの『機械』は、未来的な――『マシン』と呼ぶべき領域ものに思える。
解説席のドゥエンがバダルエ・ベカーと呼んだ鉄装の老人は、開いた左腕の内部に右手を突っ込み、おもむろにまさぐる。
『私は……挑まねばならない。知らなければならない』
まるで、そこに収納している何かを取り出すような。
『あらゆる者を撃退せしめたこの力。勝利を齎し続けたこの力が……神に選ばれし者に対しても、通用するものなのかどうかを』
取り出すかのような――ではない。事実、そこに収納されていたものを取り出した。あの異常に太い腕部は、格納庫なのだ。
そうして。
バダルエは右手に握りしめた『それ』を掲げ、ディノへ向けて構える。
そのまま、当たり前のごとく言い放つ。
『さあ……始めようではないですか』
――何を言ってるの。この人は。
桜枝里は黒水鏡を見つめたまま、ただ呆然とそう思うことしかできなかった。
『……間に合わんか』
急行した待機班のことだろう。ドゥエンのかすかな呟きが――苛立った声が、通信に乗って聞こえてきた。
当たり前だ。間に合うはずもない。
だって。
この鉄の老人が右手に持っているそれは。自分が知っているものとは少々造形が異なる、古めかしいデザインではあるけれど。ディノという青年へ向けられているそれは、どう見ても――――
拳銃、なのだから。
『話はもう終いか? んな小せぇオモチャでどーする気か知らねェが』
当然というべきなのか。拳銃の存在など知るよしもないだろう美青年は、怖じけづくことなく嘲笑する。してしまう。銃口を突きつけられているというのに。
(ちょっ、まっ……、待って待って待って、だめだってば――)
そこからは、あまりにも一瞬だった。
『では、参りますぞ』
老人の宣言と同時。
バン、と乾いた音。
『……、…………?』
眉根を寄せた青年の吐息。吹き出す血潮。
何が起きたか分からないといった顔で、自分の身体を見下ろすディノ。脇腹に穿たれた穴から、溢れ出る赤――。
ぱん、ぱん、と。
二発、三発。
続けて胸と額へ銃弾を浴びたディノは、当たり前のように仰向けとなって倒れていく。まさに、テレビドラマのような映像。
赤髪の青年はぐらりと傾き、数メートルの段差がある下の草薮へと転落していった。
拳銃で人が撃たれ、その結果として訪れる当然の結末。
そんな光景が、黒水鏡を通して生々しく映し出されていた。




