201. ガフ
「はぁ……、はっ、ぜぇ……っ」
遮るもののない高台を、一陣の風が吹き抜ける。火照った身体には、それがひどく心地いい。
全力で駆け抜けて、まだ息も整わぬまま、流護は眼前に広がる絶景を見下ろしていた。
「……はは、」
思わず足が竦む。
高さはおよそ十五メートル――いや、それ以上か。直角に切り立った岩肌と、遥か眼下にたゆたう湖。その周囲には、黒々とした森が敷き詰められたように広がっている。それぞれの先端がこの崖より遥か低いことを考えれば、これらの木々は「無極の庭」の中では相当に小さい部類となるだろう。
斜面を登りきり、たどり着いた終点がここだった。
「――よう。行き止まり……みてーだな」
振り返れば、草葉を踏みしめて歩いてくる紅蓮の男。
全力だった。この世界では馬に匹敵するとまで評される、流護の走力。その全速で駆けてなお、ディノの追跡を振り切ることはできなかった。
「……ったくよー……。平然とついてきやがって……」
「ハッ。ま、さすがに行き止まりじゃなきゃ、追い付けやしなかったろうな」
その言葉は嘘か真か。世辞を言うような人物でないことを考えれば、真実なのだろう。疲弊した様子も見せずやってきた『ペンタ』は、いつでも仕掛けられる間合いにて足を止める。
前方にはディノ。後方には崖。
かなりの距離をなりふり構わず移動したはずだが、途中で誰かに遭遇することもなかった。あわよくば第三者の横槍が入り、そのどさくさに紛れて逃げおおせる――などという可能性も期待していたのだが、そう上手くはいかなかったようだ。
やはり、想像以上に残り人数が減っていると考えて間違いない。それでいて、残りは流護とディノの二人だけ――でもない。
先刻、ディノとの戦闘を開始する合図ともなった、森のどこからか響いてきた地鳴り。あれは、誰かの術による爆発音だと流護は予想した。似たような音を、この二時間半だけで幾度も耳にしている。例の『打ち上げ砲火』もまだ見かけていない。
天轟闘宴は――まだ、終わらない。
「で? オメーのコトだ。逃げようとして失敗した……ってワケじゃねェんだろ?」
「ふ、ははは……随分と俺を買ってくれてんだな、ディノさんよ」
期待するように笑うディノ。流護も同じく笑う。
「手甲の性能を隠して、ここぞ! ってとこでブチかまそうとして失敗。振り切ろうとしながら、誰かが乱入してくるのを期待してたけど、これも失敗……」
「もう何もねーよ、このアホ野郎。いいぜ……そんなに闘りてぇなら、相手してやらあ」
流護は手にしていた袋をぐるりと回し、両肩へ引っ掛けてナップサックのように背負う。同時、気合を入れるように大地を強く踏みしめた。
――覚悟は決まった。『ここまできた』ら、やはりもう、やるしかない。
相手の言葉を聞いてなお、迎え撃つ姿勢を見てもなお、ディノは警戒を緩めない。油断なく思惟を巡らせる。
(……んー……、何か引っ掛かるんだよなァ)
それは、荷物の扱い方だ。
先の交錯で、流護は闘う前に袋を放り投げている。しかし今度は、手放さずに背負ってみせた。
本来ならば、気にするまでもない些細な点だろう。
しかし、ディノとの対峙においては違うのだ。荷物を手放すか否か。その小さな選択が、大きく明暗を分ける要素となり得る。
ぴったりと、身につけるように背負った麻袋。いくらこの武祭で扱うための丈夫なものとはいえ、所詮はただのずた袋だ。盾として用い、ちょっとした衝撃を防ぐ程度ならできるだろうが、ディノの炎が触れたなら容易く燃え上がる。そして一度引火したなら、その炎は即座に身体へと移ってしまうだろう。
最初は手放している以上、そこに気付いていないとも思えない。
(アレか? 荷物持ったままでも、問題ねェ……そう思ったのか?)
先の交錯で。ディノ・ゲイルローエンの実力を、そう判断したとでも――
「ッ!」
ディノの思考に割り込む、その一瞬。
膨張したかと錯覚した。
目前。腰溜めに握られた右拳。
わずか一歩で完全に間を詰めた流護が、すでに拳を射出する態勢となっていた。
(……ハッ!)
迎撃するべく身構えるも、黒き少年は拳撃を放つことなく、さらに身体を捻り――
「!」
完全に、ディノの視界から消失した。
「――――」
超至近。死角へ移動されたことによる見失い。右か左か。秒を両断した領域で迫られる二択。右の拳を振るうのであれば、自分から見て左。
判じながら全速で、身体ごと左側へと向き直る。
「……ッ、」
――そこには、誰もいなかった。
(タマンねェな、外れかよ――ッ)
何よりも速く。
ディノはそちらへ顔も向けずに、顔のすぐ脇へ右腕を掲げる。
直後、鉄塊としか思えない重撃がその腕に着弾。肉を、骨を軋ませた。
「……グ!」
踏ん張りながら一拍遅れて身体を向けるも、ディノの視界から逃れるかのごとく、黒い残像は尾を引いて横へ飛んでいく。
(――コレだ)
あの死闘が脳裏をよぎる。
触れれば届く間合い。目前で見失うほどの速度。
(そう、コレだ)
腕に走る鈍い痛みは、ディノも血の通った人間であることを思い出させるかのように疼く。常勝の、不死の怪物などではない。当たれば倒れる、ただの人にすぎないのだと。
そんな当たり前のことを改めて認識させてくれた、初の相手。
(そう、テメーは――)
霞む残影。その流麗な体捌きは、あの心躍る死闘をはっきりと呼び起こす。中途で途絶えてしまった記憶を――至上の時を呼び起こす。
「こうじゃなきゃなァッ!」
紅い瞳が追った先。ようやく視界に有海流護の姿を捉え、ディノは歓喜と炎を爆発させた。
迸る焦熱の砲火。放たれた一撃は寸前まで流護のいた空間を突き抜け、一直線に崖から飛び出した。
遥か遠方、崖下から伸び出ている巨大樹の先端を吹き飛ばし、虚空へと消えていく。
『す、凄まじいディノ選手……砲撃――っ! しかし流護選手、こ……て肉薄! ……こ……』
シーノメアの通信が呑まれるほどの大歓声。立ち上がって応援する者も続出する。
「リューゴっ……!」
ベルグレッテも思わず立ち上がっていた。呼んだその名が、自分の耳に届かないほどの盛り上がり。
『覚悟を決めて反撃に転じたリューゴ選手、怒涛のラ――ッシュ! ディノ選手も、躱す! 防ぐ! しかし、ワンテンポ遅れている印象! リューゴ選手の速度についていくのがやっとなのでしょうか!?』
拳と炎。交わされる応酬に、先ほど野次を飛ばしていた者たちも我を忘れて熱狂している。見る側としては申し分ない一戦だろう。
(リューゴ……本当に、ここでディノと決着を……?)
無論、それで勝てるのなら問題はない。むしろ大きな懸念材料が一つ消え、優勝が現実味を増すほどだ。
しかし。
『……ふむ、稀有な才能ですね。少しずつですが……ディノ氏の反応が、追い付き始めている』
ドゥエンの言葉通り。
絶えず死角から死角へと移り、対応しづらい位置から攻撃を見舞う流護。常人であれば、彼の姿を視認する暇もなく倒されているだろう。
最初こそ辛うじて防ぐか躱すかを迫られていたディノだったが、このわずか数十秒の間で、目に見えて反応速度が上がっている。
今やその紅い瞳は正確に流護の姿を追い、拳や蹴りを避ける割合が多くなっていた。
――そう。このディノ・ゲイルローエンを簡単に倒せるならば、流護は最初からあれこれと策など講じていない。
幾度目の攻防か。
流れるような動作で踏み込み、ディノの真横から右拳を疾らせる流護。
死角から迫ったその一撃を、素人の『ペンタ』は首の動作のみで完璧に躱す。躱しざま、
『――フッ!』
一閃。
流護の振るった腕、その上から被せるように、ディノの右拳が唸りを上げていた。
『うおっ!?』
交錯する腕と腕。間一髪ながらも顔を逸らした流護、その頬を拳がかすめていく。
「なっ……」
ベルグレッテは思わず総毛立った。
今のは、交錯法と呼ばれる反撃の一手。流護も得意とする、相手の勢いを利用して返す高等技術。
互いの腕が交錯し、十字を描いたようにも見えることから――
クロスカウンター。
彼の故郷では、そんな風に呼ばれているという。そんな大技を、素人のディノが、あの流護に対して放ってみせた。
『……んー……掴めてきたぜ。楽しいモンだな、徒手空拳も』
新たな遊びを覚えた少年のような、無邪気さすら感じさせる口調で、炎の『ペンタ』は瞳を輝かせる。
『はっ、まだまだだな……。ちょーっと殴られたら、痛くてヤメたくなるぞ。お前はそういうタイプの根性なし野郎だ、そんな顔してる。くっそ、バカ、イケメンホスト』
子供のような軽口を叩く遊撃兵の少年。しかしその胸中はいかばかりか。
自分に『クロスカウンター』を成立させかけたという事実。そのディノの恐るべき才能は、対峙している流護こそが誰よりも強く噛み締めているだろう。
『その……悪い言い方になってしまいますが……! 不意打ち上等、反撃されずに倒せ! が基本となるこの天轟闘宴において、これほどの高水準で繰り広げられる無術の応酬! 誰がこの展開を予想できたでしょうか!?』
レフェにおいて根強く崇拝され続ける、『竜滅』の勇者ガイセリウス。レインディールでも多くの者が称える英雄――ベルグレッテ含め――ではあるが、この国における信仰の度合いは桁が違う。ゴンダーの宿、飲食店、図書館、王城……ありとあらゆる場所に肖像画が飾られていることからも、その規模の大きさは窺える。
そんな彼の在り方を想起させる、術を介さぬ原始的な武力闘争。この国の人々にとって、これ以上に血を滾らせるものはないはずだ。
夏の熱気と客たちの熱狂が混ざり合い、観覧席の暑さは凄まじいものとなりつつあった。
先ほどからベルグレッテの周囲でも、突然倒れて兵士に運ばれていく者が出始めている。
暑がりなこともあり、携帯用の冷術器を自分に向けていたベルグレッテだったが、それでも汗だくになりながら展開を見守っていた。
『それにしても……ディノ選手、急に炎を使わなくなりましたね。どうしたのでしょうか。やっぱり、自分で出した炎の熱気で暑かったりとかするんでしょうか?』
以前の流護との闘いにおいても、ディノは最終的に炎を放棄したという。
おそらくは大半の魂心力を身体強化へと回して特化したためだろう、と当時の流護は予想していた。少女騎士も同様に考えている。
……もっとも、一人の詠術士として意見するならば。いくら『ペンタ』とはいえ、ディノの年齢でそれほどの技量と集中力を有しているなど、到底信じがたいことではあるのだが。さらに言えば、自らの象徴たる炎をあっさりと捨ててしまうことも理解できない。あの誇り高い『ペンタ』なら、尚更だ。
(なんだっていうの……この男は……)
ベルグレッテには、ディノ・ゲイルローエンという男の思考が全く理解できそうになかった。
『体術と体術の応酬! このまま決着までいくのでしょうか……? であれば、勝利は果たしてどちらの手にっ……!?』
興奮気味のシーノメアへ、ドゥエンが淡々と解説した。
『このままならば、リューゴ氏でしょう。ディノ氏が追い付き始めたとはいえ……流石に、武術の精度が違います』
この人物が珍しく流護を推したことに少々驚きつつも、うんうんと内心で頷きかけるベルグレッテだったが、
『ですが』
ドゥエンは不穏な含みを持たせ、確信があるかのように告げる。
『ディノ氏は、武術家ではありません。存分に神の施しを享けた者です。このまま安易に決着――とは、いかないでしょう』
そう。ディノは何も、好き好んで自らの炎を封じている訳ではない。流護の膂力に対応するため、本来ならば炎に割く力を身体強化へと当てているだけ。となれば――
幾度かの交錯を経て、静寂。
有海流護とディノ・ゲイルローエン。
眼下に湖を望む高地にて、互い、無言のまま向かい合った。
その間は数値にして六、七マイレほどか。流護ならば、一足で詰める距離。ディノならば、炎の柱の射程圏内。双方、一挙動にて仕掛けられる間合い。
――草葉が散り、舞い上がった。
そう認識した瞬間、流護は接近を終えていた。完全な零距離。
そして。
ベルグレッテは鏡越しに目撃してなお一瞬だけ、見慣れたその姿を見失った。否――果たして鏡に釘付けとなっている三万人のうち、何人が彼を捉えられただろう。
まさしく神速。
流護は限界と思われた速度からさらに加速し、完全にディノの背後へと回り込む。
が、それすらもこの男には見えていたのか、それとも読みか。
ディノは反応し、正確に流護のほうへ――背後へと向き直る。
しかし、遅い。
流護の右拳が、すでに鼻先へと迫っている。
(勝っ……!)
――そこからの流れは。
なぜか、ひどく緩やかに感じられた。
ディノの左頬に、流護の鉄拳が叩き込まれる。
そう。鼻先へと迫っていた拳が、頬に。
その一撃を受けた勢いのまま、ディノは顔ごと身体を旋回させた。時計回りに。振り抜かれた拳の流れに逆らわず、大きく顔を弾けさせ――威力を殺す。
『――なァ、勇者クンよ』
紅い瞳が残像を帯びる。
まるで風車だった。回転した勢いから繰り出されたディノの右裏拳が、流護の側頭部を斜め上から打ち下ろす。上方からの軌道。あの少年の技量ですら、見えていなかったのかもしれない。
直撃を受け、流護の身体がわずかに傾いだ。
『オレは……強くなったぜ?』
間合いが、離れる。
そうして。
『オメーのお陰でな』
紅蓮が、現界した。
『今度は、途中でトンだりしねェよ』
空間を食い破るように燃え盛る――この男を象徴する、二双の炎柱。
『限界まで楽しもうじゃねェか――なァッ!』
ディノは身体を旋回させ、真横から大炎牙を唸らせた。
全てを掃う右一閃。
流護は両腕を咄嗟に構え、叩きつけられた炎を受け止める。受け止めて、そのまま後方へと弾き飛ばされた。小柄とはいえ重く強靭なその身体が、易々と宙を舞う。
滞空した流護へ向かって、逃げ場のない二撃目――左の炎が牙を剥いた。
その技量を称賛すべきだろう。不安定な空中において、流護は追撃の左一閃をも防ぎきった。がっちりと、完璧に。両の腕へ巻かれた、邪竜の篭手で。
そして。
振り抜かれた勢いのまま、流護の身体はさらに後方へと弾かれて――
滞空する。
大きく吹き飛ばされた少年の身体は、崖の端から飛び出していた。
そして当然というべきか。吸い込まれるように、呆気なく。
有海流護の姿は、遥か崖下へと転落――――深淵の底へと、消えていった。
「――――――――え」
呆然としたベルグレッテの呟きも、客席の大歓声が塗り潰す。
『ら……、落下あああぁ――! ディノ選手の猛攻を凌いだかに思われたリューゴ選手……しかしその勢いに押され、崖下へと落ちてしまったああぁ――っ!』
俯瞰より映される、高台の風景。
会場とは対照的、それまでの激闘が夢であったかのような静けさ。
ただ一人立つは、赤髪の青年。彼はゆっくりと崖際へ歩み寄り、その遥か下方を見下ろす。有海流護が落ちていった、その奈落の底を。
『フ……』
それは。
『フハ、ハハハ……』
勝利を確信したがゆえか。
『ハ――ッハッハッハハハハハ――!』
高らかに、まさしく燃え盛る炎のような激しさで。青空の下、『ペンタ』の哄笑はどこまでも響き渡っていた。




