19. 死域
確かに、その巨躯が跳ねた。白煙を噴き上げた。
しかし、それだけだった。
(マジかよ、コイツ――)
目を灼くほどの白雷一閃。耳を麻痺させるほどの大音響。
どう見ても、今の一撃はもはや落雷と同じ規模に達していた。大きく離れていた流護が思わずよろけてしまうほどの、超絶な紫電の瞬き。
なのに。なのに――
コイツ。あれだけの一撃を受けて、倒れもしないってのか――
流護の全身から、冷ややかな汗がどっと吹き出す。
そうして。キョロキョロと首を巡らせたファーヴナールは、ある一点を見つめて静止する。言うまでもない。学生棟の屋上、ミアとベルグレッテ――
「やめ、ろ、てめえええぇぇッ!」
流護の制止など聞くはずもなく。巨大な翼を羽ばたかせ、飛び立とうとする邪竜――のその横っ面に、回転しながら飛んできた雷の棍が直撃した。
見れば、校舎二階のバルコニーから「ニィ……」と不敵な笑みを見せるダイゴス。
直後、ファーヴナールの左右それぞれの翼に、火の球と氷の槍が着弾する。
学生棟の二階に、手を前へかざしたレノーレ。校舎の入り口に、中指を立てたエドヴィン。
効いた訳ではないのだろう。しかし飛び立とうとしたところへ神詠術を立て続けに浴びたことで、ファーヴナールは完全にバランスを崩した。
常に高くもたげられていた顔が、地面の近くまでガクンと降りる。
ほんの一瞬。しかし、それで充分だった。
滑り込む流護。
気付いたファーヴナールは、噛みつこうと大きく口を――
――それは、『顎』だった。
流護が繰り出した、高速の右肘打ち。超速の右膝蹴り。
同時に放たれた、突き下ろす肘と突き上げる膝は、まるでファーヴナールの頭を噛み砕く、巨大な顎のようだった。
強引に噛み合わされたファーヴナールの牙が砕け、破片を撒き散らす。
飛び散った紫色の血が、宙に舞う金属片じみたそれらを彩る。
今度こそ――、邪竜の巨体が仰け反った。
――効いていたのだ。
ミアとベルグレッテが放った、雷光の一閃。
あれほどの一撃でさえ効果がなかったかに思えたが、噛みつこうとしたファーヴナールが確かに一瞬だけ痙攣し、遅れたのを流護は見逃さなかった。
「ッシャアァァァッ!」
間を置かずその巨大な頭部へと叩き込まれる、拳の連弾。身体を反転させる勢いで繰り出す右廻し蹴り。
岩石を叩いたような感触。しかし、打つ。その岩石じみた頭蓋を叩き割るべく、息をもつかせぬラッシュを叩き込む。
ファーヴナールはガクンと倒れかけ、しかしその強靭な四肢で踏ん張った。
まさに伝説を思わせる光景だったろう。
確かにこの巨大な竜が、小さな人間に圧されて後退した。
(効いてる――、終わりだ、クソトカゲ野郎――!)
流護は小さく息を吸い込んだ。渾身の右正拳突きを放つべく身構える。
ロック博士――岩波輝の言葉が、脳裏をよぎった。
『ボクも専門外だから、詳しくはないんだけどね。けどボクの予想が正しければ、キミは――』
『キミは、近いうちに……その超人的な力を失う』
『キミも気付いてるだろうけど、この世界の重力は弱い。キミの膂力は、地球の重力で育ったからこそ身についたものだ。この世界で地球と同じように暮らしていくなら、その筋力を維持することは出来ない。鍛錬を怠った筋肉がすぐに衰えるように、キミの肉体は……この世界で暮らすだけで、急速に衰えていく。同じようにトレーニングをしてもダメなんだ。「ただの人」になるまで、三週間もかからないはずだ』
この世界においては、ただの人ですらなくなる。神詠術も使えないのだから。
グリムクロウズへ来て一週間。すでに衰えは自覚し始めていた。
重力に慣れ、ドラウトローの攻撃こそ完全に凌げたが、拳に確かな手ごたえを感じても、容易に一撃では仕留められなくなっていた。単純に腕力が落ちているのだ。
しかし、それでも。
この一撃。この一撃で、腕がなくなってもいい。
左腕を前に伸ばし、腰溜めに引く動作を取ろうとする――刹那。
風を感じた。
左腕に、引っ張られるような違和感。
見れば。
流護の左腕。肘から先が、なくなっていた。
「――――――――――――――――――」
流護はただ呆然と、自分の左腕を見る。
ものの見事に、肘から先がなかった。
赤い液体を吹き上げる様を見て、壊れた水道管みたいだと思った。背後でやたら大きく、ぼとり、と音がした。何の音か確認するまでもなかった。
「、が、あぁあぁあアアあああああああああぁぁあああ!」
もはや咆哮。
二の腕を押さえ、後ろへよろめく。膝をつく。意識が――明滅する。
そこで、見た。目の前にいる怨魔。伝説と謳われる邪竜。
これまで感情を感じさせなかったその巨大な眼には、明らかな怒りの色。
何のことはない。流護が先ほど思った通りなのだ。
『じゃれついていただけ』だったファーヴナールが、少し手痛い攻撃を喰らったことで、ようやく『戦闘』をする気になった。その本気で振るわれた爪は、流護に視認することすら許さず、左腕を吹き飛ばした。それだけのことだった。
有海流護は、自分の死が確定したことを理解した。
どうせもう日本には戻れないと、捨て鉢になっていた部分もあるかもしれない。
恐怖はさほど感じなかった。死ぬほど痛いが、意識はまだ保っている。
しかしそんなのは戦闘の興奮状態にあるせいだ。試合やケンカで、痛みを感じなくなることは今までもあった。しかしアドレナリンが切れて冷静になってしまえば、痛みでショック死するかもしれない。
いや、それより失血死が先か。左腕の付け根を押さえてはいるが、血は溢れ続けている。しかしそんな心配は不要だろう。
それよりも何よりも、目の前で腕を振りかぶりつつある巨大トカゲに潰されて、死ぬ。
まるで他人事のように。自分でも驚くほど冷静に。流護は自覚した。
エドヴィンは、ただ目を見開いていた。
ダイゴスは、悔しそうにバルコニーの柱を叩いた。
レノーレは、顔を青くしてぺたりと座り込んだ。
「い、や……リューゴくん、いやだあああぁっ……!」
ミアはへたり込んだまま、泣き叫んだ。
ベルグレッテは屋上の手すりを乗り越え、空中へとその身を躍らせた。
「ベ、ルちゃ――」
驚くミアの声が届くよりも先に。
神詠術を展開し、水流の逆噴射を利用して、空中を滑空する。
文字通り空を飛び、ファーヴナールの至近へと迫った瞬間、詠唱を終えていた神詠術を発動した。
「――我が手に、来たれ――剣よ!」
高密度に凝縮された水が、銀色の煌きを放ちながら、その両手へと収束される。
現れたのは――ベルグレッテの背丈の二倍以上はあるだろう、白銀に輝く水の大剣。
そこでファーヴナールは自分へと接近する存在に気付いたのか、顔を向けた――瞬間。
「はああぁあああぁああッ!」
彗星のように銀色の尾を引いて迫ったベルグレッテ。
その両手に携えた大剣が、ファーヴナールの左眼に突き刺さった。
初めて、竜が咆哮を上げる。腹の底に響き渡る、おぞましいまでの雄叫び。
腕を振り回してベルグレッテを叩き落とそうとするが、長大な尺を誇る大剣、その柄を握るベルグレッテには届かない。
「こ、のおおぉッ……!」
身をよじるファーヴナールに身体を振り回されながらも、全力で突き入れる。
ベルグレッテは、急速に自分の中から魂心力が失われていくのを感じていた。幼い頃から練習した、勇者の大剣。詠唱に時間がかかり、一振りが精一杯の、とても実用的でない伝説の大剣。
自分の力でファーヴナールの皮膚を斬り裂けるとは思えなかった。だからこそ――眼。この突き入れた左眼から、反対側の右眼までを一直線にぶち抜く。突き抜けるのが先か。精神力が切れ、大剣が消えるのが先か。
流護の腕が吹き飛んだのを見て、ただ飛び出した。ミアの補佐をしながら念のために詠唱していたこれを、躊躇なく発動した。外せば自分が死ぬなど、考えなかった。
絶対にこの一撃で終わらせる。
いや、終わらせなければいけない。すぐにでも、流護の手当てをしなければ。死んでしまう。
――また。流護を失ってしまう。
『覚えのない感情』が思い浮かんだ瞬間、ファーヴナールが大きく頭を振った。
大剣の切っ先が滑るように目から外れ、ベルグレッテは地面へと落下し――
同時に、水の大剣が消失する。
「……、っ……く……」
一気に大量の魂心力を消費したことで、ベルグレッテはもう立ち上がることすらできなかった。呼吸すら上手くできない。
眼前には。
片眼を潰され、単一となった怒りの眼光で見下ろしてくるファーヴナール――
――いやだ。いや、だよ。流護。
「――さすがだぜ、ベル子」
声が聞こえた。
倒れたまま顔を向ける。
片腕をなくした少年がいつの間にか立ち上がり、凶悪な笑みすらたたえてファーヴナールを睨みつけていた。
りゅう、ご。もう、いいよ。
そんな血を流して、動いたら、死んでしまう。
「やく、そく……、死なないって、やくそく、したじゃな……い」
声すら、うまく、出せない。
邪竜は、隻眼をギロリと少年に向ける。
しかし悠然と佇んでいたはずの巨大な身体はかすかに震え、頭をもたげることすらできなくなっていた。
身体を支えるのがやっとなのか、突進気味に首を伸ばし、砕けた牙でおかまいなしに噛みつこうと口を開く。
『■■』が何か言っている。
目がかすんで、顔がよく見えなかった。あの長くてきれいな髪。
ああ、彩花だ。
そのベル子が何か言ってる。約束? 約束ってなんだっけ、なんて言えばまた不機嫌になるに決まってる。思い出せ。
ああ、そうだ。
夏祭り行くんだったな、一緒に。とっとと片付けて、一緒に行こう。彩花はやっぱり頭がいい。俺はこのデカブツを倒すのに、頭を狙うことしか考えてなかった。でもそれよりハッキリした弱点があるじゃねえか。さすがベル子だ。
流護はふらつきながらも噛みつきを左へ躱し、ファーヴナールの右目の前に陣取る。
ギョロッと追いかけてきたその眼球へ、花壇に水でもやるような気軽さで、なくした左腕を向けた。止血のために抑えていた右手を離す。
噴出した血がファーヴナールの右目に降りかかり、完全にその視界を閉ざした。
その一瞬で充分だった。
今まで、何千、何万と練習してきたその型。
なくした左腕を引き、腰溜めに構え――右の拳を、突き入れる。
ファーヴナールの右眼に突き入れた渾身の正拳突きは、反対側の左眼から突き抜けた。




