188. 脈動する黒意
開幕式まで残すところ十分。
その後、四十分をかけて参加者たちが森の中へ入るそうなので、実際に始まるのは五十分後か。
観客席も、今やそのほとんどが埋まりつつあった。……すぐ右隣の席は、未だ空いたままとなっているが。
「………、」
ベルグレッテは周りを見渡し、ただただ圧倒される。
集いに集った人の波。ここからその全容を把握できるはずもないが、三万人の観客が集結しているというのだ。
少女騎士としても、このような催しの場に参加することは初めてではない。それでもやはり、この天轟闘宴は規模が桁違いに大きい。
この熱気。国を挙げての一大祭事。集結した強者たち。
(リューゴ……)
この大盛り上がりが、そのまま大きな不安となって押し寄せてくる。いくら彼であっても、果たしてそう上手く優勝を飾れるものかどうか。
この当日を迎えるまで天轟闘宴についてあれこれ調べ上げていたベルグレッテだったが、むしろ不安が増大してしまっていた。
確かに流護は、一対一ならば比類なき強さを発揮する。
しかしこれは、いつどこで誰とぶつかるか分からない遭遇戦。強敵を倒し、消耗したところを別の誰かに狙われたら。ディノやエンロカクのような使い手が、二人がかりで襲いかかってきたら。魔闘術士などは、すでに十一名もの多人数で出場することが分かっている。天轟闘宴そのものに慣れており、経験を活かした戦略を得意とする者もいるだろう。
ドゥエン不参加の回とはいえ、決して侮れるものではない。
(……私は……、)
ミョールに上位治療を受けさせるため、急いで大金を用意する必要がある。それを工面するには、天轟闘宴で賞金獲得を狙うしかない。何より願いを叶える褒賞にて、医者の手配を要求しなければならない。そしてそれができるのは、流護しかいない。そして今の彼は、レインディールの遊撃兵。国の名に泥を塗るような結果となることは許されない。
少年の肩には、あまりにも多くのものがのしかかっている。
(……分かってる)
全て、分かっている。
それでもなお、無事に……何事もなく、帰ってきてほしい。
――――流護が無事に帰ってきてくれるなら。いっそ負けてしまったって、構わないから。
(……ッ!?)
頭を振り、浮かんだ思考を打ち払う。
(今……な……、にを……)
それは、数々の不安を全てひっくり返すかのような妄言。
自分のものでないような、闇の奥底から溢れ出してきたかのような、どこかドロリとした雑念。
まるで、見えない悪霊が囁きかけてきたかのごとく。
(……私、なにを……!?)
脳裏にそんな思いが浮かんだ自分自身に対して、困惑と憤りを感じた。
……慣れない異国での滞在に、疲れ始めているのだろうか……。
(……、気合入れて応援しなきゃ!)
両手で自分の頬を軽く叩き、気持ちを引き締めた。
そこで――空席となっていた右隣に、誰かが腰掛ける。と同時、ベルグレッテの足元へ瓶詰めの飲み物が転がってきた。隣に座った人物が落としたものに違いない。
「……、あの……これ、落とされましたか?」
「おっと……、すみませんね。ありがとう」
拾い上げて話しかければ、笑顔と共に受け取ったのは若い男だった。若い……といっても、ベルグレッテより十は上だろう。
浅黒い肌と、癖のある黒髪。精悍で逞しさを感じる顔つきは、惹かれる女性も多そうだ。チャコールグレーの礼服に身を包んでおり、組んだ脚はすらりと長い。胸元のポケットから覗くハンカチや腕に巻かれた銀のブレスレットは、明らかな高級品。それらも嫌味なく似合っており、佇まいにも気品が感じられる。貴族かもしれない。……が、肌の色や顔の造りから、レフェの人間ではないはずだ――
騎士という仕事柄、つい素早く相手の特徴を確認してしまうベルグレッテだったが、
「………………ふむ」
それ以上に、その男がベルグレッテをまじまじと観察していた。
う、と怯んだベルグレッテに気付いた青年は、ハッとしたように言い繕う。
「失敬。あまりに美しい方だったもので、つい」
お決まりの賛辞に対し、
「……いえ、恐縮です」
少女騎士はやはりお決まりとなっている相槌でお茶を濁す。しかし案の定というか何というか、男はなおも語りかけてくる。
「それにしても意外だな。見たところお一人のようだが……君のような女性が、連れ合いもなく天轟闘宴の観戦に?」
「友人が出場しているので……」
連れがいることを匂わせ、会話を打ち切ろうとした。が、男はおかまいなしに喋り立てる。
「成程、奇遇だ。私も部下が出場していて……フッ、そう警戒しないでくれ。仕事で来ているのでね、君にちょっかいを出す気はないよ。もっともこんな美しい女性に出会えるのであれば、私事で来るべきだった……と後悔しているところではあるが」
「はは……。お上手ですね」
そのとき、前方からジジ……と低い音が響いてきた。直後、周囲の観客たちがワッと沸き立つ。
ベルグレッテも何事かと前へ顔を向けて――
「!」
観覧席の最前列に設置された、巨大な黒い鏡。そこに、光を放つ文字が浮かび上がっていた。
001から189までの数字。それぞれの数字の下には、短く文字が刻まれている。
それは名前だ。
全百八十九名の参加者たち。各々が装着するリングに割り振られた番号と、その所有者の名前。
理解すると同時、上空に巨大な波紋が展開された。よく通る女性の声が響き渡る。
『はい、皆様こんにちは! 今回、音声を担当させていただきます、シーノメア・フェイフェットです、よろしくお願いいたします! 今ほど、参加者の皆さんのリング装着が完了いたしました。現在、黒水鏡に選手名と番号が表示されているかと思います。各自、ご確認願います。表示に不備などがありましたら、係員の方は本部まで連絡願います』
言われるより早く、ベルグレッテは001から順番に目を走らせていた。途中、知っている名前がちらほらと視界に入る。
022、ゴンダー・エビシール。
085、ダイゴス・アケローン。
099、エンロカク。
他の出場者にも少なからず見受けられるが、この男は苗字が表示されていなかった。苗字を持たないのか、それとも登録時にあえて名乗らなかったのか。
106、ディノ・ゲイルローエン。
「……あっ」
そして、見つけた。
124、リューゴ・アリウミ。
……いよいよだ。準備は整った。整ってしまった。
あとは、始まるのを待つのみ。
「……079、か」
喧騒の中、右隣からぼそりと呟きが聞こえた。
そういえばこの礼服の男性は、部下が出場すると言っていた。ベルグレッテがついついその数字を追えば――
079、チャヴ・ダッパーヴ、とあった。当然ながら知らない名前である。
「お嬢さんは」
と、見計らったようなタイミングで男がベルグレッテのほうへ顔を向ける。
「お嬢さんは……誰が優勝すると予想しているのかな?」
「…………、」
瞬間、悩んだ。
世間の多くが予想する流れに従い、魔闘術士の名でも挙げて話を切り上げるか。だが、ミョールをあのような目に遭わせた連中を推すなど、冗談でも御免だ。
無難に『十三武家』か。
本来であれば、流護は出てはならない身。何より、レインディールの王都周辺でなければ誰も知らない名前。
「フッ、予想も難しいかな。今回は、レフェ最強の戦士が不参加だそうだね。参加者たちにしてみれば、賞金を得やすい『当たり回』かもしれないけど……観客の視点から考えれば、少々盛り上がりに欠けたものになってしまうかもしれないな」
少し落胆したようなその物言いを受けて、
「リューゴ・アリウミです」
反射的に、答えてしまっていた。
きょとんとする礼服の紳士へ、
「124番のリューゴ・アリウミです。優勝するのは」
叩き込むように、復唱してしまっていた。
驚いた表情を見せていた男は、すぐに破顔する。
「フフ、そうか。出場するという君のお友達……いや、彼氏なのかな?」
「かれっ……、ちっ違いますけど。そ、そういうそちらは、どなたが優勝するとお考えですか?」
慌ててしまい、話題を逸らそうとしてつい会話を繋ぐような質問を返してしまう。わざわざ部下を出場させているというのだから、聞くまでもない答えのはずなのに。
「――そうだね」
しかし顎の下に手を当てた青年は、
「無効試合」
「……え?」
「勝者不在。戦士たちは皆が倒れ、最後まで立っていた者は無し――なんて『演出』も、面白いんじゃないかな」
「…………、」
目を細めた男の薄笑みに、ベルグレッテはなぜかゾクリとしたものを感じた。
『ではこれより、総勢百八十九名の戦士たちが「無極の庭」へと入庭いたします!』
澄み渡った空に、聞き取りやすいソプラノが木霊する。
外周を横幅三十メートル前後の川に囲まれている『無極の庭』は、南北の二箇所にのみ橋が架けられており、ここだけが出入り口となっている。出場者たちは無作為で半々に分けられ、それぞれの橋から森へ入っていく。
「ちっ……」
ゴンダーと並んで南側に架かる長い橋を渡りながら、流護は思わず舌を打つ。
ジ・ファールの後を尾けようと考えていた流護だったが、あの男と魔闘術士の多くは北側の橋へと振り分けられてしまった。人波に飲まれて移動している間に、同じ南側から入る残りの連中も見失ってしまっている。
「逸るな、リューゴ殿。どちらにせよ、連中は固まって行動する筈。あの人数を相手に早い段階で仕掛けるのは、余りにも得策ではない」
「……ああ、それもそうだな」
こうなっては、自分と当たるまで連中が生き延びていることを願うしかない。もっとも『優勝候補の一角』なのだから、簡単に消えることはないだろう、と皮肉を込めて思う。
流護たちも橋を渡りきり、いよいよ『無極の庭』の土を踏んだ。
これより二十分は、各自が庭内へ散開するための時間。暴力行為は禁じられている。
「……なるほどな……こりゃあ、」
辺りを眺め、思わず呟く。
覆い被さるように鬱屈と茂る枝葉。その隙間から差すわずかな光が、地面に疎らな陽斑を刻む。あるいは歪にねじ曲がり、あるいは剛直に屹立した太い木幹と、大地を蝕むようにのたくる根。いずれも、咄嗟の場合の盾として充分に機能するだろう。
樹齢の想像もつかない巨大な木々がひしめき合う森は、息苦しいまでの圧迫感を与えてくる。前方の薮からは、今にも何かが飛び出してきそうだ。
霊場と呼ばれる場所の特性か、初任務で訪れたディアレーの洞窟に似た雰囲気があるようにも思えた。それでいて空気は驚くほど澄んでおり、心身が洗われるような心地よさすら感じる。
邪悪なものと神聖なものが混在している印象の、不思議な空間だった。
(……これは……、楽じゃなさそうだ)
気配を掴みづらい霊場の森。いつ誰に襲われるか分からない重圧。
精神にのしかかる負担は、想像を絶するものになるはず。それは流護とて例外ではない。毎回二十人前後が降参するというタイゼーンの話だったが、無理もないと少年は納得した。
七時間もの制限時間が設けられてはいるが、そこまで長引くことはまずないだろう。
先ほどから聞こえていた本部席の通信は、すでに聞こえなくなっていた。それも霊場の特性らしく、この『無極の庭』は外部からの音を遮断してしまうらしい。
不可思議な雰囲気に、外部からの干渉を絶ってしまう森。まるで隔絶された別世界のようだった。
「よし……では、リューゴ殿」
隣を歩いていたゴンダーが足を止めた。
「ここいらで別れるとしよう。武運を祈る。キュアレネーの加護があらんことを」
「そっちこそ」
互いの拳を突き合わせ、それぞれに別れた。去っていく霧氷の術士の後ろ姿を見送る。
――ゴンダーと共闘する、という手段もあった。
ミョールを傷つけた魔闘術士に対する怒りは同じ。連中は、十一人もの人数で出場している集団。こちらも流護とゴンダーの二人がかりなら、負担は軽くなるはず。
事実、当人からも共闘の申し出を受けていた。
「魔闘術士に鉄槌を下すため、私と共に闘わぬか」、と。
しかし流護は、これを断った。
かつて敵として見えた霧氷の術士、ゴンダー・エビシール。
その高い実力のほどは理解しているし、レフェへやってきて以降、部屋を提供してもらい世話にもなっている。今更、実力的にも人物的にも彼を疑っている訳ではない。
――それは、昨夜の話だ。
天轟闘宴に備え、宿では盛大な夕食が振る舞われた。ゴンダーは下戸だそうだが、出場記念ということで客たちに酒を飲まされ、あっという間に潰れてしまった。
テーブルに突っ伏して眠りこけているゴンダーを見つめながら、彼の父親――宿の主がぽつりと言ったのだ。
『このバカ息子、子供の頃から天轟闘宴に出るのが夢でさぁ。アンタも、明日はがんばっておくれよ。このバカと出会っちまったら、遠慮なく殴り倒してやってくれて構わないからさ』
天轟闘宴とは、レフェの男たちにしてみれば憧れの舞台。そんな、夢見ていた武祭への初参加。ゴンダーには敵討ちに囚われず、好きなように闘ってほしいと思ったのだ。
流護は違う。
ミョールを治療するための賞金獲得も理由ではあるが、そもそもその原因を作った魔闘術士に意趣返しをしたいという思いこそが原動力だといってもいい。
(……なんつーか、俺って……中途半端なんだろうな……)
本来であれば、なりふり構わず共闘すべきなのだろう。しかし流護としては、本気で優勝するつもりでもある。仮に共闘して、全ての敵を打ち倒し、残り二人だけとなった場合……その時点で、ゴンダーとは敵対しなければならなくなってしまう。それが何だか利用するだけして捨てるような感じがして、どうにも嫌だったのだ。ゴンダー当人からは「考えすぎであろう」と突っ込まれてしまったのだが。
ともあれ一人で戦うことを選んだ少年は、細い獣道を歩いて森を散策する。袋から地図を取り出し、現在位置を確認してみた。
(森に入ったばっかだし……今はこの辺かな)
内部は思った以上の起伏に富んでおり、勾配やなだらかな坂、ちょっとした崖なども散見された。
外周付近の川沿いには、木々のない平原もあるようだ。位置的に、観客席から丸見えだろう。
地図によれば「無極の庭」の中心部には、二十メートル近くの高さを誇る崖や、小さな湖などもあるらしい。
木立の合間に、ちらちらと人影が見えた。向こうもこちらに気付いたのか、サッとその姿を隠してしまう。
……まだ直接戦闘こそ禁じられているものの、すでに闘いは始まっているのだ。
隠れるに適した場所を探す。狙撃しやすいポイントを見つける。罠を作る。この二十分を使い、入念な準備をしておくべきだろう。
……しかし。
流護はというと、実はあまりやることがない。
下手な場所へ隠れて見つかり、一方的に撃たれるような事態になってしまうことは避けたい。
神詠術も使えなければ、罠を作るような知識もない。結局のところ、この両の拳を振るうことぐらいしかできないのだ。
今現在意識しているのは、早い段階で強敵と――特にディノと遭遇してしまわないこと。
優勝を狙う流護としては、激突したなら最も消耗してしまうだろう相手との戦闘は、可能な限り後回しにしたかった。開幕式でもここまでの道中でも、まだその姿は見かけていない。もし北側から入ったのであれば、随分と助かるところだ。
――そんなことを考えて歩き、十五分ほどが経過しただろうか。
「!」
前方の茂みを揺らし、その男が現れた。




