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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
7. 天に轟くは、闘いの宴
186/667

186. 血戦の朝

「いい天気ね」


 天を仰いだ少女騎士、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードの言葉に頷く。

 深い藍色をした彼女の美しいロングヘアが、一陣の風にたなびいた。整いすぎたその横顔や立ち姿には言葉にしがたい気品があり、出会って三ヶ月も経つというのに、有海流護は未だ呆然と見とれてしまうことがある。


 レフェ巫術ふじゅつ神国こうこくにおける一大イベント――天轟闘宴、その当日。

 早朝から、澄み渡るような快晴だった。

 流護はふと、雨が降ったらこのイベントはどうなるのだろう、などとどうでもいいことを考えてしまう。


「む。準備は万端のようだな」


 ここしばらく滞在している宿の前で青空を見上げていると、その男が扉を開け放って登場した。

 坊主に近い金髪。鋭いまなじり。何より目立つ、鼻から下全体を覆い尽くす口布に、マフィアを思わせる黒い礼服姿。傭兵にして『旅路の宿・エビシ~ル』の息子にして霧氷の術士を自称する詠術士メイジ、ゴンダー・エビシール。奇妙な特徴を詰め込んだかのようなこの男も、流護と同じ武祭の参加者の一人である。


「では、向かうとしよう」


 ゴンダーの言葉に、流護とベルグレッテは大きく頷いた。






 午前七時過ぎ。

 馬車に揺られ、流護とベルグレッテ、ゴンダーの三人は、首都西部に位置する広大な森――『無極むきょくの庭』を目指していた。


「生まれて長らく暮らしている首都だが……森に入るのは、私もこれが初となるな」

「そうなのか」


 感慨深げなゴンダーに、流護は水筒の水を飲みながら相槌を返す。

 古くから天轟闘宴の舞台となっている『無極の庭』だが、普段は立ち入りが禁じられており、国の厳重な管理下に置かれている。

 昼間でも色濃い闇が広がるほどに枝葉が生い茂り、攻撃術をものともしないまでに強く大きく発達した木々の連なる森林。街中にあるため当然といえば当然だが、怨魔はもちろん危険生物の類も存在しない。

 レフェにおける聖地の一つということで、どこか誇らしげにそう説明していたゴンダーだったが、ふと窓の外を見やってぽつりと呟いた。


「む。見えてきたぞ」


 流護たちも同じように外へと視線を向けて――そのまま、目を奪われた。


「おお、すっげ……」

「……都市の……壁の中に、こんな自然があるなんて……!」


 気付けば、人工の建造物は見当たらなくなっていた。

 視界に飛び込んできたのは、壁の内側とは思えないほどに脈々と続く、深緑の大地。起伏に富んだ岩山や、快晴の青空を映し出す湖。

 その脇に伸びるゆるやかな一本道を、流護たちの乗る馬車はガタガタと進み行く。いつの間にか、他の馬車が数台連なりながら前後を走っていた。


「おお……気付いたら他の馬車が。あれも参加者が乗ってんのか?」

「さて、参加者か見物客か。ともあれ我々は早めに来たから良いが、もうじき混雑することだろう」


 切り立った崖に囲まれた道を行くことしばし。


「――到着だ」


 ゴンダーの言葉と同時に視界が開け、それが現れた。

 黒々と立ち並ぶ樹木の群生。樹高はどれほどだろう。五十メートルは優に超えているかもしれない。異常発達したという木々は恐ろしいほどに高くそびえ、生い茂る葉は覆い被さってくるかのような威圧感さえ漂わせている。

 まるで、黒い壁。

 聖地よりも、魔の森とでも表現したほうがしっくりくる――と言っては罰当たりか。


「すっげ……これが『無極の庭』か……、ん!?」


 流護は思わず目を剥いて二度見した。

 高くそそり立つ木々。堀のようにその周りをぐるりと囲っている大きな川。

 そして、その川をさらに取り囲むように集まっている――膨大な、人の波。

 一体どれほどの人数になるだろうか。

 中学時代、幼なじみの彩花に連れられて行った某バンドの野外ライブを流護は思い出した。ここから見える範囲だけでおそらく、千を優に越えている。先の王都テロで美術館に集まっていた人数の比ではない。

 川の手前には数十列にも渡る石造りの観覧席がズラリと並んでおり、人々はそこで思い思いにくつろいでいた。所々、大きな石柱やプールの監視台に似た塔が点在している。それぞれ、この森を全方位から囲うように設置されているようだ。


「これ……みんな、観客なのか……」


 それだけではない。

 客席の周辺には出店も数多く連なっており、凄まじいまでの賑わいをみせている。

 森とそれを囲う人々。その外側を遠巻きにぐるりと回りながら馬車が行くが、人の波は途切れることがない。多くの観客が集うとは聞いていたが、これは予想以上だった。


「何人いるんだよ、これ……」

「まだこれからであろうな。私も今朝方に父から聞いた話だが、観戦券は三万枚売れたそうだ」

「さっ……」


 つまり――最終的には、三万人がここに集う。

 参加人数の百八十九人も過去最高だそうだが、三万人という観客もゴンダーの知る限りでは覚えがないとのこと。


 そうして森と人の周囲を行くこと十数分、停留所に到着した。

 馬車を降り立つと、もわっとした熱気に包まれた。気温が高いせいだけではないだろう。

 後続の馬車も続々と到着し、屈強そうな男たちや、あるいは家族連れと思わしき民族衣装の団体が降りてくる。

 開幕式は午前九時。まだ時間に余裕もある。ここで立ち止まっていても邪魔になってしまうため、ひとまず三人はベルグレッテの観覧席まで移動することにした。






「なあ……あれって何なんだ?」


 観戦席は遠目から見た通り何の変哲もないものだったが、流護としてはずっと気にかかっている物体があった。

 席の最前列よりさらに手前。通路を挟んだ向こう側に――縦五メートル、横十メートルほどはあるだろうか。黒光りする、長方形の金属板のようなものがそびえ立っていた。色は漆黒だが、鏡面のように磨き抜かれ、辺りの人々や景色が映り込んでいる。一見して、超巨大な液晶モニターのようでもあった。だが当然、この世界にそんなものがあるはずもない。

 他の観客席を見渡せばここだけではなく、かなりの距離を置いてはいるが、等間隔で同じものが設置されていた。

 ゴンダーが疑問に答える。


「あれは黒水鏡くろみかがみだ」

「くろみかがみ……?」

「うむ」


 レフェに存在する二名の『ペンタ』――この国では『凶禍の者』と呼ぶ――が片翼、ツェイリン・ユエンテ。

 ツェイリンは、遠くの情景を見ることができる遠見の術という神詠術オラクルを心得ている。が、そこは希少な超越者。彼女固有の能力で、自身の垣間見た情景を鏡や水晶などに映し出すことができるのだという。

 つまり森の中で行われている戦闘をツェイリンが捕捉し、観客席に設置されたあの巨大な黒水鏡へと投影する。

 天轟闘宴はその性質上、複数箇所で同時に戦闘が発生することも多いため、これを捉えるにあたって特殊な手法が用いられるのだ。

 森の木々には、小さな黒水鏡が無数に設置されている。それらの捉えた光景をツェイリンが捕捉・投影し、観客席の巨大な鏡へ同時に反映させるのだという。

 そんな説明を聞き、驚愕の表情を浮かべたのはベルグレッテだ。


「……森の外にいながらにして、観戦ができるとは聞いていたけど……。予想以上の仕組みね……」


 驚いたのは流護も同じ。が、ベルグレッテとは方向性の異なる驚きだった。


(それってつまり……まるっきり、カメラとモニターじゃねぇか……)


 森の中に設置された定点カメラの映像を、観客席のモニターで皆が鑑賞する。

 でかでかと設置されている黒水鏡を見て液晶モニターのようだと思った流護だったが、用途を考えるに大当りだったらしい。

 天轟闘宴の規定についてなどは、登録の際に渡された用紙や、ベルグレッテが図書館で調べてきた資料によって何となく把握していたが、そういった娯楽的な部分についてはノータッチだったのだ。

 確かに、鬱蒼とした森で行われるバトルロイヤル。客はどうやってその様子を観戦するのだろう、と思ってはいたのだ。そこは神詠術オラクルで何とかするんだろう、と気軽に考えていた流護だったが、まさかそれほどの真似を可能とする『ペンタ』がいるとは……。

 流護が思わず心中で唸っていると、周囲の人々がざわつき始めた。

 皆、馬車の通り道のほうへ近づいていく。何やら跪き、祈りを捧げる者まで現れ始めた。


「何の騒ぎだこりゃ……、お?」


 今もひっきりなしに馬車が入ってくる観客席裏の舗道。

 そこへ――厳かな雰囲気すら漂わせて、一台の馬車が現れた。豪奢で雅やかな装飾の施されたその大きな車体は、聖なる神輿のようにも見える。


「む……国長の一行だな」


 ゴンダーの言葉になるほどと頷き――


「あ」


 通り過ぎていく馬車の窓から覗く、その横顔。

 さらさらとした長い黒髪。この世界の……主にレインディールの人々のような彫りの深さはないが、控えめに整った目鼻立ち。純白の巫女装束。

 集まった人々からも、巫女様、巫女様とすがるような声が上がる。


「……桜枝里」


 ごった返す人波と賑わいの中、そんな流護の呟きが聞こえた訳もないだろう。

 しかしタイミングよく、彼女は窓の外へと顔を向けた。

 流護と――視線が重なる。

 それも一瞬のこと。ガタゴトと音を立てて、巫女の乗った豪華な馬車はゆっくりと過ぎ去っていった。


「……何だよ、桜枝里の奴」


 ちぇっ、と流護は舌を打つ。


「リューゴ?」

「いやさ。これから死ぬカワイソーな生き物を見る目ぇしてやがったぞ」

「どんな目よ……。でもサエリ、なんだか悲しそうだった」

「俺が負けると思ってんだろな。ま、度肝抜いてやるって」


 流護は不敵に笑ってみせた。






「お二人の席は、あちらになります」


 案内役の兵士が、仰々しく頭を下げる。


「うむ」


 国長カイエルは重々しく頷き、


「わぁ……」


 桜枝里の口からは、思わず感嘆の声が漏れていた。

 森の周囲に設けられた観覧席。その中に高くそびえる、石造りの建造物。高台、というのが正しいだろう。桜枝里の感覚からすれば、学校の講堂のステージを何倍も大きくしたような外観。高さにして、四階建てのビルほどもあるのではなかろうか。

 その上に設けられているのは、王族関係者たち専用の席だった。国長や『十三武家』、そして巫女はここで天轟闘宴を観戦することになる。


「さて。行くとするか、サエリよ」

「あ……はい」


 国長に促され、桜枝里は階段を上り始めた。

 高みにある観覧席は、当然ながらそこへ至るまでの階段も長い。


「ぜぇ、ぜぇ……」


 高齢かつ足腰の弱った国長には厳しいようで、中ほどで息を切らせていた。

 そういった点を考慮してなのか、一直線に続く階段の所々には踊り場が設けられていた。もっとも本当に考慮しているのであれば、こんな高いところに観戦席は作らないだろう――と思う桜枝里だったが、国長カイエルの七十九歳という年齢は、歴代国長としても過去最高齢。この老人のほうが例外となるのだろう。

 かつては弓の家系に属する一人の戦士、カイエル・フレジェトンタとして巫術を振るっていたそうだが、今やその面影は感じられない。

 歩調を合わせて踊り場へとたどり着き、桜枝里は隣の国長に声をかけた。


「少し休んでいきましょう、国長」

「……ふー、すまぬな……言葉に甘えよう。歳は取りたくないものじゃて」


 転落防止の柵に手をかけて、老いた王は大きく息をついた。


「…………すまぬのう、サエリよ」


 弱々しく、懺悔するようにそう呟く。


「えっ……」


 思わず顔を向ければ、一国の主はバツが悪そうにうつむいていた。


「エンロカクの奴めの件……不安じゃろう。元はといえば、奴の出場を許可してしまった余にも責任はある……」

「…………」

「『十三武家』の面々に、力を尽くさせるつもりではある。しかし……」

「…………いえ、」


 桜枝里もまた気まずそうに顔を逸らし、


(……あ……)


 視界に入った。

 遥か下。人々が集う観客席より少し離れた、舗道の片隅にて。

 ドゥエン・アケローンと、今回の天轟闘宴に参加する『十三武家』の若手たち。その中でも一際大きく目立つ、ダイゴスの姿が。






「――説明は以上だ。何か質問は?」


 以前話した概要と違わぬ内容を淡々と告げ、ドゥエンは一同の顔を見渡す。

 矛の戦士ダイゴス・アケローン、剣の戦士エルゴ・スティージェ、杖の戦士ハザール・エンビレオの三名は、無駄な戦闘を回避しつつ展開。魔闘術士メイガスを発見し次第牽制、誘導してエンロカクと引き合わせる。深追いは厳禁。危険と判断した場合は離脱。

 質問の出ようもない、単純な任務。


「言葉で説明する分には簡単だが、成功率は低い。しかし、無理に気張る必要もない」


 細い声音で、味気なく続ける。


「せっかく数年に一度の武祭だ。各々、楽しんだら良い」


 長兄らしくない口舌に、ダイゴスは思わず顔を上げる。

 すると、真っ向から視線が交錯した。

 餓狼のように細く鋭いドゥエンの面立ち。わずかな笑みを象る口の端。そして、わずかほどにも笑っていない鋭き眼光。


「無論、『十三武家』の品位を落とさぬ範囲でな。呉々も私の顔に泥を塗らぬよう頼むぞ、ダイゴス」


 探るように、試すように。長兄は温もりのない笑顔のまま投げかける。


「お前が余りに『相応しくない』場合……ミディール学院を辞めさせる事も視野に入れねばならん」

「承知した」


 顔色ひとつ変えず答えた弟に、長兄は何を思っただろう。宜しい、と小さく頷き、


「では、三人に戦神いくさがみの加護があらん事を」


 祈りの言葉もそこそこに、ドゥエンは音も気配もなく踵を返して去っていった。


「ダイゴスよ……ドゥエン殿と何かあったのかい?」


 矛の長の後ろ姿を眺めながら囁くように話しかけたのは、杖の家系が若手、ハザール・エンビレオ。年齢はダイゴスと同じ十八。明るい茶色の髪を目の上でパッツリと切り揃え、キノコみたいな髪型をした、一見して何の変哲もない青年である。しかし一対多を得意とする、杖の家系の有望株たる武闘派だった。


「やたらとピリピリした空気を感じたが……」

「気のせいじゃ。何もありゃせん」

「ふうん。ま、いいけども。肩の力抜いてこなそうぜ。な、エルゴ」


 ハザールが気軽に言うも、エルゴは無言だった。森のほうへ顔を向けたまま立ち尽くしている。

『十三武家』の戦士の中では最年少の部類。顔立ちも幼く、線も細い十六歳の少年。

 初参加となる武の宴を前に、緊張している――のではない。あどけなさすら残る顔は、感情を削ぎ落としたかのように無表情だった。


「おいおい、エルゴってばよ。お前さんまでどうした」

「……何でもありませんよ」


 聞こえてはいたらしい。

 どちらかといえば明るい性格であるはずの剣の少年は、色の失せた目でただ森を見つめ続けていた。






 派手な花火が二発打ち鳴らされ、振動すら伴って大気を揺らす。

 直後、青く澄んだ空にとてつもなく巨大な波紋が浮かび上がった。


「おっ、あれは……」


 流護にも見覚えがある。

 通信の神詠術オラクル。王都テロの件でアルディア王やジンディムが展開していた、あの特大の波紋。


『開幕式四十分前となりました! 出場者の皆様は、「無極の庭」東の広場へとお集まりください!』


 よく通る女性の声が響き渡る。


「む。時間のようだな」

「やっとか」


 観客席裏の芝生でくつろいでいたゴンダーと流護は、待ちくたびれたとばかりに身体を捻って立ち上がる。

 パンフレットによれば、これから選手全員を集めてのルール説明。そして開幕式。その後、森に散開して戦闘開始となる。

 そもそもこの会場自体が恐ろしく広いので、東の広場とやらまでもかなり距離がありそうだった。


「んじゃベル子、行ってくる」

「う、うん……」


 頷くベルグレッテは、見るからに不安そうだ。ミョールや桜枝里のことがなければ、引き止めていたのかもしれない。


「リューゴ……ゴンダーさんも。二人に、ウィーテリヴィアの加護があらんことを」


 両手を組み合わせ、敬虔な少女は丁寧すぎるほど丁寧に祈りを捧げた。


「む。私などには勿体なき祈りよ。ミョール殿のこともある、全力を尽くさせて頂こう」


 手のひらに拳を合わせたゴンダーが、四十五度で頭を下げる。


「任せとけ。余裕で優勝して帰ってくっから、そこのモニタ……鏡で見ててくれよな」


 笑顔で親指を立てて、流護も踵を返した。


「んじゃ行きますか、ゴンダーさんや」

「うむ。参ろうか……!」


 男二人は肩を並べ、戦場へと向かう。






 エルゴとハザールは、それぞれ自らの親族たちのところへ出撃前の挨拶に向かった。

 ダイゴスはといえば、この場へやってきているのは兄二人。当主である長兄は解説席に座っている。次兄は……レフェで最もいい加減な男と称して問題ないような輩だ。出向く必要もないだろう。

 何より。これから己が為そうとしていることを考えたなら、どの面を下げて挨拶になど向かえるのか。


「大吾さん!」


 その声に振り向けば、巫女が息を切らせて駆け寄ってくるところだった。

 王族観戦席の長い階段を一気に駆け下りてきたためだろう。汗だくになりながら肩を上下させているが、少女はそれどころではないとばかりに巨漢と向かい合う。


「あ、あの……大吾さん」

「何じゃ、湿っぽい目をしおって。まるで死にに行く者を見送るようじゃぞ」

「だって……」


 桜枝里はうつむいて押し黙る。

 周囲の喧騒に包まれながらも、二人の間には刹那の沈黙が舞い降りた。


「……サエリよ。そろそろ集合せねばならん。ワシは行くぞ」

「…………、」

「心配は無用じゃ」


 浮かない顔の少女に、なお語りかける。できるだけ、不安を和らげるために。自分には似合わぬ、らしくない物言いだと自嘲しながら。


「安心して待っとれ。必ず……お主を、開放してやる」


 エンロカクに引き渡されるかもしれないという恐怖から。『神域の巫女』という、その責務から。


「……ふふ。なんだか、夢みたい」


 そう言ってようやく、桜枝里は顔を上げる。


「あのとき、大吾さんがそう言ってくれてからね。朝起きるたびに、あれは夢だったんじゃないかって。大吾さんがそんな……か、かっこいいこと言ってくれるなんて、夢だったんじゃないかなって。そう思ったりもしたの」


 でも、とはにかんで。


「夢じゃ、ないんだね」

「……ああ」


 巨漢は頷き、言う。自分より遥か小さな少女から、わずか瞳を逸らし。


「夢のまま、終わらせはせん」

「………………うん」


 消え入りそうな声だった。

 そして、何かを決心したかのように息を吸って。


「大吾さん、ありがとう。――いってらっしゃいっ」


 一片の曇りもない、晴れやかな笑顔で。雪崎桜枝里は、男を送り出した。






「…………」


 一人、芝生を踏みしめて歩きながら、ダイゴス・アケローンは思う。

 別れ際に少女が見せた、あの笑顔。

 これまでに幾度となく、見たことがある。あんな顔となった兵を、見たことがある。闘いの場で。


 あれは――『覚悟』を決めた、人間の表情かおだ。


 もし仮にエンロカクが勝利し、桜枝里の引き渡しが確定したなら。もしくは天轟闘宴において、ダイゴスに『不幸な事故』が起こったなら。おそらく、彼女は――


「……似合わぬはらを決めおって」


 寡黙な男にしては珍しく、愚痴めいた独り言が漏れた。

 今や、何の力も持たぬ少女を祭り上げ、崇め奉るだけの形骸化した伝統となり果てている『神域の巫女』。そんなただの少女を追い詰め、悲壮な決意をさせてしまうようなこの現状。


 ――せめて。

 逃げ場のないこの状況から、引っ張り出してみせる。


(……)


 強者ひしめく武闘の宴。今回の参加者の名簿を見て、驚いたものだ。

 エンロカクや流護だけではない。当然のように出場してきた、常連のグリーフット・マルティホークやバダルエ・ベカー。果ては、あのディノ・ゲイルローエンの名まであったのだから。

 勝てるのか、という疑念が呪いのようにつきまとう。しかしそれでも、勝たなければならない。

 巨漢は決意と共に顔を上げて――


「よお、ダイゴス」


 そこで横合いからかかる、間延びした軽薄な声。


「どした、おっかねー顔して。気合は充分ってとこか?」


 挨拶をあえて見送った身内の一人。いつも通りだらしなく服を着崩した次兄ラデイルが、これまたいつもと同じく気だるげな様子でやってくるところだった。


「いよいよだな」


 軽い調子で、弟の肩を叩く。桜枝里とは正反対。あまりにも平時と変わらぬ次兄に、ダイゴスは自然と零していた。


「……兄者。なぜ、ワシの修練に手を貸した」


 ラデイルもその立場から当然、全てを知っている。

 エンロカクの優勝は、桜枝里の引き渡しを意味すること。今からダイゴスが臨もうとしている『任務』は、形だけのものにすぎないこと。そのうえで考えるならば、桜枝里を助けようとするダイゴスの行為は、決して認められるものではないということ。

 それを理解していながら、この次兄は天轟闘宴へ向けた弟の調整に付き合っていた。それも、自ら申し出て。


「なぜってお前……、どこまで朴念仁なんだよ、この弟はっ」


 気障ったらしく肩を竦めて。けれど、確かに目を見据えて。


「困ってる弟に兄貴が手を貸すなんて、当たり前のことだろ?」

「……何を企んどる」

「うわ、うっわ。あーあ。昔のお前はさー、ホンット素直でいい子だったのになあ。兄さん兄さん、って俺の後ヒョコヒョコついてきてさー。どこでこんな風に捻くれちまったのかねー」


 大げさに溜息をつくラデイルだったが、すぐに「いや」と目を細めて、


「……ある意味、昔に戻ったのかね。なりふり構わず、一人の女の子のために戦おうってんだから」


 そう、微笑んだ。


「とにかく俺は、どこぞの偏屈馬鹿兄貴と違って応援してるからな。頑張ってこい」


 ポン、とダイゴスの腹に拳を打ちつける。その右手には、包帯が幾重にも巻かれていた。ダイゴスとの鍛錬で負った傷だった。


「お前にはさ。前例になってもらいたいワケよ」

「……前例じゃと?」

「俺もさあ、もういい歳じゃん? そろそろ身を固めようかな、なんて思うワケだ。でな、今は聖羅天宮せいらてんぐうのラエアとイイ関係なんだけど……やっぱ、互いの立場とか身分とかが問題になってくるだろ?」


 だからさ、とラデイルは笑う。


「ここでお前とサエリ様がくっつくっていう前例ができれば、俺も後に続きやすくなるってワケだ」


 何ともこの兄らしい話だった。


「……そうか。それは……悪いの」


 ラデイルには申し訳ない、と思う。

 前例とやらにはなり得ない。

 これが終われば。桜枝里は『神域の巫女』でなくなり、身分など関係なくなっているのだから。






「悪いの、か」


 闘いの地に赴かんと歩いていく弟の背を眺めながら、ラデイルはその言葉を反芻する。


「そりゃ、こっちの台詞なんだけどな」


 どこまでも思惑通り動いてくれる愛すべき弟に、兄は小さく呟いていた。

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