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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
6. 雪桜のスペクトラム
185/667

185. 明日になったら

「うっ、お……暑ッ」


 部屋の扉を開け放った初老の男は、ブワッと吹きつける熱風に思わず呻いていた。簡素な客室の中央では、一人の青年が目を閉じ、胡坐あぐらをかいて座っている。

 揺らめくほどの熱気の中、青年――ディノ・ゲイルローエンはゆっくりと目を開いた。真っ赤な瞳を来訪者へ向け、ニヤリと笑う。


「オイオイ、いきなり開けてくれるなよ。見られちゃまずいコトでもしてたらどうする気だ?」

「へ、へえ。一応、扉打ノックはしたんですが……」

「おっと、そりゃ悪かったな。何か用か」

「ええ、お食事の準備が整いましたので」

「もうそんな時間か。すぐ行く」


 尋常でない暑さの中、しかし青年は一滴の汗もかいていない。自らの熱を完全に制御できていることの証左だった。

 立ち上がり、窓を開け放つ。部屋に立ち込めていた熱気が外へ放たれ、代わりに心地よい風が吹き込んできた。

 体内の魂心力プラルナ、その流れを練るための瞑想。時計を見れば、早四時間が経過していた。ノックの音にも気付かないほどの集中は、いつ以来だろうか。


 ――楽しみだ。

 当初はただ、自分の名を広めるための足がかりの一つとしてしか考えていなかった天轟闘宴。だが、予想以上にその経過を楽しめそうであることに、ディノは昂ぶっていた。

 オルケスター。そして、あの黒髪の少年。まさかこんな異国の地で再会するなど、さすがに考えもしなかった。

 最終的にディノとあの少年は、再びまみえることになるだろう。ふるいにかけるがごとく、武祭にて残るのは強者のみ。となれば必然、自分とあの男だけが残ることになる。無論、予期せぬ強者が現われるのなら、それもまた一興だ。


 体調は申し分ない。全力を発揮できる。

 天轟闘宴の舞台は『無極の庭』と呼ばれる森だ。自分の炎で燃えたりしなければいいが――などと余計な心配をしながら、超越者は目を細めて嗤った。






 宿の老主人は階段の上を振り返り、不思議そうに首を傾げる。

 天轟闘宴へ参加するとのことでこの宿へ連泊しているあのディノという少年だが、朝は早くから活動しているし、夜も遅くまで起きているようだ。今もあまりに静かなので昼寝をしているのかと思ったが、そうではなかった。

 一体いつ眠っているのだろうと思うほどだが、しかし彼に睡眠不足といった様子は見られない。

 武祭もいよいよ明日だ。そんなことで大丈夫なのだろうか、と余計な心配をする。


「若さかねえ……羨ましいものじゃ」


 昨夜遅くまで読書をしていた初老の主人は、早くも眠くなってきたとあくびを噛み殺し、調理場へと戻っていった。






『おう。やっとこさ天轟闘宴だな』

「ああ」


 優雅に紅茶を嗜みながら、演出者集団オルケスター総団長補佐――デビアス・ラウド・モルガンティは通信の向こうから響く声に相槌を打った。


 真昼のカフェテラス。パラソルの下に設置された席で長い足を組みながら紅茶をすするその姿は、やり手の貴族が優雅なひとときを過ごしているようにも見えるだろう。道行く女性の数人が、ぼうと視線を向けながら通り過ぎていく。

 通信の相手、オルケスターのリーダーであるクィンドールは、相も変わらずやる気のない口調で告げる。


『チャヴの野郎はその場にいるか?』

「いいや」


 天轟闘宴に出場するチャヴ・ダッパーヴは今、この場にはいない。質より量が売りの店で昼食をとっているはずだ。何しろあの巨体。そのうえで詠術士メイジとして魂心力プラルナを消耗するため、とにかく食べるのだ。


『じゃあ一応確認だ。アレは明日、キッチリ武祭に出る直前に頼むぜ。横着して、今日の内に済ませておこうとするなよ』

「分かっている。抜かりはないよ。万が一、ってことがあるからね。……さて……いよいよだけど、上手くいくかな?」

『こないだ、猿で試した時は成功したがな。人間も変わらんだろ。懸念材料は、対象がデカすぎるって事ぐれえか』


 世紀の実験を前に、しかしクィンドールの冷めた態度は変わらない。大組織の長だ、これぐらいのほうが頼もしいか、とデビアスは口の端を吊り上げる。


『見張りの連中が、早く明日になってほしいってボヤいてるみてえだぜ』

「ははっ。ま、そうだろうね」

『天轟闘宴。どうなるかねえ?』


 珍しく関心があるようにクィンドールが嘯く。しかし、


「いやいや。どうなるもこうなるも」


 何を言い出すのかと、思わずデビアスは気が抜けそうになった。

 しかしそんな言葉が飛び出るあたり、この団長でも若干の緊張を感じているということなのかもしれない。

 それはともかくとして――実験が成功したならば。



 当然、参加者らは死ぬだろう。



 実験の成功は、そのまま天轟闘宴の失敗へと繋がる。

 何も知らない出場者やレフェという国にとっては気の毒だが、突き放した言い方をしてしまえば、デビアスたちには関係がない。


「……ああ。楽しみだな、天轟闘宴」


 明日になったら。

 これは間違いなく、全てを変革させる大きな一歩となる。

 こんな気持ちはいつ以来だろう。純粋な少年のような胸の高鳴りを、デビアスは抑えられそうになかった。






「ひゃー……、おっきいなあ」


 巨大すぎる城を見上げ、シーノメア・フェイフェットは呆然と呟いた。

 夏風に吹かれるやわらかな栗色の長髪を押さえ、黒目がちな瞳を輝かせる。一目で都会育ちと分かる、華やかな雰囲気を纏った女性だった。年齢は二十歳になったばかり。すっきりした小さな顔には、やや緊張の色が浮かんでいる。


 国長と『千年議会』、そして『十三武家』や多くの兵士らが住まう巨城、千古王城。遠くから眺めたり近くを通りかかったりしたことはあっても、こうして訪れたのはこれが初めてだ。

 まじまじ仰ぎ見ていると、城の中から一人の女性兵士が現われる。


「あ、来たんだね! シーノメア!」

「うん!」


 その声に顔を向けて、シーノメアは女性兵士として勤めている友人に手を振った。


「もうすぐ、ドゥエン様がお出かけになるって。ここ通るから、そのときに挨拶するといいよ」

「う、うん……!」


 息を吸い込み、友人の言葉に小さく頷く。


 明日に迫った、第八十七回・天轟闘宴。多くの戦士たち入り乱れる武祭だが、出場せずとも裏方としてかかわる者は多い。むしろ警護兵たちも含めれば、総人数は参加者の数を上回る。

『映し』を担当する『凶禍の者』ツェイリン・ユエンテ、判定を下す運営委員や実際に入庭して様々な業務をこなす数十名の白服たち、今回は不参加ながらも解説を担当する最強の戦士ドゥエン・アケローン。


 そして、シーノメアもそんな裏方の一人。

 彼女は優れた通信技術を買われ、今回の『音声』を担当するべく抜擢されていた。大勢の観客たちに、戦況を伝える役目。実はツェイリンとは遠縁の親類に当たるため、はっきり言ってしまえばその繋がりで選ばれた部分もある。

 それでも、これまでにない大仕事。これは好機だ。きちんとこなせば、将来の糧ともなり得る。就職に有利だったりとかモテたりとか色々。


 ツェイリンとの打ち合わせのために王城を訪れたシーノメアだったが、ドゥエンに外出の予定があるとのことで、ひとまず挨拶だけでもしておこうと思い時間を合わせたのだった。レフェ最高の戦士たるドゥエンに好印象を残しておいて、損はないはずだ。


 鼻息荒く野望を燃やしていたところで、城内から物々しい一団が登場する。

 赤鎧を纏った勇ましい兵たちの先頭を行くのは――細身の男。矛の家系が当主にして国内最強の戦士、天轟闘宴における無敗の覇者、ドゥエン・アケローン。


「シーノメア、来たよ」

「う、うん」


 初めて間近で見るその迫力に、思わず気圧されそうになる。まるで鋭い刃物のような雰囲気。周囲の兵たちと比較しても身体は決して大きいほうではないというのに、その存在感は素人のシーノメアであっても息をのむほどだった。


「あ、あのっ……!」


 横を通りかかったドゥエンに、意を決して声をかける。


「……何か?」


 開いているのか閉じているのか分からない細い目を向け、レフェ最強の男は顔だけをシーノメアのほうへと向けた。


「初めまして! 私、今回の天轟闘宴にて音声を担当させていただきます、シーノメア・フェイフェットと申します! 明日は、よろしくお願いいたします!」


 そこは声を生業とするシーノメアだ。とっておきの声色を使って、淀みなく自己紹介する。


「ふむ、貴女が。此方こそ、宜しくお願い致します」

「は、はい!」


 さて、挨拶だけではあまりにも味気ない。気をきかせて何か話題を――と思うシーノメアだったが、ドゥエンはそのまま何事もなかったかのように「では失礼」と歩き出してしまう。


「あ……」


 冷たいというか、どうでもいいというか。必要最低限の返事。

 それだけを残して去っていく男を、シーノメアはただ呆然と見送った。


「あれ……、私、あんまり印象よくなかった……? な、なんかやらかしちゃった? 自分で言うのもなんだけど完璧だったよね!? いい声出してたよね!?」

「あはは。ドゥエン様は、誰に対してもあんな感じだから」


 天轟闘宴における音声担当というものは、飽くまで通信技術を重視して選考されるもの。戦術知識などに関しては、まるっきりの素人であることも珍しくはない。シーノメア自身もそうだった。一応予習はしてきたものの、正直、天轟闘宴のこともあまりよくは知らない。

 戦士たちにしてみれば、そんな『にわか』の素人小娘がかかわってくることをあまり快くは思っていないのかもしれない。


「まあ、昨日から鎚の家系のラパ様がいないとかで、忙しいってのもあるみたいで――」

「しょっ、しょうがないじゃん! ツェイリンさんに誘われたんだし!」

「なっなに、いきなりどうしたのシーノメア」


 逆に奮起する。

 この仕事、意地でもやり遂げてみせる。私の音声で、盛り上げてやるんだから。そしてあの冷めきったドゥエンさんに、「よくできました」って言わせてやるんだから。


「明日になったら……私の時代、きたる!」

「おーい、シーノメアさーん」


 ぐっと拳を握り、野望に燃える女は誓うのだった。






「じゃあ……宿に、戻りましょうか」

「ああ」


 昼の雑踏を、流護とベルグレッテは行く。天轟闘宴直前を迎えたせいか、道行く人波の混みようは先日までの比ではない。はぐれないよう、並んで歩く。


 二人はミョールの入院している病院を訪れた帰りだった。

 結果として、彼女には会えなかった。やはりまだ絶対安静の状態。身体も心も、休ませなければならないとのこと。

 天轟闘宴に出ることを報告するつもりでいた流護だったが、面会できなくてよかったのかもしれない、と思い始めていた。そんなことを言われれば、彼女も驚くだろう。傷に障るかもしれない。そもそも、流護たちがまだレフェに残っていることすら知らないのだ。

 ならば。会うのは、優勝してからで――全部終わってからで、構わない。


 一方で桜枝里のことも気がかりな流護たちだったが、天轟闘宴が近いということで城の者たちも忙しいらしく、今は入城そのものが禁じられている。


 結局、武祭を前にしてミョールにも桜枝里にも会えず終いだった。


「リューゴ、調子はどう?」

「おう……コンディションは問題ないぞ。いけるよ」

「んっ。ならよかった」


 ベルグレッテは心から安堵したような溜息を吐く。完全にマネージャーだ。


「そんでも、帰ったら最後の調整はしときたいとこだな」

「付き合うわよ」


 ここ数日、宿でベルグレッテやゴンダーと一緒に軽い訓練にも励んでいる。それも今日で最後となるだろう。


「あっ。神詠術オラクルについてのおさらいも忘れずにね。詠唱保持については、ちゃんと覚えてる? 多重保持者フォルディシスについては?」

「えっ……お、おう……わ、分かりますよ」

「ふーん。それじゃ、あとでテストするわね」

「えっ……」


 訓練だけではない。短い時間ではあるが、詠術士メイジたちのひしめく武祭に参加するということで、神詠術オラクルについての簡単な勉強もしていた。

 属性に術の系統、種別……護符ルーンに封術道具、果ては詠唱保持に何やらかんやら。

 勉強嫌いな少年としては、ただただ思うばかりである。この世界で詠術士メイジとして生まれなくてよかった、と。


 さて、今日は星遼の月、二十一日。

 今頃ミディール学院では、先延ばしになっていた防護の施術を行っている頃か。防護担当の『ペンタ』であるバラレ・サージ女史の指揮の下、ミアやクレアリア、学院長らも総出で作業しているに違いない。

 ……きっとミアやクレアリアは、流護たちがまだ戻ってこない――などとぼやきながら。


 歩道を歩く二人だったが、ほどなくして行く先に人だかりができているのを発見した。


「……なにかしら?」

「何だろな。通れねえし……」


 ちょうど行く手を塞いでいるため、迂回するように回り込み――それが、視界に入る。


「!」


 一人の男が、嫌がる少女に声をかけていた。

 おそらく双方共、地元の――レフェの人間ではない。

 少女は茶色いマントの目立つ旅装。栗色の髪をポニーテールに結わえており、地味で大人しそうな印象。

 対する男は同じマント姿であるが、色は漆黒。まるで、蝙蝠の羽を身に纏っているかのよう。枯れ木のような痩躯の長身で、ギョロリとした目と、短い黒髪の両脇から顎の付近まで伸びている長いモミアゲが特徴的だった。


「だから……わたし、連れがいるので……!」


 立ち去ろうとする少女の腕を、黒マントが強引に掴む。


「だ・か・ら。お前の都合なんて知ったこっちゃねぇんだよ~。この場でひん剥いてヤラレてーのか? 大人しくついてくりゃいいんだよ、コラ」

「……何だありゃ、斬新なナンパだな。つか、もはやナンパですらねえ」


 半ば呆れたように呟く流護。

 そこで、集まった人ごみの中からかすかなぼやきが聞こえてきた。


「兵士呼んだぞ。すぐ来るってよ」

「それにしたって、まーた魔闘術士メイガスだよ……。いい加減にしてほしいぜ……」


「――――、」


 その名前を聞いて。

 流護はほぼ無意識で、男へ向かって踏み出し――


「だめ、リューゴ……!」


 ベルグレッテが背後から肩を掴んで制止した。


「……でもほら、女の子絡まれてるし……」

「待って。本番は明日なのよ。ここで騒ぎを起こして、出場が取り消しになったりしたら……」

「らしくねえなベル子。じゃあ、あの絡まれてる子はどうすんだ?」

「人ごみから聞こえた。兵士を呼んだって。すぐ助けが来る」


 そういう少女騎士は、噛み締めるような表情だった。


「……、」


 そう。飛び出していきたいのは、ベルグレッテも同じはず。

 おそらく今、出ていってこの魔闘術士メイガスの男を倒すことは簡単だ。しかし、万が一があっては困る。揉め事が原因で、天轟闘宴に出場できなくなるようなことがあってはならない。


「…………そう、だな。悪かった。兵士に任せよう」


 絞り出したような流護の声に、ベルグレッテが頷く。

 この場はすぐやってくるだろう兵士に任せ、流護たちは去る。それが最良の選択――


「お? おおぉ?」


 魔闘術士メイガスの一員だというその男は、首を巡らせて思わせぶりな声を上げる。

 その視線は。流護を――その後ろにいる、ベルグレッテを捉えていた。


「何だ何だ。すげーいい女がいんじゃねぇかよ~。金髪じゃねーのが惜しいなオイー」


 それまで絡んでいた少女には目もくれず、ずかずかと向かってくる。

 無言で。

 流護は、その進路を塞ぐように立ちはだかった。


「……、リュー、ゴ」


 何か言おうとするベルグレッテを、腕で制する。


「あぁん? 何だお前……まさかこの女のオトコかよ。チビっけーし、釣り合ってねーなぁー」


 値踏みするように魔闘術士メイガスは流護の顔を見下ろして、


「まあいいや。お前の女、ちょっと貸してくんね? ちょっとタマッててさ、一回で返すからよ。あっ、よかったら何回もやるかもだけど。気に入ったら返さんかもだけど」


 無言で。流護は男の目を見据えたまま、何も返さない。


「おいおい、何か言えよ。こないだも、せっかくエロイ格好した女ヤリ損ねたばっかでよ~。なんて名前だったっけ。金髪の……ミョールとかいったかな。もったいなかったよな~アレはよー。金髪は……好きなんだよなぁ~」


 流護は何も返さない。


「やっぱ無理矢理はよくねってんで、こうして紳士的に声を掛けるやり方にした訳だよ。な、小僧。俺様に手を上げさせねえでくれよ。俺様、明日の天轟闘宴に出るんだからよぉ」


 流護は、何も返さない。


「……なあ。どけって言ってんだろーよ小僧」


 思った以上の速さだった。

 横に薙がれた男の右拳が、流護の頬を打ち据える。


「リューゴッ……!」


 緊迫した声を上げるベルグレッテを手で制し、そこでようやく少年は沈黙を破る。


「……やめてくれ」


 発せられた流護の声は、震えていた。


「ああ~~? なっさけねーなおい、ビビってんのかぁ?」


 首を巡らせ、魔闘術士メイガスは至近から覗き込んでくる。腐ったような口臭が鼻をついた。


「……やめて……くれよ」


 どうにか同じ言葉を絞り出せば、黒装の男は心底楽しそうに喉を鳴らした。


「イ・ヤ・だ・ね。だめだァ、お前みてぇな根性タマ無し見てっとよ、この場で今すぐスリ潰したくなっちまう。何だ? 何で生きてんだお前? 殺すぞ? 殺していいか? いや、やっぱお前半殺しにしてから見せてやるって。お前の見てる前でこの女に、こんなの初めて、って言わせてやるって」


 身体を痙攣させながら壊れたように笑う男。

 流護はただ、呻くように繰り返す。


「やめて……くれ。…………でねえと……、」


 食いしばった歯の隙間から、言葉が漏れた。



「――明日だと思って……我慢してんのに。今この場でブッ殺さねえと、気が済まなくなっちまう」



 刹那の間。

 そのときどんな表情をしていたのか、流護自身は知りようもない。

 ただ。

 周囲の人波が、間違いなく後ずさった。


 わずか瞠目した魔闘術士メイガスの額には、押し殺したような青筋が浮く。


「……ふん、ふん。そうかそうか。いいぞいいぞ。お前、出場者か。いいぞいいぞ。なら、明日だ。三万の観衆とお前の女が見てる前で、テメーをグッチャグチャにしてやるぞ。このバルバドルフ様がな」


 ただでさえ病的なまでにギョロリとした目を大きく見開いて、魔闘術士メイガスの男――バルバドルフと名乗った男は不気味に笑った。そこで、


「そこっ! 何をしとるか!」


 鋭い声と共に、赤鎧を着た兵士が駆け寄ってくる。


「おっと、邪魔が来ちまったか。そんじゃーお開きにすっか」


 バルバドルフは肩を竦めて、


「――おーっと手が滑ったァ」


 バシュン、と空を切る音が鳴り渡る。


「――――ッ!」


 流護は咄嗟に首を捻り、その一撃を躱していた。かすめた首筋に、赤い血線が奔る。鋭く伸びた放物線が、背後にあった街路樹の枝を千切り飛ばした。一拍遅れて、群集から悲鳴が上がる。


「リューゴッ!」


 今度こそベルグレッテも身構えた。

 それは、水。

 バルバドルフの指先から一閃した水鉄砲のような攻撃術が、いとも容易く硬い樹木を両断していた。


「おいッ! 貴様、何をしているか!」


 掴みかからんばかりの勢いで、やってきた兵士が怒号を飛ばす。


「おっとっととと。手が滑ったんだって。ほれ、ションベンしようとして的外したりすることってあんだろ?」

「ふざけるんじゃない! 騒ぎばかり起こしおって!」


 押さえつけてくる兵士の声など気にもかけず、バルバドルフは流護へぎょろついた目を向ける。


「オウ、まだ名前聞いてなかったっけな、小僧」

「有海流護」

「アリウミリューゴか。ところで、お前」


 そこで雰囲気が、一変した。


「避けたな」


 ギョロリとしたバルバドルフの瞳。そこに、窺うような気配が宿る。


「俺様の一撃を……避けたな」


 値踏みするように。小悪党然としていた態度からガラリと変わり、それはまるで――獲物を見定める冷静な狩人。


(コイツ……)


 流護も目を細めつつ、相手の意図するところを読む。

 間違いない。今の交錯で、警戒された。避けたのは偶然ではないと、悟られた。


「……さて……おめーは明日で終わりの人生だ。せいぜい、悔いのねぇ夜でも過ごしときな。ああ、明日からその女は俺様が貰ってやっから安心していいぞ、アリウミリューゴクンよ。明日の夜は、早速テメェーとどっちがいいか訊いてやっからよ!? ハーッハッハハハハ!」


 見かねたのか、兵士が詰め寄る。


「やかましいぞ貴様、いい加減にしろ! 天轟闘宴の出場を取り消すぞ!」

「ごっめんなさああぁい、もうしませーん! まーた明日なー、アリウミリューゴくゥウウゥん!」


 品格の欠片も感じられない雰囲気に戻ったバルバドルフは、狂ったような高笑いを残しつつ、堂々とした足取りで去っていく。


「君、大丈夫だったか!?」

「……ええ」


 かすり傷の走った首筋を押さえ、流護は小さく肯定する。


「全く、魔闘術士メイガスめ……大事がなくて何よりだ。君は……旅人のようだな。なら知っているだろうが、天轟闘宴を明日に控えているのでな、人が増える分揉め事も起こりやすい。外出する際は気をつけてくれ」


 兵士も様々か。どうやら、流護が城を訪れたレインディールの遊撃兵であることには気付いていないようだ。そもそも、そんなことすら知らないのかもしれない。

 珍しくもない光景だったのか、集まっていた人々はそれぞれに散らばり始める。それでもさすがに、「魔闘術士メイガスめ、明日はボロクソにやられちまえ」と愚痴を零している者も多かった。「あんた参加者なのか? 明日、あいつブッ飛ばしちまってくれよ」と肩を叩いていく者もいた。最初に絡まれていた少女は、いつの間にか姿を消している。女の子を助けたことが切っ掛けで始まるあれやこれや、なんて話はそうそうあるものではないのだろう。……と思ったが、そもそも助けてはいなかった。あのバルバドルフの標的が少女からベルグレッテに変わっただけの話だ。

 兵士が諦念の溜息と共に零す。


「特に、あの魔闘術士メイガス。連中は黒い大きなマントを羽織ってるから、見かけたら近づかないように。目も合わせないようにしたまえ」

「……あの黒いマント。魔闘術士メイガスは全員、身に着けてるんですか?」

「ん? ああ、そうだが……奴らの象徴シンボルのようなものらしい。目立つから、こっちとしてはいい目印になるがね。あの無法者どもめ」


 最後にまた注意するよう言い含めて、兵士は去っていく。


「リューゴ、大丈夫? 傷、治さなきゃ」


 殴られた頬。首筋に刻まれた切創。過保護なマネージャーことベルグレッテが、治療の神詠術オラクルを施していく。


「なあ、ベル子。もう……いいんだよな」


 流護自身が不思議に思うほど、心は凪いでいた。


「えっ……?」



「――明日になったら。もう、我慢しなくても……いいんだよな」



 反して。

 握り締めた拳が、めき、と音を立てた。

 その爆発に、備えるように。






 そして――星遼せいりょうの月、二十二日。

 天轟闘宴当日が、やってきた。

第六部 完


第七部開始まで、しばしお待ちいただければ幸いです。

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