184. 剣
さて、最後となる朝の修練も終わった。
本番たる天轟闘宴はいよいよ明日である。
(……にしてもダイゴスの奴め。良かったのかねー、あれで)
ラデイル・アケローンはやや疑問に思う。
天轟闘宴に出場する弟の鍛錬に付き合っていた次兄だったが、数日前――カーンダーラが姿を消したその翌日か。当のダイゴスに、『妙な訓練内容』を提示されたのだ。
それもおよそ訓練とは呼べぬ、無茶な内容だった。それでも最後には、たった一撃とはいえ捉えてみせたのだが――
結局、最後の最後までその訓練内容は変わらなかった。
(どんな状況を想定したんだか……。何の意味があるのかね、あの訓練に。まーアイツのことだから、考えあってのことなんだろうけど。――さて)
あれこれ考えていても仕方がない。もう準備期間は終わってしまったのだ。あとは結果を待つのみ。
さて。今日はこれからは予定もないし、何をしようか。
ダイゴスから伝えられた『ある話』についても、今は部隊の報告待ち。これといって、やることはない。
よし。これから城内を適当に散策して、最初に出会った女性に声をかけよう。もちろん、給仕のおばちゃんとかは例外だ。年齢は十五歳から三十五歳ぐらいまでとする。よし、開始!
機嫌よく口笛を吹いて歩き始めたその瞬間、
「ラデイル」
背後から名前を呼ぶ声がかかった。細く錆びたような、やや高い声。
……初めに会った異性に声をかけようとしていた矢先である。幸先が悪い、なんてものではない。ケンカ売ってるのかこの野郎。
そんな気持ちはおくびも表へ出さず、
「はいはい何でございましょーか、お兄様っと」
くるりと勢いよく華麗に振り返り、音も気配もなく佇むドゥエンへ慇懃無礼に頭を垂れる。
温度の感じられない視線でそんな弟の姿を一瞥した長兄は、
「……その怪我は?」
細い目線を、まずラデイルの右手へ落として呟いた。手のひらから手首へ至るまで、包帯で幾重にも巻かれている右手へ。
「ああ、これね。こないだ第九部隊長に抜擢された、セエランちゃんって娘いるだろ? あの髪の長いキツそーな。何回も食事に誘ってたらさ、しつこい! ってブッ叩かれちゃって」
「ふうん……手を?」
「おいおい、俺だって腐ってもアケローンですよ。頬を張られそうになったから、慌てて防いでこうなったに決まってんでしょーが」
「――ラデイル。ダイゴスに、何を吹き込んだ?」
くだらない嘘に取り合う気はないようで、ドゥエンは微塵も表情を動かさず問いかける。
「吹き込んだ、とは人聞きが悪いね。愛する弟が天轟闘宴に初出場するっていうから、そりゃ激励もするし、訓練にも付き合ってあげてたってだけの話だろ?」
「ダイゴスが……お前に、その傷を負わせたと」
「いやー、ちょっと油断しちゃってさあ」
「…………」
ドゥエンの顔つきが、わずかに変化する。それは――静かな、怒りの表情。
「――お前は……ダイゴスを、殺す心算か」
わずか感情の篭もったその声に、弟は反論を返す。
「いつまで過保護なんだよ、兄貴。弟ってのは……兄の知らねーところで、成長してるもんだぜ」
おどけたようなラデイルの顔から、笑みが消えた。
「もちろん……アンタにとっての弟である、この俺もな。そういや最近、手合わせしてないねえ。――ちーっとばかし、試してみるかい?」
空気が張り詰める。中庭の木々から響いていた蝉の声が、刹那に消失する。一触即発。凍てつくような緊迫感が、二人の間を満たしてゆく――
「なーんてなっ」
ふいと肩を竦め、ラデイルはさわやかに笑った。
「で? 本題は何だよ。カーンダーラのことか?」
「ああ」
蝉の鳴き声が戻り始める中、仮面のような無表情を取り戻したドゥエンは、やはり感情のない声色で肯定する。
「今、追わせてるところだけど……手掛かりはナシ。行き先を知ってる人間もナシ。取り巻きもいねえワケだし、自分の意思で消えたのは間違いねぇと思うんだけどよお」
「そうか」
進捗状況を聞き、長兄は小さく頷いた。
ドゥエンは矛の当主としてだけではなく、国長カイエルの右腕としても動いている。大小様々な問題の解決に奔走することも、業務の一つであった。
「もう一ヶ月半も前だっけか。カーンダーラのエロジジイがサエリ様に言い寄ったって噂は、兄貴も知ってんだろ? でよ、兄貴も当然気付いてんだろー? ダイゴスとサエリ様、ここ数日で急に仲良くなった気がしねーか? これはアレだよ。ダイゴスの突きが、サエリ様の奥をノックしちまってるよ。サエリ様、急に大人びたっていうか、オンナの顔になってんもん。こりゃ間違いないね! かー、ダイゴスめ! 赤麦飯炊かなきゃか!?」
はしゃいでまくし立てるラデイルに対し、
「慎め、下世話に過ぎる。噂好きの婦女であるまいに。それと、カーンダーラ『殿』だ。少なくとも不義が発覚し、失脚するまでの間はな」
長兄ドゥエンはどこまでも生真面目だった。へーへーと返しながらも、ラデイルは疑問を呈する。
「けど実際、カーンダーラのジジイ殿が、サエリ様にまたちょっかい出そうとしたセンはあるんじゃねーか? 若い二人が仲良くなったのとも、時期が一致してるし」
「――つまり。カーンダーラ殿とサエリ様の間に問題があり、ダイゴスがそこにかかわったと。自らの意思で。そう言うのだな?」
「あー……」
まずった、とラデイルは言葉に詰まるがもう遅い。『悟られたくない話題』を避けようとするあまり、余計なことを言ってしまったか。
用は済んだとばかりに、ドゥエンが音もなく踵を返して背を向ける。
「……なあ、兄貴。ダイゴスの奴もよ、もう子供じゃねーんだぜ?」
ラデイルは頭を掻きつつ、無駄と思いつつも説得するように呟いた。
「そうだな」
足を止め、振り返らずにではあるが、長兄は小さく返答した。
意外にも肯定され、わずか驚くラデイルだったが、
「――だが。アケローンの矛としては、まだ余りにも未熟だ」
仮面、とでもいうべきか。
半分だけ振り返ったドゥエンの顔には、およそ感情と呼べるものが存在しておらず、ラデイルは不覚にも寒気を感じてしまった。
「……、俺としては、久しぶりに会ってちったぁ成長したと思ったけどな。あんな朴念仁でも、友達と上手くやってるみてーだし」
「……友達、か」
意味ありげに呟き、ドゥエンは続ける。
「大爺様や父上の勧めもあって承諾した留学だったが……それが原因で、ダイゴスが『劣化』したというのなら――」
そこで初めて、兄の顔に薄笑みが浮かんだ。
「ミディール学院を辞めさせることも、視野に入れておかねばならんな」
今度こそ。ドゥエンは物音ひとつ立てず、静かな足取りで去っていく。
(……ったくよお。偏屈仮面馬鹿兄貴め)
そんな兄の背中を見送る弟には、内心で子供のように罵倒することしかできそうになかった。
――ともあれ。ひとまず、ダイゴスが推測した『とある説』は隠し通すことができた。
我ながら、口が軽くて危なっかしい。
弟から聞かされた、カーンダーラの取った行動。そこに存在する、妙な矛盾。
ともあれ、あれが正鵠を射ているとすれば――間違いなく、大事になる。天轟闘宴どころではなくなってしまう可能性もある。まだ、長兄の耳に入れるべきではない。
――殺してやる。
細木に括りつけられた藁束が、急角度を描いた白い光刃によって両断される。
「フゥッ……」
城内の屋外訓練場。周囲には、同じように分かたれた藁の束が散乱していた。
剣の家系が若手、エルゴ・スティージェは大きな息をつく。
幼さの残る顔を伝う、滝のような汗。頬へ張りつく栗色の髪を煩わしげに振り払い、再度意識を集中する。
今日は城が騒がしい。天轟闘宴を明日に控えているため――というだけではないようだ。黙々と訓練に励んでいるエルゴだったが、つい先ほどには、鎚の当主であるラパ・ミノスの姿が見えないのだが知らないか――と、兵士が尋ねにやってきた。鬼気迫る剣幕で修練に打ち込む剣の少年を見て、答えを聞かず引き返していったのだが。
――少年が授かりし二つ名は『白輝』。弱冠十六歳にして、すでに剣の家系次期当主候補と目されている。紛うことなき才能に恵まれた実力者といえるだろう。
今回、エルゴが対エンロカク要員として駆り出されることはむしろ当然。
しかし、少年は納得がいかない。
ドゥエンから下された指示は、飽くまで他の家系の者たちと協力して、エンロカクを消耗させること。正面からの交戦は厳禁。危険を感じたならば撤退すること。
――馬鹿な。ドゥエンさんは、僕の実力を見誤っている。
「シュッ!」
呼気と同時。振るわれた腕の軌跡を追う白い光条が、立ち並ぶ藁束を三つ同時に切断する。力自慢の兵士が振るう槍ですら貫けないそれが、バターのようにカットされて転がり落ちた。
協力? 消耗? 撤退?
冗談ではない。
「……殺してやる」
証明する。エンロカク・スティージェなど、すでに過去の遺物であると。
そう。レフェ巫術神国七十万名、その中で主軸となる剣の家系が次期当主候補。未来に提示された誇らしい道。誰もがこう称賛する。
「エルゴは優秀な剣の戦士なるだろう」
「お前ならば次期当主としても安心だ」
だが、決して言われることのない言葉があった。
「剣の家系の中でも、歴代最強の戦士となるだろう」
闇に葬られたその存在。エンロカクという過ちが存在する限り、エルゴが『最強』だと認められることはないのだと。
だから証明してみせる。
幼少より鍛錬を積んで十年。エンロカクが国を去って十年。
剣の家系は、より高みへと達している。国を出て好き放題していた屑などに、負ける道理はない。
これは好機。
歴史の闇に葬られた黒き魔剣であるエンロカクと、才覚溢れし光の剣であるエルゴ。
「どっちが上か……証明してやるよ。落伍者のオジサン」
また一つ。揺らめいた腕の軌跡に従い、藁束が破片を散らした。
――感覚が冴え渡る。
飲食を断ち、早幾日となるか。だが、それも今日で終わりだ。
潅木を掻き分け、進む。時折足を止め、耳を済ます。目を凝らし、鼻をきかせる。微妙な空気の変化を、肌で感じる――。
鬱蒼とした森を行くは、黒く巨大な影。しかし猛獣や怨魔の類ではない。紛うことなき人間だった。
エンロカク・スティージェ。
明日に迫った天轟闘宴。表向きでは魔闘術士が優勝候補と目されているが、レフェの裏事情に通じる者は皆、この男が勝利を飾ると確信しているだろう。
そんな黒き巨人は今、生い茂る草木の間を縫って森の中を進んでいた。
血走った目を奔らせ、息を殺す。空腹の影響か、歯の隙間からは獣じみた呼吸音が漏れ出ていた。
レフェに古くから伝わる、『斎の刻』と呼ばれる修業法がある。内容としては、ほぼ断食に近い。
エンロカクは現在、天轟闘宴に備えてこの『斎の刻』へと挑み、一切の飲食を断ち続けていた。
まず最初に、ある植物の花冠を乾燥させたものを摂取する。微量ならば食欲増進の効果を促す医薬品としても用いられるものだが、一定量を超えた場合、心身共に大きな影響を来す。
飲み食いを断つこと数日。腹が鳴り続け、食物のことしか考えられなくなる。耳障りな腹を押さえつけながら、空腹でささくれ立つ神経を抑圧しながら、脳内を埋め尽くす肉や酒の誘惑に耐えることさらに数日。
何かが切り替わったかのように、食欲が消失する。
代わりに訪れるのは――渇き。
ただひたすら、身体が水を求めるようになる。もはや薄汚れた泥水でも構わないと、内側から爆発しそうな欲求が溢れ出す。
そうして。
発狂寸前ともいえるその境地を乗り越えた末、到達する。
薬によって、飢餓によって限界まで研ぎ澄まされた感覚。
雨粒の一滴をも見分ける視覚。木の葉が擦れる音をも捉える聴覚。薮に潜む獣の存在をも察知する嗅覚。
まるで、あらゆる知覚が剥き出しとなったかのような。
気配探知系の術が働かない霊場にて行われる天轟闘宴では、いずれも絶大な効果を発揮する感覚となる。
しかしここで完成ではない。
黒き巨獣は、『斎の刻』の仕上げに取りかかっていた。
道なき道を進み、注意深く周囲を見渡し、音を聞き、鼻をきかせ――
「フン……見つけたぜ」
その場所へ到着した。
砂地が剥き出しになった、見通しのいい台地。これまでとは打って変わって、遮るもののない開けた空間。
転がる岩を背に佇むは、一体の怨魔だった。
既存の動物と比べたなら、狼が近いだろう。ただし、その体長は優に二マイレを超えていた。
褐色の長毛に覆われた全身。大地を踏みしめる強靭な四肢。顔つきも極めて狼と酷似しているが、特徴的なのはその頭部。
額から飛び出すように、一本の角がそびえていた。
その形状は、異様の一言に尽きる。
長さは六十センタル程度。赤黒く幅広で、形状としてはブロードソードに近い。ただし、刃に相当する部分にはギザギザとした凹凸が刻まれており、まるでノコギリが直接頭から生えているかのよう。
カテゴリーB、ヴァーラドルッフ。
性質は冷徹にして獰猛。戦闘能力も高く、ランクBの常ではあるが、まともに相手取るならば正規兵が三人は必要だとされる怪物。巨体から繰り出されるあの『ノコギリ』を受ければ、人間など容易に両断される。
雑食だが質の高い果実や肉を好み、その角を使って巧みに切り分けながら食べることから、『美食家』とも渾名されていた。
そして、当然ながらというべきか。
『人間』も、この美食家が好むメニューに含まれる――。
「ン~……俺も基本的には『美食家』なんだがな。飯も女も。まァ、これも修業の一つよ」
余裕の表情で、エンロカクは怨魔と対峙する。
――『斎の刻』の仕上げ。それは、ヴァーラドルッフの血肉を食らうことだった。
良質な餌のみを食するヴァーラドルッフの身体には、豊富な栄養素が多く含まれている。それが理由かは定かでないが、この怨魔の血肉には、一時的に身体能力を活性化させるという作用があった。空腹時であればより臓腑に染み渡り、その効果は倍増する。一週間ほど、その作用は続く。
が、そこに問題が二つ。
一つは、単純にヴァーラドルッフの血肉が食用として適さないこと。雑食であるがゆえか肉は固いうえに不味く、独特の臭みも強い。血液もひどく粘ついており、喉に絡みついて飲めたものではない。極限ともいえる空腹状態でなければ、そもそもこれらを胃袋に収めることは不可能だとまでいわれていた。
そして、もう一つの問題。
飢餓の極限状態。絶不調ともいえるその体調で、凶暴なヴァーラドルッフを仕留めねばならないということ――。
目前の人間を食物と認識したか、ヴァーラドルッフが身を低く屈めて四肢を踏ん張る。
迎え撃つように構えるエンロカクだったが、
「……おっと」
わずかに足元をふらつかせた。
感覚が鋭敏になっているとはいえ、何日も飲み食いしていない空腹状態。いかにエンロカクであっても、力が入るものではない――
瞬間、爆発した。
エンロカクがたららを踏んだ刹那、ヴァーラドルッフが迅雷の速度で躍りかかった。まるで熟練の武人がごとき、一瞬の隙をつく挙動。十マイレはあった距離をわずか二歩で埋めた怪物は、頭から生えたノコギリを横薙ぎに振るう。
両断の軌跡。
いかに分厚いエンロカクの身体であっても、そこは人間。直撃すれば、間違いなく上下に卸されるだろう一閃。
その剛断の斬撃が、バン――と。
見えない何かに弾き返された。衝撃に押され、ヴァーラドルッフの巨体がよろめく。
「フ……残念だったな、犬公」
怪物に高度な知能があったなら、気付けていたかもしれない。
その男が纏う、凄まじいまでの『風』に弾き返されたのだと。
――エンロカク・スティージェが誇る、防の極致。我流、逆風の天衣。薄膜のように展開されていながら万物を弾き返す、障壁とも呼べる風を纏う術だった。
「……で、これを攻撃に使うと――こうなる」
エンロカクの全身を包み込んでいた風が消え、右手一点にのみ再顕現する。
ゆらりと動いた右掌が、照準を合わせるようにヴァーラドルッフの眼前へとかざされ――
風の鋼弾とでもいうべき一撃が吹き抜けた。
ありとあらゆる餌を切り分けてきただろう、怨魔の強靭な『ノコギリ』が爆ぜ割れる。勢いのまま、その風撃はヴァーラドルッフの頭部を跡形もなく粉砕した。気流に乗って、爆散した血飛沫と肉塊が周囲に弾け飛ぶ。
一拍遅れ、頭を失った怨魔の巨体がずしりと横倒しになった。
「攻の極致――我流、爆風陣……ってな。たまには巫術も使わんと……鈍っちまう」
ニッと笑ったエンロカクは、ヴァーラドルッフの死体の脇に屈み込み――
「ほほっ。変わらぬ……いや、進化しておる。さすがの腕前じゃな」
投げかけられた声に、ピタリと動きを止めた。しゃがんだまま振り返れば、やってくるのは三人の男。
うち二人は赤鎧に身を包み、長槍を携えた――つまり、レフェの正規兵。
そしてもう一人は、禿げかかった頭に小太りの体格が目立つ、初老の男。
「誰か尾けてきてるとは思ってたが……あんたかい。――カーンダーラ」
レフェ巫術神国『千年議会』が一人、カーンダーラ・ザッガだった。
エンロカクはピアスの通った分厚い唇をニヤリと歪める。
「いいのかよ。万が一、俺と居るところを誰かに見られたりしようモンなら……失脚じゃ済まんだろう?」
巨人の太い声に、カーンダーラは顔を歪めて笑う。
「ふ、裏を返せば……見つからなければ問題はないということよ。見つからぬイカサマは、イカサマではない。タイゼーンの奴めも良く口にする言葉じゃ」
十年前に下された、エンロカク・スティージェの追放という処断。それは、双方の利害が一致したゆえのものだった。
エンロカクにしてみれば、窮屈な城暮らしの……剣の家系からの解放。『ある目的』を遂げるための、足がかり。カーンダーラにしてみれば、金と女を与えることで秘密裏に扱える究極の戦力の獲得。
あれから早、十年もの付き合いとなる。とはいえ、カーンダーラとしては繋がりを誰かに知られるのは致命的。当然ながら、国長や他の『千年議会』の面々、さらにはドゥエンにすら悟られてはいないのだ。
この十年間、双方が直接顔を合わせることなど必要最低限、数えるほどしかなかった。
そのカーンダーラがこうしてやってくるという事実に、エンロカクは鼻を鳴らして笑う。
「フン……天轟闘宴を前に、何か仕出かしたな?」
エンロカクの予想が的中していたことを示すように、カーンダーラが忌々しげな表情となる。
「……エンロカクよ。あの女を……巫女を、何としても手に入れるぞ」
「そんなにご執心かい。まっ、確かにいい女ではあるが」
業の深い爺さんだ、とエンロカクは心中で笑う。黒髪の美しい、若い女でなければ勃たないらしい。
元々、エンロカクが天轟闘宴で優勝した暁には、カーンダーラが巫女を手に入れる算段だった。この老貴族は、あの少女によほどご執心のようだ。
大方我慢できず手を出そうとして、失敗したといったところだろう。
「それと、じゃ。矛の……ダイゴス・アケローン。奴を、何としても殺せ」
「ダイゴス……? ああ、ドゥエンの弟か。どうせ『十三武家』の一人として俺を潰すために出てくるんだろ? なら、どっかで自然とぶつかるとは思うが……、」
そこで巨人はふと閃く。
(……ん? 待てよ)
己の最終目的を遂げるために――『それ』は、この上ない近道となるのではないか。
むしろ非常に都合がよい。なぜ今まで気付かなかったのか、不思議なぐらいだ。
「……フフ、」
エンロカクは横たわったヴァーラドルッフの右前足を掴み、強引に引き千切る。中ほどからへし折り、その肉にかぶりついた。固い筋繊維を強引に噛み千切り、無理矢理に咀嚼する。
「かー、不味いなんてもんじゃねえ。腹減ってても食いたくねえもんだぜ」
表情を歪め、そう吐き捨てながらも食べ続けた。
「…………、」
一体、どちらが怪物なのか。
人が恐れる怨魔という存在を当然のように呆気なく薙ぎ倒し、その血肉を喰らっている。
無心で怪物を捕食するエンロカクを前に、カーンダーラの腹心である中年兵士はそう思わずにいられなかった。
十年前、エンロカク粛清の任にも同行していた彼は、やはりあのときの直感は間違っていなかったのだと再認識する。
――この男を敵に回すならば。戦闘ではなく、戦争になると。
己自身、古くからカーンダーラに仕える精鋭兵。隊列を組めば、安定してヴァーラドルッフを撃退することも決して不可能ではない。
しかし、違う。この黒い人間の形をした怪物は、根本的に違う。強さ。格。全てが。
肉を食み、血をすすり続けることしばし。さすがに満腹となったのか、エンロカクがげふりと大きな息を吐き出す。
それからどれほどの時間が過ぎただろうか。
「ふっ……フ」
その変化が訪れた。食事を終えて一息ついているエンロカク。その太い首や腕。黒い地肌の表面に、血管が浮き出ていく。
「フフ……来たぜ。これだ……この感覚だ」
筋肉が隆起し、血管が脈打ち、ただでさえ巨大なその体躯がさらに一回り大きくなったような錯覚すら感じさせる。
『斎の刻』、その成功の証。
熟練の兵士ですら、思わずにいられない。
(……、誰が……)
一体誰が、この男を止められるのか。
エンロカクは過去の天轟闘宴においても一度、この『斎の刻』を実行したうえで臨んでいる。そして優勝している。
数年ぶりに見るその姿。齢三十を超え、戦士としてはとうに下り坂へと差しかかってもおかしくないはずの肉体。だというのに、肥大した筋量。凄みを増した凶相。間違いなく、十年前を遥かに凌駕している。
断食によって得た鋭敏な感覚。捕食によって得た圧倒的な身体能力。そして元より保有する、この男そのものの強さ。
今、この状態。完全な一対一で、ドゥエン・アケローンと激突したならば。この男は、あっさりと勝利してしまうのではないか――
「ふふ、ふ、いいね。滾るじゃねえか……フハハハハハ……!」
『先詠み』の能力でもなければ、未来のことは分からない。
ただ、一つだけ確実なことがある。
此度の天轟闘宴は、間違いなく惨劇の舞台となるだろう。
男の人生は、賭けの連続であった。
狂ったように笑い続けるエンロカク。
その様相を見て、カーンダーラは無理矢理に口の端を吊り上げる。
――問題はない。
不手際を踏んで、城を出る羽目になってしまったが……それでも、問題はない。巫女に手を出そうとしたことや、エンロカクについて虚偽の発言をしたことなどは、さしたる問題ではない。
此度の武祭、出場する『十三武家』の若手たちは死ぬ。しかし、他の出場者たちの顔ぶれも充実している。さしものエンロカクといえど疲弊するだろう。そして、そこを狙ってドゥエンがやってくるだろう。
しかし、この男は上をいく。
国長たちは、この男の――エンロカクの実力を見誤っている。例え疲弊した状態であっても、この怪物はもはやドゥエンの手に負えるような存在ではない。今回、レフェは『十三武家』の若手を始め、多彩な人材を失うことになる。
しかし、それこそが好機。
それほどの損害を出したエンロカクを、カーンダーラが仕留める。
いかに強かろうと関係ない。十年もの時間をかけ、自分に害意はないと示し、思い込ませてある。傷を癒すと騙し、食事や薬に毒を混ぜればそれでよい。怨魔・惑怪鳥ステュームバリから抽出される最悪最凶の毒、『フレカリス』を入手してある。
少量でSクラスの怨魔すら仕留めると伝わる逸品、エンロカクであっても呆気なく斃れるのは間違いない。
戦力としてのこの男を失うのはやや惜しいが、やはりそれ以上に危険なのだ。未だ悪夢に苛まれ続けるのは事実であるうえ、この怪物は従順に従う配下とは違う。いつ寝首を掻かれるか分かったものではない。気まぐれな猛獣と同じ檻に入っているようなものだ。
正直、ずっと機会を待っていた。この男を消去できるその隙を、窺っていた。
確かに強い。確かに使える。
しかし、それ以上に恐ろしいのだ。この怪物が。
最初はよかった。しかしこの男が敵を屠るたび、勝ち続けるたび、常に懸念がつきまとった。
次は自分が、こうなってしまうのではないかと。
だが。それももう終わりだ。
この怪物を仕留めた功績によって、多少の不祥事など消し飛ぶ。裏からエンロカクを狙っていたために姿を消していた、とでも騙ればよい。
その手柄によって、今までとは比較にならないほどの地位を手に入れることができるだろう。それだけの権力者となれば、巫女をどうにかすることなど赤子の手を捻るより容易だ。
「どうしたよ爺さん。悪いツラしてるぜ」
「……いいや。お主の勝利を確信しておったのだよ」
勝つ。
不確定要素があるからこそ、燃え上がる。
このギリギリの賭けにも、必ず勝利してみせる。
長年この身を苛み続けてきた悪夢は終わり、地位が、巫女が、全てが手に入る。
野望にまみれ、賭けの緊張感に取り憑かれた老人は、胸奥で静かにほくそ笑んだ。