183. ミノタウロス
天空に浮かぶ巨大な夜の女神は、薄雲をボロ切れのように纏っている。そうして若干弱まった光が、暗く静かな街に降り注いでいた。
時刻は、夜の十時前。
天轟闘宴を控えており、人も多い時期のはずだが、その一帯は『なぜか』人気というものが全く感じられなかった。
都市特有の篭るような暑気が漂っているものの、男の故郷の砂漠と比べたなら涼しく感じるほど。充分に過ごしやすく快適といえる。
人も馬車も皆無なのをいいことに、魔闘術士の首領格たるジ・ファールは大通りの中央を堂々と歩く。
そうして、目的地――千古王城の南口、大きな門の前へと到着した。
昼前に部下から受け取った手紙。
「レフェ巫術神国・催事運営担当より、天轟闘宴参加者であるジ・ファール殿に伝令。参加登録用紙の記載について、不備が確認された。要修正及び確認の為、遅い時刻にて恐縮であるが、今宵十時、千古王城南大門前へお越し頂きたい」
その内容に従い、ここまでやってきたのだ。
懐中時計を取り出してみれば、今まさに針が十時を指し示そうとしているところだった。
そこから逆算しつつ自らの気の巡りを確認し、
(……『コッチ』の方は、後五分ってとこか。ま、必要ねーとは思うがな)
視線を己の手から眼前の巨城へと移す。
魔闘術士の集落が丸ごと収まってあまりあるその広さと大きさは、まさに権力者が抱く虚栄心の表れだ――とジ・ファールは嘲弄する。
自分自身が矮小であるため、せめて外面を大きく見せていないと不安なのだ。
この街で言葉に出せばすぐさま衛兵が飛んでくるに違いない、そんな侮蔑の思考を渦巻かせながら城を眺めていると、脇の暗がりから一人の男が姿を現す。
すらりと細い、神経質そうな青年だった。年齢は二十歳前後か。腰まで伸ばされた長い黒髪、切れ長の瞳に薄い唇。冗談の通じなそうな、生真面目な性格であることが一目で窺える。
「ジ・ファール殿……で相違無いな」
「オイオイ、どうなってる。呼び出した方から名乗るのが筋ってモンじゃねーのか」
「……此れは失礼した。私はレフェ巫術神国『十三武家』――鎚の家が系当主、ラパ・ミノス。時間通りにご足労頂き感謝する」
典型的なレフェの人間だな、とジ・ファールはラパを分析する。
馬鹿正直に長ったらしい肩書きを堂々と語る。レフェという国に、『十三武家』という組織に、鎚の家系という血筋に誇りを持っている証だ。
(ケッ、この城にお似合いのスカスカ野郎だ)
その思いが顔に出ていたのだろう、対峙するラパが眉をひそめて皮肉げに言う。
「つい文書という形で呼び立ててしまったが……貴殿が字の読めない無教養者でなくて助かった。尤も、些か常識には欠けておられる様だがな」
生真面目、誇り高く気も短い。やり返さずにはいられない。典型的な貴族体質といったところか。心底つまらん人間だ、とジ・ファールは鼻を鳴らす。
「で? 登録の不備がどーのこーのって話だったな」
「不備……か」
意味ありげに口元を吊り上げるが、それも一瞬のこと。すぐに堅い雰囲気へと戻り、青年は続ける。
「此度の天轟闘宴、優勝候補と目される魔闘術士……其の首領たるジ・ファール殿。貴殿らは武祭を盛り上げる『悪役』なのでな、兵達も多少の粗相は大目に見ている」
「そうかい。で?」
「私は、此の国を愛している。其の上で、閉鎖的且つ懐古的な人間では無い。他国人が多く訪れ、交流を持つ現状を喜ばしいと考えている。……然し、だ」
語りの最中、ラパは当然のように腰へ提げている剣に手を伸ばす。
「門戸を広げれば其の分、虫も入り込み易くなる。例えば。己の住まいに――黒・々・と・し・た・便・所・虫――が這いずり回っていたら、実に不快だとは思わぬか?」
ほう、とジ・ファールは目を細めた。
この男。
どうやら、違うようだ。生真面目な堅物などではない。
青年の腰から抜き放たれた銀剣が、夜の女神の光を受けて鈍く煌いた。
「天轟闘宴とは、個性の集まりだ。大小様々な杭が並ぶ事だろう。其れは実に結構。だが――出過ぎた杭は、邪魔なのだ」
「で? そんなテメーの×××みてーな貧相な剣なんぞブラ下げて、何する気だ?」
バチン、と雷が舞った。
「!」
それは、鎚。
細身の剣から伸長した濃紫の雷が、巨大な鎚を象った。
その長さは、ラパの身の丈を優に二倍する。先端の部分は巨大かつ歪な球体を模しており、武器というよりは岩石が据えられているような印象だった。
実在する武器では到底ありえない、とてつもない大きさの雷鎚。一見して、線の細い青年が携えるには不釣合いにも思える代物だが、
「――さて。酒場での乱闘、酔った勢いでの器物破損、通行人への恫喝……果ては武祭への出場が決まっていた詠術士に対し、一方的な暴行を働いたのでは、との噂も耳にしている」
一振り、ラパの横薙ぎによって生じた風が、舗道の塵芥を吹き散らす。大気灼くその轟音は、どこか雄牛の咆哮のような響きを伴っていた。
片腕でその得物を悠々と繰る姿が、驚くほど様になっている。
「揉め事を起こす其の都度、部下に制裁を加えているそうだな。首領たる貴殿が責を負うべきではないか、と私は思うのだが。――何より事、詠術士の件に関しては……貴殿が手を下したのではないのかな」
「回りクデェんだよ短小野郎。僕の大好きなレフェで好き勝手やってる奴が気に食わないんですー、捕まえちゃうんですー、って素直に言ったらどーだ、あ?」
返答はなかった。
無言で急加速したラパが、雷鎚を振りかぶる。
横一閃。
読んでいたジ・ファールは、大きく後方へと飛びずさった。
が、
「……、……お――!」
紫電の空振りによって発生した烈風。これが、爆発的に周囲を薙ぎ払った。
予想以上に飛んだジ・ファールの細身が、歩道と大通りを隔てる柵に衝突する。ガシャン、と派手な音が夜の路地に木霊した。
「ってぇな、オイ……」
鎚を薙ぎ払った体勢のまま、ラパ・ミノスは表情ひとつ変えず冷淡な視線を送る。
周囲の大気が、ビリビリと白光の余韻を散らしていた。
その威力。直撃したならば――人はおろか、比較的小柄な怨魔なども一瞬で塵と化すだろう。かするだけでも充分だ。触れたその部位が、一瞬で黒炭となるに違いない。
「……捕らえる? 其の様な心算は更々無い」
青年は淡々と、無表情で告げる。
「貴殿は人を殺めるに当たり、最たる面倒事は何であると考えるかな」
身体より大きな鎚を軽々と肩へ担ぎ、その得物の名を持つ家系の当主はゆっくりと歩を進める。
「死体の処理――であると、私は考えている」
それは問いかけではなく、独り言だった。初めから返答など期待していない。
「気取られてはならない殺人に於いては何よりも大きな物的証拠として残り、放置すれば腐り落ち、蛆が湧いて悪臭を放つ。運ぶのにも処理をするのにも一苦労……死体とは、実に厄介な物だ」
大鎚を手に、仄暗い路地を一歩一歩。その姿は、伝承に登場する迷宮の怪物のようだった。
(……オイオイ、どうなってる。こんな奴がいやがるのかよ)
鎚の構成力が、あまりに圧倒的すぎる。防御術では防げない。さらにはあの大きさ。盾としての役割も果たすはずだ。生半可な術では抗うべくもない。
攻撃一点にのみ特化した、雷光の使い手。
通常の詠術士は――このラパ・ミノスという男と正面から対峙した時点で、『詰む』ことになるだろう。
(優等生の皮被った獣だな、コイツ)
ジ・ファール自身、当然ながら最高位術者としての自負があるが、今から詠唱できる術でこの男に通じそうなものが思いつかない。半端な術では、まさしく焼け石に水だ。
「私の鎚は、其の死体処理と云う過程を丸ごと省略する。アケローンの様な殺し屋の家系であれば、時と場合に拠っては敢えて死体を残す必要も有るのだろうが――我が家系には、原則として其の必要が無い」
ゆっくりと、振りかぶる。
「ミノス家――処刑人の系譜には、な」
振り上げた挙動とは対照的な、神速かつ剛断の一撃。それこそまるで、罪人の首を落とさんとするような。しかし到底、頭が飛ぶ程度で済むはずもない破滅の圧壊。
自身が語る通り、それは対象者『のみ』を殺害する鉄槌だった。
振るわれた紫電の鎚は、凄まじい余波を振り撒いていながら、通りの石畳や柵を損壊させることはない。
斃すべき相手のみを文字通り消滅させる、白雷の煌き。
大気灼く鎚が通過したその場所に――ジ・ファールの姿はなくなっていた。
「…………」
つまらなげに鎚を回し、ラパは振り返る。
「民に危険を及ぼす可能性のある危険要因は……出過ぎた杭は叩き潰す。文字通り、跡形無く消えて貰う。失踪扱いとしてな。貴様の存在こそが不備、不手際という事だ。時間も無い。明日には、エンロカクも潰しておかねばならない」
冷たい目線で、淡々と告げる。
「忙しくなる故……早々に斃れてくれると助かるのだが」
紙一重で躱し、背後へと回っていたジ・ファールに驚きもせず、言い放つ。
「随分と手慣れてるじゃねーか。一度や二度じゃねーな?」
「貴殿の様な無法者が現れる事が、一度や二度では無いのでな」
「……ケッ」
魔闘術士の長は額に浮かぶ汗を拭い、息を吐いた。
頬がひりつく。黒マントの袖の一部が炭と化している。蒸し暑い。振るわれる紫電の鎚によって、一帯の気温が上昇しているようだった。
(まだ……もう少しか……)
あと一分程度、時間がほしい。
(ったく、面倒臭ぇ。こんなことなら、もっと早く仕込んどくんだったぜ)
ラパから一旦離れるため、素早くマントを翻し、樽が詰まれている建物の脇に広がる路地へと駆け込む。
裾を引っ掛けそうな細い道を駆け、先に広がる通りへと勢いよく飛び出せば、
「!」
わずか先。通路の中央に、堂々と佇むラパ・ミノスの姿があった。
一歩一歩、鎚を携えながら当然のようにこちらへと向かってくる。
先回りされたのか。この一瞬で? どうやって?
(……! こりゃ、)
そこで気付く。
ジ・ファールのすぐ横。
人の気配が皆無な建物の前に詰まれた、樽の山に。自らの背後に細々と続く、ひどく狭い路地に。
そう。『自分が今飛び出してきたのは、つい十数秒前、自分が飛び込んだはずの路地』だった。
「――麗都千式万雷迷宮」
ゆっくりと迫る鎚の怪物が、詩のようにその名を告げる。
「来る者を拒み、去る者を逃がさず。罪人を捕らえし無限の牢獄だ。此の迷宮から逃がれる事は――出来ん」
自らが持つ光鎚に照らされた青年の顔は、明らかな愉悦に歪んでいた。
(てめーに酔ってんじゃねーよ、バカが。幻惑と人避けの複合か。ヤツの持つ鎚が消えてねぇ以上、発動から一定時間作用し続ける型式の術だな)
手を尽くせば破れないこともないだろうが、そのためには闘いながらこの幻惑術を詳しく知る必要がある。そんな面倒なことはやっていられない。
加速して迫ったラパが、いたぶるように鎚を振るう。
「――ほれ、如何した? 逃げ惑って見せろ」
二度、三度、白く豪快な軌跡が大気を裂く。紫電の片鱗に触れねよう、ジ・ファールは大きく丁寧に躱す。
幾度目かの雷光を避けきったところで、ラパは鎚を肩へ担ぎ直した。
「……属性は風か。存外、体術にも秀でている。自らが纏う微風と、私の鎚が生み出す風圧を利用し、舞い散る木の葉の様に避けているな」
看破した青年は、鎚を両手で強く握り――嗤う。
「似合わぬぞ、便所虫。叩き潰されぬ様、必死に惑え。どれ……出力を増してやる。躱す為に乗るべき風を、灼熱へと変えてやろう。避けた瞬間、干からびた滓と成るぞ。さあ、如何する」
雷鎚が眩しさを増す。宣言通り、威力を上げたのだ。離れた間合いからですら、その熱が感じられる。
ラパの言葉に違わず、鎚による一撃を凌いだとしても、生じた熱風に炙られることになるだろう。
いよいよ、防御も回避も封じられた。――しかし。
「……ケッ」
もう、その必要もない。
ジ・ファールは焦らすように構えるラパを見据えながら、ペッと唾を吐く。
「汚い唾を吐き捨てるな」
「ラパ。お前さっき、面白ぇコト言ってやがったな」
「私の名を気安く呼ぶな」
全く無視して、ジ・ファールは嗤う。
「人を殺して面倒なのは、死体の処理だとか何とかよ。いやァ全く――」
嗤う。
「同感だ。――出番だぜ、ヘィルティニエ」
大気が撓んだ。周辺の景色が湾曲する。
鎚の当主もその変化に気付いたのだろう。目を見開き、身構えていた。
ジ・ファールといえど、今この戦闘をこなしながら詠唱できるような術では、ラパを倒せそうなものが思いつかない。
だが。
念のため、宿を出る前に。一時間以上も前に、己が最上位術の詠唱を開始していた。その長い準備がつい今しがた、ようやく完了した。
――空間を席巻する『それ』が、闇に包まれた無人の路地へと降臨する。
「……そ……れは……」
初めて、ラパがかすかに戸惑いを見せる。
「おー、正直言うぜ。危なかった、ヒヤヒヤしたぜ。お前がバカじゃなかったら、オレに勝ってたかもな。惜しい人材だ」
登録に不備があったため、夜の十時に出てこい――などという伝令。
アホか、とジ・ファールは鼻で笑い飛ばす。
天轟闘宴の登録は昨日の時点で締め切られ、参加人数は百八十九名とすでに発表されている。今さら不備があってどうのこうの、などという話になるはずがない。本当にそうした用件で呼び出すならば、もっと前に連絡を寄越すはずだ。
そして、指定した夜十時という時刻。いかに昼間忙しかったとしても、武祭の運営に携わる公人がそんな時間に参加者を呼びつけるはずがない。仮に呼び出す必要があるのなら、何としても昼間のうちに時間を作って機会を設けるだろう。天轟闘宴はもう、明後日に迫っているのだから。
もっともラパ自身、そんなことは百も承知だったろう。つまりあの手紙は最初から、「夜十時、城の南大門前にて待つ」という果たし状だった。
「あー、実にもったいねー人材だ」
仮にあの呼び出しのような小細工もなく不意を打たれていたら、逃げ回ることしかできなかったに違いない。それこそ、巨大な鎚を持って追いかけてくる迷宮の怪物から逃れるように。それほどに、このラパという男の術は強力だった。逆転の好機が訪れるまで、延々と凌がなければならなかったところだ。
念のために詠唱していた秘術を使う羽目になるなど、正直予想外ではあった。本来であればこの男と対峙することになる前に完了するよう、時間を合わせておくべきだったといえる。
しかしそんな想定外の危機もまた醍醐味の一つだと、ジ・ファールは含み笑う。
「その性格だ。お前が気に食わねー奴を『行方知れず』にしてんのは、誰にも知らせてねーんだろ? 自分の趣味でやってるコトだ。知らせるワケがねー。テメーの宝石を他人に触らせねーのと同じ。気に入った女を他の男に抱かせねーのと同じだ」
ジ・ファールはすでに読みきっている。このラパという男を。
「ナンチャラ迷宮だか何だか知らねーが、一人でやってんのが――人払いなんぞしてたのが仇になったな、ラパ。お前を助ける奴も、死に様を見届ける奴も、この場にゃいねーよ」
目視できない『それ』が、唸りを上げた。獲物を前にして。
「――食事の時間だ、ヘィルティニエ。骨の一片も残すな。すり潰せ」
ジ・ファールの言葉に応え、蠢く。夜の大気が脈動し、渦を巻き、自然ではありえない流れを作り出す。
雷鎚を構えたラパは、その顔に驚愕の表情を浮かべる――ことなく、嗤う。
闇夜の中、自らの白光に照らされる青年の端正な顔は、到底法の守護者とは思えないほどの狂喜を宿していた。
「成程。貴様……、よもや、覚霊級の使い手とはッ……」
鎚の男は、望むところとばかりに全力で得物を振りかぶる。『眼前に屹立する巨大な敵』へと、向かっていく。
「――貴様こそ、この場にやって来る事を他人に告げる様な性格ではあるまい」
一歩一歩、加速しながら、凄絶な笑みをもって言葉を羅列させる。
「安心されよ。魔闘術士の同胞達には、後程事情を説明しておいてやる。運営委員達にも報告しておこう。ジ・ファールは武祭を前に、怖気付いて逃亡した、とな――!」
雷鎚が肥大する。紫電を唸り散らす。まだ上があるのか、とジ・ファールは素直に感嘆する。
常軌を逸している。果たして『処刑人』に、これほどの火力が必要だろうか。
外の世界は広い。さすがは七十万もの人間を抱える大国、といったところか。優秀な使い手を飼っている。
激突する剛雷と暴風。
どれだけ人避けの術を仕掛けていようと、誰かに気付かれてしまうのではないかと危惧するほどの。両者、跡形なく消し飛んでしまうのではないかと思えるほどの。
だが。それでも、黒き髑髏は自信と共に嗤うのだ。
「――諦めな。術を使ってまで武器なんぞ模してる原人じゃ、オレには勝てねーよ」
天轟闘宴を間近に控えたその夜。
一人の戦士が、痕跡すら残さずこの世界から消失した。




