182. 坩堝
――天轟闘宴まで残すところあと二日となり、参加登録も締め切られた。
公式に発表された総出場者数、過去最高となる百八十九名。
宴を明後日に控え、見物客も続々と首都ビャクラクへ集いつつあった。
来る闘いを前に、戦士たちはそれぞれの時を過ごす――。
「おーおー、ワンサカとまぁ。芋洗いじゃねーんだからよー」
真昼の表通りにごった返す人の波。古びた宿の二階の窓からそれらを一瞥し、黒装の男はそう吐き捨てた。
開催が明後日に迫った天轟闘宴。首都ビャクラクの混雑は、今や最高潮に達しようとしていた。大半は、レフェ独特の民族衣装を身に纏った者たち。数年に一度の大規模な催しを一目見ようと、周辺都市から押しかけてくるのだ。
「あんな風にウジャウジャ集まってんの見ると、火球ブチ込んでみたくなるんだけど。ヤッてみてもいいかねぇ?」
「バッカ、現地民に手ェ出すんじゃねっての。あいつら、同胞意識だきゃ強えんだ。俺ら、すっかり兵士どもに目ぇつけられてんだからよ。祭りに出られなくなっちまう……なっちまうよな? 俺もやってみてぇの我慢してんだからよぉー」
無遠慮で下品な爆笑が室内に木霊する。
宿の一室には、薄く緑色をした煙が充満していた。ひしめくのは、総勢十に及ぶ黒い影。窓から外を見下ろす者、卓を囲んで金を賭けたカードゲームに興じている者、寝転がっている者、様々である。
共通するのは、全員が揃って闇色のマントを羽織っていることだった。大振りな蝙蝠の羽に包まれたようなその装いこそが、彼ら――魔闘術士の証でもある。
ギョロリとした瞳、痩せこけた顔立ちも、どこか皆それぞれ共通しているように思われた。さらにほとんどの者は、緑色の液体が入った瓶を手にしている。
「……ふー……、あー、たまんねーなー……。……こんだけ混んでっと、あんま好き勝手できそうにねーわな。どうします、ジ・ファールさん」
瓶の中身を呷った凶悪な面相の一人が、部屋の最奥にあるソファでふんぞり返っている男――首領へと顔を向ける。
「祭りは明後日なんだからよ、今日ぐれー大人しくしとけ」
手にした酒瓶を一口、魔闘術士の長であるジ・ファールは口の端を歪ませた。その容貌は、髑髏が笑っているようでもある。
「そーいや、バルバドルフのアホはどこ行った? カザの野郎は相変わらず、不貞腐れて出ていっちまったんだろうが」
部屋を見渡したジ・ファールは、今更のように同胞の姿が欠けていることに気がついた。起きてきた時間が一番遅かったため、そのあたりの事情を把握していない。
「あー? 言われてみりゃ、昼前から見かけてねぇですわ」
「あのバカ、金髪の女見ると見境なくすからな。揉め事起こしてなきゃいいが」
何をしていようと構わないが、天轟闘宴に出られなくなるような騒ぎを起こされては困る。薄く緑色に霞む部屋の中、ジ・ファールは静かにそう思案する。自分とカザ、そしてバルバドルフの三人は『狩人』だ。使い捨てることのできる『兵隊』とは違う。
それぞれ思い思いに過ごしている魔闘術士を――程度の差こそあれ、緑色の液体に依存している『兵隊』たちを見やる。
集落を出発した時点で総勢十五名だった魔闘術士は、現時点で四名が欠けていた。だが、そのための『兵隊』だ。彼らは感じない。疑問を。恐怖を。
(……狂操霊薬、か。ロクでもねーモン考えやがる)
このレフェや南方において古くから使われていた、人の意識に作用する香。南では檮昧香、この国では白雨蕩香などと呼ばれていたか。それを元に先々代の長老が作り出した、『兵隊』を突撃兵たらしめている霊薬。
ジ・ファールが手にしているのは、ただの酒瓶だ。間違っても、『あんなもの』を口にしようとは思わない。
まァ、どーでもいいがな――とジ・ファールは思考を放棄し、空になった酒瓶を放り捨てる。
「ボス。どうよ、一戦」
カードゲームに興じていた一人が、緑の瓶を片手に誘う。
「レートは」
「えーと……ご……五百?」
「ガキの遊びかよ。シケてんな」
だが、無理もない。天轟闘宴の参加費が、一人につき十万エスク。十一人で参加する魔闘術士らは、登録時に約百万エスクを支払っている。カザの私物を売り払って工面したが、金などもはやほとんど残っていない。
気乗りしない様子ながらも、ジ・ファールは立ち上がった。ケタケタと嗤いながら。
「……って、五千じゃねーか。どっちにしろガキの遊びだな。ま、金が入りゃ派手に遊べんだし、今日のトコは童心に帰って、小銭で遊ぶのもまた一興……ってか?」
「お、そうだボス。忘れてた」
部下の一人が、席に座りかけたジ・ファールへ一枚の封筒を差し出す。
「あ? んだこりゃ。金か?」
「まさか。朝、ボスがまだ起きてくる前に、入り口の戸に挟まってたんですわ。中身は紙っきれみてぇで。なんか書いてあるけど、俺には読めねぇ」
受け取って裏返してみれば、「レフェ巫術神国・催事運営担当より ジ・ファール殿へ」との一文があった。
乱雑に破り捨て、中身を引っ張り出す。一枚の紙に、硬い文章が記されていた。
「レフェ巫術神国・催事運営担当より、天轟闘宴参加者であるジ・ファール殿に伝令。参加登録用紙の記載について、不備が確認された。要修正及び確認の為、遅い時刻にて恐縮であるが、今宵十時、千古王城南大門前へお越し頂きたい」
(…………登録の不備、だぁ?)
先日、金髪の女を襲った際の言い逃れとしてやむを得ず『潰した』一人の分の参加申請は、とうに取り消してある。というより――
妙な予感に、ジ・ファールは口元を綻ばせる。
「何だったんだい、そりゃ。オレらぁ字なんて読めねーから、分かんねーんだ」
「いや、何でもねー。それよりお前、そのカード取るなよ。ルール覚えてんのか」
「あ、いけねえ。すぐ忘れちまう。ハ、ヘヘエ、ヘヘヘヘ」
ジ・ファールは溜息と共に用紙をくしゃりと握り潰し、そのまま床へ放り捨てた。
「来ましたぞよ」
ちりん――と、小さな鈴の音が響く。
「おお……お主か。待っておったぞ」
玉座に腰掛けた国長カイエルは、音色に釣られるままそちらへと視線を向けた。
二人の兵を伴って謁見の間へやってきたのは、一人の小さな女。
背丈は子供と大差ない。その小柄な身を包むは、真紅の民族衣装。赤茶けた長髪の一部は頭部で丸めて結わえられ、大きな団子を二つ形作っている。歳は一見して読めず、二十とも三十とも思えた。
薄い化粧の施された、鞠のような丸顔。切れ長の目に薄い眉、紅をさした小さな唇。両耳の赤いイヤリングには、小さな鈴があしらわれている。若干性格のきつそうな顔立ちをしているが、国長にとっては気心の知れた相手だった。
レフェにわずか二名のみ。異国では『ペンタ』とも呼称され、この国では忌避や畏怖の対象となる『凶禍の者』。そのうちの一人、『千面鏡』のツェイリン・ユエンテという。
普段は遥か北の都に住んでいるが、天轟闘宴を支える運営委員の一人として遠路遥々やってきたのだ。
古くより彼ら超越者を恐れる者は多いが、国長としては心強き協力者として内部に取り込んでいきたいと考えている。彼らの自信家にすぎる性格はどうにも苦手であったが。
「聞きましたぞ、国長。あのエンロカクめがやってきて、それはもう大変じゃったとか」
昔から見た目の変わらない年齢不詳の小さな女は、かんらかんらと明るく笑う。
「むっ……余としては、良い機会じゃったと考えとるよ。何を思ったか堂々と出戻ってきたあの恥さらしめに、ここで引導を渡してやれる」
「あらまあ。国としては、できうる限りエンロカクに対して干渉しない方針でゆくと思っておったがのう」
わざとらしくおどけたような顔を作るツェイリンに、国長は渋面となった。
「……『千年議会』内でも決が割れたゆえ、一先ず保守的に動いておっただけのこと。奴が自ら飛び込んできたのであれば、存分に迎え撃ってくれようぞ。……それに――」
「それに?」
言うべきか否か。わずか迷う国長だったが、いずれは明るみに出ること。隠す意味もないと判じ、言葉を続ける。
「先日……カーンダーラが、姿を消した」
「ほう?」
十年前、エンロカク粛清の任に『千年議会』の一人として同行した男。現場にて急遽エンロカクを国外追放へと処置変更し、その判断は物議を醸すこととなったが、国長としては仕方のない面もあったと考えている。相手は個人として強すぎる暴力を宿した怪物。慎重になるのは必然だろう。
以降も慎重かつ保守的な意見を唱えることの多いカーンダーラだったが、十八日、唐突に行方知れずとなった。彼が信頼を置いている数名の兵も同時に姿を消していることから、自らの意思で失踪したものと考えられる。
元より軋轢を生みやすい性格の男ではあったが、天轟闘宴を控えた多忙なこの時期に突然の失踪ということで、非難している者も少なくない。発言力の強いカーンダーラが不在のうちに、エンロカクをどうにかすべきだという声も多く上がりつつあった。
実際、武祭にてエンロカクにそれなりの傷を負わせることさえできれば、ドゥエンを差し向けて確実に仕留めることができる。この機会にあの怪物の息の根を止めることも、決して不可能ではない。ドゥエン自身や、他の『千年議会』の面々はどう考えているか知らないが。
一通り話を聞き終えたツェイリンは、他人事のように「上手くいくとよろしいのう」と微笑んだ。
小馬鹿にされたように感じ、これだから『凶禍の者』は……と苦い表情を見せる国長へ、女はより楽しげな笑顔を向ける。
「うふふ。して今回、そのエンロカクを追い込めそうな……期待できそうな者はおるのかのう?」
実のところ。此度の武祭、あの怪物であっても、さすがに無傷とはいかない――と国長は考えている。
優勝候補と目されている魔闘術士。前々回の撃墜王、グリーフット・マルティホーク。『イル・イッシュ』の一員、バダルエ・ベカー。
そして『十三武家』からは、矛の家系末弟、ダイゴス・アケローン。剣の家系が次期当主候補、エルゴ・スティージェ。杖の家系からは、洗礼を受けたばかりではあるが実力派のハザール・エンビレオが出場する。若くも実戦経験が豊富な勇士ばかりだ。
ドゥエン不在回ではあるが、いずれ劣らぬ強者たち。宴の質は高いものとなるだろう。エンロカクであっても、易々と勝ち抜けるものではないはず。
国長カイエルは、己へ言い聞かせるようにそう思考する。独断であの男の出場を認めてしまった身としては、そうあってくれと願うしかない。この件については『千年議会』からも身勝手だのなぜ議会を通さなかっただのと言われ、胃が悲鳴を上げる日々が続いている。
「ふむふむ。それならば、わっちとしても楽しめそうじゃ」
「ふん……今回は既に、観戦券の売れ行きも二万半ばを突破しておる。客たちの不満が出ぬよう、万全の『映し』を頼むぞ」
「うふふ。心得ておりますぞよ」
屈強な戦士たちが覇を競い合う天轟闘宴だが、その舞台となる『無極の庭』は川を隔てた向こう側にある森。当然、闘いの様子など観客たちに見えるはずもない。
そこで起用されるのが彼女、『千面鏡』のツェイリン・ユエンテ。その能力は極めて特殊で、『離れた場所で起きている出来事を、近場の水晶や鏡に映し出すことができる』というものだった。
屋内や霊場を『視る』ことは不可能であるものの、外部から街に近づく不穏な影があれば、いち早く察することのできる力である。遠方を見渡せる遠見の術と呼ばれるものが存在するが、同系統の上位術といえるだろう。
特にこのツェイリンの術は精度が高く、捕捉距離は最大で十五キーキル(一万五千マイレ)にも及ぶ。『無極の庭』の外周が六千マイレ強程度であるため、ツェイリンの能力であればその全域が捕捉圏内といえた。
が、そこはレフェ有数の聖地とされる霊場。超常の能力を持つ彼女であっても、『無極の庭』内部の全容を見通すことまではできない。
そこで森の各所には、ある小さな『鏡』が備え付けられる。
それらに映し出された情景をツェイリンが拾い、観客席に設置された別の巨大な『鏡』へと反映させる。これによって観客たちは、外にいながらにして、『無極の庭』内の全く別の場所で起きている複数の出来事を同時に見聞きすることができるようになるのだ。
この仕組みに用いられる鏡は黒水鏡と呼ばれ、ツェイリン独自の力が込められている。
衝撃的な場面を上手く拾い上げ、観客たちに見せられるか否かは、ツェイリンの腕前にかかっているともいえるだろう。……とはいえ、黒水鏡の捉えられない場所で戦闘が繰り広げられ、名場面を逃してしまうこともありえるのだが。
「さて、今回は何者が覇者となるのやら。楽しみじゃな」
運営に携わる身でありながら、しかし自らも武祭を楽しむ客の一人。そんな口調で、超越者の女はかんらかんらと笑うのだった。
そうして話が一段落したところで、謁見の間へやってくる影が一つ。
「此れはツェイリン殿。既にお越しでしたか」
腰まで伸ばした長い黒髪が特徴的な、硬い雰囲気の青年だった。
「おう、ラパの坊やか。久しいのう」
「は。ツェイリン殿こそ、お変わり無き様で何より」
彼は見た目通りの生真面目な物腰を崩さず、背筋を伸ばしてツェイリンへ頭を垂れる。
鎚の家系が当主、ラパ・ミノス。
そういえば、と国長は思い出す。武祭当日の警備配置について、彼から報告を受ける予定だったのだ。懐中時計を取り出して見れば、約束の時間ぴったり。実直なこの男らしいといえる。
「そういえばラパの坊やは、一度として武祭に出たことはなかったのう。それだけの実力がありながら、腕を振るってみたいとは思わんのか?」
「いえ。我が系譜の力は、衆目に晒すような物では御座いません故」
「相変わらずお堅いのう。しかし、お主のような性分の者からすれば、エンロカクやら魔闘術士やらといった連中は気に食わなかろう? 武祭に出れば、奴らを公然と叩き潰せように」
「……」
いたずらっぽく笑うツェイリンと、無表情のまま――しかしわずかに眉を動かし沈黙するラパの様子を見て、
「と、ところでラパよ。警備の話でやってきたのじゃろう?」
若干気まずそうに、国長が慌てて話題を転換する。
生真面目で融通のきかないラパが、エンロカクや魔闘術士といった無法者をどう思っているかなど、考えるまでもない。
先日、エンロカクが謁見の間に乱入してきたあの際も、ラパは常に腰の剣に手をかけて殺気を放っていたのだ。
正直国長としては、これ以上胃が痛くなるような思いはしたくない。
「フフ」
しかしそこで起きた予想外の出来事に、国長とツェイリンはわずか驚く。この青年のそんな顔を見るのはいつぶりだろうか。
ラパ・ミノスが、笑っていた。
「……失礼。エンロカクも、魔闘術士も……何やら自信有りげに強者『ぶって』おりますが」
口の端を吊り上げていたのも、一瞬のこと。
「武祭の直前になって、姿を消す……等と云う事が無い様、願うのみです。毎度必ず、そうして逃亡してしまう者が数名はおりますので」
真面目な顔で――裏方として武祭に携わる男の顔で、そう言い結んだ。
「……む」
ダイゴスが修練場から出ると、すぐ脇の木にもたれかかっている桜枝里の姿があった。
「あっ、大吾さん。お疲れー」
出迎えて、屈託のない笑顔を向けてくる。
「何をしとる」
「え? いや、その、大吾さんを待ってたんだけど……」
そう言って、桜枝里はかすかに頬を赤らめて視線を逸らす。
次兄のラデイルに唐変木だの朴念仁だのと評されるダイゴスだったが、先日の件を経て、ようやく桜枝里の想いに気付くこととなった。
巨漢としてはそれが妙にくすぐったく、間を作らぬよう語りかける。
「また氷菓か?」
「むー。そんな、私がアイスばっかり食べてるみたいに! じゃ、せっかくだから奢ってもらいまーす」
苦笑を返し、どちらともなく二人で歩き出す。
隣を歩く桜枝里は、「なに食べよかっかなー、絹白雪にしようか、やっぱ白山葡萄にしようか」などと呟いている。
忙しなく泳ぐ視線。笑顔と独り言。今ならば気付けた。それは、彼女の照れ隠しなのだと。
――言葉が、甦る。
『いいんだぜ、ダイゴス。お前ぐらいは、あの子の味方をしてあげても』
そんな、ラデイルの言葉が。
『もう、後悔はしたくねえ。俺には……力があるんだから』
そんな、流護の言葉が。
巨漢を後押しした、二つの言葉。
奇しくも、あのときの状況に似ているかもしれない。連れ去られたミアを皆で助けに行った、あのときに。
決定的に違うのは、今回は一人で闘わなければならないということ。それどころか今回、あの件で味方だった流護を敵に回さなければならない。
闘うことになるのか。あの、有海流護と。
――それは。
何とも、恐ろしい。
「……大吾さん?」
気付けば、桜枝里が不安そうにダイゴスを見上げていた。
「む。何じゃ」
「こっちのセリフだよ。大吾さん……、笑ってる……んだけど……な、なんか悪そう。ちょっと、怖い、かも」
「――、そうか」
ぱん、と己の頬を叩き――『笑顔』を作る。
「あっ。いつもの顔だぁ」
安心した子供のように、桜枝里が顔を綻ばせた。
(…………)
幼い頃、諦めた夢がある。きっと男なら誰しもが思い描く、ごく平凡な夢だ。しかし皆、次第にその夢を諦めていく。己の限界を知り、現実を知り、諦めていく。それが、大人になるということだ。エドヴィンなどは、未だに諦めず追い続けているようだが。
ダイゴスは、人より早くその夢を諦めなければならなかっただけだ。『十三武家』に生まれたから。暗殺者の家系に生まれたから。
例え。力が、あったとしても。
「んむー……?」
「どうかしたか」
「なんだろ。大吾さん、楽しそうっていうか」
「……ここまで身体を動かすのは久々じゃからな。楽しいといえば、楽しいかの」
楽しい。
大吾さんとこうして、並んで歩いているだけで。本当に、楽しい。こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
「ねえ大吾さん。天轟闘宴、無理だけはしないでね?」
それでもその時は、やってくる。
「任せておけと言ったろう」
「あはは……嬉しいけど、だめだよぉ」
――幸せだ。
あの大吾さんが、まるで王子様みたいに言ってくれる。ううん、大吾さんだけじゃない。流護くんだって、私のためにあのエンロカクを倒すと言ってくれた。実は今、モテ期なんじゃないのかな。
カーンダーラはあの一件以降、姿を消してしまったという。そのせいか今、城内ではエンロカク征伐の意識が高まっている。天轟闘宴でエンロカクを弱らせることができれば、レフェ最強の戦士であるドゥエンがあの男を倒してくれるというのだ。
一見して、絶望的だった状況に光が差し込んでいる。けれど。
もう、充分だ。
止めても無駄なのだろう。ダイゴス・アケローンは、全力でエンロカクに立ち向かっていく。そして――
この数日、桜枝里は過去の天轟闘宴の記録を調べるべく、城内の図書室へ通っていた。
そこには、十年以上前……エンロカクがまだ剣の家系の戦士だった頃の記録が残っていた。外部には公開されていない情報も含まれていた。
――知らなければよかった。
桜枝里は、ただ純粋にそう思った。
残虐。暴虐。圧倒的。カーンダーラが語ったエンロカクの性質というものは、決して誇張されたものではなかったのだと知った。あの老人の怯えは、誇張された演技などではなかったのだ。
死者が出ることも珍しくないといわれる天轟闘宴だが、結果として参加者が死に至る場合はともかくとして、意図的に相手を殺害することは禁じられている。
それでもなお、エンロカクが殺した数は異常だった。強すぎるゆえ、一撃で殺してしまう。あの男と闘った『結果として、死に至る』。優しく摘まれたはずのアリが、あっさりと潰れてしまうように。
そうして怪物はやがて天轟闘宴への出場も禁じられ、秘められた兵器のような存在となっていく。
勝てる相手ではない。そもそもドゥエンですら、エンロカクが万全の状態での戦闘を禁じられているのだ。ダイゴスが闘ったならどうなってしまうのかなど、考えたくもなかった。
例えば今回、皆がエンロカクと闘い、傷を負わせたとする。そこをドゥエンが倒し、桜枝里が助かったとする。
しかしそのとき、ダイゴスや流護はどうなってしまっているのか。今回自分が引き渡されることはなかったとしても、その後は? 今後は? また同じようなことがあったなら?
確かに、ただ捧げられるかもしれなかった状況に比べれば、事態は好転している。エンロカクがもしかしたら打ち倒されるかもしれないと、一縷の望みが……光が差し込んでいる。
しかし雪崎桜枝里が立っているのは、結局のところ這い上がることができない井戸の底だった。
皆が無事でなければ、意味がない。そしてそんな願いは、あまりにも――
桜枝里は、ぎゅっと握り締める。
紺袴のポケットの中に隠した、小刀を。巫女として任命された際に渡された、聖なる刃。
もし、大吾さんがいなくなってしまったら。もしものことがあったら。
……そのときは。
「ねっ、大吾さん。今日はこれから暇なの?」
「そうじゃの。特に予定はないが」
「それじゃあ、一緒にボードゲームでもしない?」
「構わんぞ」
だから今は、せめて楽しい時間を過ごそう。
最後の、思い出を作ろう。