180. 誓い
「きっ……、貴様か。何用じゃ!」
狼狽も露わに、カーンダーラが半ばひっくり返った声を張り上げる。
「少々お尋ねしたいことがあり、参りました」
対照的に、落ち着いた深みある声が響いてきた。
「……!」
桜枝里は息をのむ。胡乱な意識のまま、ぼんやりと考える。
ドア一枚を隔てた向こう側に、ダイゴスがいる。
今ここで声を上げたなら、どうなるだろう。異変を感じ取った彼は、ここから連れ出してくれるだろうか――
(……っ!)
すんでのところで、桜枝里は思い止まる。
確かに、ここから出られるかもしれない。今は、助かるかもしれない。しかしそれでは、問題の解決にならない。
それこそドアの向こうにいるあの人を助けたくて、自分は――
「何用じゃ! 私は今、忙しい! 後にせんか!」
「……では、一つだけお尋ねしたい」
「ええい、何じゃと言うか!」
「サエリ殿がこちらに見えておりませんか」
(――!)
桜枝里の心臓が跳ね上がる。
カーンダーラの動揺はその比ではなかったようだ。ソファから転げ落ちそうになりながら、懸命に声をぶつける。
「きっ……来ておらぬわ!」
「左様でしたか」
「と……当然じゃろうが! 用はそれだけか? 済んだならさっさと行かんか!」
「では失礼」
それきり、静かになる。
(……大吾、さん……)
そういえば、今日はまだ顔を合わせていない。
私に、何か用だったのかな。後で、彼のところへ行ってみようかな……。
でも、なぜだろう。
『事』が終わった後、彼と顔を合わせられる気がしなかった。あの人を前にしたら、泣いてしまいそうで……。
しばしの静寂。
ドアのほうを見つめるも、声や音が聞こえてくることはない。
もう、ダイゴスは行ってしまったのだろう。
よかった。
これで、よかったんだ。
「……やれやれ、水を差しおって……」
溜息を吐きつつ、カーンダーラの表情に余裕が戻る。
「……くふ、良かったのですかな、サエリ様。声を出さんかったということは、そういうことか。結構結構。では――」
落ち着きを取り戻した老人が再び、桜枝里の黒髪に手を伸ばした。
「はァー……。何かよー、こう、面白ぇコトでもねーモンかねー」
真昼の王都レインディール。八番街の舗道沿いにある、小洒落たカフェテラスにて。
ランチを平らげたエドヴィン・ガウルは、ぐでっとだらしなくテーブルに突っ伏した。そのまま顔を横に倒し、道行く人波を眺める。『狂犬』なる渾名に違わぬ悪人面のせいか、目の合った気弱そうな若者が、そそくさと足を急がせて通り過ぎていく。割とよくあることなので、エドヴィンとしては今さら気にも止めない。
「おもしれぇこと? 例えば?」
ナッツシェイクをすすりながら青い瞳を向けるのは、学院のクラスメイトのステラリオだ。茶色いツンツン頭と、少し幼い顔立ちが特徴的な少年だった。
溜息をつきながら、エドヴィンは気だるそうに答える。
「そりゃお前、こう……面白ぇコトだよ……何かねーか、アルヴェ」
「えぇっ!? ……うーん……、ご、ごめんなさい……」
同じくクラスメイトのアルヴェリスタは、申し訳なさそうに縮こまった。小さくうつむいたその端正な顔は、少女にしか見えない。それも、とびきりの美少女。
――だが男である。
不覚にもときめいてしまいそうになったエドヴィンは、慌てて『彼』から視線を逸らした。
『蒼雷鳥の休息』。ミディール学院の生徒である彼らは、連日こうして暇を持て余しながら何事もない日々を過ごしていた。
防護施術の関係から急遽延長となった休みも、残すところあと四日。このまま、特に何も起こらず終わるのだろう。
「そういえばさ、チラッと小耳に挟んだんだけど……もうすぐレフェで天轟闘宴が開かれるんだってな」
「おー、天轟闘宴か」
ステラリオの言葉に、エドヴィンが勢いよく身を起こす。
「一回でいいからよ、出てみてーモンだよなァ」
焦がれるように、パラソルの切れ間から天を仰ぐ。遠き異国の地に思いを馳せる。強さに憧れを抱くエドヴィンとしては、やはり気になる催し事の一つだった。
ちなみに、レインディールにおいても『デュオッセリーア神前闘技大会』という武祭があるのだが、ここ長らく開催されていない。主催側に回らなければならないアルディア王が自ら出たがって仕方ないため、聖妃エリーザヴェッタが武祭そのものを禁じたという噂もあるが……真相は不明である。
「おっ、そうだ。天轟闘宴……レフェで思い出した。お前ら、あの噂聞いたか?」
「噂? 何だよ?」
身を乗り出して言うステラリオに、気のない相槌を返すエドヴィン。――だったのだが、
「ベルとあのアリウミって奴が、二人っきりでレフェに行ったとかって話」
「!?」
炎の『狂犬』は思わず椅子からずり落ちそうになった。
「はァ!? ふ、ふた!? 二人っきり!?」
「で、でも……そんなことになったら、クレアリアさんが黙ってないんじゃ……」
声を上ずらせて動揺するエドヴィンをよそに、アルヴェリスタがおずおずと口にすれば、
「だから実際、学院に寄った奴が見てんだよ。抜け殻みたいになったクレアリアを。なんか『オノレ……オノレ……』って呟いてたとか。おっかなくて、とても近づけなかったって話だぜ。こりゃもう、その噂がアタリだって証明してるようなもんだろ?」
法の守護者たる兵士や騎士たちは、常として人手不足に見舞われているという。となれば、流護とベルグレッテの二人だけで任務に臨むことだってありえるかもしれない。
しかし。国外への遠征任務で二人きり。レフェとの往復となれば、移動だけでも約一週間。若い二人。二人きりの旅路……。
エドヴィンの脳裏に浮かんだわずかな懸念を、ステラリオが一気に爆発させた。
「旅は開放的な気持ちにさせるってゆーしな……。こりゃー、ヤッちゃってるわな」
「ヤッ!? ふ、ふざけんなテメー、んなワケねーだろ!?」
勢いよく立ち上がるエドヴィンを、当のステラリオがまーまーと諌める。
「まぁ、ベルはほんっと真面目だからなぁ。逆の意味で心配になっちまうぐらいだから、問題ねぇかもだけど……」
ステラリオは次に、苦笑いしているアルヴェリスタへ顔を向けた。
「ミアは、アリウミって奴に美味しくいただかれてるかもしれんね」
「!?」
ガツン! とアルヴェリスタが膝でテーブルをカチ上げた。
うぐぐ……とうずくまる女顔の少年に、ステラリオは「オイオイオーイ、今更だなぁ」と追い討ちをかける。
「今のミアは奴隷なんだぜー? つまり命令を拒めない立場にいるんだ。例えばアルヴェ、ミアがお前の奴隷だったとしたらどうする? ほれ今、ヤラシイこと考えただろ。アリウミって奴は、それを実現できる立場にいるわけだ」
「リ、リューゴさんとミアちゃんは、そんなことしないよ……!」
「へへ、どうだかなー。俺としては、二人で夜のトレーニングにも励んでると予想するね。ミアって好奇心旺盛だからな。意外とノリノリで、自分から……」
「や、やめてよ!」
「いやいやいや。昼間は子供みたいな笑顔でお前とフツーに話してるミアだけど、夜はお前に見せることのない顔で、すっかりアリウミって奴のツボを押さえた、慣れた手つきで……。この『蒼雷鳥の休息』中にも、もう散々に教え込まれてるんだろーなぁ~」
「うわああああぁぁああ」
両耳を塞いで悶えるアルヴェリスタに満足したのか、ステラリオは両手を頭の後ろで組みながら「けどよぉ」と呟く。
「お前らは分かりやすいけど、ダイゴスは全然分からねぇよな~……」
ダイゴス・アケローン。
黙して語らぬ大男。クラスの皆に混ざって騒ぐのではなく、常に一歩引いた位置から見守っている保護者のような印象。年齢はクラスの中でも最年長。そのせいもあってか、どこか世捨て人のような達観した雰囲気を漂わせている。
「あいつはなんか……色恋沙汰とかそういうのとは無縁な、悟りを開いた達人って感じだよなぁ」
クラスメイトの大半が同意しそうなその意見に、
「そーか?」
しかし異論を唱えたのはエドヴィンだった。
「俺たちと同じだと思うぜ、アイツもよ」
「ダイゴスが? 俺たちと?」
ああと頷き、エドヴィンは眩しく遠い空を仰ぐ。
「表に出さねーだけでよ。強さに憧れて、その強さで惚れた女の一人でも守ってみてぇ、カッコつけてみてぇって。色気づいてくる歳になりゃ、誰だって思うだろーよ。ダイゴスのヤツは喋んねーから分かりづれーけどよ。でもアイツには、矛の家系っつー立場がある。けど同時に……夢を現実のモンにできる、力もある。板挟み、っつーのかね」
「そんなもんかねえ?」
「んなモンよ」
エドヴィンは自信ありげに頷いた。
「そういえばエドヴィンは、ダイゴスとも決闘したことあるんだっけか」
「……まーな」
『狂犬』という不名誉な渾名は、かつて誰彼構わず決闘を申し込んでいたことにも由来している。
学院内で決闘を承諾した相手のうち、これまでエドヴィンを打ち負かしたのは四人。マリッセラ、クレアリア、ダイゴス、流護だ。
「そういえばマリッセラにやられたときのエドヴィンには、悪いけど笑ったな。アホみてぇにブーン! って吹っ飛んで……ぶっ! ふはふふ、今思い出しても笑える……な、なんであんなに飛んだんだよ、エド……ヴ、うぶははははははっはーっははは、ひーっいひひひ!」
「わ、笑うんじゃねぇ!」
アルヴェリスタまでもが笑いを堪えていることに気付き、エドヴィンは顔を赤く染めた。
「あ、あの高飛車女には、いつか絶対ぇ借りを返すってんだよ!」
「あー……いやどうせ、全員に雪辱戦とか仕掛ける気なんだろ?」
目尻の涙を拭いながら言うステラリオに、エドヴィンは「いや」とだけ答えた。
意外な返答に、ステラリオとアルヴェリスタはきょとんとする。
「クレアは……正直、全く手が出ねーワケじゃねぇ。強ぇこた強ぇし、ヘタなゴロツキなんざよりエゲツなくて怖ぇ。が、何より俺でも『闘い』にはなる。一矢報いるコトぐれーは、できそうな気がする」
拳を握り、炎の少年は続ける。
「アリウミは……強ぇな。ありゃバケモンだよ。勝てる気は全然しねーが、また挑んでみたくなるっつーか、いつか一発ぐれーは当ててやるっつーか……いい目標になるな」
そうして。浮かんでいたエドヴィンの笑みが、少しだけ引きつった歪みを帯びた。
「ダイゴスは……ダメだ。俺は、二度とアイツとだけは闘りたくねーと思った。クレアは怖ぇ。アリウミは強ぇ。ダイゴスのヤツは……その両方なんだよ」
ドアが吹き飛んだ。
可動域を無視して斜め上に跳ねた木製の一枚扉は、派手な音を響かせて天井に激突する。
侵入者対策のために頑強な素材と術でこさえられているはずのそれは、機能を果たすことなくあっさりと損壊した。
「ッ――!?」
桜枝里の髪に手を伸ばしかけていたカーンダーラは、驚きのあまりソファから転げ落ちた。ガツンとテーブルに頭をぶつけながらも、見開いた目を部屋の入り口へと向ける。
「…………っ、!」
桜枝里も同じ。瞬き一つせずに、その姿を注視した。
派手に落下するドア。パラパラと降り注ぐ天井の破片。舞い上がる埃の靄。扉が消失し、四角く切り取られた空間――そこに立つ、大きな人影を。
「……あ」
その男は――ダイゴス・アケローンはいつもと同じ、不敵な笑みをたたえながら悠然と佇んでいた。
密室となっていた部屋に、新たな風が吹き込む。それだけで、桜枝里は悪夢から目覚めたように意識がはっきりしていくのを自覚した。
「大吾、さん……っ」
かすれた声でその愛称を呼べば、巨漢は応えるかのごとく細い眼差しを桜枝里へと向けた。その顔に浮かぶ笑みが、ほんのわずかに――しかし確かに、深みを増す。
駄目なのに。
助けられてしまったら、意味がないのに。
それでも、桜枝里の目尻に涙が滲んだ。
ただ、嬉しくて。
「きっ、貴様ーッ! 何のつもりかぁッ!」
穏やかでいられないのはカーンダーラだ。扉をぶち抜いて入ってきたダイゴスに、怒号を浴びせかける。
「何のつもり、とは……フ、これは異なことを」
巨漢は微塵も揺るがない。最初からそこに在る山のごとく、泰然自若。
「サエリ殿はおられるか――との私の問いに、貴殿は『来ておらぬ』とお答えになった。この状況、如何様に釈明されるおつもりか」
「……ッ、察しの悪い若造めが、見ての通りじゃろうが! 巫女の方から私に抱いてほしいと懇願してきたゆえ、相手をしてやっておったところよ!」
思わずカーンダーラを睨みつける桜枝里だが、当人は全く気付かない。必死の形相でダイゴスを睨めつけている。もはや頭の中は、保身で埋め尽くされているのだろう。
「ほう……そのお歳にして、私の兄も驚きの伊達男ぶり。敬服致します。しかし妙ですな。巫女の方から強請ってきたにしては、部屋に白雨蕩香の匂いが漂っておるようですが」
「ッ……ふん、ふ、雰囲気を出す為の趣向に……決まっておろうが!」
「左様か」
「さッ……左様で済むか、この痴れ者があっ! 『千年議会』の中核を成す私に対し、このような狼藉……覚悟は出来ておるのだろうな!」
己の地位を思い出してか、勢いを取り戻したカーンダーラが老人らしからぬ迫力で喝を飛ばすが――それでも、巨漢は不敵な笑みを崩さずに言う。
「では、もう一つ。『千年議会』の中核を成すカーンダーラ殿に、是非ともお尋ねしたい」
ダイゴスは、懐から取り出した『それ』を掲げてみせた。巨漢の手に収まれば小さく見えるその物体は、緑色の輝石。その上部と下部は小さな木製の板に挟まれ、石には細かな金の刺繍があしらわれている。全体的な形としては、砂時計に似ていた。一見して、アンティークか何かのように見える。
が、砂時計ではない。桜枝里は、それが何であるか知っていた。
(たしか、記録晶石……)
音を保存する性質があるという鉱石を加工して造られる道具。
つまり、音声を録音するための道具。
ダイゴスは無言のまま、記録晶石を指先で弾いた。きん、と涼やかに鳴った石が、封じられた音を紡ぎ出す。
『……これは公にしてはおらぬ事なのですが……彼奴を追放に処した後、その住家を洗ったところ……地下より、女子のものと思われる人骨が多数発見されております』
つい先刻の自分の声に、カーンダーラの顔がサッと青ざめた。
「初耳ですな。エンロカクの住家から、そのようなものが発見されとったとは。他の者は勿論、国長や我が兄ドゥエンですらも知らぬことでしょう。これが真実ならば、公表せんかった時点で大事。サエリ殿を脅すための虚言ならば、それはそれで権威を笠に着た妄言として見過ごせますまい」
「み、見過ごせんだと……? 貴様のような青二才が、私に向かって何のつもりだ!」
――そこで、ダイゴスは。
初めて、肩をかすかに震わせて笑った。巨大な山が振動するように。わずか、憐憫の情を滲ませた瞳で。
「何のつもり、とは……我が矛の系譜が、何を『生業』としておるか。お忘れかのう」
「……!」
カーンダーラの勢いはそこまでだった。その顔が恐怖に染まり、青ざめる。
『十三武家』が一つ、矛の家系。
そのアケローンと呼ばれる矛は、原則として主君に仇なす者へ対し振るわれる。が、役割はそれだけに止まらない。組織内部に生じた不穏分子や、不利益を齎す腐った果実を刈り取るためにもその刃を閃かせる――。
彼らが殺めるのは『外敵だけではない』。
そこへ思い至ったカーンダーラは、ただ喉の奥でヒッと呻くことしかできなかった。
へたり込んだ権力者には目もくれず、ダイゴスは桜枝里へと顔を向ける。
「……行くぞ、サエリ」
いつもと変わらぬ声で。
「えっ……、あ、う」
戸惑いながらも立ち上がろうとする桜枝里だったが、
「あ、れ? ……、あ、」
膝に、腰に力が入らない。……一連の騒動で、腰が抜けてしまったようだった。それだけではない。何だか、頭が……身体が重い。
「仕方のない奴じゃの」
いつも通りの笑みを浮かべたダイゴスは、ずんずんと部屋へ踏み入り、桜枝里の下へやってくる。
「大吾さ……、――っっ!?」
戸惑う少女を、ひょい、と軽く抱き上げた。
「ちょっ……なっ、なに……!」
「大人しくせんか」
「は……、ぅ」
突然抱えられて思わずじたばたする桜枝里だったが、低く……けれど優しい声に従う。
せめてダイゴスに見られないよう、少女は必死で顔を横に背けた。もう耳まで熱くなっているから、きっと意味はないのだけれど。
「では失礼する。カーンダーラ殿」
相手の顔も見ずに告げて、ダイゴスは桜枝里を抱えたまま部屋を後にした。
桜枝里を両腕に抱きかかえたダイゴスが、堂々とした足取りで廊下を行く。
二人分の重みを受けてか、板張りの床は、キシキシといつもより大きな軋みを響かせていた。巨漢の歩みに合わせて鳴るその音を聞きながら、桜枝里は顔を逸らしたまま呟く。
「だ、大吾さん。人に見られちゃうよ……」
「問題あるまい」
「もっ、問題あるよぉ……!」
「ならば、自力で歩けるか?」
「うっ……それは、」
「部屋まで運ぶぞ」
反論できず、少女は黙り込んだ。
――恥ずかしい。
いわゆる『お姫様抱っこ』だった。ダイゴスの太くたくましい腕が、桜枝里の背中や肩、膝裏に回されている。身体そのものも、ほぼ密着している。
恥ずかしいし、少しくすぐったい。……でも、嬉しい。
同じ男性に触れられるのであっても、おぞましさしか感じなかったカーンダーラとは正反対だった。
「じゃ、じゃあせめて、おんぶにして……」
それでも部屋までとなると、やはり恥ずかしい。互いの顔が見えるのは今、耐えられない。せめてとばかり、何とか食い下がる少女だった。
広い背中に、身を預けることしばし。
互いの顔が見えなくなったら、何となく会話もなくなってしまった。その沈黙が少し気まずくて、桜枝里は小さく呼びかける。
「……あ、あの……大吾さん。その……」
しかし、返事はない。
怒っているのだろうか。
「だい、大吾さんっ。その……!」
「……むう、どうした」
勇気を出して大きく呼べば、ハッとしたような巨漢の返答があった。
怒っている風ではない。何か、考えごとをしていたかのような反応だった。
「あの……私、その……」
「フ。しっかりしとるように見えて……存外に無防備な女子じゃの。頭の方は大丈夫か?」
「うえ、あ、頭って……そ、そこまで言わなくても……、ご、ごめんなさい」
「おっとすまん、そういう意味ではない。頭に靄が掛かったような……判然とせぬ、妙な心地に囚われておったのではないか」
「あ! それは……うん……」
そうなのだ。カーンダーラと話し始め、しばらく経った頃。気付けば、熱に浮かされたような――頭が働かないような、おかしな感覚に包まれていたのだ。ダイゴスが扉を破って乱入してきた直後、そこで夢から覚めたみたいな気持ちになった。
今はかなり楽になったが、まだ少し気分が悪い。
「部屋に、甘い香りが漂っとったろう。白雨蕩香……といっての。嗅いだ者の意識を、前後不覚の状態に陥らせる香じゃ。吸い込んでしばらく経つと、物事を深く考えられなくなる。相手の問いに対して、呆然としたまま肯定を返してしまう。睡眠不足や疲れとるような場合には、効果も倍増する。その昔、罪人の自白を強要する際や、反抗的な奴隷を躾けるために使われとった代物じゃ」
「……! そ、」
そう。初老の男の私室にしては似合わない、甘い匂いがすると思っていたのだ。
そしてまさに、睡眠不足かつ疲れ気味だった。
出された茶には警戒したが、それでは足りなかった……。
「そこそこの魂心力を宿しとる者や、事前に抗剤を飲んどる人間には効かんがの」
カーンダーラは後者だろう、とダイゴスは付け加えた。
「咎めるつもりではないが……密室で二人きりになってしもうたのは、少々迂闊――」
「……、だって!」
叫びが、巨漢の言葉を中断させた。
「だって、……このままじゃ……このままじゃ!」
桜枝里は言葉を溢れさせた。
エンロカクと当たれば、ダイゴスや流護が殺されてしまうかもしれないこと。カーンダーラならば、それを避けるよう手を尽くせるかもしれないこと……。
気付けば、桜枝里の声には鳴咽が混ざり始めていた。ダイゴスに救われて嬉しさこそ感じていたが、その問題は何も解決していないのだから。
黙って聞いていた巨漢は、
「……そうか」
と低く呟いた。
「気持ちは頂戴しよう。じゃが……いらぬ心配じゃ」
ゆっくりと、続ける。
「そもそも……ワシらは、お主の身柄を守るために手を尽くそうとしとるんじゃぞ。そのお主が、自らを擲ってどうする」
「だって……私……、大吾さんに何かあったら、いやだよぉ……!」
懇願するような鳴咽に、
「無い」
低く。重く。
そして――力強い、断言だった。
「えっ……」
涙に濡れた顔で、桜枝里は顔を上げる。
視界に入るは、自分を背負っている巨漢の後ろ姿。その表情が見えようはずもない。
しかしなぜか、それでも分かった。感じ取れた。前を向いている彼が、自信に満ちた顔つきをしているのだと。
「『何か』など、無い」
巨漢は言う。
「すまんな。こんなことなら、早々に言っとくべきだったの。――実はな、サエリ」
秘密を告白するように、間を置いて。
「ワシは……強いんじゃ。お主が思っとる以上にの。自分で言うのも何じゃが、この国で一等強いかもしれん」
続けて、言う。
「天轟闘宴で勝ち残ることなぞ、造作もない」
きっと。雪崎桜枝里を安心させるために、言う。
「ワシが優勝する。お主を、エンロカクになぞ渡しはせん」
「っ……、ふ……ぇ、っ」
限界だったのだろう。
「――――――っっ……!」
溢れたのは、声にならない号泣だった。
踏み鳴らす床板の音を掻き消し、男の背中を濡らし。しがみつく細腕に、力を込めて。少女は、子供のように泣きじゃくった。
「優勝すれば、一千万じゃ」
泣き止まぬ赤子をあやす優しさで、男は言う。
「それだけあらば……お主にどれだけ氷菓をたかられようとも、問題ないのう」
珍しく、苦笑いすら滲ませて。
「そうじゃ。望みの褒美もあるんじゃったな。サエリよ、何を望む?」
「えっ……、ぁふ……、でも、そんな……」
「言うてみい」
「でも、えっと……大吾さんの、賞金、なんだし……」
「言うたじゃろ。優勝なんぞ瑣末事にすぎん。ワシの望みなぞ、いつでもよい」
お主はどうしたい、と男は問う。
「……巫女を、やめたい」
少女は吐き出す。これまでずっと我慢していた内面を、溢れさせる。
「……もう、巫女なんてやめて……普通に、暮らしたい……。……うん、普通に……」
もう、元の世界へ帰ることができないのなら。
貧しくてもいい。祭り上げられるんじゃなくて。『無意味』な『修業』を繰り返すこともなくて。周りの誰かが、私のせいで危ない目に遭うこともない……ただ、普通の日常がほしい。
巫術が使えないから、きっと大変なんだと思う。それでも生きるために、意味のある毎日を送りたい。それでたまに、大吾さんが顔を出してくれたりしたら、嬉しい。……えーと。ま、毎日でも、いいよ。
たどたどしく、子供のように少女は語る。
「そうか」
男は答える。
「その望み。ワシが、叶えてみせよう」
らしくないよー、と少女が笑った。
そうかの、と男も笑った。
並び立つ大きな支柱が影を落とす、長い廊下の一角。
その闇と同化するように、男女へ鋭い視線を飛ばす男が一人。
叶わぬ夢、些細な願い。それらを語り合うことすら許さない、とでもいうような冷たい瞳。
男――ドゥエン・アケローンは、偶然目撃したその光景を――巫女を背負って歩く弟の姿を見やりながら、静かに独りごちる。
「……いけない子だ、ダイゴス」
細く錆びた寒々しい声が、誰の耳に届くこともなく風に乗って消えた。
矛の当主は踵を返し、静かに去っていく。物音ひとつ立てることなく。その思いを、口にすることなく。
――ダイゴス。
やはりお前には、才能が無い。




