18. 雷神
生徒たちは皆、思い思いの方向へと逃げていった。
ベルグレッテとミアはほうほうの体で学生棟へたどり着き、慌しく駆け込んだ。
「は、はぁ……、はぁっ……ミア、大丈夫?」
「んっ、うん。大丈夫。ありがと、ベルちゃん」
へたり込みながら二人で息を整え、わずかに無言の間が生まれる。
「ね。どう、しよう。いくらリューゴくんでも……!」
「……、……なにが、騎士だ」
ベルグレッテは――ぎり、と歯を食いしばった。
「なにが、みんなを守る騎士になりたい、よ! 私、こんなに無力で……っ、もう無理だった! 完全に、心が折れてた……! 私は、リューゴを見殺しにしただけじゃないのっ!」
騎士の口から、かすれた嗚咽が溢れ出す。器に収まりきらなくなった水が零れるように。
「リューゴも、なにが自分はガイセリウスの生まれ変わりよ! もっと……ましな嘘つきなさいよ! ばかぁ……うぅっ、……」
滴った雫が、床に染みを作っていく。
すっ、と。ミアが、そんな少女騎士の手を握った。
「……ベルちゃん」
「っ、ミア……?」
ミアはその瞳に、確かな決意を秘めて。
「あたし、ベルちゃんのこと大好き。でも、リューゴくんも好き。リューゴくんには、二回も助けられた。だから、今度はリューゴくんを――助けたい」
「ミ、ア……」
「ベルちゃんは?」
「……、うん。……、そうだね……。私も」
「うん。んじゃ、なんとか……なにができるかわからないけど、その……なんとかしたい!」
真摯なまでの思いを感じ取って。ベルグレッテは、小さく息を吸い込んだ。
「――っ、よしっ」
ごしごしと、手の甲で涙を拭う。
動け。
泣き崩れるなんて、やれることを全部やって、だめだったときでいい。
「行きましょ。『勇者さま』を助けに。ミア、こっち!」
二人は学生棟の階段を駆け上り、屋上へと出た。
四階相当の高みから中庭を見下ろせば、巨大なファーヴナールと小さな流護が攻防を繰り広げているのが見える。
信じられない動きだった。たった一人で、笑みすら浮かべながら、伝説の邪竜と渡り合っている。
「リューゴくん、すっご……ほんとにガイセリウスの生まれ変わりなんじゃ」
「……、」
ベルグレッテは気付いた。
一見、流護はファーヴナールと渡り合っているように見える。
しかし実際は、攻撃を辛うじて凌いでいるだけだ。当たり前だった。そもそもファーヴナールの巨体ゆえ、周囲の広大な範囲が敵の射程圏内となるのだ。手を振り回されるだけで近づけない。そのうえで、仮にもらえば一撃で終わる。
逆に、こちらの攻撃を当てたところで、どれだけの効果があるか疑わしい。
アレは本来、国家レベルの武力や『ペンタ』を動員しなければならない相手だ。カテゴリーSの怨魔とは、そういう規模の存在なのだ。
流護だって気付いていたはずだ。なのに、なぜ。
なぜ――自らを投げ打つような、本物の騎士みたいな真似ができるのか。
「ベルちゃん……どう、しよう? 気持ちだけで突っ走っちゃったけど……あんなすごい闘いに、どうやって……」
「……考えがあるわ。この位置にいる、私たちだからこそできること。ただ……成功の保証なんてどこにもない。それに……ミア、あなたの力がいる。それも、限界ギリギリまでの」
「あ! あたしの『ブリッツレーゲン』……?」
ベルグレッテのアクアストームに憧れて、ミアが考案したという攻撃術。
「うん。あなたの奥の手ね。ファーヴナールの硬い鱗の前には、水や氷、炎とか風はおそらく効果が薄い。けれど……雷なら、肉体の内部にまで浸透するはず」
戦闘には相性というものがある。
ミアがベルグレッテに憧れて身につけたそれは、今この局面において、ベルグレッテにできないことを成し遂げる可能性があった。
「で、でも……正直、この位置から当てるなんてあたしには……」
「ミアは、力を放つことだけに集中して。私が狙いを定めて、さらに魂心力を注ぎ込んで、威力を底上げする。……はっきり言って、当てられたとしても効くかどうか分からない。それに今のミアは血を失って、本当なら戦闘なんて絶対にさせたくない状態。全力の一撃を放つことには、リスクしかない。リターンの保証はない。……それでも、やれる?」
ミアは小さく息を吸い込んだ。一片の迷いすら見せず、首を縦に振る。
「――やる。やってみせる。サポートお願いね、ベルちゃん」
「ん」
笑顔で答えるベルグレッテ。
ミアは屋上の狙撃しやすい位置へ移動した。視線の先、遥か遠くには――攻防を繰り広げる竜と少年。
左腕を前に伸ばし、右腕を引き、弓矢を引き絞るような構えを取る。
「詠唱時間はだいたい四分ぐらい。とても実戦向きじゃないんだけどね……こんなふうに役に立つ日がくるとはなあ……なんてね」
軽い口調で言うミアが伸ばした左手は、震えていた。
その手に、ベルグレッテは優しく自分の手を重ねる。もう片方の手で、ミアの肩を抱く。
「――二人ならきっと大丈夫。私はミアを信じる。ミアも私を信じて」
「なっ、なにそれ。恋人みたいだなあ……もう」
「ん。そうだね。それぐらい相思相愛じゃなきゃ、きっと成功しない」
ぎゅっと。ベルグレッテはミアの手を強く握った。
「……っ、絶対失敗できないじゃんっ……じゃあ、いくよっ」
ミアが魂心力を練り始める。
二人を取り巻く空気が淡い光を帯び、ミアの属性たる青い電撃を散らし始めた。
「――発射五秒前からカウントいくんで、よろしくっ!」
「オーケイ!」
分かっていた。これは『戦闘』ではない。
例えるなら、ネコジャラシに飛びつくネコ。
なかなか捕まらない流護に、ファーヴナールがじゃれついているだけ。それだけだ。
烈風すら纏った巨大な爪を、流護は辛うじて躱し――返す刀で飛んできた左腕を、ほぼブリッジのような姿勢で仰け反って回避した。そのまま、自分の上を通過する腕を蹴り上げる。ファーヴナールはわずかに体勢を崩すが、反撃に転じられるような隙ではない。そもそも、蹴りを喰らったところで微塵も効いていないようだった。
「はっ……、はあっ……」
流護の息が上がり始めていた。
ファーヴナールも生き物だ。となれば、弱点はある。
――頭。
頭部は、全ての生き物の弱点だ。しかしその頭は常にもたげられ、三メートル近い高みにあった。
さらに。うまく頭に近づけたとして、どれだけ攻撃を叩き込めばいいのか。そもそも通用するのか。また弾かれるかもしれない。
アクションゲーム『アンチェ』で上手くいかないあまり「モンスターを直接殴らせろ」と何度も思った流護だったが、まさか本当にこんなド級モンスターを殴る羽目になるなど思いもしなかった。
ファーヴナールの右腕が唸りを上げて飛ぶ。
それを飛びのいて避けると、すぐさま左が薙ぎ払ってくる。それも躱した――瞬間、ファーヴナールがわずかに口を開けた。
「――っぐがああぁッ!」
両腕でガードするも、高速で吐き出された砲弾のような石が容赦なく肉を抉った。
痛みに悶える間もなく、ぬっと黒い影が差す。顔を上げると、大きく振りかぶったファーヴナールが腕を振り下ろす瞬間だった。
一切の加減も容赦もない一撃が叩きつけられ、大地が激震する。芝生が抉れ、茶色の地表をさらけ出す。
紙一重の差で逃れた流護は、派手に地面を転がった。痛みを堪えながらも反動で立ち上がり、ファーヴナールを睨む。
悠然と佇む巨大な暴君は、感情のない目で流護を見下ろしている。
いつでも。ファーヴナールがその気になった瞬間、終わる。
ケタが……違いすぎる。流護は、それを肌で感じ取った。
そこへ、ベルグレッテの通信の神詠術が響き渡る。
『リューゴっ! 合図したら全力で離れて!』
意味が分からず視線を巡らせると、学生棟の屋上に、凄まじい光が収束していた。光の中心にいるのは――ミアとベルグレッテ。
「なんっだ、ありゃ――」
思わず言葉にする流護へ、ファーヴナールの追撃が迫る。
避けるより逃げるという動きで、何とか攻撃を凌ぐ。
体力の消耗が激しい。もはや直撃を喰らうのは時間の問題だった。
周囲を青白く染めるほどの雷光が、二人を包んでいた。
「――いくよ五秒前! 四、三、」
『リューゴっ! 下がって!』
大きく飛びのく流護の姿を確認する。
「二!」
強大な力にブレるミアの手を、ベルグレッテがしっかりと押さえつける。
そこにベルグレッテは自分の魂心力を込め、精度と威力を倍加させる。
二人の魂心力が――
融け合い、
解け合い、
溶け合い、
密度を増してゆく。
「一っ!」
一際大きな光が、ミアの手へと集う。
「いっ! ――けええぇえぇぇーッッ!」
ミアのかざした手から、閃光が奔った。
それは、落雷。
神速をもって、まるで天罰のような轟雷がファーヴナールに叩き込まれた。
ファーヴナールの巨大な身体が痙攣したように跳ね、煙を吹き上げる。
「――やっ、た――、……っ」
力なくくずおれるミアを、ベルグレッテが抱きとめた。優しく座らせる。
ミアの額には珠のような汗がびっしりと浮かんでいて、呼吸も荒い。病み上がりの状態で撃たせるような技ではなかったのだ。下手をしたら命にかかわる。
「でもよくやってくれたわ、ミア。これで――」
しかしそこで、ベルグレッテは絶句する。
屋上から見下ろすそこには。
ぐるりと首を巡らせ、辺りを見渡す――平然とした、ファーヴナールの姿があった。