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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
6. 雪桜のスペクトラム
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179. 歪んだ陰謀

 きしきしと鳴る板張りの床を踏みしめて、流護たち二人は城の出入り口へと向かう。


「……絶対負けられないわね、天轟闘宴」

「はっはっ。俺が負けるとお思いか? ベル子さんや」

「ん……もちろん、心配は心配だけど……それ以上に、期待してる」

「ああ、任せろって」


 結局、桜枝里は何も話してくれなかった。

 その代わりのようにただ泣きじゃくり、「ありがとう」と言い続けた。誰かに呼び出しを受けていたということもあり、深く追及する時間もなかったのだが――察するには充分だったのだろう。ベルグレッテが推論を口にする。


「おそらく、あのエンロカクっていう男は……天轟闘宴を制して、サエリの身柄を要求するつもりなんだと思う」

「……まじか。でも桜枝里……『神域の巫女』って、レフェの中でも重要な立場の人間だろ? あんなクソ野郎にホイホイ引き渡すなんてこと、あり得るのか?」


 ミアの件で思い知らされている。この世界では、人の身柄の引き渡しが容易に行われてしまうという事実。流護も今さら、驚いたりはしない。

 しかし桜枝里は、レフェにおいて『神域の巫女』という崇められるべき存在だ。一般の平民ではない。


「……私も詳しくはないけど……だからこそ、じゃないかしら」

「だからこそ?」

「うん。巫女には……人柱や生贄としての意味合いもあると聞くわ。だから……」


 あのエンロカクという男に対する周囲の狼狽ぶりは、ただごとではなかった。

 そんな存在を『鎮める』ためであれば、桜枝里を人身御供として捧げるのも厭わない――ということなのか。


「言いかたは悪いけど……今、この国の巫女の神性というものは、ほとんど失われてしまっている。替えが、簡単にきいてしまう。それに……レフェの人たちは民族意識が強い。サエリは異邦人だから、きっと引き渡しに賛同する重鎮も少なくないんだと思う」


 だから容易に、生贄とされてしまう。


「ただ、サエリは過去にないほどの人気だっていうから……本来であれば、国長も手放したがらないはずなの」


 それでもなお、桜枝里が引き渡されてしまう可能性は高い。

 あのエンロカクと呼ばれる男の実力。『何でも願いを叶える』という、天轟闘宴における褒賞の性質。そしておそらく、『千年議会』内に桜枝里を快く思っていない者がおり、しかもその人物の発言力が強い。

 こういった要素が絡み合い、桜枝里にとって不利な状況を作り出している。

 ベルグレッテはそう推測した。


「……『神域の巫女』、か」


 現代日本からやってきた、ただの女子高生でしかない雪崎桜枝里。

 重すぎる責務のはずだ。逃げ出したいと思ってもおかしくないはずだ。

 しかし彼女には、選択肢が存在しない。

 巫女として担ぎ上げられなければ、このグリムクロウズで生きていくことができない。生贄として捧げられても、抗うことすらできはしない――。


「……んだよ、桜枝里め。俺にエンロカクの野郎を倒してくれ、って言えばいいじゃねーか」

「だからこそ、じゃない?」

「どういう意味だ?」

「そう言ったなら、きっとリューゴは助けようとしてくれるから。そうしてリューゴとエンロカクが衝突したなら、リューゴが無事では済まないかもしれないから」


 ちぇっ、と流護は軽く舌を打った。


「そんじゃ桜枝里の奴には、よーく見ててもらわねえとな。あんな黒々とした極太一本糞野郎なんざ、俺の敵じゃねぇってことをよ」


 これは決まった、好感度うなぎ上りですわと密かに思う流護だったが、ベルグレッテは苦笑いを返すのみだった。

 ……うん。あれだ。単語のチョイスがよろしくなかったかもしれない。


「つかそもそも、あの黒デクは何者なんだ? 大騒ぎだったよな」

「うーん……」


 あの周囲の反応からして、城に常在している人間ではないのだろう。『ペンタ』でもないはずだ。この国には二人しかおらず、そのどちらも戦闘術に長けた者ではないと聞いている。となれば、レフェの特殊な部隊であるという『十三武家』――

 

「……ん? あれは……」


 そんなことを考えていたところで、長い廊下の向こうから流護たちのほうへやってくる大柄な人物が一人。


「む……お主ら、来とったのか」


 ダイゴス・アケローン。

 民族衣装ではなく、動きやすそうな稽古着姿だった。手にした織物で汗を拭きながらやってくる。


「おお、ダイゴス先生。ああ、そういや天轟闘宴に備えて修練場に行ってるとかって話だったっけ」

「お主ら、レインディールへ帰ったのではなかったか」

「えーと、それが……実は俺、天轟闘宴に出ることになって」

「――ほう。国の意向か?」


 ダイゴスがいつもの不敵な笑みを見せるが、


「……いや。俺個人の判断だよ」

「……良いのか? 兵士としてはまずかろう」

「う、そうなんだけどさ」


 経緯を説明した。

 レフェまでの道のりを共にしたミョールという女性が、魔闘術士メイガスに襲われたこと。彼女の治療に、少なくない費用がかかること。しかも早急に治療しなければ、後遺症を残してしまう可能性があること。しかし病院側としては、治療に必要な人員をすぐには集められない状態であること……。


「だから俺は、優勝してまず一千万をゲットする。で、レフェにはミョールをすぐ治療できるよう、医者の手配を要求する。国が動けばできるよな?」

「……、ああ。可能じゃろうが……」


 迷わず宣言した流護に、ダイゴスは珍しく息をのんだ様子をみせた。


「……しかし……如何なお主とはいえ、容易に勝ち抜けるものではないぞ」

「…………だろうな」


 魔闘術士メイガスだろうとディノだろうとエンロカクだろうと、倒してのける自信はある。

 しかしそれは、万全の状態、一対一であればの話だ。

 この武祭はバトルロイヤル。仮にディノを倒せても、満身創痍の状態でエンロカクと遭遇してしまったら。もしくはその逆でも同じ。

 いつどこで、誰と遭遇するか分からない。運も大きくかかわってくるだろう。優勝が並大抵のことでないのは理解できている。

 ――それでも。


「俺さ、ミアのときのこと……今でも後悔してるんだ」

「……どういう意味じゃ?」

「あの時……何でもっと、なりふり構わず助けてやれなかったのかって。結果として、ミアを連れ戻せたからまだいい。でも結局、ミアは奴隷身分になっちまったし……あいつは未だに、捕まってた時のトラウマを引きずっちまってる」


 ミアがさらわれたと分かった時点で敵の本拠地へ乗り込み、叩き潰すことだってきっとできた。事実、あの件でロック博士に相談した際、「キミならそれも可能かもしれない」と言われている。

 実力的に考えるのなら、その場で速やかに全ての敵を『始末』し、一切の情報を漏らさず片付けることすらできたかもしれない。

 けれど、できなかった。

 何も、できなかった。


「もう、後悔はしたくねえ。俺には……力があるんだから」

「――」


 ダイゴスがわずかに目を見張った――ように見えた。細い糸目をしているので、はっきりとは分からなかったが。


「……力がある、か」


 何やら噛み締めるように、巨漢はその言葉をなぞる。


「……ダイゴス?」

「いや。ところでお主ら、もう帰るのか? まだ昼前じゃが」

「ん、ああ……」


 桜枝里が呼び出されたため、キリのいいところで帰ることにしたと告げる。

 すると、ダイゴスは眉をひそめて訝しげな顔を見せた。


「……呼び出された? 誰にじゃったか、聞いとるか」

「えーと、誰だったっけ」

「たしか……カーンダーラ氏って言ってたはず」


 さすがの記憶力でベルグレッテが答えると、


「……そうか」


 巨漢はやや間を置いて、小さく頷いた。


「なんか桜枝里の苦手っぽい相手だとかで……すんげー嫌そうだったけど、大丈夫なのか? 無理してたみたいでさ、ちょっと心配なんだよな。様子見てやれないか?」


 彼女が直前まで泣きじゃくっていたこともあり、流護としてはかなり後ろ髪を引かれる思いで渋々帰ろうとしている感も強いのだ。


「……カーンダーラ殿は『千年議会』の一人じゃからの。サエリもお転婆じゃが、それでも巫女には違いない。そういった上の人間と接することも仕事の一つじゃ。さて……ワシはもう行くぞ」

「あ、おう……」


 しかしダイゴスはどこか会話を打ち切るように、足早に去っていく。

 桜枝里だけでなく、この男も多忙なのだろう。その後ろ姿を見つめながら、流護はぽつりと呟いていた。


「ダイゴスは……桜枝里が引き渡されるかもしれないってこと、知ってんのかな?」

「……ダイゴスの立場を考えたなら、おそらくは」


 ベルグレッテが目を伏せて答える。


「……、桜枝里ってさ、その……あれだよな。多分、ダイゴスのこと……」

「ん……私も、そう思う」


 鈍いと評される流護だが、桜枝里に関しては、エドヴィンがベルグレッテに好意を抱いているのと同程度には分かりやすい。つまりモロバレだ。


(……くそっ……何とかしてやれねぇのかよ、ダイゴス)


 自分を棚に上げた勝手な言いようだと分かっていても、流護はそう思わずにいられなかった。


 例えば今回、流護がエンロカクを倒したとする。

 桜枝里があの男に引き渡されることは防げるかもしれないが、それは一時的なものにすぎない。また次に何かあったとき、彼女は同じように生贄として選ばれるだろう。

 今回の天轟闘宴で流護が優勝し、「桜枝里を『神域の巫女』の職務から解放しろ」と要求することも可能かもしれない。

 が、ミョールのことがある。できるだけ早く、彼女に治療を受けさせなければならない。そちらを投げ出すこともできない。

 何でも願いを叶えてもらえるという、とんでもない褒賞。

 ダメ元でゴンダーにも確認したが、やはり『叶えられる要望を増やしてくれ』といったものは受けつけられないとのこと。つまり、ミョールの治療と桜枝里の解放は両立できない。


 そして一方で、今の流護ならダイゴスの立ち位置も理解できる。ダイゴス・アケローンは国長直下の『十三武家』に名を連ねる身。立場というものがある。おいそれとは動けないのだ。


「…………、」


 ミアのときのことを今でも後悔している。だから、今度こそ自分にできる全力を尽くす。

 しかし、結局のところ。

 桜枝里の件に関してまで、有海流護では手が回らない。ダイゴスが動くことも難しい。


(……でも、いざとなったら……)


 ある、とんでもない考えが浮かぶ。

 あのときの二の舞にはならない。させない。

 だが、あまりに現実的でない話だ。果たしてそんなことが可能なのかと、自分でも思ってしまう。それでも――


 流護はもどかしい気持ちで、巨漢が消えていった廊下の闇を見つめることしかできなかった。






「失礼、します……」


 恐る恐る扉を開けると、紙束や本で雑然とした埃っぽい室内が目に入った。初老の男の私室にしては、少し甘ったるいような匂いが鼻をつく。

 部屋の中央にあるソファへ腰掛けていた男が、立ち上がって桜枝里を迎えた。禿げ上がった頭と樽のような体型が特徴的な、初老の男。レフェを導く為政者たちの頂点、『千年議会』が一角、カーンダーラ・ザッガ。


「これはこれはサエリ様。お呼び立てして申し訳ない」


 ささ、と奥へ招き入れようとするカーンダーラだが、桜枝里は扉を背に動かない。


 あれは、巫女になってすぐのことだ。

 丁寧な口調ではあったが、自分の望む通りにすれば何でも与えてやるなどと言って、この老人が言い寄ってきたのだ。首を縦に振って当然だろう、とでも言いたげな態度で。

 正直、雪崎桜枝里としては最も嫌いなタイプの人間である。

 毅然と断ったが、プライドを傷つけられたのだろうか。それからも数度、この男は同じように声をかけてきたのだった。


(……、)


 その都度、うんざりとしつつも丁寧に拒絶し続け――さすがに諦めたかと思っていたところでの、この呼び出し。

 私室に直接呼ばれたのは、さすがにこれが初めてだった。

 巫女としての職務にかかわる重要な話であるなら別だが、そうでないなら、もう我慢も限界だ。ただでさえ天轟闘宴の……エンロカクのことで頭を悩ませているのに、いい加減うんざりする。


 カーンダーラも立場のある人物だ。

 相手の面子も考え、あまり大事おおごとにするまいと考えていたが……。


「さ、そのような場所に立っておることはありますまい。どうぞ、お入り下され」


 警戒するのは当然だ。正直、できる限り部屋になど入りたくない。


「あの、お話とはなんでしょうか……?」

「少々長くなりますゆえ、どうぞお掛け下され」

「……、」


 広い室内には、カーンダーラの私兵の姿はない。外にもいなかった。

 二人きりだ。

 例えカーンダーラが強引な手段に訴えることがあったとしても、この男自身は巫術もほとんど扱えないひ弱な老人。武術の心得がある桜枝里ならば、身を守ることはできる。

 何より、嫌がる巫女を無理矢理どうにかするようなことがあれば、カーンダーラも処罰を受けることになるはず。

 話をするだけなら、きっと大丈夫。そう判断した。


「……分かりました。では……」


 警戒も露わに、桜枝里は勧められたソファへ腰を下ろす。さすがはレフェの重鎮が部屋に置いている家具というべきなのか、驚くほど座り心地のいい弾力を返してきた。


「宜しければ、如何かな」

「あ、いえ……このあと、昼食にしますので……」


 出された赤緑茶をやんわりと断った。何が入っているか分かったものではない。


「はは……警戒されるのも、無理からぬ事。面目もない。私は、どうかしておったのです」


 老人は懺悔するように訥々と語る。


「妻に先立たれて早十余年。サエリ様が亡き妻に似ておった事もあり、あのような愚言を……」

「はあ……」


 そう言われても、桜枝里の猜疑心は晴れなかった。

 そもそもこのカーンダーラという男、『千年議会』の中でも最古参の重鎮であり、普段はその権威を笠に着ての高圧的な発言が目立つ。

 目上の人間や自分に対してのみ媚びへつらった顔を見せるこの男が、桜枝里はどうにも苦手だった。

 エンロカクの登場以来、疲労や睡眠不足も重なっている。早く用件を終わらせ退室したいという思いもあり、自ら話を切り出した。


「あの、お話というのは……」

「……そうでしたな。実は……あの、エンロカクの奴めについての事なのです」

「!」


 まさしくその名前を聞いて、桜枝里の身体は反射的に硬直した。


「十年前……彼奴が不始末を起こし、粛清される運びになった事はご存知かな」

「……はい。ドゥエンさんから、少し」

「私は、その時の部隊に同行しておったのです」


 桜枝里は無言でこくりと頷く。その話は耳にしている。

 いざエンロカクを前にした部隊は戦慄し、粛清どころか命のやり取りになることを覚悟した。同行していたカーンダーラはその場で処置の変更を決定。交渉の結果、エンロカクを国外追放処分とした。

 この判断には賛否が大きく別れたという。


「愚かな決断だったと申す者もおります。……が、それは彼奴を前にしておらぬからこそ言える戯言」


 自分は間違っていない、という言い訳じみた主張が漏れ出ている発言。

 ……と、以前の桜枝里なら思ったかもしれない。

 しかし実際にエンロカクと対峙した今であれば、その判断はこの上なく正しかったのではないかとすら感じてしまう。カーンダーラに対する、桜枝里の個人的な嫌悪感を抜きにしてすらも。


「彼奴は……人ではない。……未だに、悪夢を見ます。あの男と対峙したときの、あの殺気……、生きた心地がしませんでした」


 膝元へ視線を落とした老人の肩は、かすかに震えていた。演技には見えない。常に人を見下した位置に立ちたがるこの男が、取り繕えないほどの恐怖を味わったというのだろうか。


「エンロカクの真に恐ろしきは……その凶暴性、残虐性にあります」


 カーンダーラは苦悶を吐き出すように語った。

 桜枝里があの男の手へ落ちたなら、ただ慰みものにされるだけでは済まないと。あらゆる苦痛を受け、やがては嬲り殺しにされてしまうだろう――と。


「……っ」


 息をのめば、閉め切られた室内に漂う甘い香りが鼻をついた。

 青ざめる桜枝里に、カーンダーラは古の伝承を語る賢者めいた口調で告げる。



「……これは公にしてはおらぬ事なのですが……彼奴を追放に処した後、その住家を洗ったところ……地下より、女子おなごのものと思われる人骨が多数発見されております」



「――、――……」


 桜枝里は眩暈を起こしそうになった。

 積み重なったストレスや、座り心地のいいソファのせいもあるのだろうか。本気で、意識を飛ばしかけた。


「天轟闘宴は、死者が出る事も珍しくない武祭。その上で今の彼奴は、『十三武家』の人間ではない。一切の遠慮などせぬでしょう。此度の宴は、過去に類をみない凄惨な催しとなるでしょうな」


 呆然となる桜枝里に、カーンダーラは畳みかけるような饒舌さでまくし立てる。


「彼奴を抑えるため、『十三武家』の若手が出場する手筈になってはおりますが……率直に申せば、此度の国長の判断は甘いと言わざるを得ませぬ」


 そして眉間に皺を寄せ、老人は深刻げな声音で言った。桜枝里にとって、決定的な何かが崩れ落ちる一言を。


「出場する若手らは……間違いなく、エンロカクによって殺められる事になるでしょう」


 ……殺される。

 私が。

 そして……出場する、『十三武家』の若手が。

 ……誰が出るんだっけ。……ああ、そうだ。

 その顔が、浮かぶ。

 いつも大らかな笑みを浮かべていた、その顔が。寡黙であまり喋りたがらないけれど、包み込んでくれるみたいな温かみのある、その人物が。


(…………大吾、さん……)


 いや、それだけではない。

 流護もだ。彼も出場すると言っていた。エンロカクを倒すと、そう言ってくれていた。となれば当然――


「どう、して」


 どうしてこんなことになるのか。

 私が、大吾さんが、流護くんが。何をしたっていうのか。

 奈落の底へ突き落とされた心境の桜枝里に、


「……策はあるのです」


 渋い表情のまま、カーンダーラは希望の糸を垂らす。


「確かに彼奴と正面からぶつかれば、一溜まりもありませぬ。……が、天轟闘宴まで数日あります。様々な形で、揺さぶりを仕掛けることは出来ましょう」


 そこは『千年議会』の一角。人脈や私兵を使い、間接的にエンロカクを追い込む。あの男が天轟闘宴当日までにコンディションを整えられないよう、妨害工作を仕掛ける程度ならできる。

 その結果、武祭本番でエンロカクが負傷するようなことがあればそれで成功。仮に、あの男がそのまま優勝してしまっても問題はない。

 手負いのエンロカクが相手ならば、まず間違いなく全会一致で抹殺指令が下りる。レフェ最強のドゥエン・アケローンを、エンロカクに差し向けることができる――。

 カーンダーラは熱っぽくそう語った。


「……で、でもそれだと、だい――出場する、『十三武家』の人たちは……」


 そう。その方法で助かるのは桜枝里だけだ。

 出場する『十三武家』の若手たちは、結局エンロカクと闘うことになってしまう。流護も同じだ。


「何、そこは若輩者といえど『十三武家』。万全の状態でないエンロカクが相手ならば、殺されるような事は有り得ませぬ」


 断じて、カーンダーラは饒舌に続ける。


「されど……彼奴は危険な相手。搦め手とはいえ、手を出した結果……私も報復を受けるやもしれませぬ。私は、恐ろしい。あの男が。人の姿をした、あの怪物が」


 かぶりを振って、老貴族はその身を震わせた。


「……どうされますか、サエリ様」

「え?」


 いきなり尋ねられ、桜枝里はきょとんとする。


「このままエンロカクめに大人しく引き渡されるか、それとも反撃へと転じるか」

「え、いや……それは……」


 そんなの、決まっている。考えるまでもない。

 なぜ、そんな当たり前のことを訊いてくるのか。


「その……何とかなる手段があるなら……お願いしたい、です」

「……承りました。……して、先程も申し上げましたが……これは私としても、非常に危険な橋を渡る事となるのですよ」


 そうして、男は言う。


「率直に申し上げて……相応の見返りを、頂きたく思うのです」


 ――ああ。そういうことか。


 ここへ至って、桜枝里はようやく理解した。

 だからだろうか、さりげないカーンダーラの視線に気付く。

 紺袴から露わになった太ももや、白小袖の胸元へ送られてくる、ねばつくような男の視線に気付く。


 ――何が、「私はどうかしていた」だ。孫ほども歳の離れた相手を、そんな目で見て。


「おお、誤解なさらぬよう。誠意さえ感じられれば、私は何であろうと構わぬのです。サエリ様の決意……お気持ちを感じられるのであれば、それで」


 白々しい物言いに、桜枝里は思わず叫びかけた。

 知っているくせに。

 何もない。雪崎桜枝里には、何もない。

 金も、人脈も、巫術も、自由すらも。

 まして『千年議会』というこの国の最上位に君臨する者へ支払える対価など、あろうはずもない。

 ――この、女としての身体以外には。


「……、……っ」


 唇を噛む。

 私は、何なんだろう。

 何もできなくて。それどころか、そんな私を巡って、人が殺されようとしている。

 大吾さんや流護くんが……私が、殺されてしまうかもしれない。そんなの、絶対にいやだ。死んでほしくない。死にたくない。

 でも。私が……少し、我慢すれば。気持ち悪いのを、少しだけ、頑張って我慢すれば。それで、今の暮らしは続けられる。大吾さんが、流護くんが……私が。助かる。

 あの二人は命を懸けようとしてくれているのだ。自分だけ何も差し出さずに済む、なんて話はありえないのかもしれない。

 だから。考える――余地なんて、ない――?


 悪夢に次ぐ悪夢。感覚が麻痺してしまったのだろうか。

 頭が、ぼうっとしてきた。


 命が危険に晒されるという、故郷では経験することのなかった精神的負荷。そこからくる疲労、睡眠不足。そんな地獄から解放されたいという思い……。


「……どうですかな。サエリ様が少し……ほんの少し、私の我侭を――願いを聞いて下さるのであれば、その対価として私は全力を尽くしましょう」


 ――つまり? 何がどうなるんだっけ。


「貴女様の決意ひとつで……ダイゴスは救われるのですよ」


 そうだ。大吾さんを、絶対に失いたくない。


「まさか……彼ら若手を――ダイゴスを犠牲にしても良い、などとは言いませぬな?」


 当たり前だ。言わない。そんなの、絶対にいやだ。


「悩む余地もなき事と思いますが。さあ……私の言う事を、聞いて下さいますな……?」

「で、も……」


 考えれば考えるほど――何が正しくて何が悪いのか、よく分からなくなってきた。


「貴女は、何も案ずる必要なぞないのです。ただ肯定すればそれで良い。私の言葉に頷けば、それで良い」


 ……なにが? なんの、話だっけ。


「……、」

「共に力を合わせ、エンロカクを打ち滅ぼそうではありませんか」


 それは、賛成だ。


「では……協力して頂けますな? エンロカクを倒すため……ダイゴスを救うために、私の言う事をお聞きなされ」


 ……この人のことは嫌いだけど。えらい人なんだし、権力もあるんだし、なんとかできるんだよね……?


「……、…………い」

「む? 何ですかな?」


 もはや好色な笑みを隠しもしないカーンダーラが、耳に手を当てて聞き返す。


「……は、い……」


 何かがすっぽ抜けた感覚。よく読まず、悪徳業者の契約書にサインをしてしまったみたいな。 

 雪崎桜枝里は、何か大事なものを取り落とした心地になった。それでいて、そうしなければならない衝動に駆られていた。

 部屋に充満しているはずの甘い匂いは、もう分からなくなっていた。



「……分かり……ました。だから……とにかく、みんなを、助けてくださいっ……」



 男がごくりと生唾を飲み込む音が、桜枝里の耳まで届く。


 ――何が「分かりました」なのか、それが自分でよく分からなかった。

 ただ。ダイゴスや流護を何とかしなければという思いだけが。

 覚悟が決まらないまま、勝手に話が進んでしまっている感覚。でも……二人を助けるには、これしか――


「……サエリ様のお気持ち、しかとこの胸に刻みましたぞ。いやはや、己を犠牲にしてまで皆を想う精神……巫女の鑑と申せましょう」


 もっともらしく頷き、カーンダーラが立ち上がる。鼻息荒く、テーブルを迂回して桜枝里の隣へと腰掛けた。


「では、少々楽しませて頂きますか……。くふふ、少々ご気分が優れないようですな? そのように呆けられて……どれ、私が介抱して差し上げますとも」


 短く肥え太ったたるんだ腕が、不恰好な芋虫のような指が、桜枝里の肩へと伸ばされる――


 ――瞬間、ハッとして少女はその身を竦ませる。一瞬、こんなことになっている理由が分からなくなりかけた。


「ま、待ってくださいっ……」

「む……何ですかな」

「えっと……あれ、本当に……その、みんなを助けて、もらえるんですよね……?」

「勿論ですとも。私とて、『千年議会』に身を置く者。無為に『十三武家』の若手らを失わせる事なぞ、したくはありませぬ」

「……、」


 沈黙した桜枝里へ、カーンダーラは再び手を――


「あ、あの……!」

「何ですかな」


 苛立たしげに老人は口元を歪める。


「ええと……、あの、そうだ、明るいので、その……」


 真っ昼間の昼飯時だ。部屋の中には、陽射し――インベレヌスの恵みが、これでもかと降り注いでいる。


「これはこれは……気が利かずに申し訳ない」


 カーンダーラが、もどかしいとばかりに左腕を横一文字に振るう。その動きに従って、隅で束ねられていた黒いカーテンがシャーッと飛び出した。窓が覆い隠され、にわかな薄闇が部屋を包み込む。

 この男の扱う属性は風。このように微風を操って身体を動かそうとしないため、醜く肥え太るのだと揶揄されている。


「……っ」


 少しでも矛先を逸らそうとした桜枝里だが、さしたる効果はなかった。


「では……、ほほっ」


 無遠慮に伸びたカーンダーラのむくんだ手が、桜枝里の背に流れる長い黒髪を掴み取る。


「おお……本当に……美しい黒髪をしておられる。まるで、上質な絹のようじゃ……くふっ」


 満足げに目を細め、髪の手触りを楽しむカーンダーラ。


「……、っ――!」


 反射的に悪寒が走った桜枝里は、思わず身体を硬直させた。


「ほほ、そのように固くならずとも宜しいですぞ。手荒な真似は致しませぬ。衣を脱げ、などとも申しませぬ。――巫女装束のままの方が、そそりますからのぉ」


 そこで、ぼやけかけていた思考がにわかに甦ってくる。相反する思考が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。


 あ……れ? 私、これから……何を……?

 そうだ。大吾さんたちを救うために。最低だ。最悪だ。気持ち悪い。嫌だ。やっぱり嫌だ。初めてがこんな男だなんて、冗談じゃない。

 我慢しなきゃ。でも――これで、本当にいいの?


(……でも、そう、しな……きゃ)


 でも、我慢しなきゃ。そうしなきゃ、大吾さんが、流護くんが、私が。

 浮かびかけた当たり前な疑問の数々が、唐突に噴出してきた負の羅列に押し潰されるみたいに沈みかけ――


 瞬間。

 こんこんと、部屋の扉が叩かれた。


「――――!」

「チッ」


 カーンダーラが舌を打つ。桜枝里は弾かれたように扉へ顔を向ける。

 ノックの音。誰か来たのだ。


「誰じゃ!」


 苛立ちを隠しもしないカーンダーラの声が飛ぶ。

 扉の向こうで答えたのは、


「失礼、カーンダーラ殿。ダイゴス・アケローンです」


 桜枝里の耳になじんだ、低く温かみのある声だった。

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