176. そして表明する
宿の一室でベッドに寝転びながら、流護は天井を眺める。
ミョールのいない夕食は、ひどく静かなものだった。
遠い異国の地で、ベルグレッテと二人きりのディナー。そう言い換えれば心も躍るイベントのはずだが、実際は互いに言葉も少なく、葬式さながらの沈んだ時間となってしまった。
ゴンダーが「ミョール殿は一先ず無事だったのだ、命はな。そう沈むな」と特別に創作料理を振る舞ってくれたのだが、味もよく覚えていない。
(ひとまず、命は無事……か……)
そう。いつも、唐突に思い知らされる。
ここは――このグリムクロウズは、生あるだけでも幸運な世界。
流護たちは、この地での任務を『無事』終えた。明日になったら桜枝里やミョールのところへ顔を出して、挨拶の一つでもして帰るのが最善だろう。
兵として赴いた以上、『余計なこと』に首を突っ込んで、任務に支障をきたすことがあってはならない。期日は星遼の月、二十一日。今日は十七日の夜。移動に約三日かかってしまうのだから、もう『寄り道』をしている時間はないのだ。
何か事情のありそうな桜枝里や、理不尽な目に遭ったミョールを残して。レインディールへ戻り、「任務は無事、滞りなく終了しました」と報告する。
『二人は、仕事でこの国に来たんでしょ? で、その仕事はもう終わってる。だったら、早く帰らなきゃ。心配してくれるのは、嬉しいけど……私は、大丈夫だから』
無理矢理に作っていた、桜枝里のこわばった笑顔。
『リューゴくんとベルグレッテちゃん、それにゴンダーさん。こんなふうに、友達ができて。どんな結果になろうと、帰ったら妹に自慢するね!』
心から嬉しそうだった、ミョールの笑顔。
『何を燻ってんのか知らねェが……その腑抜けたツラを何とかしな』
失望を露わにした、ディノの冷めた瞳。
(……くっだらねえ。何を……グダグダ考える必要があんだよ)
身を起こした流護の瞳に、決意の光が満ちる。
と同時、部屋の扉がノックされた。
「あの……ベルグレッテだけど……」
「おう、ベル子か。入ってくれ」
言いに行く手間が省けた、と少年は彼女を招き入れる。
恐る恐るといった様子で入室してくる少女騎士だったが、流護の瞳を見てハッと息をのんでいた。察した、のかもしれない。
備え付けの椅子にちょこんと腰掛けるベルグレッテ。もちろん用件があって来たのだろうが、彼女は何も言わない。流護の言葉を待っている。
「あのさ、ベル子」
だから、少年は言う。彼女が予想しているだろう、その言葉を。
「俺、天轟闘宴に出るよ」
わずかな沈黙。
ベルグレッテが複雑そうな笑顔を見せる。
「ん……そう言うだろうなって、思った」
ダメだ、と頭ごなしに否定してくることはない。きっと、彼女も流護と同じ気持ちを抱いているからだ。
「ベル子。あのテロの日の夜……俺が遊撃兵になるって決めた日、どうしてなろうと思ったのか、って訊いてきたよな」
アルディア王との対話を経て、遊撃兵への任命が確定したあの夜。不安そうだったベルグレッテの顔を思い出す。
「俺、ミアの件が今でも気に掛かっててさ。もっとこう、なりふり構わず助けてやれなかったのか、って」
己の無力さを痛感した事件だった。有海流護など、ただ腕っ節が強いだけの子供にすぎないと思い知らされた出来事だった。
結果としてミアを連れ戻すことはできたものの、彼女は奴隷という身分に落ち、家族との再会も叶わなくなってしまっている。
「だから……力が、欲しかった。単純な戦闘の強さだけじゃない。いや、それで何とかなるならそれでもいいんだけど。立場っていうか、権利や権力っていうか……」
また身近な誰かが危険に晒されたとき、解決できるような『力』が。
「遊撃兵をやってみよう、って思った理由の一つが……それなんだ」
しかし今、その立場が……『力』が、逆に足枷となってしまっている。
以前の流護なら、なりふり構わず魔闘術士のところへ乗り込んでいただろう。この国の兵たちが外国人同士の揉め事に介入したがらないというなら、尚更都合がいい。全員ぶちのめして、それで終わりだ。ミアの時と違い、阻むものは何もない。
しかし今の流護は、一国の兵士なのだ。
病院でゴンダーに諭された通り、軽はずみな行動は許されない。流護の一挙一動には、レインディールという国の名前がついて回ることになる。
どんな正当な理由があったにせよ、任務と無関係な騒ぎを引き起こした結果、それが美談になるとは限らない。噂や風説は、形を変えて伝わっていくものだ。ファーヴナールを討伐した流護の噂が、実際とはかけ離れた内容になってしまっているように。
この件も同じ。無事に魔闘術士を叩けたとしても、話が歪められ、流護を遊撃兵に任命したアルディア王はおろか、国の名前にまで傷をつける事態となってしまう恐れもある。
特に流護の場合、普通の兵士ではない。
神詠術が使えないながらも数々の実績を引っ下げて、アルディア王直々に任命された身。よくも悪くも目立ってしまう。注目されてしまう。
任務とは無関係なことにかかわり、その結果として本来の責務に支障が出たのなら、一部の者たちからは批判の声も上がるだろう。そもそも今でも流護が遊撃兵となったことに対し、全員が諸手を挙げて賛同している訳ではない。
――だから。
「王様はさ、全部を取れないから小を切り捨てる……んだよな」
かつて、ロック博士から聞いた話だ。
「その気持ち、今ならすげえ分かるよ。任務はちゃんと達成して帰りたい。でも、ミョールだって放っとけない。桜枝里の様子も気になってる。でも、それら全部を取ることはできないんだよな」
任務を優先するなら、遅くとも明日中にはレフェを発たなければならない。
ミョールたちに付き合うなら、しばらくここに留まる必要がある。そうなれば、期日までの帰還はできなくなってしまう。
ベルグレッテの目を見て、訴えるように流護は言う。
「俺は……天轟闘宴に出る。で、優勝する。ブッチギリで優勝してやる。公の舞台で堂々と魔闘術士をぶちのめせるし、一千万も入れば、ミョールと妹さんの治療費を合わせても充分だ」
「……、でも、お金があっても、術士が……」
そう。看護師の話では、高位術士の手配が難しいとのことだった。しかし、
「そこで、国が何でも要望を聞いてくれるって話だよ。俺は、医師の手配を要求する」
ベルグレッテがハッとした。いつもの彼女なら思いついただろうに、やはり動揺しているのだろう。
「でさ、城で会ったあの……エンロカクとかいう黒デクも天轟闘宴がどうのって言ってたよな。ついでにヤッちまおう。よく分からんけど、あいつが再起不能になれば、桜枝里の件も何とかなるかもしれない」
我ながらメチャクチャ言ってるな、と思う流護だったが、ベルグレッテはわずかに顔を綻ばせた。
「……、はは。リューゴらしいかも」
弱々しいその笑顔に少し救われながら、流護は続ける。
「兵士がこういうイベントに勝手に出ちゃいけない理由の一つは、『負けた場合に国の名前が傷つくから』だったよな」
説得するように訴える。
「だから俺は……絶対に優勝する。国に恥はかかせない。まあ勝手に出るってのはマズイんだろうけど……全部は取れない。何もかも丸く収まるような方法が、俺には思いつかない。だからせめて、俺は……自分にできることをする」
批判は避けられないだろう。任務をそっちのけにして、他国の武祭に出場するなどどういうことかと。簡単なお使いすらできないのかと。やはり神詠術が使えないような者を遊撃兵にするべきではなかったと。
だからせめて――そういったマイナスを、天轟闘宴優勝というプラスで埋め合わせる。もっともそれで、帳尻が合う訳ではないだろうが。
「……もうさ。ミアん時みたいに、力があるはずなのに……何もしねえでグダグダ悩むことだけは、したくねえんだ。まず動いて……自分にできることをやってから、あとのことは考える」
小さく零せば、少女騎士は無言で頷いた。
「でさ、俺が勝手に決めたことにベル子を巻き込む訳にもいかないし……あれだったら、ベル子は先に帰ってもらって……」
「……ふーん」
一転し、ジトリとした目つきになるベルグレッテ。
「それで先に帰った私は、リューゴを置いて帰ってきたことで怒られるわけね。そのリューゴが天轟闘宴にまで出場しちゃって、同行した私は責任を問われるわけね」
「い、いや、そういうつもりじゃなくてだな……」
「リューゴが遊撃兵になるって決めた、あの夜。一緒に助け合ってがんばろう、って言ってたのに」
「あー、えーと……」
拗ねたような口調に焦る流護だったが、彼女はうん、と小さく頷いた。
「私も……どうしたらいいか、分からなくて。それで、リューゴに相談しに来たの」
「え?」
「私も、ミョールさんの無念を晴らしたい。桜枝里の様子も気にかかってる。でも、私には……それらを解決する権限も、力もない」
少女騎士は悔しそうに呟く。
ここは遠き異国の地。レインディールの騎士としての権限など、この国では機能しない。詠術士としても、一人では魔闘術士らに太刀打ちできない……。
ベルグレッテはそう言うと、膝を抱えて黙り込んでしまった。
わずかに生まれた沈黙を破り、流護は切り出す。
「……俺、遊撃兵としては駆け出しもいいとこだし、基本もできてねえし、覚えなきゃいけないことも山積みだし。天轟闘宴に出るってのも、メチャクチャなこと言ってんのかもしれない」
でも、と握った拳に視線を落とす。
「――それでも俺は……えーと、くせーこと言うけどさ。ミョールとか桜枝里のためにこの拳を振るうことが、間違ってるなんて思えない」
流護と対峙したディノは言った。
燻っている、と。
その通りだ。兵士という己の立場を考え、どうするべきか惑っていた。どうしていいか分からず、燻っていた。
でも、充分だ。
仲間が理不尽に襲われた。だからやり返す。桜枝里の様子がおかしい。何とかしてやりたい。敵がムカつくからぶん殴る。
単純な有海流護が動く理由なんて、それで充分なのだ。
遊撃兵としての務めについては、後にしっかり罰を受ける。
「だから俺は……天轟闘宴に出る」
ベルグレッテの瞳をはっきりと見据えて、流護はもう一度……噛み締めるようにそう告げた。
「……うん」
少女は小さく頷きを返す。立場上、やはり複雑なのだろう。
「あー、えーと……あれだ、勝手に出ちゃって、どのくらい怒られんのかなあ」
重い空気を払拭すべく、流護は努めて明るく振る舞う。
さして難しくもない、お使いのような任務。にもかかわらず、定められた日数の間に帰還できないという結果。基本的には一日や二日程度の遅れなら問題ないそうだが、それも事情による。今回の理由は、勝手な天轟闘宴への出場だ。理由が理由なうえ、帰還も大幅に遅れることとなる。出場するに至った経緯を説明したとして、果たして温情はあるだろうか。
「前例のないことだろうから、ちょっと分からないかも……。陛下は寛大なお方だから、笑って許してくださる気もするけど……ラティアス隊長とか、厳格な人たちはちょっと想像もつかないわね……」
「うへえ……」
この任務を受けた際、アルディア王は「簡単な内容だから、あえて厳しめの日程にしてみた」と言っていた。つまり本来、緊急性のある仕事ではないはずなのだ。少年としては、大丈夫……だと思いたい。
……もっとも、それこそ『銀黎部隊』の長であるラティアスなどには何を言われるか分かったものではないが。
「んー……なんか、こう……すごい通信の使える人とかいねえかな? レインディールまで届くような。せめて向こうに連絡してさ、事前に許可が取れれば……。ほら、夕方のディノも学院長に通信飛ばしてたし」
ディノの名前を出すと、ベルグレッテは複雑そうに眉根を寄せて「あの男は異常なの」と小さく零す。
「それに……他国要人同士の通信っていうのは、原則として行わないの。通信って、周囲の音も拾っちゃうでしょ? うっかり機密が漏洩したりすることを防ぐために、よほどの緊急事態でない限りは、使わない取り決めになってるの」
「はあ……なるほどなぁ」
確かに考えてもみれば、国同士で簡単に連絡が取れるのなら、そもそも今回の任務自体が必要なかったことになる。文書など使わず、アルディア王とチモヘイ所長が通信でやり取りをすればよかっただけの話なのだ。
国を跨ぐほどの術が使える人間などそうはいないという理由もあるようだが。
「それに……リューゴ。もし連絡が取れたとして……天轟闘宴への参加が認められなかったら、どうするの? 大人しく帰る?」
「あ……」
確かにそうだ。もう決めたのだ。今さら、後に引くつもりもない。はっきり「出てはダメだ」と言われたのに出場してしまったら、そちらのほうが余計にまずそうだ。
何にせよ、咎は受けるつもりだ。ベルグレッテに非はない。もし責められたなら、彼女だけでも庇うと流護は心に決めた。
「にしても、天轟闘宴……か」
気持ちを切り替え、流護にとっては優勝が必須条件となったその武祭に思いを馳せる。勝手に出場したうえ負けたとあっては、間違いなくアルディア王やレインディールの名に泥を塗ることとなる。敗北は許されない。負けて褒賞を獲得できなかったなら意味もない。
しかし実のところ――今までの話を聞いた限りでは、出場したとして、優勝することも可能だと流護は考えていた。
――あの、ディノ・ゲイルローエンが現れるまでは。
(……ったく、間が悪すぎだろ。何でよりによって、あの野郎が……)
流護とディノは実力伯仲。厳密には、地力なら向こうが上だろう。それでも勝たねばならないなら、意地でも倒してみせる。ミアを連れ戻したときのように。
あのエンロカクも得体が知れないが、必ず打ち倒す。一対一ならば不安はない。
しかし天轟闘宴の場合、そこで終わりではない。
ディノやエンロカクを含めた全ての出場者が倒れ、最終的に流護ひとりだけが残らなくてはならない。あの『ペンタ』や黒き巨人と闘い勝利できたとして、消耗したところを他の者に倒されてしまえば終わりなのだ。
つまり、少なくとも序盤のうちは、できる限りディノのような強敵との遭遇は避けねばならない。そのうえで、いつ誰と出会うか分からない中、力を温存し、時に闘い、時に隠れ――最後の一人とならなくてはいけない。
ディノというジョーカーが紛れ込んだことで、難度が格段に上がってしまったように感じる。
「リューゴ。私も、できる範囲で協力する。明日、出場者の情報を集めてみる」
流護のわずかな不安を感じ取ったのか、ベルグレッテは鼻息荒くそう提案する。
「……、ああ。ありがとな、ベル子」
いつだって察しのいい理解者に感謝しながら、流護は大きく頷いた。
「……リューゴ、変わったね」
「え?」
唐突なベルグレッテの発言に、流護はきょとんとする。
「最初の頃とか……初めてリューゴに会った頃は、正直……」
「正直?」
途中で言葉を切ったベルグレッテに、おうむ返しで尋ねる。
「お、怒らないでね? 正直、その……こう、もう少し目が雲ってるっていうか、覇気がなかったっていうか……」
「はははは、目が死んでたか?」
言葉を探すベルグレッテに、流護は苦笑いを返す。
「……ま、実際そうだよ。俺、この世界に来る直前は……なんつーか、モヤモヤした毎日を過ごしててさ」
打ち込んでいた空手。その技巧が通じず、敗北した県大会。持てなくなった目標。そんな流護とは正反対に、夢へ向かって邁進していた彩花という幼なじみの少女の存在。
魔法のような力が飛び交い、魔物のような怪物が闊歩するこのグリムクロウズという世界へやってきてからは、そんなことをじっくり考える暇がないほどの毎日を過ごしていた。命のやり取りを何度も経験した。実際に人の命が失われる場面にも遭遇した。
「今はもうさ、生きるだけで精一杯って感じで」
充実している、と言っても過言ではないのかもしれない。
そんな風に言い結んだ少年は、少女騎士を見やって笑う。
「それ言ったらベル子も、少し変わったんじゃね?」
「えっ? そう?」
「ああ。ベル子って真面目だからさ、最初に会った頃のお前なら……俺が天轟闘宴に出るなんて言ったら、絶対に反対したんじゃねえかな」
「それは……今回は、事情が事情だし……」
「ああ。だからその事情を考えて、悩んで……俺に相談してくることなんて、なかったんじゃないかって。自分だけで抱え込んで、解決しようとしてたんじゃねえかなって」
「そう、かな……」
二人とも、少しずつ変わり始めているのかもしれない。
そんな他愛のない会話を交わしながら、異国の夜は更けていった。