174. 立場
病院では静かに。
それは日本でもグリムクロウズでも共通している常識だったが、今の流護の頭からは完全に消し飛んでしまっていた。
「はっ、はぁっ……!」
それでも誰かにぶつからないよう気をつけながら、ひたすらに廊下を走り抜けた。息を切らせて、その病室の前へたどり着く。流護に遅れることしばし、急ぎ足でやってきたベルグレッテも肩で息を整える。
「む……貴殿らか」
備え付けのソファに腰掛けていた口布の男――ゴンダーが、流護たちへ神妙な顔を向けた。
「ミョール、は?」
「……一先ず、命に別状はないそうだ。しかし……」
骨折五ヶ所。打ち身十四ヶ所。打撲八ヶ所。
ケガは全身という全身に及んでいるが、特に頭を強く打っており、絶対安静の状態であるということ。顔のケガもひどく、鼻骨と頬骨を骨折。包帯で幾重にも覆っている状態で、目を背けたくなるような惨状だったということ……。
いたぶるためだったのか、幸い急所は外されていたとのことだが――。
――ミョールが襲われ、病院に運び込まれた。
その一報を受けて駆けつけた流護たちだったが、ゴンダーから受けた説明と、『安静状態・入室禁止』――つまり面会謝絶だろう――の札がかけられた病室の扉を見て、深刻な現状を認識した。
「何があったんだよ。どうして、こんな……」
「……魔闘術士だ」
ゴンダーは眉間に皺を寄せ、忌々しいといわんばかりの口ぶりで吐き出す。
「……天轟闘宴を控えたこの時期は様々な荒くれたちが集い、治安も悪くなる傾向がある。人気の無い路地などには入らぬよう、私もミョール殿に注意を促しておくべきだった」
場所は大通りからわずか離れた路地裏。
騒ぎを聞きつけた通行人の報告により、兵士たちが駆けつけたという。
魔闘術士の一人が、街を歩いていたミョールに目をつけ、乱暴に及んだ。その男は、兵士らの前でリーダー格によって『制裁』を受けたそうだが――
「……奴等は、幾度となくこうした揉め事を起こしている。これほど派手な真似を仕出かしたのは初めてだがな。その都度、首領のジ・ファールという男が顔を出してはいるそうだ。が……『尻尾切り』に違いない」
ゴンダーは苦い口調で言い捨てる。
『尻尾切り』。
つまりは揉め事の精算役として、下っ端に罪を被せる。悪党の常套手段だった。あのミアの件にて、レドラックファミリーもこの手を使おうとしている。
「まして今は、天轟闘宴を控えた多忙な時期。他国人同士の諍いも多く、兵士もあまり深く追及しようとはしない傾向がある。特に、民族意識の強い連中はな」
――それはつまり。この件は、『終わり』だということ。
ミョールは運悪く襲われ重傷を負った。襲った男は制裁を受けた。
だから、この件はそれで終わり。
「は……はははは、いやいやいや。いやいやいやいや……それはないでしょ。何も解決してねーだろがよ」
流護の口から、乾いた笑いが漏れていた。
「ああ、じゃあいいよ。この国の兵士が動けねぇってんなら、それでいいや。んじゃ、代わりに俺がその魔闘術士とかいうクソ共カタしてくっから、居場所教えてくれよ」
「落ち着け」
「は? 落ち着いてるよ。これからの計画をキッチリ立てられる程度には落ち着いてる。魔闘術士は十人ぐれーだっけ? なら一人一秒だな、十秒で終わる。ちゃっちゃと片付けて帰るから、夕飯までには余裕で間に合う」
「今の貴殿は、レインディールの兵士だろう。立場というものがある筈だ。軽はずみな行動を取るべきではない」
「じゃあ……どうしろってんだ……ッ!」
ゴンダーの襟首を掴み、強く引き寄せた。八つ当たりだと分かっていても、激情を抑えきれなかった。有海流護はまだ、そこまで達観した大人にはなれていない。
襟を握られた口布の術者は動じた様子もなく、その切れ長の瞳を逸らさず言う。
「私とて、汚れ仕事も経験した身。そうして貴殿とも敵対したな。綺麗事を言える立場ではないが……そんな私でも、魔闘術士の連中の振る舞いは、正直腹に据え兼ねている」
病室へ顔を向け、目を細める。
「ミョール殿も、我が宿の大事な客人だ」
そうして、ゴンダーは流護へと視線を戻す。その瞳には、強い光が宿っていた。
「魔闘術士は、天轟闘宴に出場する。そこは、『何が起きてもおかしくない舞台』だ。微力ながら――我が力、尽くさせてもらう」
霧氷の術士は言っていた。自分がミョールの無念を晴らす――と。
「…………、」
まっすぐな、確かな意志の秘められた眼光。流護は思わず、力なくゴンダーの襟首から手を放し――
がたん、と。
病室の中から、大きな音が響き渡った。
「何だ……?」
入室禁止となっているためわずかに躊躇したが、やはり無視はできない。流護は恐る恐る、病室の扉を引き開けた。
「あ」
「あ」
同時に声が漏れていた。
ベッドと備え付けの棚以外に何もない、清潔ながらも簡素な白い部屋。
そのベッドに身を起こしたミョールらしき人物と目が合い、流護は思わず硬直していた。ここはミョール・フェルストレムの病室。となれば当然、そこにいるのは彼女で間違いない。
しかしそれでも、流護はミョール『らしき』人物と認識してしまっていた。
「やー、リューゴくん……奇遇だねえ」
喋りにくそうな、ややくぐもった声。
顔全体を包帯で覆った、一見して誰だかも分からないその人物は、しかし確かにミョールの声でそう言った。バツが悪そうに続ける。
「……えーっと。事情とか、聞いちゃってる?」
「ええ、まあ……」
気まずい沈黙が舞い降りた。
ふと目を泳がせると、ベッド横の床に置き時計が転がっていた。脇の棚から落ちた備品のようだ。
先ほどの音の正体はこれだろう。ミョールが時間を確認しようとして落としてしまったらしい。
「あ……俺、拾いますよ」
「ご、ごめん。腕、思ったように動かなくて……」
病室へ入り、時計を拾い上げる。
ベルグレッテたちも遠慮がちに顔を覗かせた。
「お、ベルグレッテちゃんにゴンダーさんまで。ややー、びっくりしちゃったでしょ、みんな」
「いや、まあ……その、大丈夫ですか」
大丈夫な訳ないだろうが。
流護は気のきかない自分を思わずぶん殴りたくなった。
「今は薬や術がきいてるみたいで、なんとかね。やはは……。あたしもまだまだ未熟だねー。道歩いてたら、いきなり後ろから殴り倒されちゃって……向こうも十人もいたし、どうしょもないって言えばそうなんだけど」
やっぱりそうか、と流護は奥歯を噛む。
魔闘術士の一人がミョールにちょっかいを出した、などというレベルの話ではない。
いきなり殴り倒す。十人がかり。連中が何者なのか知らないが、やっていることは野盗と変わりない。レフェへやってくる道中、ダスタ渓谷で遭遇した野盗たちと何ら変わらない。
このミョールの証言を兵に伝えたら、何か変わらないだろうか。
そんなすがるような考えが浮かび、すぐに『ある事実』を思い出して否定する。
それは五年前、レインディールの王都でテロを起こしたという魔闘術士の話だ。その一団が暴れたそもそもの理由が、『自分たちを遊撃兵として雇用しろとアルディア王に訴えかけ、拒否されたこと』だったはず。
ここで真実を伝えた結果として魔闘術士らに何らかの処罰が下ることになった場合、連中が何をしでかすか分からない。何しろ、まともではないのだ。
レフェとしては、天轟闘宴を間近に控えたこの時期に首都での大立ち回りなど、絶対に避けたいはずだ。
存在するだけで厄介。排除しようとすれば、こちらも何らかの損害を伴う。
メチャクチャだ。病原菌かよ、と流護は歯ぎしりする。
「あっ、こんなボロボロだけど……貞操は無事だから! 勘違いしないでねっ」
「あ、はあ……」
少しでも空気を明るくしようとするその努力が痛ましくて、流護は目を背けたくなった。
「……でもさ……、いい経験に、なったのかも」
「え?」
「あたしの腕じゃ、天轟闘宴なんて絶対無理だって……理解できたから。ありゃ無理だわ……。出場したらもっとひどいケガしてたかもしれないし、神様が『出場するな』って忠告してくれたのかもしれないね……」
「そっ……んな……」
反論しようとして、言葉に詰まった。
何と言えばいいのだろう。
「でも、まいったなぁ。妹の治療費稼ぐどころか、自分の治療費が必要になっちゃうなんて……。手持ちなんてないし、しばらくレフェに滞在して稼がないとかも。やっぱり、一獲千金なんて夢みたいな話、アテにしちゃだめだねー……」
包帯で表情の窺えない彼女は、自嘲気味に笑ったようだった。
「入院の、治療の期間とかは……?」
「順当にいけば三週間ぐらいだって。お金さえあれば、上位術士の集中治療を受けられるから、三日かそこらで退院できるらしいんだけど……その場合、施術代がなんと百八十万エスク……! 妹の治療費と大差ないよ! もう、大人しく三週間入院していくつもり……、あ」
喋り倒して興奮したのか、ミョールがわずかにふらついた。慌てて流護が支える。
「だ、大丈夫っすか――」
「ひっ、いや!」
ミョールはびくりと身を震わせ、流護から飛びのいた。
「――――」
その反応に、少年は思わず硬直する。
「……あ、ちっ、違うの、リューゴくん。やだな、ちょっと敏感になってるのかも……ご、ごめん。ごめんね」
大勢の男たちに囲まれ、暴力を振るわれて。
身体だけではない。心の傷になっていないはずがない。
「あ、うぅ……ちが、うの。リューゴくん、白いのに。悪意なんてないって、いい人だって、ちゃんと分かってるのに。なのに、」
「ミョールさん、落ち着いて。横になってください」
震えるミョールを、慌てて入ってきたベルグレッテが優しく横たえる。
――そこで、
「ちょっとあなたたち! ここは入室禁止ですよ!」
やってきた女性の看護師に見咎められ、追い出される形で病室を後にすることとなってしまった。
「は?」
悪夢は連鎖する、とでもいうのだろうか。
部屋から放り出された流護たちは、看護師に謝りつつその場を後にしようとしたのだが、その看護師当人に慌てた様子で呼び止められた。そして、その事実を告げられた。
「早めに施術しないと……後遺症が残る? 可能性が高い?」
「……ええ」
目を伏せて、看護師の女性は首を縦に振る。
先ほどミョールが言っていた、上位術士による集中治療。その費用、しめて百八十万エスク。到底払えそうにないため、ミョールは大人しく三週間ほど入院していくと諦めていたが――
「……とにかく、頭の傷が深刻です。可能な限り、早い施術をお勧めしたいところなのですが……」
さらに看護師は追い討ちをかけた。
「しかし今は、天轟闘宴を控えていることもあって術士の手が空いていない状態で……。他の領地から術士を呼ぶことができれば、一番いいのですが……それも難しいというのが現状です」
「……、いや、そう、なんですか」
ならば、どうしろというのか。
「……とにかく。こちらとしても、全力は尽くします。が、そういった状態である……ということを認識しておいていただきたく思いまして」
忙しいのか、看護師は立ち尽くす流護たちに一礼すると急ぎ足で去っていった。
病院を出る。
すでに昼神インベレヌスが退場しかけ、辺りは薄暗くなっていた。雅やかな街並みには、ぽつぽつと明かりが灯され始めている。
「私は買い出しをして帰る。違う道を行くゆえ、ここで失礼する。貴殿らも、夕餉までには戻られるよう」
ゴンダーはそう言い残し、影のように走っていった。
その動きに迷いや動揺は見られない。
彼はもう、純然たる覚悟を決めているのだ。天轟闘宴にて、魔闘術士たちを打ち倒すと。
残された流護とベルグレッテは、無言で暮れゆく空を見上げていた。
「…………」
レインディールの遊撃兵としての仕事は、とうに終わっている。
任務を優先するなら、早く帰るべきだ。
が、それでいいのか。
桜枝里のところへ突如として現れた謎の大男。魔闘術士に襲われたミョール。青ざめ、不安がっていた桜枝里。身体と心に傷を負い、後遺症まで残る可能性があるというミョール。
このまま帰るのか? 俺は、どうするべきだ?
「……ゴ。リューゴ、ってば」
「ん? あ、おう」
「帰りましょ……」
「あ、ああ」
病院はゴンダーの宿から離れた場所に位置していた。徒歩では遠いため、二人は馬車の停留所を目指して歩く。
歩きながら、共に無言だった。
『なあベル子。俺、どうしたらいい?』
喉元まで出かかったそんな言葉を、流護は飲み込んだ。
ベルグレッテに訊いて、どうするのか。彼女が「こうしたらいい」と言ったら、それに従うのか。
そうじゃない。
どうしたらいい、じゃない。
俺は、どうしたい?
漫然とした思いを抱えて歩きながら、ふと顔を上げた瞬間だった。
「……ッ…………!?」
ごちゃごちゃになった脳内の思考が、一瞬で蒸発しかけた。
凝視する。
見間違え――ではない。
少年はただ瞠目して息をのむ。
ベルグレッテも何事かと流護の視線を追い、
「? ……、――なっ……!」
彼女もまた、やはり同じように硬直した。
衝撃。
度重なった出来事に振り回され、多少のことではもう驚きもしないだろう、疲れきった精神状態。そんな心情であってなお、頭を殴られたような衝撃だった。
人も疎らな夕刻の歩道。向こう側から歩いてきた、その人物は――
「――おっ?」
流護たちに気付き、その男は口角を吊り上げる。
身体つきは細く華奢。燃え盛る炎のようにハネた赤髪。右耳には黒いピアス。顔立ちは恐ろしいほどに端正で、紅玉めいた両の瞳は全てを見下すかごとき冷たさを放っている――。
「なん、で……てめぇがここにいるんだ……? ディノ・ゲイルローエン……!」
かすれた流護の声を受けて、赤き『ペンタ』の笑みが深度を増した。