172. 人柱
「え……そん、な……」
包み隠さず全ての事情を説明された桜枝里は、くらりと傾きかけ、慌てて持ち直した。
――今度の天轟闘宴。エンロカクが優勝したなら、自分は引き渡されることになる。
「そんな! 私があの人に……!? 私の意思はどうなるんですか……!」
「サエリ様が巫女に任ぜられた際、ご説明した筈です。あらゆる不測の事態が起こり得ると」
確かに、それは聞いていた。
暗殺される可能性があると。政略結婚に利用される可能性があると。現状として可能性は低いが、そういったことが起こり得る役割なのだと。
甘かったのかもしれない。
何だかんだでそんなことはきっと起こらないと、もてはやされた生活を送るうちに――平和な日本で培われた感性のままで過ごすうちに、そう思い込んでいたのかもしれない。今までにない特別扱い。自分だけは大丈夫。自分に限っては、そんなことにならない。可能性は低いのだから、きっと大丈夫。――そんな風に。
「で、も……私……」
そうするしかなかった。
突然この世界へ迷い込んだ桜枝里には、巫女となる以外に宛がなかった。
危険な怪物が跋扈する世界。魔法のような力が存在する世界。
そんな別世界へ放り出された桜枝里が生きるには、この道しかなかったのだ。
この世界の常識も、知識もない。巫術なんて使えない。本当にただの女子高生。偶然『神域の巫女』だなどといって祭り上げられていなければ、今頃どうなっていたことか。それを思うだけで恐ろしくなる。
「ですが、ご安心下さい」
完全に血の気が引いた桜枝里に対し、ドゥエンはいつもと変わらぬ薄笑みを見せて続けた。
「申しました通り、我々もその事態を防ぐ為に動く次第です」
桜枝里はドゥエンの傍らに立つダイゴスを見上げる。
エンロカクの優勝を阻止するため、『十三武家』からダイゴスを含む三名が出場するという対策。
「飽くまで現在、そういった状況であるという事です。我らが阻止します故、ご安心を。サエリ様は、平時と同じようにお過ごし下さい」
いきなり、エンロカクの――あんな男のものになるかもしれないなどと言われて、平然としていられるはずがない。
「大吾さん……」
救いを求めるように小さく呼びかけるが、聞こえていないのか、巨漢はわずかにうつむいていた。
「大吾さんっ」
「あ、ああ」
大きく呼ぶと、ようやくハッとしたように顔を上げる。らしくない。先ほどもそうだったが、今まで見たことがないほど、ひどくぼうっとしているように思えた。
「びっくりしちゃったけど……大吾さんが出場するなら、安心だよね。私のこと、渡さないで……守ってね。……な、なんつっちゃって」
不安からか、よく考えたら恥ずかしいセリフが漏れてしまった。
が、
「……ああ」
ダイゴスは心ここにあらずといった様子で、力なく頷くだけだった。
「――お話は以上となります。ではダイゴス、サエリ様を送って差し上げるように」
「……ああ」
小さく首肯するダイゴスだったが、桜枝里が両手を横に振った。
「……ごめんなさい。一人で戻ります。ちょっと……その、一人にさせて」
困ったような、無理矢理の笑顔。桜枝里は返事を待たず、その場から駆けていった。まるで、ダイゴスたちから逃げるように。
やがて廊下の角を曲がっていき、その姿が見えなくなる。
「……ふむ。良いのかダイゴス。お前が付けば、サエリ様もお喜びになるだろうに」
「……どの口が言うか」
空々しい兄の言葉に、ダイゴスは低く返していた。
わずかな怒気すら混じった返事を受けて、しかしドゥエンは満足げに顔を綻ばせる。
「ふむ。自分の『役割』は心得ているようだな、結構結構。ついでだ、今この場で指示を出しておこう」
淡々と、ドゥエン・アケローンは今回の仕事内容を説明する。矛の当主として、若き矛が遂行すべき命を下す。
「謁見の間でも言ったが、深追いは厳禁。魔闘術士の連中を誘引し、エンロカクにぶつけろ。成功の目は、精々二割程度といったところか。先程の……リューゴ・アリウミといったな。あの遊撃兵が出場するのなら、魔闘術士を利用するまでもなかろうが――」
「やめろと言っとろうが」
有海流護をエンロカクにぶつける。兄は、あの少年を駒として利用するつもりだ。
「知人を利用はできない……か? まあ、それも良かろう」
「……、」
そう言われて、初めてハッとした。
なぜ自分は、ここまで必死になって止めるのか。そこまで親しい間柄でもない。
……兄の思惑通りとなるのが面白くないだけだ、とダイゴスは自己分析する。
「危険があると感じたら、迷わず離脱しろ。失敗したならそれで構わん。お前が死力を尽くすべき仕事ではない。以上だ」
結局のところ、今回の任務は至極簡単な部類に入る。
成功率二割。危険なら諦めろ。任務と呼ぶのもおこがましい、粗末すぎる仕事。
――つまり最初から、ドゥエンは桜枝里を救う気がない。
指示を下している当人ですら、上手くいくなどと思っていない。ただ巫女を救うべく動きました、努力はしました、という事実を作っておきたいだけ。
もっとも、危険なら放棄しろなどと言ってはいるが、おそらく若手の仕事ぶりを査定する思惑もあるのだろう。下された指示に対して、どう考えどう動くのか。成否にかかわらず、その働きのほどを見極めようとしている。馬鹿正直に「危険だから諦めました」などと言って戻れば、使えない愚図と判断されるはずだ。どう動けばドゥエンの眼鏡に適うのか。さじ加減が難しいところだった。
――いずれにせよ。桜枝里のことなど微塵も考慮していない、という点に変わりはないが。
「分かっているな。替えの利かないアケローン一族であるお前と、替えの利く巫女。どちらが重んじられるべきか」
巫女がいなくなったとて、その真の理由が表沙汰にされることはない。務めを終えて新たな巫女に力を引き継いだだの、もっともらしい建前の理由が公表されるだけ。全ては秘密裏に処理され、いずれまた新たな巫女が据えられることだろう。
そうして誰もが、信奉していたはずの雪崎桜枝里という存在を忘れ去っていく。そして、今度は新しく別の誰かをもてはやしていく。今までと同じように。
勝手に祭り上げ、勝手に引きずり下ろす。古の時代とは程遠い、もはや形骸化している『神域の巫女』という風習。
「…………」
果たして、沈黙するダイゴスをどのように受け取ったのか。
錆びきった声で、長兄は囁く。
「何。女など、時期が来れば相応しい者を宛がってやる。何処の馬の骨とも知れん女など、お前には必要ない」
――考えるより迅く。
白光纏うダイゴスの雷掌が、横からドゥエンの側頭部を狙っていた。
軽く顎を引く動作のみで躱したドゥエンは、目の前をよぎっていくダイゴスの右腕を絡め取る。手首を捻りながら下方へと折り曲げ、素早くしなやかに締め上げた。
「……ぬ、ぐ!」
その様はまるで、獲物を捕らえた蛇。手折るように厳しく。それでいて、包み込むように優しく。ダイゴスは己より遥か小さな兄に押さえつけられ、身動きできない状況へと追い込まれる。関節とは逆方向への負荷に、肘がミシミシと悲鳴を上げた。
「ふむ……速いじゃないか。腕を上げたな、ダイゴス。だが、私が殺る気だったなら――相手がエンロカクだったなら、もう死んでいるぞ。やはり、お前を奴に仕向ける事などとてもとても」
締め上げながら、いつもと同じ冷笑を張りつけたドゥエンが囁く。
――都度、言い分が癪に障る。
自分に力があったなら、エンロカクと闘うことを許すとでもいうのか。
「……フ。腕一本で勝ったつもりか、兄者」
ダイゴスは不敵に笑ってみせた。
右腕をねじられたこの状況。下手に身動きすれば、肘が破壊される。
が。そもそも『そんなこと』を気にしなければ、動ける――
と、締めつける力が強まった。
「頭を冷やせ。腕を犠牲に脱して、そこからどうする。万全の状態でも敵わぬ相手を前に、片腕を欠いてどう闘う」
「……フ、」
どくん、と。
その言葉を受け、ダイゴスは自分の奥底に眠る『何か』が脈動するのを感じた。
額に脂汗が浮かぶ。血管が浮き出る。
激痛に耐える覚悟を決めたと同時――それまでの重圧が嘘のように、ダイゴスの腕から痛みが消えた。
拘束を解いたドゥエンが、溜息を吐きながら諭すように言う。
「物静かになったようでいて、本質は幼い頃と変わっていないなダイゴス。まあ、そう案ずるな。国長とて、サエリ様をみすみす手放したくはないご様子。エンロカクが武祭を勝ち抜いたところで、無傷とはいくまい。手負いの奴を相手取るならば、許可も下りるだろう。そうなれば――私が、奴を始末してやる」
用件は終わったとばかりに、長兄は弟の横を通り過ぎていく。
「だからダイゴス。お前は、何も心配しなくて良い。お前はただ、何時ものように……私の命に従っていれば、それで良い」
ぽん、と肩を叩き。
足音も気配も残さぬまま、長兄はその場から遠ざかっていった。
「…………」
ダイゴスは解放された右肩をぐるりと回す。
そこは手心を加えたドゥエンの技巧か。へし折られる寸前まで軋みを上げていたはずの腕は、ほとんど痛みを発していない。
(これが……)
兄の力量。
現在の兄と、現在の己。
「…………」
巨漢は手のひらに視線を落とし、思い耽る。
脳裏に甦ったのは、幼い頃の記憶だ。子供ならきっと誰もが憧れる、そしてアケローンの一族に生まれたダイゴスは早々に捨てなければならなかった、『ある思い』。
「……くだらん」
声に出して呟き、自制した。
今更、そんなことはありえない――と。
そして引きずられるように。ある過去の記憶が、脳裏をよぎる。白昼夢のごとく。
「……『絃巻き』……? ダイゴスが……?」
呆然とした声が聞こえる。今よりも若い――長兄、ドゥエンの声。
「うむ、おそらくは。ラデイル君の言う状況から考える限り……その可能性が高い」
こちらのしわがれた声は、数年前に亡くなった先代の専属医か。
「……前からさ、おかしいと思ってたんだよ。先の術の詠唱が完了してねーはずなのに、もう次撃に備えて……それで失敗してさ。ただのミスにしちゃ、あまりにも……」
幼さの残るその声は、次兄ラデイルのものだ。当時、いくつだったろうか。
「……馬鹿な。認めん」
頑なな長兄の声は、今と何も変わっていないように思える。
「ダイゴスは……この子は、ただ不器用なだけの……普通の子だ。『絃巻き』でなど……ある筈がない」
そこに滲んでいた感情が何であったのか。
今も、その真意は分からないまま。