17. 暴虐の王
それはさながら王だった。
『竜滅書記』にも謳われし、伝説の邪竜――ファーヴナール。
もたげられた頭の高さは、ベルグレッテの身の丈の二倍ほどもあるだろうか。遥か高みより人間たちを睥睨するその様からは、暴君のごとき威厳すらも漂っている。
巨大すぎる人外の王は自らの前に居並ぶ人間たちを一瞥した後、キョロキョロと辺りを見渡す。どこか愛嬌すら感じられる仕草だった。
瞬間、一人の男子生徒が全力で駆け出した。ほとんど本能のまま、逃げようとしたのだろう。
刹那。
彼の右足が、弾け飛んだ。
まるで。王の前で礼を欠いたがゆえの、罰。
風車のように回転しながら吹き飛ぶ足と、四方八方へ撒き散らされる鮮血。
少年は悲鳴を響かせてその場に倒れ込む。芝生の緑が赤く染まってゆく。助けなければ、すぐにでも失血死してしまうだろう。
しかし誰も。ベルグレッテでさえも、動けなかった。
何が起こったのか分からなかった。
逃げ出そうとした男子生徒の足が、突如、吹き飛んだ。
ただ少なくとも、きっと全員が理解した。
動けば自分がこうなってしまうと、理解した。
ミアも。ダイゴスも。エドヴィンも。レノーレも。ベルグレッテも。
何ともならない。
例えば、この場にいる五十人全員で一斉に攻撃を仕掛けたとしても、何ともならない。
そういう、隔たり。存在そのものの規模が違うという隔たりを、肌で感じてしまった。
ベルグレッテの耳に、ガチガチと細かい音が届いてきた。
やめて、音を立てないで。その音で、奴の標的になってしまったら――
そこで気がつく。ガチガチと鳴っているのは、自分の歯なのだと。
――終わりそうな色をした空の下。
六十年に一度と伝わるその年に。
降臨せしは、二千年もの時を生きると云われる邪竜。
まるで神話――
しかしベルグレッテには、理解できてしまった。
これは、復活した悪竜に戦いを挑む勇猛な英雄たちの物語でもなければ、強大な竜王へ果敢に挑んで散ってゆく戦士たちの詩でもない。
ただ。
どこかで腹を減らした巨大な獣が、ドラウトローという餌を追い回し、その結果としてここにやってきてしまっただけ。そのドラウトローがいなくなってしまったので、代わりに自分たちが喰われるだけ。ただそれだけの、どこにでもある食物連鎖の一つだった。
騎士として……仮に斃れることがあれば、名誉ある死を遂げたいと思っていた。後世へ語り継がれるような、伝記となるような美しい死を。
しかしそんなものは、全部吹き飛んだ。
栄誉も名誉もない。物語も伝説も残らない。
ただ餌として終わる。
まるで処刑器具のように鋭く乱立した牙。
そこからかすかに覗く、毒々しい紫色をした、ぬめりを帯びた大きな舌。おぞましいという表現すら生ぬるい。
いやだ。こんなのに食べられて死ぬなんて、絶対にいやだ。
ベルグレッテが声を上げて泣き出しそうになった、その瞬間だった。
「俺が行く。全員で逃げろ、ベル子」
少年の……囁くように小さな声が、聞こえた。
どうして。
あなたは。こんな状況ですら、諦めていないの?
いくらなんでも分かる。
あなたでも、勝てるとか勝てないとか、そういう問題じゃない。
これは、一つの厄災。運が悪くて、みんな死ぬだけ。
なのに。
「今、思い出した。俺は、違う世界から来た人間じゃない。実は『なんとか書記』のガイセ……、ナントカの生まれ変わりなんだ。五千年ぐらい前? にもコイツ倒してるから。余裕」
ばか。もっと、ましなこと言いなさいよ。
「――――行くぜ。逃げろよ?」
地面が爆ぜた。
大地を穿ちながら、土煙を纏いながら、流護はファーヴナールへと肉薄する。
邪竜はギョロリとした目を流護へ向け、わずかに――口を開けた。高速で撃ち出されたそれを、少年はしなやかなサイドステップで躱す。重々しく着弾した何かが芝生を粉砕する。それは――拳大程度の大きさの、石。
先ほど男子生徒の足を弾き飛ばしたものの正体。
「見えてんだよ、っらァ!」
横に走り抜けながら、流護はポケットから取り出した石を投げつける。
ファーヴナールの皮膚に当たるが、まるで金属みたいな音を残して弾かれた。ぎょっとしつつも、流護は邪竜の視界外へ回り込もうと駆け抜ける。
「おらこっちだ!」
挑発に反応した訳でもないだろうが、ファーヴナールはその巨体をぐるりと巡らせて流護の動きを追った。
「今よ! みんな、逃げてッ!」
ベルグレッテが全力で叫ぶ。
戸惑いを見せながらも、全員がクモの子を散らしたように駆け出した。先ほど右足を撃たれて倒れた男子をダイゴスが抱え、ふらつくミアをベルグレッテが支える。
反応したファーヴナールが生徒たちに目を向けるが、
「どこ見てんだよ!」
鋭く踏み込んだ流護が、ファーヴナールの左前足に一瞬で右、左、右のローキックを叩き込んだ。決まりさえすれば倒れない者はいなかったコンビネーションだが――ビクともしない。
「チッ!」
全く効果のないことを悟った流護は、ただ何となく――全力で、後ろへバックジャンプした。ただの勘だった。
瞬間。
直前まで流護のいた空間を、颶風が薙ぎ払った。流護の短い前髪が、風になぶられて一斉に逆立つ。思わず目を閉じかける。
まるで国道を走り抜ける大型トラックみたいな風圧。現代日本からやってきた少年としては、それが生物の腕によって生み出されたものであることが信じられない。
丸太じみた太さの右前足を振り払ったままの姿勢で、巨大な竜は流護を見下ろしていた。
「――は。避けられたのが気に食わねえか?」
軽口を叩きながらも、背筋が凍っていた。
間違いない。喰らった時点で……終わる。
今の、ただ前足を横に払っただけの一撃。当たってしまえば、それこそトラックに撥ねられたような末路を迎えるだろう。
短い攻防で悟った。
――別格。コイツは、本物の怪物だ。
思わず動きが止まった流護を目がけ、ファーヴナールの口が開く。
大砲のごとく吐き出された石を、横に跳んで回避した。
邪竜は流護の動きをギョロッとした目で捕捉し、巨大な左腕を無造作に持ち上げ、そのまま叩き下ろした。ただ煩わしい小虫を叩くような動作。しかし芝生が抉れ、土砂を巻き上げるほどの一撃。
「――――ッ」
思わず竦みそうになる打撃を咄嗟のステップで躱した流護は、地面にめり込んだままとなっているファーヴナールのつま先目がけて鋭く踏み込んだ。左、右の拳を素早く叩き込む。
「……ぐっ!?」
ブロック塀を殴ったみたいな衝撃に、思わずたじろいで後ろへ下がった。
ぼこり……と、ファーヴナールは地面に埋まっていた手を引き抜く。掘り起こされた土がバラバラと散らばる。ショベルカーかよ、と流護は内心で毒づいた。
効いていない。
流護の蹴りが、拳が。通用しない。
邪竜から目を離さないようにしつつ、視線を巡らせる。どうやら、全ての生徒が安全なところまで逃げたようだ。
今この中庭にいるのは、流護とファーヴナールだけ。
……みんな無事に逃げた。俺も、もう逃げていいんじゃないのか?
ドラウトローを完全に殲滅したことで、全能感や万能感にでも酔っていたのかもしれない。そんな安っぽい酔いは、あっさりどこかへ吹き飛んでしまった。
これはだめだ。シャレにならない。
カッコつけて突っ込んではみたが、勝てる相手とは思えない。こんなのは、ダンプカーに正面から殴りかかるようなものだ。
きっと。ここで逃げても、ベルグレッテは咎めない。
それどころか、みんなが逃げられる隙を作ったことに対して感謝さえしてくれるだろう。
短い付き合いだが、分かる。彼女はそういう娘なのだ。
逃げた後、事情を知らずに帰ってきた生徒たちが運悪くファーヴナールに殺されてしまうかもしれないが、それはまた別の話だ。そのせいでベルグレッテが悲しむかもしれないが、それもまた別の話だ。
いくら何でも、流護にはそこまで関係ない。……だというのに。
あのとき。決闘の後、ベルグレッテの泣き顔は、どうにかなってしまいそうなほど可愛かった。
でも、もうそんな顔はさせたくないと思ったのだ。
「――さっさと来いよ、クソトカゲ。ビビってんのか?」
我ながら、どうかしている。
こんな怪物に立ち向かう理由が、それだけで充分だなんてのは。
冷や汗を浮かべた流護は、自らを鼓舞するために笑みをたたえる。