168. 未知への一歩
「へェ……」
それは感嘆か、それとも称賛か。
他に興味を示すことの少ない彼にとっては、極めて珍しい反応だった。
燃えるようにハネた赤い短髪。右耳にあしらわれた黒いピアス。冷淡だが整いすぎた顔立ちと、ともすれば華奢にも見える細い身体つきは、劇団の役者としても十二分に通用しそうだった。
――獄炎の『ペンタ』、ディノ・ゲイルローエン。
レフェ巫術神国が首都、ビャクラクへ到着の瞬間である。
見たことのない変わった街並みを前に、青年はしばし辺りを見渡した。
所狭しとひしめく建物。川を跨いで架かる橋。敷き詰められた石畳。道行く者たちの服装。果ては等間隔でそびえる街路樹に至るまで、全てが見慣れない奇妙な形をしている。
レフェの街並みは不思議だ、と噂を耳にしたことはあったが、なるほどその通りだとディノは納得した。
天轟闘宴。
王都でも幾度か、その名を耳にしたことはあった。
ルムリー村の件で馬車の御者からも聞いていたが、その後ふらりと立ち寄った街でも話題になっていたため、いよいよ興味をそそられた。
どうせ旅の身である。
行くだけ行ってみるかと馬車に乗り、今しがたようやくたどり着いたところだった。
己の名前を知らしめるには、悪くない機会だろう。参加して優勝でもしておけば、名を広く知られる切っ掛けとなるかもしれない。
さて。右も左も分からない異国の都である。
まずは街の地図でも探すべきか――と歩き始めて、
――気付けば。ディノは、三人の男たちに囲まれていた。
それぞれ、一見して普通の平民。纏っている服も、周囲の者たちと変わらないレフェ特有の地味な民族衣装。
違うのは、その顔つきだ。射殺すような鋭い眼光は、市井の民ではありえない。
「ようこそレフェへ。ディノ・ゲイルローエン君だね?」
黒髪を七三でカッチリと分けた男が、歪に口の端を吊り上げてみせる。
「誰だよ」
「オルケスター」
囁くように、男はニタリと嗤う。
「囲まれるまで気付かなかったようだが……真昼の街中ならば襲撃されないなどと、タカを括っていたのかな?」
「オメーらは足下にアリが寄ってきたとして、イチイチ神経質に気にすんのか?」
「…………」
無言ながらも、男は笑顔のまま側頭部に青筋を浮かばせた。
ルムリー村の一件で、オルケスターの末端たちと事を構えた後。ここへ至るまで、連中の襲撃は皆無だった。人気のない街道を行く途中も、ボロボロの安宿で夜を明かしたときも。
そうして何事もなく首都へ到着したこの瞬間、真っ昼間の賑やかな往来――その只中にて、初の襲撃である。
その意図は明白だった。
思い知らせるため――に、他ならない。
明るい街中であっても、当然のように襲われると。逃げ場など、安心できる場所など、どこにも存在しないと。
「少年さ。周りに人がいるから大丈夫、なんて思ってないかい? 誰にも気付かれないよう人間を始末する……ってのは、そう難しいことじゃないよ? 我々にとってはね」
ディノはそれとなく周囲に視線を巡らせる。
気付けば、自分が立っているのは壁際だ。三人の男たちに挟み込まれる形となっている。
喋りかけてきているのは、正面に立つ七三分けの男。ディノを左右から挟んで佇む二人の男は、街並みを眺めるかのような自然さで辺りに視線を飛ばしている。
そんなディノたちのすぐ横を、談笑しながら行き交う数人の若者。彼らは気付いていない。今まさに、白昼堂々と人が殺されようとしていることに。それどころか、顔見知りの四人が往来で立ち話をしているようにも見えるだろう。
オルケスターの男たちによる、絶妙な位置取りと視線移動、さりげない挙動。それらが生み出す自然さの為せる業だった。
「ふーん……」
演出者集団、などと謳うだけのことはある。あの山賊たちとは違うようだ。ディノは感心したように相槌を打った。
「何か言い遺すことがあれば……聞くよ?」
にこやかな七三分けの男に対し、
「――気付かれねェように殺すのは、オレも得意なんだよ」
『ペンタ』もまた笑みを返しながら答えた。紅い瞳を輝かせながら。
「……?」
破砕音。いや、爆発音だろうか。
かすかにそんな乾いた音を聞いた気がした少年は、そちらへと顔を向けた。
真昼の往来。天轟闘宴を控えて人が増え始める時期ではあるものの、平常日のためか、さほど人は多くない。
音が聞こえたのは自分だけだったのか、他に辺りを気にしている者はいなかった。確かに気のせいだと思えば、その程度にすぎないようなものではあったが……。
目を向けた先には、自分より少し年上らしき赤髪の青年が一人で佇んでいた。見慣れない服を着ており、肩から麻袋を提げている。天轟闘宴目当ての旅人かもしれない。
それにしても、今さっきの音は何だったのか。気のせいだったのだろうか。特にどこにも、異変は見られない――
「あ」
漠然と青年のほうを眺めていたため、こちらに顔を向けた彼と目が合ってしまった。
かなりの美形だった。短くハネた赤髪は燃え上がる炎を思わせるが、表情は恐ろしいほど冷めている。それでいて、餓えてぎらついた猛獣のような――それでいてこの上なく美しい、紅玉の瞳。その両眼に見据えられるだけで、身体が竦み上がりそうになってしまう。
……どう見ても悪人面だ。ならず者かもしれない。
そそくさとその場を去ろうとしたところで、
「オイ、ソコの兄チャンよ」
その男に声をかけられてしまった。
「はっ、はい」
金を出せと脅されるかもしれない。怯む少年だったが、近づいてきた赤髪の男は呑気な口調でこう言った。
「この辺りで、メシの旨い店を教えてくれねェか」
「え、え……?」
「見ての通りオレはヨソ者でな。今到着したばっかなモンで、この街のどこに何があるか全然分からねェんだ。地図探すのもメンドくせーし……つー訳でよ、値段は気にしねェ。旨いモンをそれなりに出す店があったら教えてくれ」
近場に、自分では入ったこともない高級店がある。話せばそこで構わないとのことで、詳細な位置を説明した。赤い青年は適当な礼を残して、気だるそうに歩いていってしまった。どうやら本当に、おいしい店の場所を尋ねたかっただけらしい。
呆然とその後ろ姿を見送っていたところで、ビュウと一陣の風が吹く。
最初に彼が佇んでいた近辺の石畳から、黒い粉のようなものが宙へと舞い上がった。
「……?」
はっきりと確認する間もないまま、黒い何かは吹き散らされて消えていく。
と同時、焦げたような匂いが少年の鼻をついた。
辺りを見渡してみるが、誰かが焚き火をしている訳でもない。ちょうど昼飯時だ。どこかの家が、料理を焦がしてしまったのだろう。
食欲をそそるような香りではなかったが、そんなことを考えたら急に腹が減ってきてしまった。少年は昼食をとるべく、赤髪の青年に勧めた店とは縁遠い安さが売りの食堂へ足を向けるのだった。
見たことのないような料理ばかりだったが、確かに味は悪くなかった。食文化の違いからか、合わない味の品はとことん受けつけなかったものの、それもまた一興。
店員お勧めのセットメニューをあらかた食べ終えたディノは、レフェの特産だという赤緑茶を飲みながら一息つく。
店内は壁や柱が鏡張りとなっており、何とも奇妙な趣だった。少ない照明で明るく見せるためか、実は手狭な屋内を広く見せるためなのか。両方かもしれない。
「やあ」
椅子を引く音が早いか、腰掛けるのが早いか。
突然現れた一人の男が、まるで知り合いのように対面の席へと座っていた。
くせ毛の黒髪に浅黒い肌。細い面立ちながらどこか野性味のある、活力に満ちた顔つき。歳は三十そこそこといったところか。皺ひとつないチャコールグレーの礼服に身を包んでおり、一見すればやり手の富豪や社交的な貴族とも思える。
が、
「オルケスターか」
「まぁね」
ディノは呟き、男も頷く。
「白昼の街中で堂々と三人も殺しておきながら、何事もなかったかのようにランチタイム。手慣れてるね、ディノ君」
男は微笑みながら、席に備え付けられている赤緑茶のポットとカップを手に取る。
「圧倒的火力も然ることながら……何より驚異的なのは、状況を掴む能力の高さかな。真昼の往来、道行く者がさほど多くないとはいえ――消音の術を行使したとはいえ、その場にいた者たち全ての意識、視線が外れた瞬間に、三人を灰塵へと帰した。一瞬で、誰にも悟られずに。一人、異変を感じた少年がいたようだったけど……まさか、人が殺されていたとは思ってもみないだろうね」
そう言いながら、礼服の男は慣れた手つきで茶を注いだ。その仕草には気品が感じられる。家柄や地位のある人間なのかもしれない。
「おっと、自己紹介がまだだったね。オルケスター総団長補佐、デビアス・ラウド・モルガンティだ。宜しく」
デビアスと名乗った男は、完璧な笑顔と所作で茶をすすりながら微笑んだ。
「良ければ……ウチと事を構えようと思った理由なんかを聞かせてくれると、嬉しいかなと思うんだけど」
まるで職の志望動機を問うような口調だった。ディノは茶を一口、つまらなげに答える。
「そーだな……末端のザコですら投石砲なんてモンを扱える技術力に資金力……あとは総勢千人を超えるっつー組織力ってトコか。そこそこ、遊べそうだと思ってな」
「ふむ。『ペンタ』にそこまで評価してもらえたのなら、誇っていいことなのかな。これは」
デビアスは喉の奥で笑い、静かにカップを置く。
「ディノ君。ウチに入ってみる気はないかな?」
「ねェな」
「残念」
短い問答。双方共に最初から答えが分かっていながら、建前として交わした会話。
「さて……では君には『ハケて』もらうことになるが――この時期にレフェを訪れたということは、目当ては天轟闘宴かい?」
「ま、そーだな」
「出るからには優勝を狙うんだろう? 自信のほどは?」
「意識してねェな、別に」
優勝できるかどうか、ではない。優勝することは確定。負けるかもしれない、など発想すらしない。
腹が減ったから飯を食う。それと同じく、出場したならば優勝する。ディノにとって、それらは同列だった。
勝者となった結果、ディノ・ゲイルローエンの名が広まる。それこそが目的。少しでも楽しめる相手がいれば儲け物。その程度の認識でしかなかった。
「ハハッ! 『ペンタ』は自信家が多いものだが、君は別格だな! ウチのナインテイルが可愛く見える。彼女も大概だがね」
デビアスは膝を打って笑う。
「しかし……『ペンタ』であっても、そう易々と勝ち抜けるものではないよ。天轟闘宴という武祭はね」
「ふーん。そうあってほしいモンだけどな」
「さて……せっかく数年に一度の催し。我々も、存分に楽しむつもりでね」
「ほう。オメーが出るのか?」
「――いや。君の後ろにいる、彼が」
言葉と同時だった。
ディノの両肩に、ズシリとした重量がのしかかる。
対面に腰掛けるデビアスの向こう。鏡張りとなっている大きな支柱に、ディノの両肩へ手を置く大男の姿が映っていた。
縦にも横にも大きい。身長は二百三十センタルといったところか。しかしアルディア王のような鍛え抜かれた巨大さではなく、不摂生の末に肥え太ったとしか思えない大きさ。坊主頭が印象的な顔も丸々と肉づいており、むくんでいるのかと錯覚するほど。
その身を包む黒の礼服は、今にもはち切れそうになっている。アルディア王が獅子ならば、この男は卑下でなくとも豚だった。
「……何だァ、こん小僧。脆そうだぜ。オイが後ろに立っても気付かねぇしよォ。オイがわざわざ相手するような奴かァ? デビアスさんよォ」
見た目通りの太く間延びした声で、大男が嘲笑する。
「んー? オレはもう腹イッパイだぜ。ブタを追加注文した覚えはねェんだが……自分で焼いて食えってか?」
振り返りもせずディノが笑うと、その両肩にかかる重圧が増した。
巨漢の大きな手のひらに力が込められていく。常人ならば、肩や背骨が軋みを上げるほどの重み。しかし微塵も気にかけず、炎の『ペンタ』は茶をすする。そんな超越者に、デビアスは友人を紹介するような気軽さで目を細めた。
「彼はチャヴ・ダッパーヴ。元々、今回の天轟闘宴に参加させるつもりでね」
「ふーん。で、このブタをオレにぶつけると」
「その予定だけどね。けど、何が起こるか分からないのが天轟闘宴という武祭だ。そもそも、二人が遭遇しないまま終わってしまう可能性だってある」
ぐいと残りの茶を飲み干して、紳士は席を立った。
「まっ、天轟闘宴で会ったなら一つ、宜しく頼むよということで。簡単な挨拶になったけど、これで失礼するよ。行くぞ、チャヴ」
商談をまとめたかのようなさわやかな笑みすら残し、デビアスが踵を返す。
と同時、ディノの両肩から重みが消えた。
「小僧ォ。今のうちに、遺言でも考えておきなァ」
「オメーは焼き加減でも決めとけよ。注文通りに仕上げてやる」
互い、鏡張りの支柱に映る相手の顔を一瞥し、邪悪な笑みを浮かべる。
チャヴはフンと鼻を鳴らして、重量感のある足取りでデビアスの後へと続いていった。
(ただのブタ……かと思ったが、牙の生えたイノシシってトコか)
鏡越しにチャヴの後ろ姿を眺めながら、ディノは大男をそう評価した。少しはマシなのが出てきたか、と目を細める。掴まれた感触の残る肩を傾けて、バキリと鳴らした。
(にしても――)
分からないのは、デビアスという男の真意だ。
死者が出ることも珍しくないとされる天轟闘宴。この武祭にチャヴを参加させ、公然とディノを始末する。
(ソレが狙い……じゃねェわな)
デビアスはチャヴの紹介に際し、「元々、今回の天轟闘宴に参加させるつもりでね」と言っていた。ディノに出会おうが会うまいが、最初からチャヴを出場させる予定だったということになる。
あのデビアスは自らを総団長補佐だと自称した。倒された仲間の状況から相手の実力を推し量ることすらできない、今までの下っ端たちとは違うだろう。ディノの実力も、ほぼ正確に把握しているはず。その程度の頭脳や技量はあるように思えた。となれば――
別に何らかの思惑があり、チャヴを出場させる。そして『ついで』で、ディノを始末しようと考えている。
「……ハッ」
――このオレを二の次扱いか。
少なくとも退屈はしなさそうだ、と紅蓮の男は笑みを深めていた。
昼時の雑踏を、礼服姿の二人が行く。
「チャヴ。どうだ、ディノ・ゲイルローエンは」
「意外でしたわァ。細っけぇ典型的な詠術士かと思いきや……ありゃ、身体強化が並外れてますぜ。ちっとばかし力込めてやったんですが、ビクともしねェ」
「へえ?」
それは確かに意外だ、とデビアスは相槌を打った。
『ペンタ』とは、生まれ持った膨大な力を思いのままに振るう者。身体強化など、そもそも扱おうと考えすらしないはずだ。同じ超越者にしてオルケスターの一員である、ナインテイルを見ていればよく分かる。
いかにも刹那的な思考を持っていそうな若者――らしき見た目に反して、堅実かつ慎重な性格なのかもしれない。人は見かけによらないな、とデビアスは大仰に頷いた。強そう……というより、事実強いはず。オルケスターきっての武闘派、それこそナインテイルやテオドシウスあたりが喜んで殺したがる手合いだろう。
「おっと、チャヴ。クィンドールにしなきゃならん連絡を忘れてた。先に行っててくれないか」
「あいよォ」
デビアスは思い出したように足を止め、連れの巨漢を先行させる。身体の大きなチャヴには威圧感があり、道行く人々は怯えたように道を空けていた。デビアスは対照的に自ら人の波を避け、壁を背にして通信の術式を紡ぎ始めた。
『俺だ』
待たずして、通信の向こうからオルケスターの長であるクィンドールの無感情な声が響く。
「やあ。デビアスだ」
『どうかしたか?』
「ああ、天轟闘宴の件だけど……アレをやるついでに、お前から言われてたディノの件も片付けることにしたよ。武祭に出るんだとさ、彼」
『ディノの件? ディノって何だ? 何の話をしてる?』
「おいおい、お前が命令したんだろう? 盾突いてるディノって『ペンタ』がいるから、片付けとけって」
『あぁ……? そうだったか? ああ、そうだった気もするな』
話を合わせるために生返事をしているのが丸分かりだ。
この男も表向きは実業家、裏は千人からなる組織を束ねる多忙な身。たかだか『ペンタ』一人の存在など、記憶の片隅にも残っていないようだった。
いつも通り適当な相棒に、デビアスは苦笑を返す。
『まぁそんな事よりよ、大事なのは天轟闘宴だ。アレ、しっかり頼むぜ』
「承知してるよ」
しかし実際のところ、クィンドールの言う通り。ディノの件は正直、ついでにすぎない。彼が天轟闘宴に出場するとのことで、手間が省けたというだけの話だった。
今回の目論みが成功したならば――全てが変わる。常識が覆る。
その結果、世界はどのような変革を遂げるだろう?
想像さえつかない未来を思い、デビアスは柄にもなくかすかな緊張と高揚を感じていた。