167. 集結
翌日。時刻は、午前十時を少し回ったところ。
宿の一階にある酒場にて、流護とベルグレッテ、ミョールの三人は、茶菓子を楽しみながらの談笑に興じていた。
「じゃあミョールは、昼食ったら天轟闘宴の登録に行ってくんのか?」
「うん! 行ってくるよー!」
マント姿の女詠術士は鼻息荒く頷いてみせた。
開催も五日後に迫った、第八十七回・天轟闘宴。登録受付は二日前までだそうだ。早めに済ませておくに越したことはないだろう。
流護とベルグレッテは今日も桜枝里に会いに行くが、さすがに明日は帰る予定とした。となれば必然、ミョールとも明日には別れることとなる。彼女が天轟闘宴で活躍する様子を見ることはできない。
ミョールに桜枝里に……こういった出会いと別れも、この世界にはつきものなのかもしれない。
特に旅の途中で知り会った間柄であるミョールとは、これきり二度と会うことはないかもしれないのだ。
詠術士は魂心力の波長を認識し合うことで、互いと通信を交わせるようになるという(流護には全く理解できない感覚だが)。しかしベルグレッテもミョールも通信に突出した技量を持ってはいないため、距離を考えれば別れた後に連絡を取り合うのは不可能に等しいとのことだった。手紙のやり取り程度なら何とかできるかもしれないそうだが……。
「二人は、昼過ぎになったら巫女様のところに行くんだよね?」
菓子をつまみながら言うミョールに頷く。
「よーし……じゃあ今夜はさ、バーッとやろうよ! 出会いと別れと、あたしの……あとゴンダーさんも、天轟闘宴参加を祝してとか、色々全部ひっくるめて!」
「はは……それもいいっすね」
「んっふっふ。王都に戻ってから、風の噂に驚くといいよ。第八十七回・天轟闘宴勝者の名前が、このミョール・フェルストレムであることに!」
胸を張る彼女の横に、スッと忍び寄る影が一つ。
「む。残念だが、覇者の名はゴンダー・エビシールとなろう」
口布の傭兵兼宿屋の店員こと霧氷の術士が、得意げに腕を組んでいた。
「冗談はともかくとしてさ、実際に優勝候補とかいんの?」
「リューゴくんひどっ!」
「む……言ってくれるな」
参加者の二人が苦笑しながら抗議する。
レフェ最強と名高いドゥエン・アケローンが不参加とはいえ、各地から屈強な詠術士たちが集うとされる武祭。出場人数も過去最多が見込まれているそうで、熾烈な争いになることは想像に難くない。
優勝がいかに困難なことであるか、考えるまでもないだろう。
事情に通じているのか、ゴンダーが思案するように語り始める。
「やはり今回……最も注意すべきは、魔闘術士か。十名程の徒党を組んで参加するようだ。個々の能力も高く、それだけでも厄介だが……奴らの頭である、ジ・ファールという男。これが、途轍もない使い手だと聞き及んでいる。私とて、正面からぶつかれば勝機は薄いであろう。ミョール嬢も、努々気をつけることだ」
うへー、と苦い顔を見せる金髪の女詠術士。
しかし実質、何でもありのバトルロイヤルだ。仲間内で徒党を組んだなら、格段に有利となるだろう。魔闘術士の戦法は、卑怯に見えるようで理に適っている。そのうえで個々の実力も高いとなれば、優勝候補と目されるのは当然か。
「後は恐らく……『十三武家』からも、誰かしらが名乗りを上げる筈。厄介な相手となることは間違いない。他には、常連のバダルエ・ベカーにグリーフット・マルティホーク……加えて、今回はトレジャーハンターとして有名なサベル・アルハーノと、ジュリー・ミケウスも参戦すると聞いている。この二人は初参加ゆえあまり知られていないが、充分に優勝を狙える実力者といえる」
「ふむふむー」
「なるほどな」
レフェの特産であるという赤緑茶(とても辛い)をすすりながら、二人は何の気なしに頷いていた。ぐいと飲み干したミョールが、ふと満足げな表情で天井を仰ぐ。
「……まー、天轟闘宴がどうなるかは分からないけど、でも……あたし、ここまで来てよかったよ」
「ミョール?」
しみじみとした口調で言う女詠術士に、流護は怪訝な目を向ける。
「だってさ、リューゴくんとベルグレッテちゃん、それにゴンダーさん。こんなふうに友達ができて。どんな結果になろうと、帰ったら妹に自慢するね!」
眩しい笑顔に少し恥ずかしくなった流護は、「そ、そっすか」と顔を逸らした。
「あっ。リューゴくん照れてる照れてる~」
「照れてないっす!」
しばし、歓談の時間は続いた。
――時を同じくして。
武の祭典に参加するべく、様々な戦士たちがこの首都ビャクラクへと集いつつあった。
「もし。そこなお嬢さん」
呼び止められた新人ウェイトレスは、かけられた声に振り返り――そのまま硬直した。
恐ろしくなるほど美しい男だった。
歳は二十歳ぐらいか。赤茶けた癖の強い髪は肩口まで伸ばされており、長い睫毛に覆われた形のいい双眸が特徴的だ。鼻は高く、唇は思わずドキリとするほどに瑞々しい。中性的なその容姿は、まるで美の神が手がけた工芸品のよう。
革の胸当てに、黒の長いマント。旅人のような装いをしているが、それでも華奢なまでの線の細さが窺える。少々野暮ったい冒険者の装いはしかし、その美貌を翳らせるに至らない。
椅子に座っているため正確には分からないが、背も高そうだ。二マイレは優に超えているかもしれない。
「注文、宜しいかな。お嬢さん」
「あ、は、はい! お決まりでしょうか!」
思わず見とれてしまっていたウェイトレスは、慌てて注文を取りに向かった。
「ホットコーヒーと……この、レフェ黒牛の……フィレ……ステーキを」
「はい。ホットコーヒーと、レフェ黒牛のフィレステーキですね。焼き加減はいかがなさいますか?」
「…………」
そう尋ねると、青年はしばし沈黙し――
ほろり、と。
彼の頬を、一筋の涙が伝った。
「えっ!? あ、あの……?」
慌てるウェイトレスから顔を背け、男は目頭を押さえる。
「失敬。僕は……つい、考えてしまうんだ」
「は、はい……?」
「僕が注文しようとしているこの牛は、こんな……殺されて、焼かれて、僕に食べられてしまうなんて、そんな未来……想像すらしてなかったんじゃないかなって。それを思うと、僕は……僕は……っ、お、おおぉぉ……」
そこで青年は口元を押さえ、静かに泣き出してしまった。
(ど、どうしよう……)
予想もしなかった事態に、新人娘は動揺する。
この店で働いて一ヶ月。様々な客を目にしてきたが、これは中でもとびきり異質だ。酒に酔っているようでもない。
店長を呼んだほうがいいのだろうか、と途方に暮れ始めたところで、
「あっ……肉は、ウェルでお願い」
思い出したように顔を上げた青年は、晴れやかな笑顔となっていた。
「は!? はっ、はい、ウェルですね。で、ではご注文を復唱させていただきます――」
どう見ても変人だ。
しかし突然の笑顔に胸が高鳴ってしまったウェイトレスは、ええいドキドキするんじゃないと自分を罵りながら注文を復唱するのだった。
離れた席で、そんな様子を見ていた男が二人。
不精ひげを疎らに生やした小太りの男――ガドガド・ケラスは、白江魚のムニエルをがっつきながら舌を鳴らした。
「ケッ。何ですかね、あのいけ好かねぇ優男は」
容姿にも食事作法にもおよそ品の感じられない粗野な印象のガドガドだが、その顔には若干の幼さが残っている。歳は十七かそこらだろう。だろう、というのは年齢を正確に数えていないからだ。
「給仕も給仕だ、尻軽女め。俺っちに注文取りに来た時とは、まるで態度が違うじゃねぇか」
グチグチと続く小男の悪態に、同席している兄貴分――ひげ面でやや痩せぎすのラルッツ・バッフェは溜息をついた。歳はガドガドより一回り上程度。三十年は生きている気がするが、やはり年齢などまともに数えていない。
ショットグラスを片手に、飄々と言い捨てる。
「そら仕方ねぇだろ。薄汚い山賊にしか見えねえお前と、美術館の彫刻みてぇな男前の兄ちゃんじゃ、誰だって兄ちゃん贔屓になっちまうさ。俺だってそうするさね」
「そりゃねぇよ、兄貴ィ……」
ガドガドは弱々しく抗議した。
実際のところ。山賊にしか見えないどころではなく、ガドガドは――二人は、元山賊だった。
一口に山賊といっても、様々である。
かつて二人が所属していた山賊団は、殺しご法度の比較的穏やかな一団だった。ラルッツも典型的な転落人生を歩んで山賊に落ちぶれた身ながら、無為な殺しはよしとしない性分だったため、気の合う仲間たちとそれなりに充実した日々を過ごしていた。
おかしくなったのは、そう――団が、オルケスターと名乗る連中とかかわりを持つようになってからだ。
よくは分からないが、自分たちを『演出者』などと自称する気取った集団だった。
抜けた今となっては知ったことではないが、かつての団はすっかりオルケスターに吸収され、殺しでも何でもやる外道集団に成り下がってしまったと聞く。
かの演出者連中は、金も力も持ち合わせていた。
しかし何より異質だったのは、あの――
(……考えられねえ。確か、セプティウスとかいう……、見たことねえ。あんな簡単に、人を……いや、よそう)
思い出したくもない。慌てて思考を逸らす。
ともあれ急速に変質していく団から抜け出したラルッツは、ついてきたガドガドと二人、放浪しながら細々と傭兵稼業などを営んでいた。
そんな最中、ふらりと訪れたレフェで催された、前々回の天轟闘宴。腕っ節に自信がない訳でもない。ダメ元で参加してみたところ、神の思し召しかラルッツが敢闘賞を受賞。百五十万エスクもの大金を獲得することとなった。
そうして味を占めてしまったのは言うまでもなく。
当然のように何の成果も得られなかった前回のことはきれいさっぱり忘れて、今回も参加するべく首都入りを果たしたところである。
目指すは、前々回のような一獲千金。こんな行き当たりばったりを繰り返しているから、山賊などに落ちぶれてしまったのだ。無計画のその場しのぎ。しかし分かっていてもやめられない。賭博狂いの連中だって同じようなもの、人間の本質なんてみんな一緒なんだよ――とラルッツは自分に言い訳する。
ともかく、三度目の出場となる天轟闘宴。この食事を終えた後、参加登録をしてくるつもりだった。気分はすっかり常連である。
「ん~……?」
ラルッツは目を細めて、先ほどの――離れた席に座る優男を眺める。
線も細く、顔だけで売っている吟遊詩人のような風貌だが、その装いは旅慣れた冒険者のものだ。天轟闘宴の参加者である可能性が高い。
「お待たせいたしました。レフェ黒牛のフィレステーキ、ウェルでございます」
「あっ……ありがとう」
嬉しそうに料理を受け取った優男は、ナイフとフォークを手に取って――
「あ……うっ、うああ……こんな、こんな姿になってしまって……ぃひいい……」
ステーキを前に、涙を流し始めた。
「……な、何なんですかねぇアイツぁ。妙なクスリでもやってんのか……?」
訝しげに眉をひそめるガドガドの言はもっともだ。料理を前に一人でしゃくり上げている図というものは、いかな男前であってもいささか珍妙にすぎる。
「くっ……名も無き牛よ。僕のために、ありがとう。君の死は、僕の……グリーフット・マルティホークの確かな糧となることを、創造神に約束するよ……」
「!」
青年の言葉を聞いて、ラルッツは危うく手にしたショットグラスを落としかけた。
「グリーフット……マルティホーク…………だぁ!?」
「んあ? どうかしたんですかい、兄貴」
顔色を変えるラルッツとは対照的に、ガドガドは料理を汚く頬張りながら呑気に問う。そんな弟分に、ラルッツは声を潜めながらも噛みつく勢いでまくし立てた。
「バ、バカ野郎! グリーフット・マルティホークつったら、前々回……俺達が出場した回の、準優勝者だろうがよ!」
「ふげぇ!?」
ガドガドが料理を喉に詰まらせたのか、激しく咳込んだ。
「名前だけは知ってたが……初めて見るぜ。あんな優男だったのか……」
やたら上品な所作で、泣きながらステーキを切り分けるグリーフット・マルティホーク。そんな青年を見やりながら、ラルッツは苦々しく呟く。
前々回。五年前に開催された天轟闘宴。
ドゥエン・アケローン不在の『当たり回』でありながら、遥か西のバルクフォルト帝国擁する『ペンタ』、当時弱冠十三のレヴィン・レイフィールドが急遽参戦し、そのまま優勝をかっさらっていったことで有名な回。
そのレヴィンを相手取り、最後まで残っていた男。それがグリーフット・マルティホーク。
このグリーフットと対峙した当の若き『ペンタ』は、
「恐るべき氷術の使い手でした。文字通り、背筋が凍りつきました」
とのコメントを残している。
(当時いくらガキだったとはいえ、『ペンタ』にそこまで言わせるなんて……どんだけの使い手なんだよ……)
ラルッツは腕にイボが浮かぶのを自覚した。
形としてグリーフットは『準優勝』となったが、天轟闘宴に準優勝の褒賞は存在しない。最後に残った二人のうち片方が、「準優勝でも賞金が出るから」と戦闘放棄することを防ぐためだ。
勝って一千万エスクと望むものを手に入れられる権利を得るか。負けて何も得られないまま去るか。最後まで残った二人には、そんな究極の二択が待ち受けることになる。
……とはいえ実際のところ、準優勝――最後の二人まで残るような強者の場合、結局は他の賞を授与されることも多い。
グリーフット・マルティホークの場合は――
「あんなのが『撃墜王』……? 信じられねぇよ、兄貴ィ」
撃墜王。その名の通り、最も多くの敵を撃破した者に授けられる賞だった。
様々な強者蠢く、武闘の宴。その中でより多くの戦士たちを倒し、最後の最後まで生き残ったその青年。
ひたすら逃げ、あるいは隠れ、漁夫の利に徹していたラルッツたちにしてみれば、グリーフットなどもはや理解の及ばない怪物にも等しかった。
「へっ……だがよ、天轟闘宴ってのは、必ずしも強い奴が勝つ訳じゃねえ。巧く立ち回った奴こそが有利なんだ」
「そ、そうですぜ、兄貴ィ」
すでに過去最多の参加人数が見込まれている、今回の天轟闘宴。
出会った相手と闘って、倒して……などと馬鹿正直に繰り返していては、早々と力尽きることになってしまう。
闘いの舞台となるのは、『無極の庭』と呼ばれる広大な森だ。幸いにして、身を潜める場所には恵まれている。
隠れて、逃げて、やり過ごす。弱った相手を見つけ、確実に倒す。それはある意味、天轟闘宴における基本中の基本。以前もそこを評価され、敢闘賞を獲得したのだ。
特に参加者の多い今回は、いかにして闘わず、消耗せず生き残るか。それこそが、今まで以上に肝要であるともいえた。正面からまともに闘うなど、頭の中まで筋肉が詰まっている馬鹿のやることだ。
「うおーし……今回こそは、何でもいい。適当に入賞狙ってよ、稼いで帰るぞガドガド。人数も多いしな、上手くいきゃ初撃破賞だって取れるかもしれねぇ。あそこにいるグリーフットの兄チャンが、次々と邪魔な奴らを蹴散らしてくれるだろうしな」
「お、おうよ兄貴ィ!」
ここでグリーフットの参加を知り、顔を覚えることができたのは大きい。
知らずに遭遇した相手が実はグリーフットでした、あっさりやられて終わりました――といった事態を防げるからだ。
泣きながらステーキを頬張っている撃墜王を睨みながら、元山賊の二人は意欲を高める。
……それは、まあ。絶対にこの男と当たらないようにしよう、という後ろ向きなものではあったのだが。
男の人生は、賭けの連続であった。
「――はっ、ひっ!」
喘ぐように身を起こせば、自分の寝室。
枕元の高価な置き時計を確認する。すでに昼前。またしても悪夢に苛まれ、なかなか寝付くことができなかった。全身に厭な脂汗が滲んでいる。
「ふっ……、はぁっ……」
未だに。
あの光景が、この身を苛む。安眠を妨げ続ける。
『そりゃつまり……今この場で、大暴れしちまってもイイってぇことだよな?』
あの怪物の不敵な顔を思い出す。獣のごとき血走った瞳、黒く隆起した肌、圧倒的な殺気を思い起こす。
他に知らない。あれほどの暴力を持つ人間を。
術すら使わずに敵と渡り合い、圧倒するあの怪物を。あっさりと人を『損壊』させてしまう、あの異常な黒き巨人を。
あれはもはや、人ではない。
ドゥエンが最強? 馬鹿を言え。単純な強さでいえば、あの怪物を上回る人間など存在しないと断言できる。どいつもこいつも、考えないようにしているだけだ。あの『闇』を、見なかったことにしようと……忘れようとしているだけ。
神の憐憫である巫術、そんな恵みに頼らずとも生き抜ける、真に選ばれし者。闇だ暗部だと蔑まれていながら、あの男こそが神に選ばれた存在なのだと断言できる。ガイセリウスの生まれ変わりだと言われれば納得するほどだ。
あれを御することができるか否かは、それまでの人生でも最大の賭けだった。あの交渉、正直生きた心地がしなかった。あの恐ろしさを知らない無能共は、未だに自分を批判する。
「ひ、ひひ……」
だが。
あの賭けには勝利した。
「お、恐れることはない……」
男の人生は、賭けの連続であった。
今回も勝たせてもらう。じき、悪夢に苛まされる現実も終わりを告げる。
そして。
「サエリ……、ひひ、ひ」