155. 『神域の巫女』
もう何時間、馬車に揺られ続けているのだろうか。
現代日本からやってきた有海流護にとっては、まだまだ慣れそうにない長時間の移動。本来であれば疲れも出てくるはずだが、今は逸る気持ちのほうが上回っていた。急いでも仕方がないと分かっていても、やはり落ち着かない。
気を紛らわすべく、窓の外へ目を向ける。
この世界では昼の神として認識される太陽が、連なる山々の向こう側へ帰ろうとしていた。未だ明るい空では、夜の女神たる月がうっすらとその巨大な姿を輝かせ始めている。
風景は広大な草原が続くものの、初めて見る樹木や大きな岩山、台地がそびえ立つ景観へと変わりつつあった。王都周辺では見られぬ景色に、遠くまでやってきたことを実感する。
やたら巨大な角を生やした鹿らしき動物が、集団で草の大地を駆けていく。
……俺もあんな風に急いで走っていきたい。
「リューゴ、大丈夫? もっと気楽に構えたほうが……」
「ん? あ、おう……」
焦りが顔に出てしまっていたのか、ベルグレッテが気遣わしげに声をかけてきた。流護は身体をひねり、パキパキと鳴らしながら大きく伸びをする。
引き続き外を眺めながら、何となくベルグレッテに尋ねた。
「えーと……この辺は、どこなんだ?」
「んー……もうシンスティー領かな。今日は、エウロヴェンティの街で一泊になるわね」
「そうか……」
聞いたところで全然分かりもしない。無駄な問いかけをしてしまった。
落ち着こうと深呼吸しつつ、窓の外に向けていた視線を対面のベルグレッテへと移す。
藍色の長く美しい髪と、整いすぎるほど整った顔立ち。少しつり目がちな、薄氷色の瞳をした少女。
普段は着ている服も青色を基調にしたものが多く、全体的に蒼玉のような印象を与えてくる少女騎士だが、今の彼女は、流護がこれまでに見たことのない装いをしていた。
首に巻いて背中へと垂らした、大きな黒革のマント。同色の鞄が、たすき掛けに肩から下がっている。その身を包むのは、ひと繋ぎの茶色いレザージャケット。裾から素足が覗いてはいるものの、学院の制服より遥かに丈が長く、膝ぐらいしか露になっていない。ややごてごてしいワンピース、といった印象だろうか。その膝から下は、丈夫そうな編み上げロングブーツがしっかりと覆っていた。
明らかな旅人の出で立ちである。
しかしそれは、流護もまた同じ。麻で編まれた茶色い上衣に、動きやすさを重視した丈太の黒い脚衣。作業用の太いズボンのような感じだった。あまり衣服には頓着しないほうだが、曲がりなりにも格闘技者として、一応下衣には気を使う。現代日本にいた頃も、脚の動きを阻害しやすいジーンズの類はほとんど穿くことがなかった。
そんな訳で今は、どこにでもいる平民のような格好をしている流護だったが、通常とは明らかに異なる点が一つ。
両腕を包む――灰色の手甲の存在だ。邪竜ファーヴナールの外皮を利用して作られた、地味な装いの防具。手首から肘にかけてをぐるりと覆っているだけで、指や甲は剥き出しとなっている。指を使えるよう――装着したままでも日常生活に支障が出ないよう、利便性を優先した造りに仕上げてもらっていた。
対面に座るベルグレッテ同様、流護も手ぶらではない。買ったばかりの安革の鞄が座席に置いてある。この中には、ある重要な文書が仕舞われていた。
馬車が下り坂へと差しかかり、速度がわずかに上昇した。
「あ。街の明かりが見えてきたわね」
「おお」
ベルグレッテの声に目を向ければ、道の遥か先に広がる膨大な数の建物群。さすがに王都ほどではないだろうが、ディアレーの街より大きいかもしれない。
……今日は、あの街で一泊になるのか。
流護はそんなことを思いながら、もどかしい気持ちで街明かりを眺めていた。
――と、いう訳で。
流護とベルグレッテの二人は、遥かなる旅路の途中なのだった。
時は遡る。
『ニホン、って知ってるか?』
朝、ミディール学院の中庭にて。
アルディア王が発したその言葉に、流護とベルグレッテは絶句した。
なぜ王の口から、その単語が出てくるのか。
そんな二人の動揺を感じ取ったのか否か、アルディア王はとにかくだ、と言を繋ぐ。
『詳しいことは会ってからにするか。では、待っとるぞ』
まさか流護の素性が――記憶喪失の嘘が、ばれてしまったのか。
そんな懸念を抱きつつ王都へ……城へ向かう二人。
高速馬車で駆けつけて、長い階段を全力で走り抜けて、半ば息を切らしながら謁見の間へ到着する流護たちだったが、そこには誰の姿もなかった。
近場にいた兵士へ報告し、待つことしばし。
アルディア王が、もっしゃもっしゃとリンゴをかじりながら登場した。
「おー、悪い悪い。早めの昼飯だったからよぉ。しっかし早かったな、お前ら。そんなに急がんでもよかったんだが」
……緊張感がない。流護の素性が云々、というような緊迫した話ではないようだ。
――結果としてみれば。
それから語られた話は、流護にかつてない衝撃を与えることとなったのだが。
どっしりと玉座に腰掛けたアルディア王は、リンゴの芯を噛み砕きながらいつも通りの軽い口調で問う。
「リューゴはよ、レフェの『神域の巫女』のことは知ってたっけか?」
「しん、いき……? いえ」
『神域の巫女』。
東の隣国であるレフェ巫術神国において、神聖な象徴として崇められる存在。
遥か古の時代、度重なる騒乱や怨魔の跋扈によって滅亡の危機に瀕したレフェは、どこからともなく現れた一人の女性によって救われたのだという。
救世主とでも呼ぶべきその女性こそが、初代『神域の巫女』。
やがて彼女は選び抜いた才覚ある一人にのみ己が力を伝え、その者が二代目の巫女となった。新たなる巫女もまた同様に後世へと力を継承し、そうして『神域の巫女』は脈々と受け継がれていった。
嘘か真かも定かでない、そんな古い伝承。
この伝説に端を発して、レフェでは民の中から若い女性を一人選出し、巫女として城に住まわせ、特殊な修業を積ませる――というしきたりが今もなお続いている。
「はー……何だか壮大っていうか……凄そうな話ですね」
歴史の成績がいまいちだった流護としては、出てくる感想もパッとしないものだった。
「がははは! まぁ、小難しい話に思えらぁな。ここまではよ」
ところが、そのような名目で『神域の巫女』が選出されていたのも今は昔。
昨今ではその意味合いも薄れてしまっており、修業に嫌気の差した巫女があっさり逃げ出しただとか、エロ貴族お気に入りの女が贔屓で巫女に選ばれただとか、果ては一年の間に十回も巫女が選び直されただとか、もはや神聖な象徴とは呼べないものになってしまっているのだという。
それでもまだ、国民たちの間では崇めるべき対象として信仰されているものではあるらしい。……しかしそれも、巫女が美人であればあるほど人気が高いとのことで、理由がやや不純だ。
どうも話を聞く限りでは、神秘的な巫女――というより、現代日本で例えるところのアイドルに似た扱いとなっているようだ、と流護は認識する。
「で、だ。リューゴは、こういうモンに興味あるか?」
そう言って王は、羽織ったガウンの内側から無造作に本を取り出す。巨大な王が手にすると小さく見えてしまうその本を受け取ってみれば、それは――
「これって……え、『とても怖いゴーストロア』……?」
お騒がせ元気娘ミアも愛読の月刊広報誌、通称『とてゴー』。その最新号だった。
流護も既刊をミアから借りて読んでみたが、感想は「うさんくさい」の一言に尽きる。暇潰しにはなるし嫌いではないのだが、とても一国の主が読むようなものとは思えない。
「八十四頁だ」
しかし王はページまで覚えてしまっているようで、言われるままに本を開いてみると、そこには『特集・神域の巫女』の文字がデカデカと踊っていた。
内容はこうだ。
水過の月、十七日。レフェ巫術神国において長らく不在だった『神域の巫女』が、ようやく新たに選出された。その名はユキザ・キサーエリ。黒い瞳と白雪のような肌、背中まで伸ばした艶やかな黒髪が印象的な、儚くも美しい少女である。清楚な印象で、年齢は十七とのこと。色々な意味で旬といえよう。
「黒い瞳に、黒い髪……」
横から本を覗き込んでいたベルグレッテが、ぽつりと呟く。
アルディア王が「うむ」と大きく頷いた。
「リューゴと同じだろ。名前の響きも、どことなく似てねえか? ユキザ・キサーエリ。アリウミ・リューゴ。ちょっと無理矢理か、がははは」
「う~ん……」
ユキザ。キサーエリ。
うん、ないな。……それ以前に、
「黒い目と髪って、そんなに珍しいんですか?」
「うむ。お主のように目も髪も真っ黒、という者は珍しいな。レインディール人でも、レフェ人でもねえ」
「そうですね」
ベルグレッテも頷く。
「顔立ちとしてはロックウェーブもお主に共通する雰囲気は感じるし、確かレオの所の女中がリューゴと似たような感じの黒髪だった覚えはあるが……まあいい。続き、読んでみな」
アルディア王に促され、流護は紙面に目を落とす。
――今回の巫女は本物だ。関係者の間では期待が高まっている。
まず一つ、ユキザ嬢がどこからともなく現れたという点。
時は水過の月、三日。その晩、夜空が青く瞬いた。『神々の噴嚏』である。目撃した者によれば、瞬きが収まった直後、彼女は突如として街の広場にその姿を現したというのだ。実に不可思議かつ、神秘的な現象である。
そして何より特筆すべき点だが、ユキザ嬢は決して神詠術――レフェにおいては巫術と呼称されているが――を使おうとしないそうなのだ。
神のごとく降臨し、ガイセリウスのように神詠術を使わないというその在りようからは、まさしく選ばれし者としての風格が感じられよう。
『私、がんばります!』
やる気に満ち溢れた今代の巫女に、周囲の期待は最高潮だ。
長き歴史を誇るレフェ巫術神国。新たなる伝説の幕開けは、すぐそこまでやってきているのかもしれない――。
「…………、」
流護は息をのんだ。
黒い瞳と髪だけならまだしも、これは――
「勢いだけで書いてるような広報誌だしな、脚色もしょっちゅうよ。まぁ、読む方もそれを分かって楽しむ本なんだが……それでも、神詠術を『使えねえ』リューゴと共通する部分があるように思えてよ」
「……そう、ですね」
それだけではない。
いきなり街の広場に現れたという状況も、気付けば草原で立ち尽くしていた流護とよく似ている。
普通であれば適当な記事……として切り捨てるのかもしれないが、現代日本からやってきた少年としては無視できない。
「でな、本には書いてねえんだが……実はな、ちょっくら噂を聞いたんだよ。そのユキザ・キサーエリちゃんが、『ニホンがどうのこうの』って言ってたってな」
「…………」
流護とベルグレッテは、顔を見合わせて押し黙った。そんな二人に、アルディア王はニヤリとした笑みを浮かべて言う。
「心当たりあるんだろ? ニホン、って言葉によ」
「……!?」
そう。通信でもそうだったが、なぜアルディア王がその単語を知っているのか。
ぎくりとした流護は動揺のあまり、何も考えずに喋り出していた。
「なな、何が二本なんすかね。一本じゃいけないんすかね」
「がははは! オトコはデカくてカテぇ一本がありゃ充分だわな! ま、そうトボけんなって。お前さんの記憶に繋がるかもしれねえ言葉なんだろ? 実は少し前、学院長から聞いててな。俺に『ニホンって知ってる?』とか訊いてきことがあるんだよ」
「!?」
もっと悪い。
一体いつの間に、『日本』という言葉を聞かれていたのか。まさか学院長に初めて会ったあの日、ベルグレッテやミアとの会話を聞かれていたのか。
幻覚対策の合言葉にしようとしていたのに、油断も隙もあったものではない。
「学院長は……他に、何か言ってましたか?」
「くく。そんだけだよ。よく分かっちゃいなかったみてぇだぜ。でもまぁ、気をつけろよぉ? 学院長には、いつどこで何を聞かれとるか分からんぞ? 実は今も俺と話してるつもりで、お前さんの前にいるのは学院長かもしれねえな! がははは!」
楽しそうに呵々と笑うアルディア王だったが、正直シャレになっていない。流護は思わず背筋をヒヤッとさせてしまった。
「まぁ、そういう訳でな。今回の『神域の巫女』は、お前さんの同郷なんじゃねえかと思ったんだ」
「うーん………、!」
王の話を聞きながらページをめくっていた流護は、その記事に思わず手を止めた。
ユキザ嬢の素顔に迫る! などと書かれたそこには、巫女の趣味についてあれこれ書かれていた。どこまで本当なのか、面白おかしく書き立てられているその文章。その中に――
巫女は歌が得意だそうで、彼女がよく歌うという曲が、楽譜らしきものと共に歌詞つきで載せられている。たどたどしい平仮名で。
(…………これは、……間違いねえ)
ユキザ・キサーエリ。
名前は上手く伝わっていないようだが、完全確定だ。
この少女は――有海流護と岩波輝以外でこのグリムクロウズへと迷い込んだ、日本人。
(……日本人、か……)
三人ともが日本人なのはどうしてなんだろう、などと流護が考え込んでいると、
「リューゴよ。行ってみるか、レフェに」
アルディア王が、思いもよらない提案を持ちけかた。
「へ、陛下っ……?」
流護はもちろんのこと、ベルグレッテが信じられないものを見るような瞳で主君を仰ぐ。
「実はよ、レフェの知人に渡したいモンがあってな。近々遣いを出すつもりではいたんだが、ついつい後回しになってたんだ。テロもあったしな。ちょっくら頼まれてみねぇか? んで、ついでに『神域の巫女』にも会ってみりゃあいい。同郷かもしれねえ人間に会えば、何か記憶の手掛かりが得られるかもしれんぞ?」
流護にしてみれば、願ってもない申し出だった。
ロック博士ですらお手上げな以上、帰る手がかりについてはあまり期待しないが、ここへやってきた当時の状況などは聞いてみたい。
記事によれば、巫女は水過の月の三日に現れたと書かれている。流護がこの世界へやってきて、およそ一ヶ月後だ。今から約一ヶ月前でもある。流護とほぼ同時期にこの世界へやってきた、と言い換えてもいいだろう。似たような境遇かもしれないし、何より同じ日本人に会ってみたいという思いがあった。
しかし。
「でも……、いいん……すか?」
アルディア王は元々、流護が記憶喪失であることを利用して遊撃兵に任命しているのだ。記憶を取り戻してしまうかもしれないとなれば、王にしてみればあまり好ましいことではないはず。
そんな流護の考えを読んだのか、
「なぁに意外そうな顔してんだよ。記憶が戻りゃ、それに越したこたぁねえだろうに」
心外だとばかりにアルディア王は肩を竦めた。
「陛下……」
しかしやはり、ベルグレッテの声にも暗い色が篭もる。
危険な任務も多いという遊撃兵。早速そういった類の仕事なのではないか――と、懸念しているのは明らかだった。
「何でぇベル、お前さんまで湿っぽい目で見やがって。そんなにリューゴが心配だったら、一緒に行っても構わんぞ。いや……むしろあれか、土地勘も知識もないリューゴ一人に行かせる訳にもいかんわな。よしベル、お前さんも行け」
「え、えっ!?」
その場のノリで決断してしまうことも多いというアルディア王、その本領発揮だった。
「どうせ俺が無茶押し付けてると思ってんだろ? はん! だったらベルもついてったらいい。せっかくの『蒼雷鳥の休息』だしな、息抜きのつもりで二人旅でも満喫してきたらいいじゃねえの。休みも延びたんだろ? 息の他に違うモンも抜いちまうってか? はっ! お若いこったぜぇ!」
……巨大な王は子供みたいに拗ねていた。
そこからはレフェの学者であるチモヘイという人物に渡してほしいとお使いの文書を持たされ、半ば放り出される形で城を後にした。
こうなっては仕方がない。ベルグレッテが仕事は仕事と腹を括った。流護も引きずられるように同意する。
無論、アルディア王としても本当にヤケになって決めた訳ではなく、ベルグレッテのクラスメイトであるダイゴスがレフェの王宮に帰省しているため、仕事をこなしやすいだろう――と考えた結果のようだった。
今日は星遼の月、十四日。七日後の二十一日までに帰還せよとの期限が定められた。
レフェまでは、最も大きい交易路を通って最短で三日。日程は中々にギリギリだ。簡単なお使いなので、あえて厳しめの日程にしてみたとアルディア王は試すように笑っていた。もっともこういった外出任務の場合、旅先で何が起こるか分からない。数日程度の遅れがあっても問題はないそうだが。
長旅になるということで旅装を急遽誂え、ついに完成したファーヴナールの手甲を受け取り(五十万エスクだった)、王都にある教会で旅立ちの祈りを捧げてもらい(厄介な知人が留守だったらしくベルグレッテはホッとしていた)、慌しく馬車に乗って――
そうして太陽こと昼の神インベレヌスが山の向こうへ帰りかけている今、王都から遥か東に位置するエウロヴェンティの街へ到着しようとしているところだった。
ちなみにミディール学院へ戻らず王都からそのまま出発することになったため、「レフェまで行くことになった」と通信でクレアリアへ報告する次第となった訳だが、彼女は流護が聞いたこともないような声を出して動揺した。
「いいい今から私も行きます!」と言って聞かない妹を姉が必死になだめ説得するも、最後には「アリウミリューゴ……オノレ……」と呪詛を呟くのみの存在となってしまった。
「やめてくれ、俺悪くないじゃん!」と訴えてみる流護だったが、「オノレ……オノレ……」と呟き続ける妹さんの耳に届いたかどうかは定かではない。
実際問題として、クレアリアも来るとなると、ミアを一人で学院に残すことになってしまう。そこは任務であるため、さすがにミアを連れていくことはできない。何より、旅路の安全だって保証されている訳ではないのだ。
どちらにせよ、彼女たちには留守番をしてもらうしかないのだった。
また流護としては、日本人に会うかもしれないということでロック博士にも報告しておきたかったのだが、結局は何も言わないまま出てくる形となってしまった。研究室だかに呼ばれたらしいので、てっきり城にいるのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。例の黒い怨魔の件といい、会えないまま報告したいことが積み重なっていく。
まさか通信を取り次いでもらって「怨魔が喋ったんですけど! あと新しい日本人が見つかりましたよ! 会いに行ってきます!」などと言う訳にもいかないので、これも仕方ないと割り切るしかなかった。
――そんな訳で、夜を迎えようとしている遠き地の道中にて。
日本人とのお目見えを控えてソワソワした流護は、落ち着かない気持ちで馬車に揺られているのだった。
「……ねえ、リューゴ」
これまでの回想に耽っていた流護は、心配げなベルグレッテの声で意識を呼び戻される。
「ん? どしたベル子」
「ええと……」
どこか言いづらそうに顔を伏せてしまう。……が、意を決したように切り出した。
「今さらだけど……『神域の巫女』が、その……ニホン人であるとは、限らないんじゃない……?」
確かに、二人はアルディア王から話を聞いただけだ。ベルグレッテからすれば、『ニホン』という言葉が出ていたからといって、流護と同郷の人間だとは限らないと考えてしまうのかもしれない。
――しかし。
「……いや。まず間違いない」
流護は鞄に詰めてあった『とても怖いゴーストロア』を引っ張り出す。ページをパラパラとめくっていき――その記事に目を止める。
歌うことが得意だという『神域の巫女』。彼女の歌う曲、その歌詞が載せられているページ。
あなたに とどかぬ このおもい せつなくて
みなもにうつる つきだけが――
(……間違いない)
漢字に変換すれば、『水面に映る、月だけが』となるだろう歌詞。『月』という概念のない、この世界ではありえないその詞こそ、『神域の巫女』が日本人であることの証明だった。