154. そして、遥けき東に咲く桜
「ねえ、りゅうご。しょうらい、あんたの……その、お嫁さんになってあげるね」
手にした草の穂先をぶんぶんと振りながら。
長い黒髪をなびかせて振り返った彩花が、いきなりそんなことを言う。勢いよく振り返ったためか、背中のランドセルに振り回されそうになってよろけていた。
流護は、突然の発言にただ驚く。
「は!? はぁ!? んだよそれ……! た、頼んでねえから。ならなくていいし」
つい反射的に、そう返してしまっていた。
「な、なによそれ! どういう意味よ!」
「ならなくていいし!」
真っ赤になる彩花に張り合うように、流護も顔を赤くして反撃する。
こんなことを言われたとクラスメイトたちに知られれば、どれだけからかわれるか分かったものではない。
そもそも、いきなり何を言い出すのか。
あれか。授業で将来の夢がどうのこうのという話があったので、そのせいか。
『イケメンが入ったら爆発する箱を作りたい』と書いてやり直しをさせられた流護だったが、そういえば彩花は何と書いたのだろう。
「……ふんっ。じゃあ、もういいもん。あとで結婚してくれー、っていっても、してあげないんだから」
「言わねーよ……」
「かっこいい彼氏とかつくって、もうりゅうごの相手なんてしてあげないんだから」
「勝手にしろよ……」
彩花はぷいっと顔を背け、前を向いてしまった。
ええい、くそ。彩花は、すねるとめんどくさいんだよな。
顔を逸らしてボリボリと頭を掻いた流護は、何か言い繕おうと顔を上げて――
「ねえ、リューゴさん」
そこに、もういないはずの少女がいた。
栗色の長い髪。控えめな、大人しそうな雰囲気の顔立ち。上衣と下衣がひと続きとなった、飾り気のない質素なデザインの服。中世時代の、農民のような服装。いや、『ような』ではない。ところどころ汚れているのは、農作業に従事している証だろう。
そう。彼女が農場の手伝いなどをしていると知ったのは――――本人が、いなくなってからだ。
懐かしささえ感じる小学校からの帰り道。そんな風景で佇むには、あまりに不釣合いな格好をしているその少女。
「リューゴさん。私のこと、もう忘れちゃったんですか?」
儚げな、寂しそうな笑顔。
忘れてなんかいない。忘れるはずがない。絶対に、忘れたりしない。
答えようとしたが、なぜか声にならない。声帯がなくなってしまったように、声を当て忘れたように、音が出ない。
待ってくれ。言わせてくれ。ずっと、直接言いたかった。せめて。
助けられなくて、ごめん――って。
「ねえ、リューゴさん」
彼女の、寂しげな顔が。
ぐちゃりと、崩れ落ちた。
――コロシテヤル リューゴ
「……、…………ッ!」
飛び起きた。
息つきながら、有海流護は天井を仰ぐ。
窓の外に広がる、未だ薄暗い濃紺色の空。薄手の上衣は、嫌な汗にぐっしょりと濡れている。枕元でからからと回る冷術器の音が、少し耳障りに感じた。
二人の夢を見ることは、これまでにも何度かあった。もう二度と会えない、彼女らの夢を。
忘れる訳がない。絶対に、忘れない。
しかしそこに、昨日の怪物が混じったことがひどく不快だった。彩花やミネットを、汚されたような気がして。
「……ざけんな、クソヤロウ」
何のつもりだ。大人しく地獄に落ちてろ。
ぼうとする頭のせいか。とてつもなく嫌な考えが浮かぶ。
小学生の頃、映画を見てトラウマになりかけたことがあった。
正体不明の怪物に襲われ、必死で抗う主人公たち。絶望的な状況が続く中、それでも反撃の糸口を見出し、希望が見え始める物語の終盤。その怪物の正体が、実は人間のなれの果てだったことが発覚するのだ。
今となっては珍しくない設定かもしれないが、幼かった流護にとっては衝撃的な展開だったといえる。一緒に見ていた彩花などは、泣きながら部屋を飛び出してしまったほどだ。
――つまり。
『リューゴさん! 助けてよおおおぉぉおおぉッ!』
コロシテヤル リューゴ
「……は、勘弁……してくれよ……」
怨魔などという、字面からして不穏な存在。
自分を殴りたくなるような思考に、弱々しい声が漏れた。彼女は……きちんと火葬されていると聞いた。ありえない。
それにもし人間が『そうなって』しまうようなことがあるのなら、十四年もここで研究しているロック博士が気付かないとも思えない。遊撃兵となってから読み漁っている本にも、そのような伝承はなかった。一つとして。幽霊やゾンビといった怪異の噂などは確かに存在するが、それも現代日本と同程度の認識にすぎない。実際にアンデッドモンスターのようなものはおらず、ましてや人間がそのように変異してしまうなど――
ない。ありえないことのはずだ……。
「――、だあっ!」
一旦寝転がり、反動で飛び起きる。
まだ早い時間だったが、勢いのまま起きることにした。
頭をカラッポにして、走ってこよう。今日はもう、引きずらないと決めたのだから。
「リューゴくーん、おはようー!」
星遼の月、十四日。早々と高みに達したインベレヌスがぎらぎら照りつけてくる、午前九時過ぎ。
流護が中庭の日陰で拳立て伏せに励んでいると、ミアがとてとてと寄ってきた。
「おう、おはようさん」
挨拶を返すと、少女は様子を窺うような瞳で覗き込んでくる。
「何だ、どうした」
「あ……うん。昨日の初めてのお仕事、けっこう大変だったみたいって聞いたから。……無事でよかった」
「はは。ありがとな」
立ち上がって汗を拭きながら、率直な言葉を紡ぐ。
「そうやってミアが心配してくれたりすると、頑張って帰らなきゃなって気になるな。……大丈夫。俺は、何があっても絶対ここに……ミアのところに帰ってくるからな」
「う、うん」
昨日の――任務を共にした若い兵士、カルボロの言葉が脳裏に甦る。
『俺はこうして家を出て、それきり帰ってくることはないのかも』
帰る。
俺は……絶対に、帰ってくる。この場所に。
「俺は……どんな仕事でもちゃんと帰ってくるよ。だからミアは安心して待っててくれよな。たまには、お土産なんかも買ってくるからさ」
「……う、うん!」
しばし話し込んだ後、ミアも課題を頑張るということで鼻息荒く学生棟へ戻っていった。流護の決意に触発されたのかもしれない。彼女は休みに入ってからごろごろしてばかりだった感もあるので、父親代わりを自認する少年としては少しばかり嬉しい。
鍛錬に戻ろうとしたところで、今度はベルグレッテが珍しく慌てた様子で駆け寄ってきた。
「リューゴ、おはよう」
「おう、おはよーさん」
「……リューゴ……その、大丈夫?」
心配そうなベルグレッテに、流護ははっきりと頷いてみせた。
「ああ、もう平気だ。みっともないとこ見せて、悪かった」
一夜明けて。
衝撃的だったことは間違いない。
今も、鮮明に脳裏をよぎる。
黒い怨魔の一撃によって、首をねじ回されてしまった兵士の顔。拳を受け、まるで果実のように割られてしまった兵士の顔。「コロシテヤル」と人語を発した、怪物の血走った眼……。
何度も夢に見て、何度も目を覚ました。そのたび、あれは夢などではなかったと……現実だと認識した。……ついには、彩花やミネットまで入り交ざって。
だが、受け入れなければならない。あれもまた、兵士という職務に起こり得る、一つの結末。未知の世界で起こり得る、出来事の一つ。
「それで……どうかしたのか? ベル子」
「あ、うん。『竜爪の櫓』から連絡があったの。ファーヴナールの手甲、できたって!」
「おお、まじか!」
思いがけない朗報に、流護の声も明るくなった。
注文してから一週間弱。
武具を一から鍛造するのにどれほどの手間がかかるのか、流護にはよく分からないが――
「ていうか早いな。いや、早すぎるぐらいじゃないか……?」
そんな流護の疑問に、ベルグレッテが苦笑いを浮かべて答える。
「はは……私も驚いちゃった。なんでもウバルさん、あれからお弟子さんも含めた全員で手甲を仕上げることに注力しちゃったみたいで……」
さらには、例の怨魔研究部門にいる流護のファンという人物も協力・監修し、異例の早さで仕上げてしまったとのことだった。
どうやら武具の加工にも神詠術を用いるらしく、となれば流護の――地球人の感覚で早いか遅いかなどと考えること自体が無意味なのかもしれない。それを考慮しても早いようだが。
「いやまあ、俺としてはありがたいけど……よし。じゃあ早速今日、受け取りに行くか……っと。その前に、トレーニング終えたらロック博士のとこにも行かないとだな」
「んっ……昨日の件ね」
怨魔が喋ったという例の一件。
一夜明けて冷静になってみれば、流護ですら何かの間違いだったのではないかと思ってしまいかねない出来事だったが、ロック博士なら――岩波輝なら、同じ日本人の観点から意見をもらえるかもしれない。
……人間が何らかの原因で怨魔となってしまうことがありえるのか、そのあたりについて尋ねてみるのもいいだろう。
まだ早い時間のためトレーニングに励んでいた流護だったが、実は一刻も早く博士のところへ行きたい気持ちだった。……のだが。
「それが、ロック博士なんだけど……いないみたいなの。昨夜から不在みたい。たまに王都の研究室に呼ばれることもあるから、それで出かけちゃったのかも」
「ちょっ……まじか」
こんなときに限って、何ともタイミングが悪い。
流護がうなだれたところで、ベルグレッテの耳元に通信の波紋が広がった。
「っと。こんな早い時間に……誰だろう」
その細い指を美麗に舞わせて、通信を受ける。
「リーヴァー、ベルグレッテです」
『おう、ベルか。俺だ、アルディアだ。おはようさん』
「へ、陛下!? お、おはようございます……え、いかがなさいましたか?」
予想だにしなかった人物からの通信に、ベルグレッテが動揺もありありと答える。
『何でぇ、そんなに驚くこたねえだろ。あんだぁ? やましいことでもあんのか? ん~? 隣にリューゴでも寝てんのかぁ?』
「へ、陛下っ!」
アルディア王お得意の下ネタに、サッと赤くなったベルグレッテが語気を強める。
「ありえません! だ、だいたい、りっ、リューゴならっ! 起きてます! 隣でピンピンしてます!」
……何というか。
言い方が、悪かったのだろう。
『あっ、お、おう。隣で……あぁん? ピ、ピンピンか。そうか、まァ朝っぱらだしな……』
珍しく。アルディア王が、逆に遠慮したような声を出す。
「え? 陛下?」
『いや、うーむ……ときにベルよ。その……お主なら心配ないとは思うんだが……万が一、身篭ってロイヤルガードを続けられなくなったとか、そういうことがあるとだな――』
「みっ、みごも……!? い、いきなりなにを仰るんですか!? わ、私がそのようなことをっ……そん、あるわけ……!」
『な、何でえ。そんなに避妊に自信があるのかぁ?』
「ひに……っ!?」
『ゲフン、よいかベルよ。若いうちは、怖いもの知らずというか……何でもできるような気になるだろう。しかしだな、若いゆえにその……リューゴもだな、「今日は生がいい」とか言い出したりだな、お主もまた「今日は大丈夫だから……」とか言い出したりするとだな、そこで神の悪戯というか、祝福というか……万が一ということが――』
「なっ、な……は? なんの話をしてるんですか!?」
もうメチャクチャだった。互いに誤解していると気付いたのはそれから一分後の話で、何となしに気まずい空気のまま、ようやく本題に入る。
『オ、オホン。と、とにかくだ。これから、城に来てくれんか。リューゴを連れてな』
「えっ……」
流護とベルグレッテは思わず顔を見合わせる。
「も、もしかして、遊撃兵としての任務でしょうか……?」
『んー……何とも言えんなぁ。とりあえずベルよ、』
そこでアルディア王は、二人が予想だにしなかったことを口にした。
『ニホン、って知ってるか?』
美しい木目の浮かぶ板が張り巡らされた、長い廊下。
踏みしめるたび、きしきしとかすかな音が響く。
目的地までの道すがら、暇潰しに外へ――庭園へと視線を向けた。
縁側から覗く中庭の木々は青く高くそびえ、砂利の敷き詰められた地面に影を落としている。涼しげな木陰の中、苔むした石に囲われた小さな池で、魚が踊るように跳ねた。
幼い頃からなじみの光景だが、今は異国の学院に在籍している身。懐かしいような、落ち着くような……不思議な心地となる。幼い頃は、大老や次兄と三人でよく涼んだものだ。
長い廊下を終えて、目的の部屋の前へと到着した。
扉の前に立っている白装束姿の女性番兵が、仰々しく頭を下げてくる。
「これはダイゴス殿。巫女様がお待ちです」
中からの許可を得て入室する。
机と棚、寝台程度しか置かれていない、がらんとした部屋。その最奥――窓際には、背を向けて立つ一人の少女の姿があった。外を眺めているようだ。
印象的なのは、背中まで伸ばされた黒曜のごとき髪。その滑らかな黒髪をなびかせて、少女が振り返る。
「あ、きたきた」
勝ち気な瞳で、少女はニッと微笑んだ。
肌は白磁。目鼻立ちに深みはないが、控えめながら恐ろしいほどに整っている。彼女の『立場』もあってか、どこか幽玄で雅やか。侵しがたい神聖な雰囲気を漂わせている。
その纏う衣服もまた、特殊なものだった。白小袖と呼ばれるゆったりとした白絹の上衣に、紺袴と呼ばれるスカートに似た膝丈の長さの下衣。
合わせて、『巫女之小忌衣』という。レフェ巫術神国において、古来より受け継がれている聖なる装い。この黒髪の少女には、その衣装が不思議なほどよく似合っていた。
「待ってたよー、大吾さん」
「ダイゴスじゃ」
これも何度目のやり取りか。
と、少女は近くの棚に置いてあった本をがっしと掴み、つかつかとダイゴスへ歩み寄る。清廉潔白な雰囲気にそぐわない、やや荒々しい足取り。歩調に合わせ、きれいな黒髪がさらりと舞う。
「ねえ大吾さん。これ。これこれ。昨日もらったんだけどね?」
そう言って少女が巨漢の鼻先に突きつけたのは、表紙に『とても怖いゴーストロア』と書かれた本。
ダイゴスとしては興味のないものだが、広く出回っている広報誌だ。国境を越えて、四ヶ国で販売されているという。学院でも、ミアが愛読していた覚えがある。
「どういうことなのよっ」
「何がじゃ」
「なにがじゃないがじゃ!」
少女は乱雑に頁を開き、問題の箇所を細い指で指し示しながら読み上げた。
「レフェ巫術神国に現れし新しき『神域の巫女』! 優美なりし歌の詠み手、その正体は! ユキザ・キサーエリ!」
きっ、と少女は目つき鋭くして言い放つ。
「誰がユキザ・キサーエリか! 切るトコ間違ってる! 私は雪崎桜枝里! れっきとした日本人! 自慢じゃないけど、ただの女子高生なんだから!」
第五部 完
第六部開始まで、しばしお待ちいただければ幸いです。