152. 紅の季節・後編
手術を失敗したアリッシアは、見違えるほどに衰弱してしまった。
病は気からともいう。ひどく落ち込み、精神的に打ちのめされたことで、一気に病気が進行してしまったように感じられた。いつも勝ち気で活力に満ちていた姿など、もはや見る影もなくなっていた。
「……はぁ――……、ぁ。ね、ディノ。おとうさんとおかあさん、最近、見ないけど……どうしてるのかな」
「…………実は、王都での稼ぎがイマイチでな。二人揃って、しばらく出稼ぎに行った。オメーは気にすんな。今度はオレも働いてるから、金は思ったよりすぐ貯まる」
「そう、なんだ。……行く前に顔見せてくれればよかったのになー、二人とも。……もうずいぶん会ってないし……ちょっと、顔、見たかったかも……」
「そう思うなら、オメーはとっとと回復することだけ考えろ」
「……そう、だね……うん、わがまま言って、ごめんね」
『ミージリント筋力減衰症』に、二度の手術を施した事例はなかった。
しかし、諦める訳にはいかない。
父の言いつけは守る。死んでしまった以上、もう口論することもできない。国の『ペンタ』にはならずに、金を貯めてやる。
『ペンタ』の能力ゆえ、仕事そのものに困ることはない――はずだった。
現実はそんなに甘いものではなく。
人々は、ディノを恐れた。かつて『ラディム』で笑いながら人を焼いた少年を恐れた。
未熟な超越者はここでようやく、『普通』の人々が『ペンタ』に抱く複雑な思いを知ることになる。恐怖。憧憬。嫉妬。
たまに見つかる仕事も、王都で国の絡まないものとなると、やはり金払いがいいとはいえない。
気付けば、戦いに身を投じることも多くなっていた。
怨魔を倒して有用な素材を入手する。山賊を襲撃して金品を強奪する。
繰り返し、繰り返し。
より早く、より効率的に敵を倒す。神詠術というものを独学で理解し、知識を深め、ただでさえ才覚に恵まれていたディノは、さらに技術を高めていった。鋭く、強く。ひたすらに、研ぎ澄まされていった。
しかし色々試したが、ろくな稼ぎにならなかった。否、生活する分には問題ないが、手術費用を貯めるには程遠い。
時間だけが、ただ徒に過ぎていく。
春がきて、夏がきて――
「はぁ……ぁ。あたしって、運がないのかなー……。なんか、もう、起き上がるのもだるくなってきた」
「年寄りみてェなこと言ってんじゃねェ。また金は貯まる。気にすんな」
「でもさ……もう、あたしの歳だと……成功確率、どれぐらいだっけ。失敗もしてるし……」
「さあな。気にすんな」
「でも……でもあたし、次で成功したって……それまでのお金なんて、返せないよ」
「オメーが返せなくても、オレが返せる。問題はねェ」
「でも……」
「うるせーってんだ。んなコトより、腹減ってねェか? 何か食いたいモンがあれば、買ってきてやる」
「あ……ほんと? じゃあ、『フェテス』のベリータルトがいいな」
「んな安いモンでいいのかよ。ま、いいや。ちっと待ってろ」
世の中には、冒険者という人種も存在する。一山当てて大金持ちになった人間も、決して多くはないが確かにいる。
遺跡の探索などを生業とする者が大半だが、運に左右される要素も多く、あまり現実的でないかもしれない。が、幸いディノには全てを排除できる強さがある。護衛としてならば、確実な金を得ることも可能だろう。
(……、イヤ、ダメだ)
しかしやはり、旅に出ることなどできない。アリッシアのそばを離れることはできない。
『ペンタ』の力を利用しての、グレーどころかブラックな手段も考えたが、それも危険だ。
ディノ自身が犯罪者として拘束されること自体はどうでもいい。しかしその間、余計な時間のロスを生むことになってしまう。
しかし、流れるがごとく。必然だったのかもしれない。ディノは十三歳にして、自然と浸かるように闇の世界へ踏み入っていった。短期間で莫大な金を稼げる方法など、もはやそれしかなかった。
法的に綱渡りではあるが捕まることのない仕事をこなし、着実に金を貯めていく。この世界ならば、『ペンタ』の力を欲しがる者は多い。多少吹っ掛けても客に困ることはない。
秋がきて、冬がきて。
「はぁ……あたしね、ミディール学院に入ってみたかったな」
「十代のうちは入れるだろ。治ってから入りゃいい」
「はは……制服がカワイイんだよ。着てみたかったな……」
「…………」
「やーやー! ほんとに入ってくれちゃうんだ!? 歓迎歓迎、大歓迎よん」
メガネをかけた金髪の女――どうやら学院長らしい――は、結った髪を揺らして満足げに微笑んだ。
こうして翌春、ディノはミディール学院に所属することとなった。
学院ならば、国の『ペンタ』ではない。父との約束を破ることにはならないはずだ。屁理屈かもしれないが、その程度は大目に見てもらうとしよう。
「話には聞いてたわよ。すっごいヤンチャな炎の子がいるって」
「そりゃどーも」
気のない相槌を返すディノに、フフと笑った学院長が細い指を伸ばしていく。頬に触れそうになったその艶かしい指を――
がし、とディノは掴んで止めていた。
「何しようとしてやがる」
「ンフフ。なぁに? 触られるはイヤ? そんなモテそうな顔して、意外と純情さんなのかしら」
「トボけんな。今、『仕掛け』ようとしやがったろ」
「……へえ。見破っちゃうんだ」
――それは気のせいか。
わずかに見開かれた、女の瞳。その鳶色の眼に、一瞬だけ――汚濁した金が混じったように見えた。
「ケンカ売ってんなら買うぜ?」
「ンフフフ……残念。この国ではね、『ペンタ』同士の闘争は認められてないの。どうしても激しくなっちゃうから、お互いがどんなにシたくてもダメなの」
掴んでいた手を離すと、学院長は妖艶な手つきで己の指を撫でながら微笑んだ。ひどく満足そうに。
「やー、貴方みたいに優秀なコなら大歓迎だわ。嬉しいやら、残念やら」
学院に入ってくれて嬉しい。
闘えなくて残念。
そんな心の声が、だだ漏れになっているような笑顔。
本当に教職の人間なのか、この女。
――目を細めて舌なめずりする姿はまるで、上等な肉を前にした獣のようだった。
ディノの噂を知っていながら、学院に入ることを承諾したのも不可解といえば不可解だ。
「それじゃ、仕事だし軽く説明しちゃうわね。『ペンタ』の場合についてだけど――」
籍を置くだけでよいこと。普段は学院に来る必要がないこと。そういった説明を受け、ディノもまた適当に聞き流していく。
「……とまあ、こんなとこかなー。何か質問とかある?」
「んー……質問っつーか、要望が」
「なになに?」
ディノはめんどくさそうにうつむき、溜息を吐く。
馬鹿馬鹿しい。心底、本当に馬鹿馬鹿しいが――
このために、こんな学院へ入ることを決意したのだ。
「制服をくれ」
ディノの言葉に、学院長はきょとんとした。底知れない女だが、さすがに全く予期していなかったのだろう。間抜けな顔で固まっている。
「あ、はあ。や、まあ欲しいならあげるけど……。ンフフ、見る目があるじゃないの。この学院の制服はね、アタシ自らが考案・監修して作らせてる、他では手に入らない逸品なんだから!」
他では手に入らない逸品。それはまさに偽りなしだった。
ミディール学院の制服はこの学院長自らが手がけており、他では手に入らない。裏社会にすら出回っていないという徹底っぷりだった。似たような模造品なら、ないでもないのだが。
学院の生徒のみが着ることを許されるという、ある意味での特権。デザイン面から、特に女子生徒の間で評価が高い。
詠術士云々というより、この制服が欲しくて学院に入ることを目指す者もいるほどだった。
「えーとそれじゃ、身体の大きさとか測っておいてくれる? あ、何だったら今やっちゃう? ンフフ、おねーさんが直々に……」
「……イヤ。女モノの制服をくれ」
「えっ……!?」
一瞬だけ驚愕した様子を見せる学院長だったが、すぐにニンマリと頬を緩ませる。
「アラアラ。アラ、アラアラ。何だか高尚なご趣味をお持ちのようで……」
「勘違いだっつの。妹がいるんだが、学院には入れそうになくてな。でも、制服が着てえらしい」
「ふーん……本来であれば、そういうのは認めないんだけど……まあいいわ。『ペンタ』の特権ってことにしてあげる」
随分と安い特権があったものだ。ディノは自嘲気味に溜息をついた。
「ンフフフ。女装趣味、女装趣味……」
「オイ。違うつってんだろ、ババア」
「バ……!?」
周囲を取り巻く空気が一変する。
「オイオイどーした。余裕がなくなったみてーだが」
「……意外と楽しいのよねー。口が悪い子へのオシオキって。態度がコロッと変わっちゃうから。貴方はどんな風に甘えてくれるようになるのかしら」
しばし睨み合う二人だったが、学院長に用があってやってきたらしい女子生徒たちによって、ひとまず修羅場は回避されるのだった。
「え……? うそ、どうやって手に入れたの……!? うわー……ほ、本物だ!」
ディノが持ってきたミディール学院の制服を手に取り、アリッシアは目を白黒させて驚いた。
「何でもいいだろ。とりあえず着てみたらどうだ」
「あ、う、うん……!」
アリッシアは頬を紅潮させて頷く。
両腕に力を込めて、ようやくといったように身を起こした。
――アリッシアはすでに、自力でベッドから起き上がることも難しくなっていた。
「うっ……で、でも、立ち上がれるかな」
「オレが抱える。手すりに捕まっとけ」
「えっ……、ちょっ、ちょ!」
有無を言わさず、アリッシアを抱きかかえた。
「あっ、や、やだもう……重いでしょ……?」
「クソ重てぇオメーを支えるために、わざわざ身体強化を覚えた。問題ねェ」
「しっ……! 失礼しちゃうんだけどこのー!」
暴れようと身をよじる少女だが、抵抗らしい抵抗にはなっていなかった。
……こんなにも細かっただろうか。軽かっただろうか。妹の身体は。
そのか弱さが不吉な暗示に思え、ディノは思考を振り払うように軽く首を振る。
身体強化を習得した理由に、偽りはなかった。今や自力で動けなくなりつつある、アリッシアの世話をするために。本来は力なき者が補佐のために行使する術。ディノの理由は極めて異例だろう。
術式にも独自の改良を重ね、最近では長時間発動できるようになってきている。いずれは、常時発動させることも可能になるかもしれない。言葉にする分にはひどく簡単だが、実現するには膨大な時間と修練が必要となるはずだ。戦闘においても、炎の使いにくい局面で重宝するだろう。地味ではあるが、決して無駄にはならない技術だ。
「一人で着替えられるか?」
「うー……上は、なんとか着れる。スカートは……このままいったん履かせてもらって、そのあと何とか寝巻きを脱ぐしかないか……!」
困難な任務に挑むように、アリッシアは鼻息荒く『計画』を立てる。しかしその顔は、ひどく楽しそうだ。制服がよほど嬉しいのだろう。
けれど、事実。
着替えることも、もはや難しい作業の一つに違いなかった。
そうして制服姿を披露したアリッシアは、恥ずかしそうにはにかんだ。
「……えと、その……ありがとね、ディノ」
「お安い御用だ」
妹のほうを見ずに、兄は答えた。
「ね。似合って……るかな?」
「……ま、昔から『馬子にもナンタラ』って言葉があってな」
「むー! ばか!」
本心は、言えそうになかった。
冬がきて、また春がきて、夏がきて。
「ねぇ……ディノはさ、学院に入ったんだよねー……。あたしも行きたかったな……楽しい?」
「つまんねェよ。周りがみんなザコに見える。実際ザコだろうがな。そもそも、普段は行ってねェからよく知らんが」
「ひゃー、ワルっぽくてかっこいいや。ね、あたしのこと哀れんでるでしょ? そういう目してる」
「哀れんでるとしたら、オレ以外の全てに対してだ。このオレを超える存在はどこにもいねェ。だから金稼ぐのも楽勝だ。何でもいいから、オメーはさっさと退院することだけ考えろ」
「…………っ、やさしくしろよ、ばか」
「うるせぇよ。またベリータルトでも食っとけ」
「………………うん。ありがと」
手術を失敗したその身体は、通常よりも早く限界を迎え、
「あた……し……、なんで、なんのために……生まれてきたの……?」
「…………」
「ごめん……ごめんね、ディノ……あたしの……あたしのせいで、全部、なにもかも……台無しになっちゃった……ディノも行きたくない学院に入って……、お父さんも、お母さんも……!」
「……! オメー、親父たちのコト気付いて……」
「前に、お医者さんが立ち話してるの、聞いた」
「チッ……!」
「はは。全然、お見舞いに来てくれないんだもん……。いくらなんでも、おかしいって分かっちゃうよ」
「…………、」
「ディノ……あた、し……」
アリッシアはもう、手を動かせない。溢れる涙を自分で拭うこともできない。
「もう、自分がやだよ……こんななのに、あたしのせいで何もかもメチャクチャになったのに、それでもあたし、死にたくないって思ってる……!」
「……ッ、当たり前だろうが!」
アリッシアが目を見開く。
きっと、初めてだった。ディノのこんな顔を見るのは。そんな、くぐもった叫びを聞くのは。
常に完璧だったディノが見せた――見せてしまった、わずかに歪んだ顔。
「生きたいって思うコトの、何が悪いかよ……!」
そしてそれで、彼女は悟ったのだ。
――自分はもう、助からないのだと。
ディノの叫びと、アリッシアの諦念。死神が、そのときを待っていたかのように。
その晩、ディノを呼び出した医師は、告げた。
少女が生きられる刻限、残り少ない日数を。
風が心地よい、ある穏やかな晴れの日。
「はぁ……――……ぁ。ねぇ、ディノ。『転生論』ってあるじゃん……?」
美しかった肌や髪は、もう枯れ果ててしまったかのよう。年頃の少女だというのに。
アリッシアは、かすれた声で夢見るように語る。
この世界で根強く信仰されている説の一つ。
死んだ人間は、いずれ別の誰かとして生まれ変わるのだという。
「あたしもさ……、また生まれ変わるのかな。こんな……大迷惑、かけといてさ、のうのうと生まれ変わっちゃうのかな」
「……、」
「もう、……いやだ……。もうこのまま死んで、なくなっちゃいたい。もう何も分からない、真っ暗な中に……沈んでしまいたい。もう、誰にも迷惑なんてかけたくない……!」
初めて。ディノは、兄は、心から叫ぶ。
「ッざけんなテメェッ!」
驚いても、もうびくりと身体を震わせることもできないアリッシアは、かすかに目を見開く。
「オレが……オメーのために、どんだけのモン犠牲にしてきたと思ってんだ? 全部。全部だよ。時間も金も自由も何もかも、全部オメーのために使ってきたんだよ。分かるか?」
だから。
「……オメーは、生まれ変われ。生まれ変わって、その借りを全部返しに来い。オレは、オレ……は……ッ」
歯を食いしばる。
今までどんな敵と戦っても、こんなに歯を噛み締めたことはなかった。
「オレは待ってる。生まれ変わってくるオメーを、ずっと待ってっから。オメーが……アリッシアがさ、」
堪えきれず、声が震えた。ついに、涙が溢れた。両親が死んでも、涙など見せなかったのに。
「オレ、この世界で一番スゲー奴になって、待ってるから。生まれ変わったオメーが、すぐオレのこと見つけられるように……この世界で一番有名な、すげえ奴に、強ぇ奴に……ガイセリウスなんて目じゃねェぐれぇの男に、なってっから……!」
「……、っ、ばか、ばか。なによ、すごい奴って……。王様にでもなるの?」
「ハハ……王じゃ、ダメだろ。オメーが、友好的じゃない国に生まれたりしたら……困る。騎士も、ダメだな。国に仕えるような仕事じゃダメだ。ガラじゃねェし、窮屈でたまんねェよ」
「は、あはは。ばか……でも、お互い、……違う国どう、し、なんてのも……ロマンチック、かもね……」
力が、抜けていく。
「問題ねェ。一番強けりゃ、国境もクソも関係ねェよ。本当に強ぇヤツってのは、自由なんだ」
「んっ……じゃあ、約束だよ。あたしが、すぐに見つけられるように……一番強いヤツに、なっててね……?」
「……ああ。オメーが生まれた瞬間に分かるようなヤツになってっから、安心しろ」
「ふふ。ほんとに、ばか……なん、だか――」
アリッシアの手を握る。
もう握り返してはこないその手を、必死で握る。
オレ、生まれ変わったアリッシアが見つけやすいように、すげぇ奴になってるから。捜す手間なんてかけさせない。
王とかそんなもんじゃない。もっとすげえ奴に。誰よりも強い奴に。今度生まれてきたオメーがまた病気になったとしても、今度こそ救ってやれるように。どんな困難が降りかかってきても、全て蹴散らせるように。
なってやる。
どこにも属さない、唯一絶対。最強の存在に。
だから……いつかまた、逢おう。
オレは、待ってるから。