150. 選び取る道
森を出る。
遮るもののない夏の恵みが、容赦なく三人を照りつけた。完璧に炎を扱えるディノであっても、暑いものは暑い。
インベレヌスとイシュ・マーニはもう少し協力して快適な状態にしやがれ、と心中で毒づくディノに、イェスタが話しかけてきた。
「兄ちゃん、僕……」
しかしうつむいて、言葉を濁す。
イェスタは無事に妹を助けられたにもかかわらず、ひどく浮かない顔をしていた。
知人のニールスが悪だったこと、目の前で殺されたことに対する衝撃もあるに違いない。そして何より――今後のこと。
『何がどうなろうと、もう以前の暮らしには戻れねェんだよ』
森に入る前、ディノが話したことが気にかかっているのだろう。
無垢な少年は、全てが解決したのだから、村長ともやり直せるはずだと考えているのかもしれない。
周囲に、村長たちが潜んでいる様子はない。となれば今頃は、村へ戻る道中のはずだ。派手に打ちつけた身体を引きずって、必死に歩いているはずだ。
村長は連れ戻されたシレーナを見て、どうするだろうか。生贄を捧げる必要がなくなったと知って、どうするだろうか。
ディノは村長の血走った眼を思い出す。
仕事上、ああいった目をした人間は何人も見てきている。妄執に囚われ、神も人も信じられなくなった、ただただ猜疑心に満ちた瞳。やむを得ず悪に手を染めていたはずなのに、いつしかどっぷりと飲み込まれてしまった者の目。
もはや今の村長は真実を知らされたところで、すんなり信じるとも思えない。すでに『壊れて』しまっているのだ。
「オイ、小僧」
顔を上げたイェスタに、ディノは革袋を放り投げる。
「わっ……これ、なに?」
「山賊連中から回収した戦利品だ。荷車があったから探ってみたら、四十万ばかり入ってやがった」
「四十万……エスク?」
「ハハ、ピンと来ねェか。家族で馬車呼んで、安全に新天地まで行ける金額だ。そこそこデカい街で、しばらく家も借りられるな」
「!」
その価値を告げられたイェスタは、緊張したように縮こまって両手の革袋へと視線を落とす。が、
「――そして。殺してでも奪おうとするヤツが出てくるのに、充分な金額でもある」
その言葉を聞き、兄妹は目に見えるほど大きくビクリと震えた。
「オレの仕事はここまでだ。ソレは餞別にくれてやる。その金で村を出るか、ソレとも残るか。大金を持ってるとロクでもねェヤツに知られて、面倒なコトになるか。そのへんは全部、オメー次第だな」
「そ、そんな……。そんなこと言われても……どうしたらいいか、分からないよ……!」
「ソレでも、オメーが決めるんだ。『妹を助ける』って決断したみてーにな」
困惑する少年に、なおもディノは語る。
「その目で見てんだろ。たった一年半で変わっちまった村の現状。村長のやったコト。判断する材料は、充分に揃ってるハズだ」
そこで、丘の向こうから一台の馬車がやってくるのが見えた。まだ遥か遠く、豆粒ほどの大きさに見えるが、街道に沿ってディノたちのほうへと走ってくる。
「お、来たな」
「あれは、馬車……?」
「ああ」
出立前に通信を使い、村の近くへ来るまで利用した最寄りの馬車組合――といってもかなりの距離があるが――へ連絡を取っていたのだ。西の森へ来るよう呼び寄せていたのだが、まさに見計らったかのような間のよさだった。凄まじい速度で、ぐんぐんと近づいてくる。とはいえ高速馬車ですら到着まで三時間半なのだから、ここがいかに辺境か分かろうというものだ。
「ここでお別れだ。オレはもう行く」
「えっ……あの馬車で、行っちゃうの……?」
「イヤ。アレに乗るのはオメーらだ。オメーら二人は、あの馬車に乗って帰れ。高速馬車だしな、村まで十分も掛からんだろ。村長どもより余裕で早く着くハズだ。連中が戻ってくる前に、どうするか決めて行動するんだな」
「そ、そんな……急にそんなこと言われても、どうすれば……、あ!」
イェスタは思いついたとばかりに顔を上げて、
「そ、それじゃ兄ちゃん、もう一回雇われてよ! この四十万エスクで、また兄ちゃんを雇う! だから……」
そんな少年の『依頼』を、
「バカ言ってんじゃねェ」
ディノは無下に一蹴した。
「オレの力を見ただろ。この力を借りてぇってヤツァ腐る程いてな、こう見えて忙しいんだ。実はもう、次の仕事が控えてんだよ」
白々しい嘘にも、純粋な少年が気付くことはない。ただ言葉のまま信じ、その小さな肩をガクリと落とす。
イェスタはこちらへ迫ってくる馬車を見つめながら、馬車が到着するまでが刻限だと知りながら、しかし途方に暮れて立ち尽くし――
ディノは、そんな少年の頭に手を置いた。面倒臭いといわんばかりに、舌を打ちながら。
「答え、出てんだろ」
「……えっ?」
「オメー、もう一回オレを雇ってどうするつもりだったんだ? もう、前と同じようには暮らせねェ。そう思ったから、オレに問題を全部解決してほしくて、もう一仕事頼もうとしたんじゃねェのか」
「……っ」
少年は目を見張った。自分でも気付かなかったというように。
そう。問題が全て解決したのなら……村長たちとやり直せると思うなら、ディノを雇う必要などない。このまま、ただ村へ帰ればいい。
「ハッキリ言うが、オレにできるコトはもうねェ。オレを間に挟んで、村長どもと話し合いでもするか? けどオレを使った時点で、ソレは話し合いじゃなくなる。暴力をチラつかせた、ただの脅しだ。何を約束させようと、オレがいなくなった時点で何の意味も効力もなくなる。まさかオレにずっと居ろなんて言わねェよな? あんな辺鄙な村にいつまでも留まってるなんざ、ゴメンだぜ」
それとも、とディノは声を潜める。
「――村長どもを殺してほしいのか? ま、ソレが一番楽な解決法だとは思うがな」
まるで誘うように問う。
そんな悪魔の提案に、イェスタは泣きそうな顔で、しかしはっきりと首を横に振った。
フ、と口元を緩ませて、ディノは続ける。
「今のオメーには、金って名前の力がある。ソレを使って何ができるか。自分と妹が生き残るために、どうするべきか。自分自身で考えて動け」
続く言葉は、どこか。
己自身に、言い聞かせるように。
「……オメーの気持ちは、正直オレにも分かる。居心地のいい……慣れた場所にいつまでも留まっていてぇってのは、何もおかしなコトじゃねェ」
自分が、あの王都でずっと燻っていたように。
「でも、もう戻れねェんだ。割り切れ。何とかなるかも、誰かが何とかしてくれるかも、なんて甘い幻想は捨てろ。オメーが自分で考えて、前に進むんだ」
「よーっと、お待ちィ!」
イェスタが返事をする間もなく、激しい馬の嘶きと共に馬車が到着した。体格のいい初老の御者が、大きく声を張り上げる。馬も御者も屈強そうだ。客室も大きな鉄の箱。激しい雨風はおろか、生半可な攻撃術も通さないだろう。
「ええと? ウチを呼んでくれたディノさんってぇのは、あんたかい?」
「おう」
「こっちとしちゃぁ有り難いけど、金は大丈夫? この距離に高速だからね、お値段の方がさぁ……」
ディノが金を持っているようには見えなかったのだろう。訝しげな目を向けてくるが、
「ホラよ」
遮るように、ディノは御者へ札束を投げる。想定外の大金だったのだろう、御者は目を剥いて絶句した。村の宿の老主人とは違い、金の価値を知っている人間の顔だ。
「ルムリー村までだ。乗るのはこのガキ二人。村に着いたら、またコイツの注文を聞いてやってくれ」
そう言って、ディノはポンポンとイェスタの頭に手を置く。
「はは、ルムリー村? ってこっから東の小さな村だよな。行ったことはねえんだが……問題ねえか。この額なら、国境越えてレフェまでだって行っちゃうよ。兄さんは乗らないのかい?」
「ああ」
金払いのよさからコロッと態度を変えた御者に、ディノは小さく首肯する。
「兄ちゃん……」
座席に押し込まれたイェスタが、潤んだ目を向けてきた。
「何を売られる牛みてーなツラしてやがる。腹ァ括りな」
なお不安げな顔のイェスタに、ディノは頭を掻きながら言う。
「オレにも昔、妹がいたんだけどよ」
「え……?」
「イロイロあったがな……オレは結局、妹を助けられなかった」
「えっ……」
だからよ、とディノは小さな少年の瞳を見据えて。
「イェスタ。オメーはちゃんと、妹を守り切れ」
どこか願うような言葉。託すようなその言葉に、兄はぐしぐしと目元を拭いながらも大きく頷いた。
「シレーナ。兄貴ってのも、苦労が多いモンだ。しっかり支えてやれ」
兄の後ろに隠れながら、妹も確かに頷く。
「よし。いいツラだ、二人とも」
ディノは客室から離れ、御者に声をかけた。
「待たせたな。ところでよ、この道を行くとドコに出る?」
「ん? 道なりにまーっすぐ行けば、小さな宿場町があるぞ。かなーり遠いけどねぇ。そこから更に行けば、もうレフェ方面になるよ」
「レフェか……」
レフェ巫術神国。レインディールにとっては東の隣国となる。独自の文化を持ち、その街並みも珍妙だと聞くが、実際に訪れたことはない。国外へ行く者などというのは、旅人や傭兵、行商人、あとは金持ちの道楽か任務で赴く兵士ぐらいのものだ。
「そういやぁレフェは最近、『神域の巫女』の話題で盛り上がってたけど……何年かぶりに、天轟闘宴の開催も決まったね。景気がよくて羨ましいこった! 兄さん、腕に覚えあるんだろ? 見りゃ分かるよ。出てみたらどうだい?」
「ふーん。天轟闘宴……ねェ。大勢の参加者が潰し合って最後の一人を決める、とかいうヤツだっけか。……ソレも悪かねェな」
「ハハハ。歩いて行くにはさすがに遠いねぇ。乗せて行こうか?」
ディノの景気いい金払いのためか、御者は気味が悪いぐらいに親切だった。
「イヤ。オレはいい。ガキどもを頼む」
「そうかい。それじゃあ、あんたも気をつけてな! 創造神の加護があらんことを!」
手綱捌きに応えて、大きな黒馬が走り出す。重さを感じさせないほど滑らかに、馬車が動き出した。
兄妹が後ろの窓に貼りついて手を振る。ディノは気だるげに左手を上げて答えた。
そんなやり取りをしている間にも、馬車はぐんぐん遠ざかっていく。
「……ったくよ」
最後まで見送らず、麻袋を肩にかけ直して踵を返す。イェスタたちがこれからどんな道をたどるのか、ディノに知るよしはない。関係もない。
昔の自分を見ているようで、少し世話を焼く気になっただけだ。
かつての己のように、全てを失うのか。助言を糧に、生き残るのか。
それは神のみぞ知るところだろう。
(ま、神は助けちゃくれねェがな。……生き残れ、オメー自身の力でよ)
視界に広がるは、見通しのいい平原と、すっかり静寂を取り戻した西の森。
街道沿いに歩いていけば、やがてレフェへたどり着くとのこと。本来は別の街へ行く予定だったが、ここまで来たならば国境を越えてみるのもまた一興だろう。
ディノは軽い足取りで、緑豊かな自然の中を歩き始めた。
こんなにも速い乗り物に乗るのは、生まれて初めてだった。見たこともない速度で、外の景色が流れていく。村で簡素な牛車にしか乗ったことがないイェスタにしてみれば、まるで別世界の光景だ。シレーナも窓に貼りつき、目まぐるしく変わっていく風景に釘付けとなっていた。
イェスタは外を眺めながらも、あれこれ思考を巡らせる。
ニールスが実は生きていて、悪魔を騙っていたこと。そのニールスが消し炭となったことを皮切りに、目の前で繰り広げられた凄まじい闘い。未だに何か夢を見ている気分になってしまうほどだが、現実だ。考えなくてはならない。
この速さならば確かに、あっという間に村へ着くはず。
それまでに決めなければならない。これから、何をどうするのか。
森に入る前の出来事を思い出す。村長の血走った目を思い出す。
(……っ)
村長は……シレーナを連れ戻しに来たイェスタたちを、明らかに殺そうとした。思い出すだけで恐怖に震えそうになる。
けれど。
もう、全部終わった。
これからは、悪魔の影に怯えることはない。生贄を捧げる必要もない。
前みたいに、やり直せるんじゃないか。イェスタは、そう思わずにいられなかった。
しかしディノは、はっきりと否定した。それはありえないと。
本当にそうなのだろうか。
ふと、昔を思い起こす。
村長は元々、優しい人だった。皺だらけの顔に、満面の笑みを浮かべて。小さい頃はシレーナと一緒に、よく遊んでもらったのだ。
村長が悪いのではない。
悪いのは、西の森の悪魔だ。悪魔を装って生贄を要求していた、山賊たちだ。だから村長は、厳しくならざるを得なかったのだ。
「……うん」
見ず知らずの他人ではない。何年も同じ村で暮らしてきた、仲間なのだ。話せば、分かってくれるはず。
この四十万エスクも、村のために使えるはずだ。イェスタとしては正直、金額の桁が大きすぎてよく分からなかった。アメ玉が何個買えるのだろう?
ディノは「殺してでも奪うような人間が出てくる金額」と言っていたし、子供が持っていていいような額でないのは確かだ。
この大金は、大人たちに託そう。そうすればきっと、いいように役立ててくれる――
そこで、馬車がガクンと大きく揺れた。
「っ!?」
何事かと周囲を見渡せば、外の景色がなだらかに流れ始めている。急激に速度が落ちたのだ。
「おらぁ、後ろから来てんのが分からんか!? 端っこに寄った寄った!」
前方から、威勢のいい御者の野次が聞こえてきた。どうやら、街道の真ん中を歩いている者がいたようだ。
「……うどいい、そこの者、ワシらを……」
「……あぁ? 乗せろだぁ!? こっちゃぁ今、大事なお客さんを乗せてるところなんでねぇ! 悪いが他を当たってくんな!」
「……、無礼者め、このワシを誰だと――」
「はぁ!? 知るか、何様だジジイ! 轢き殺されねぇうちにどきな!」
前方から途切れ途切れに聞こえてくる荒々しいやり取りを聞き、
「――シレーナ、伏せて」
「わっぷ」
考えるより早く、イェスタは妹の頭を押さえつけてしゃがませた。外から見えないように。
『もう以前の暮らしには戻れねェんだよ』
そんなディノの言葉が、なぜか今このときに脳裏をよぎる。
「…………、」
イェスタは息を潜めながら、わずかに目だけを窓の縁から覗かせた。
見下ろせば、ゆっくりと走る馬車が、街道を歩いている数人を追い越していく。
――村長たちを、追い越していく。
皺だらけの顔。大きく見開いた瞳。口は大きく開き、肩で息を繰り返している。身体をふらつかせながら、憤怒の形相となって歩く村長の姿は、得体の知れない怪物を思わせた。
「ひっ……」
見てはいけないものを見てしまった気がして、イェスタは咄嗟に身を伏せる。
「おにーちゃん……?」
「しっ……!」
姿を見せない限り、気付かれることはないだろう。しかしそれでも妹の頭を押さえ、一緒に身を低くしながら、イェスタは息すら止めてじっとしていた。心臓がばくばくと脈打っていた。
大地を叩く馬蹄の音が大きくなり、馬車の速度が上がっても、しばらく息を潜めたままでいた。
「おにーちゃん、くるしい……」
「あ、ご、ごめん」
妹の抗議にハッとして、イェスタは――二人は身体を起こす。
窓の外を流れる景色は、元の速さを取り戻していた。後ろを見ても、緑々とした草原となだらかな街道が移ろいゆくのみ。村長たちの姿はどこにもない。
(ダメ、だ……)
もう大丈夫なはず。元通りになれるはず。
そう信じ、身を委ねてしまうことは簡単だ。
しかし。
(……ダメだ!)
その結果、自分が痛い目を見るだけならまだいい。けれど。
「おにー……ちゃん?」
小首を傾げて自分を見上げてくる、小さな妹。
安易な決断を下した結果、自分だけでなく、このシレーナまでもが悲惨な末路をたどることになってしまうかもしれない――。
「……」
シレーナが無言で、寄り添うように抱きついてきた。
「シレーナ……、どうしたの?」
妹は答えない。ただその身体は、小さく震えていた。
どうしたも何もない。つい先ほどまで、恐ろしい目に遭っていたのだ。たった今のただならぬイェスタの様子を見て、不安に駆られたことも理由の一つだろう。
ほんの数時間前の出来事を思い出す。
為す術なく樽に押し込まれ、連れて行かれてしまった妹。何もできなかった、無力な自分。
もしディノがいなかったなら、どうなっていたか分からない。圧倒的な強さで妹を救ってくれた、紅蓮の救世主。
その男が、言ったのだ。
『何とかなるかも、誰かが何とかしてくれるかも、なんて甘い幻想は捨てろ。オメーが自分で考えて、前に進むんだ』
「…………ッ」
――繰り返す訳にはいかない。絶対に。
ならば、どうするべきなのか。
(僕は……僕は……っ!)
妹の肩を抱き、少年は前を向く。
前方、曲がりくねった道の遥か先には、もうルムリー村が見え始めている。
決断の刻限は、すぐそこまで迫っていた。