15. 鉄拳
暴力の塊。
そう表現するに相応しい、風切り音すら伴って振り下ろされたドラウトローの右腕を、流護は――素手で掴んで止めていた。
「……これもてめえらの特徴だ。最初から全力で殴りかかってこねえことが多い」
だからこそ、ミアは助かった。
だからこそ、ミネットは死ぬまで嬲られ続けた。
みしり……と。流護の右手に掴まれたドラウトローの腕が、軋みを発する。
詰まった下水めいた汚い悲鳴を上げて、ドラウトローは残る左腕を振るう。
しかしそれは流護の前蹴りによって迎撃され、へし折れた枯れ木みたいに捻じ曲がった。
躊躇はあった。ミネットを殺され、ミアを殺されかけて。
それでもまだ、自分が『生き物を殺す』ということに、戸惑いがあった。
無論、ドラウトローを殺すことに憐憫じみた躊躇いがあるのではない。
ただ生き物を殺すということに、嫌悪感があるだけだ。
ミネットのときは、考える余裕などなかった。ただ結果として、ドラウトローが死ななかっただけ。研究部門へ送るために止めを刺さなかったが、放っておけば息を吹き返す可能性もあったかもしれない。
護る気があるのなら。確実に、敵を殺せ。
ここは、そういう残酷な世界だ。
日本という国で培った常識や嫌悪感を、流護は殴り捨てる。もう故郷には帰れない。ならば。この世界で、生きるために戦う。自分の力で助けられる誰かがいるのなら、護ってみせる。
――例え。残された時間が、わずかであっても。
この世界へ来て、初めて。
明確な殺意を以って、突き出す打突。
砲弾じみた重さと速度を併せ持った全力の正拳突きが、ドラウトローの頭部を粉砕した。
何かを砕く音。命を砕く音。
よく分からない中身を盛大にぶちまけて、ドラウトローは大地へ転がった。
間違いなく絶命した黒き怨魔を前にしながら、流護は残心の動作を取る。
「――まず、一匹」
歓声が聞こえた。
振り向くと、二階の窓から生徒たちが手を振っている。
親指を立てて応え、流護は歩き出す。
この世界で生き残るための戦いが、始まる。
「――――ん」
ミアが目を開けると、心配そうに自分を覗き込むベルグレッテの顔があった。
「ミ……ア?」
「……ん……、どしたの、ベルちゃ――わっ!」
いつもとは逆に、ミアのほうがベルグレッテに抱きしめられた。
「よかっ……、本当によかった……っ」
「わわ、どしたのベルちゃ……、あ」
そこで少女は思い出す。
「そか、あたし……」
「……よかった。……大丈夫? ミア」
いつも無表情なレノーレが、安堵した表情で優しく声をかけた。
「うん! もう全然だいじょ……、れ?」
ふらついたミアを、ベルグレッテが優しく抱きとめた。宝物のように。
「ばか、無茶しないの。傷は塞がっても、血が足りてないんだから」
そこで、他の生徒たちのどよめきが巻き起こった。
「これは……! いったい、どうなって――」
「索敵担当から報告! ドラウトローの数が……すごい勢いで減っていきます! 二十……十九……、すごい、こんなことって!」
策敵の神詠術を展開している少女が興奮気味に叫べば、周囲の生徒たちにも歓喜が――希望の気配が広がっていく。
「リューゴ……!」
怨魔の数を減らしているであろう少年の名前を、ベルグレッテが呟く。
「……あの人なら、本当になんとかできるのかも」
いつも感情を表に出さないレノーレですら、声に熱を篭らせていた。
「リューゴ、くん……」
ミアは意識がなかったはずなのに、かすかに覚えているような気がした。
自分を抱えて、必死に走っていた流護の姿。
「……うむむ」
なぜか、頬が熱くなるのを感じた。
「――そうだ、今のうちに」
ベルグレッテが素早い動作で、通信の神詠術を紡ぐ。
「リーヴァー、こちらベルグレッテ!」
『ね、姉様? ご無事ですか、姉様!』
空中に浮かんだ波紋から、取り乱したクレアリアの声が響いた。
「なんとか大丈夫よ、今のところはね。……それよりクレア。至急、学院の北にある国境近くの森に、部隊を送ってほしいの。それも、できる限りの精鋭を」
『え? 学院ではなく、ですか?』
「こっちにはさっき『銀黎部隊』を申請したでしょ。例のドラウトローの資料を見て、どうしても気になることがあって」
『で、でも。こんな時にですか?』
「うん。むしろ、こんなときだからこそ……かな。いい? クレア、よく聞いて。今、学院を襲ってるドラウトローは、おそらく――」
その瞬間だった。
「ッ……!? この反応……近くに……、来ますっ!」
索敵担当の少女が叫んだと、ほぼ同時。
凄まじい破砕音が轟いた。
二階の窓ガラスを突き破って、飛び込んで来るは黒い異形。
ドラウトローはその短い足と長い腕を振り回しながら、振り子のように絶妙な均衡を保ち着地した。ついに食堂内へと侵入してきた怨魔を目の当たりにし、生徒たちの悲鳴が響く。
『ね、姉様! 何の音ですか! 姉様っ!』
「ごめんクレア! こっちは大丈夫だから、とにかく部隊をお願い!」
返事を待たず、ベルグレッテは通信を切った。今度は攻撃のために、詠唱を始める。
「アリウミが頑張っとんじゃ。一匹ぐらい……なんとかせなの」
ダイゴスが、その手に雷の棍を召喚する。
「同感っ」
ベルグレッテが、水の剣を喚び出す。
「……うん」
レノーレが、自身の周囲に吹雪を纏わせる。
「先手! 必勝おおおぉッ!」
ミアは起き上がりざまにドラウトローへ雷撃を浴びせかけた。
しかし怨魔は微動だにせず、ミアのほうに顔を向ける。
「……あ、あれっ?」
「はあああああぁぁッ!」
その隙を埋めるように、ベルグレッテが斬りかかった。
「はぁ……、はあっ、は……っ!」
少女はもう限界だった。息は切れ、膝は悲鳴を発している。
そもそも何が起きているのか分からなかった。
この安息日に何をしようかとのんびり思案しながら校舎内を歩いていたら、突然、黒い怨魔が現れたのだ。学院には当然、魔除けの神詠術だってかかっているのに。間違ったって、怨魔など現れるはずがないのに。本気で意味が分からなかった。
「……っ、もう、だめ」
喉が干上がっていた。もう走れない。
隠れようと、手近な一階の教室へと入る。
「――――――」
ドラウトローが、教室の中にいた。一体何の冗談なのか、窓から外を眺めている。
少女が入って来たことに気付き、振り返って笑みすら見せる黒い怨魔。まるで待ち合わせでもしていたみたいな気味の悪さだった。
もうだめだ。終わった。
そう思った瞬間、少女の脇を通り抜けて飛んだ火球がドラウトローに直撃した。
「ボーッとしてんじゃねえ! こっちだ!」
エドヴィンは呆然としている少女の手を引く。
「え、あ」
「やっぱ逃げ遅れたヤツはまだまだいるみてーだな。校舎の連中は二階の大会議室に避難してる! 走れ!」
「う、うん――」
その瞬間、エドヴィンの肺から空気が漏れ出した。
「ご、は………ッ?」
力なく身体を屈め、崩れ落ちる。
「え……?」
少女は、何が起きたのか分からずにただ戸惑う。
ころん……と。エドヴィンの背中から何かが転がった。それは――緑色の石。
「ごっ……、これ、は」
――音鉱石。
ドラウトローが狩りの様子を『記録』するために使うという、音を保存する性質のある石。エドヴィンが痛みを堪えながらゆっくり後ろを振り返ると、その細長い手で石をポンポンと弄びながら佇むドラウトローの姿があった。
「ヤ、ロ……ウ……」
先ほどの火球のお返しといわんばかりに、石を投げつけたのだ。エドヴィンがそれを理解したと同時に、怨魔は振りかぶり――もう一つ、石を投げる。
鈍い音だった。
頭から赤い飛沫を舞わせ、少女は糸が切れた人形のように倒れ伏した。
「――――――――――」
なんだ。なんなんだ。なんで――
「テメェエェェアァァアァァッッ――!」
エドヴィンの手に業火の球が生まれた。
それを叩きつけようと振りかぶった瞬間、指が折れ曲がった。視界に入る――関節を無視した指と、緑色の石。
不発に終わった火球が、その場で力なく消失する。
ぐしゃぐしゃに潰れた指を押さえた『狂犬』の絶叫が廊下に轟いた。
これが現実なのか。圧倒的な怪物の前に、ただ蹂躙されるのみ。
どこまでも単純で、だからこそ分かりやすい弱肉強食。
だけど、負けられねえ。ただで負けやしねえ。刺し違えてでも、ブッ殺してやる――!
歯を砕かんばかりに噛み締め、エドヴィンは顔を起こす。
そうして、見た。
その圧倒的な怨魔をもさらに上回る、究極の弱肉強食を。
外から飛んできた何かが、ドラウトローの頭を弾き飛ばした。それだけで終わった。
まるで輪舞曲でも踊るように一回転して倒れた怪物は、それきりピクリとも動かない。
エドヴィンは、呆然と窓の外へ目を向ける。
校舎の外、広がる緑の芝生の一角に。数日前、自分をあっさり倒した少年が佇んでいた。その手のひらに、石を弄んで。
……ふざけんなバカ野郎。オメーの石は俺の術より強えってのか。どんだけ伝説作る気だ。
「う……ん……」
倒れていた少女が、かすかに声を発した。まだ生きている。
自分の痛みをおして、エドヴィンは彼女を抱き上げた。
窓の外を見れば、少年が親指を立てている。エドヴィンも、無事なほうの手で同じように返す。
「っく、今のうちに行かねーとな……っと!」
カコンッ、と。足元に転がった音鉱石の一つを蹴り飛ばし、エドヴィンは少女を抱えて走り出した。
窓の外の少年も、次の敵を探して歩いていった。
――だから、誰にも聞こえていなかった。
音鉱石を打ち鳴らすことによって発生する、『記録内容』。
エドヴィンが蹴り飛ばし、校舎の硬質な壁にぶつかったことによって流れるその記録に、誰も気付かない。
圧倒的な破壊音。
それによって巻き起こる、数十という規模の――ドラウトローの悲鳴。
過去に記録されたそれは、無人の廊下に反響していた。
黒き怨魔が、長い右腕を突き出すように振るう。
流護はヘッドスリップで躱しざま、右拳をドラウトローの顔面に叩き込んだ。
双方の拳の軌跡が、十字を描く――クロスカウンター。
怪物は動力を停止したようにガクリと膝をつき、前のめりとなって倒れ込んだ。じわり……と、赤黒い血溜まりが広がっていく。
「十」
流護は声に出してカウントする。
次の敵を探して走り出した流護に、すぐさま闇色の残像が降りかかった。
木の上にいたドラウトローの急襲。流護は紙一重でそれを躱し、上段廻し蹴りで迎撃する。蹴り出されたボールのように二、三メートルも地面をバウンドし、ドラウトローは長い両腕を投げ出して転がった。
起き上がろうともがく黒い怨魔の顔に、一切の躊躇なく足刀を叩き込む。
完全に絶命したことを確認し、空手家は歩き出す。
ぐしゃり、と。踏み出した足が、濡れた音を立てて大地に赤い跡を残した。
「十一」
この局面において、技巧の冴えとでもいうのだろうか。
十一体ものドラウトローを仕留めながら、流護は傷の一つすら負ってはいなかった。
この世界で一週間あまりを過ごしたことで、身体が順応している。
当初は弱い重力に振り回されるような感覚もあったが、ようやくこの軽い世界で重い筋力を振り回すことに慣れたのだ。
「うあああぁっ!」
校舎の脇から聞こえる叫び声。
駆けつけると、今まさにドラウトローに襲われようとしている男子生徒の姿があった。
黒き異形の数、五体。
流護は持っていた石を投げつけた。『石を投げる』というとやや迫力に欠けるが、『投石』は立派な攻撃手段である。この世界において流護の腕力から繰り出されるそれは、もはや兵器の域に達していた。
注意を引くための投石で、一体が頭を弾けさせて横転する。
それによって目標を流護に変更し、次々と襲い来る残り四体。その連撃を――躱し、いなし、受け流し、掻い潜る。
つい先ほどまで自分が襲われていたことも忘れたのか、男子生徒は腰を抜かしたまま、その光景をただ呆然と見つめていた。
――どれほどの時間が過ぎただろう。
澄み渡る快晴の青空、静かな昼の学び舎。
生き物の気配が全く感じられなくなった中庭を、流護は一人歩く。
そびえ立つ城壁の下。
黒き影を確認した流護は、無言で、無表情で、近づいていく。
ドラウトローが、わずかに身を竦めるような素振りを見せた。
何体もの同胞を倒され、ようやく気付いたのだろう。
絶対に、勝てない相手だと。
凶暴で残虐な黒い怨魔は、狩られるだけの存在でしかないはずの人間を前にして――背を向け、走り出した。
流護は色のない瞳で、その様子をただ見つめる。
そう。
きっとミネットも、そうやって逃げたはずなんだ。
それを……お前らは、どうした?
未だに忘れられない。
未だに夢に見る。
未だに耳にこびりついて、離れない。
『リューゴさん! 助けてよおおおぉぉおおぉッ!』
ぎり……と、奥歯を噛み締める。
正義の味方のつもりなんてない。彼女が死んだのだって、自分にはどうしようもないことだった。分かっている。
でも、自分には、あったのだ。
あの少女を助けられたはずの、力が。
「…………ごめんな、ミネット」
蹴り足を受けた芝生が抉れ、土を散らす。
刹那の間に、流護は戦意を喪失した相手に追いついた。
躊躇は、なかった。