146. 生贄
喧騒で目を覚ましたのは、昼前のことだった。
こんな時間まで眠っているなど、いつ以来だろうか。慣れない旅を始めたおかげで、知らず疲れが溜まっているのかもしれない。普段は数時間も寝れば充分なのだが。
窓から外を見れば、広場に集まっている十数名の村人たち。
生贄を決めるために揉めているのか。集まった人々の中には、昨日のイェスタたち兄妹や、宿の老主人の姿も見える。
どおりで、起こしに来なければ朝食にも呼ばれないはずだ。
「ハッ、それなりの持て成しで頼むって言ったろうによ」
勝手に大金を支払った『ペンタ』は、とんだボッタクリ宿だぜと笑いながら部屋を後にした。
「村長……今回は、誰を……」
「うむ」
弱々しく声を潜めた村人に対し、立派な白ひげを蓄えた老人――村長が重々しく頷いた。
その両脇には、身体の大きい取り巻きたちが控えている。総勢五人。人相も柄も悪く、真っ当な人種には見えない。
村長は皺だらけとなった顔に不釣り合いな、ギョロリとした双眸を巡らし――
「此度の生贄は――フェグレーン家の娘、シレーナとする」
その宣言に、周囲がざわついた。
「えっ……?」
イェスタが――兄が、呆けた声を漏らす。指名された幼い妹は、ただ無言で固まっていた。何が起きたか分からないといった表情で。
「そっ、村長……しかし、シレーナはまだ十歳になったばかりで……!」
「まだ候補外だったはずでは……、い、いくらなんでも……」
周りの村人たちもわずかに抗議の声を上げるが、
「これは神託じゃぞ。逆らおうというのか」
ぎらついた眼を向けられると、村人たちは押し黙った。
「ま、待ってください!」
兄妹の前に立ち塞がったのは、白髪の混じり始めた中年の男。イェスタたちの父親だった。
「村にはまだ……ッ! ……わ、私とて、我儘は言いません! いずれ時が来ればと、覚悟はしておりました。しかし……シレーナは、まだ、あまりにも……!」
父親は「村にはまだ――」の下に続く言葉を必死で飲み込んでいた。
村にはまだ、若い女性が六人残っている。
その言葉を、懸命に飲み込んでいた。
シレーナは十歳になったばかり。あまりに幼すぎるため、生贄の候補として数えられてはいなかった。父親だけでなく、周囲の者たちからも抗議が上がるのは当然といえる。
が、村長は毅然と答えた。
「他の娘たちは……村仕事にも貢献しておる。もはや少しでも、被害の少ない順で選ばねばならんのだ。ここまできた以上、若すぎるなどと言ってはおれん。とすればフェグレーンよ、今回はお前の娘しかおらんのだ」
「村仕事に……貢献ですって……?」
父親の声が震えた。
誰もが知っている。
残り六名の中に、怠け者で悪評高い女がいると。
村の中では裕福な家の者であるため、一生懸命に働くのは馬鹿らしいなどと罰当たりなことを公言している女だった。
あの女が選ばれてしまえばいい、と内心で思っている者も少なくない。
しかしこれまで、女が選ばれることはなかった。
それどころか今回、本来であれば候補外の、年端もいかぬ子供が選ばれるという事態。
「村長……あんた、あんたまさか!」
『その事実』に気付いた父親が目を見開く。
「……皆の者。時間は無いぞ。準備をせい」
そこからは早かった。
生贄を運ぶための粗末な樽に、シレーナを詰めようとする村長の側近たち。
阻止しようとした父親が側近たちに押さえつけられ、寄ってたかって袋叩きにされた。
イェスタも飛びかかるが、力で敵うはずもなく、軽々と吹き飛ばされて転がる。
「おとーさん、おにーちゃ……!」
「シレーナーっ!」
起き上がったイェスタが懸命に駆け寄ろうとするも、体格のいい男に蹴り飛ばされた。砂の大地に、びしゃっと赤い飛沫が散る。
「ぐ、うぅ、ああぁ!」
それでもイェスタは諦めない。歯を食いしばって立ち上がった。
鼻から血を、両目から涙を流しながら、男たちに挑みかかっていく。
「ガキが! いい加減にしやがれ!」
思い切り顎を蹴り上げられ、イェスタはごろごろと転がった。今度こそ起き上がれず、大の字となって倒れる。
「おにーちゃ――」
シレーナは抵抗らしい抵抗もできず、強引に樽へと押し込まれた。荒々しく蓋が閉められる。
内側から樽を叩く音と、くぐもった少女の悲鳴が漏れるが、村長が冷徹に指示を下した。
「運び出せ」
ガタガタと揺れる樽を乗せた荷車が、村長と五人の側近たちによって引かれ始めた。
集まった村人たちは、為す術なくその光景を遠巻きに見つめるのみだった。
かわいそうに、と口々に呟きながら。まるでそれが、贖罪の呪いであるかのように。
溜息をつきながら宿へ戻ろうとした老主人は、そこで壁に背を預けて立っている宿泊客に気付き、バツの悪そうな顔となった。
「お……お客さん、見てたんですかい」
「ああ。イイ感じで堪能させてもらったよ。閉鎖的な村社会の闇ってトコか? 樽にガキを詰め込むトコなんざ、手慣れたモンだと感心したぜ」
クク、とディノは肩を揺らして笑う。笑いながら、率直に言う。
「長くねェな、この村も」
「私も、正直……そう思いますて。まさか……シレーナが選ばれるだなんて」
老いた主は目をつぶり、ただ悔しそうに首を振った。
(ま、金か――イヤ、この村での金銭価値を考えるなら、女そのものかもな)
ともかく残る六人の娘とやらは、おそらく村長に対価を払って、生贄となることを免れている。
何の意味もない、その場しのぎの延命行為。
誰もが目先の生や金に囚われ、少し考えれば分かりそうな判断すらできなくなっている。
しかしあの村長だけは、金を集めるだけ集めて逃げることも考えているかもしれない。生や金に執着しそうなタイプだ、とディノは分析する。皺だらけの顔に似合わぬぎらついた瞳には、執念の色が宿っていた。あの手の人間は、そう簡単に諦めない。保身のためならば、何でもする人種だ。
「ま、何でもいい。昼メシの準備頼むぜ。朝食ってねェからな、腹が減ってんだ。握りメシを二つ頼めるか」
「え、あ、はぁ……それぐらいでしたら、すぐに」
「そんじゃヨロシク。オレはすぐ村を出る。世話んなったな」
「へ、へえ、さようですか……。嫌なものを……お見せしてしまいましたな……」
主は当惑したように頷き、宿の中へと入っていった。
「お父さん……お父さん!」
悲痛な声に顔を向ければ、イェスタがピクリとも動かない父親を必死に揺さぶっているところだった。自身もケガをしているが、意にも介さず父を気にかけている。
「イェスタくん、そんなに動かしちゃ駄目だ!」
少年は村人たちに引き剥がされ、ぐったりとした父親が運ばれていく。
「ち……くしょう……、ちくしょうッ!」
イェスタは全力で拳を地面へと打ちつける。かすかな砂埃しか舞わないその様は、彼の無力さを象徴しているかのようでもあった。
「よう、小僧」
そこへ、力を持つ者が語りかける。
「に、いちゃん……」
イェスタは涙に濡れた瞳で、砂と血に汚れた顔で、ただ呆然とディノを見上げた。
「僕……どうしたら、いいの……?」
「オメーはどうしてぇんだ」
「そんなの、決まってるよ! シレーナを連れ戻したいに、決まってる!」
力なき少年は、ただ全力で叫ぶ。
「その結果が、何を齎すとしてもか」
「……? 言ってる意味が、分からないよ。シレーナを連れ戻したいって思うのが、いけないことなの……?」
――そんな少年の言葉を聞いて。
『生きたいって思うコトの、何が悪いかよ……!』
かつての自分の叫びが、ふと脳裏に甦る。
「……いーや、オメーは正しいぜ。ハハ、ガキにはちっと難しかったか」
ディノはしゃがみ込み、イェスタと同じ高さに目線を合わせた。
「でも……、でも……っ」
「どうした」
「ここで……ここでシレーナを生贄にしなかったら……、村が……」
「おう、立派な心掛けだ。村のためなら、妹が犠牲になるのも仕方ねェってか? 聖人の素質があるな」
「僕だって、そんなのいやだよ! でも……他に、どうしたらいいの!?」
「考えてみたコトはあるか? 小僧」
諭すように。試すように。ディノは口の端を吊り上げ、その問いを投げかける。
「オメーの妹がこれから生贄になるとして、残りの女は六人だったな。で、その女連中も次々生贄になったとしてだ。さて……その後は、どうなるんだろうな?」
「…………え?」
「捧げるモノがなくなった後……悪魔とやらは、別の村を求めて去るのかねェ? ソレとも――」
村そのものを滅ぼしに来るのかねェ、と。
「生贄を捧げたから、他の人間は見逃す? ねェな。悪魔ってのはタチが悪くて、徹底的に人を食いモンにするそーだぜ。だからこそ色んな伝承に謳われ、恐れられてる。ま、オレが悪魔だったら……証拠は残したくねェからな。ちっぽけな村の一つや二つ……なァ?」
親指と人差し指をくっつける仕草に、少年は顔を蒼白へと染める。
「そ、そんな……!」
「つーワケでだ。断言してやる。オメーの妹が生贄となるコトに意味なんてねェ。無駄死にだ」
イェスタは絶句し、押し黙った。
村の人間たちはこんな状況に陥ってもなお、漠然と考えているはずだ。
生贄を捧げられなくなるまでには、村長が――もしくは神が、何とかしてくれるはずだと。今捧げている娘たちは、それまでのやむなき尊い犠牲。これは試練なのだと。
神を信ずる人間の、ごく一般的な考え方ではある。
おそらくはイェスタも、同じように考えていただろう。自分の妹が、こうして選ばれるまでは。
降りかかる災いを『試練』だなどと捉えることができるのは、当事者のようでいて結局は他人事だからだ。今回選ばれたシレーナにしてみれば、何が『試練』なものか。抗う力もなく、ただ一方的な死を押しつけられるだけ。
馬鹿らしい。
ディノはそんなものを一蹴する。
「簡単な解決法がある」
「え?」
「悪魔そのものを――ブッ倒しちまえばいい」
力なき者には、浮かびすらしない発想。
イェスタはもはやポカンとした表情のまま、言葉を発しなかった。
「オレには……その力があるぞ」
そう、誘うように囁けば。イェスタが唾を飲み込む音が、ディノの耳まで届く。
年端もいかぬただの少年に、詠術士の技量を見抜く力などあるはずもない。しかし。生物としての本能が、感じ取ったのかもしれない。この紅蓮の男に秘められた、とてつもない力を。
「ほん、とに……兄ちゃんなら、……悪魔を……?」
目を輝かせる少年に対し、ディノは「ああ」と口の端を吊り上げた。
「オレは金次第で色んな仕事をこなしててな。オメーがオレに『依頼』するなら、悪魔とやらをブッ潰して妹を連れ戻してやるよ」
「ほん……と……に……?」
それこそまさしく――恐るべき悪魔を前に、禁忌の契約を交わそうとしているかのような。
「っ……、で、でも……僕……お金なんてほとんど……」
「いくら持ってる?」
ディノの言葉に、イェスタは服の内ポケットから一枚の硬貨を取り出した。
「これだけしか……」
五百エスク硬貨。
ミディール学院の食堂で、一番安い定食が頼める程度の金額だった。王都の十三番街周辺ならば、紅茶の一杯すら飲むこともできない。
「ク、クク……ハハハハ……」
「だめ……だよね。これだけじゃ……」
顔を伏せて笑い始めたディノに、イェスタは泣きそうな顔で呟く。
が、
「――いや。いいぜ。充分な金額だ。この仕事、請けてやるよ」
炎の『ペンタ』は硬貨をピンと弾き、空中でキャッチして握り込む。
「……えっ、ほんと……に?」
イェスタは信じられないといった表情でディノを見つめた。
「ただ一つ、条件がある。オメーも一緒に来い。助けた妹を引っ張ってくるのは、オメーの役目だ」
「う、うん!」
少年は涙を拭い、力強く頷いた。
ディノはニヤリと笑みを浮かべたまま立ち上がる。
「で、よく見ておけ。オメーが妹を連れ戻すって決めた結果、何がどうなるのかをな」
言いながらディノは指を舞わせ、通信の神詠術を展開する。イェスタはディノの言葉の意味が理解できなかったのだろう、小首を傾げていた。
「ホレ、オメーもちったぁケガの手当てでもしてこい。西の森まで三時間ぐれー掛かんだろ。しっかり準備しとけ」
「う、うん!」
駆けていく少年を眺めながら、ディノは通信の向こう側にいる相手と会話を始める。
早すぎても、待ちぼうけでも困る。上手く時間を調節したいところだった。