145. 姿なき襲撃
村の外周をぐるりと回ってみれば、崩れた壁の石片がそこかしこに散らばっていた。邪魔にならないよう道の端に寄せられてはいるものの、大小様々な形の石があちこちに転がっている。
壁は高くないが、それなりの厚さだ。これをぶち抜いたのが怨魔ならば、かなり巨大で力のある個体ということになるはず。
(んー……)
ディノは周囲を見渡す。
村近くの街道には、轍が全く見られない。宿の主に聞いた話では、馬車もまず通らないとのことだった。旅人もディノがおよそ一年ぶり。その前は例の占い師、その前が行方不明となったニールス。その間に例の兵士が立ち寄ったことが一度だけ。その他には何年かに一度、行商人が村を訪れるか否かといった程度。
街道を挟んだ向こう側には、見通しのいい草原がどこまでも続いている。
(あるのは壁をブッ壊した跡だけ、か)
これを怨魔の仕業だと仮定した場合、あるはずのものがここにはない。足跡だ。
この壁を壊すほどの怨魔であれば、かなりの躯と力を有していることになる。移動すれば、必ず周囲の柔らかい土に足跡を残すはず。だが、それがない。最後に壁を壊されたのがいつなのかは知らないが、少なからず痕跡が残っているはずだ。無論、飛行型の怨魔による仕業という可能性もないではないのだが……それにしても、体毛などが見当たらない。壁だけを壊し、村そのものを襲わないのも不自然にすぎる。
あるのは、村人のものと思わしき無数の足跡。そして、荷車と思しき小さな車輪の跡。
(……となると)
――壁を壊したのが、人間である可能性。
壁だけを壊し、家屋などに手出しをしていないという点を考えると、怨魔よりも人の仕業であると考えたほうがしっくりくる。悪魔を演出するための脅しといったところか。
というより、ディノとしてはイェスタから話を聞いている途中の時点で『こちら』だと考えていた。
しかしその場合、引っ掛かるのは壁を破壊したその手段だ。
轟音と共に砕かれる壁。
イェスタの話によれば、最初に壁が壊されたときは、きちんと防護の術によって保全がなされていたという。となれば、並の詠術士に壊せるものではない。
(オレなら余裕だが……)
そんな使い手がそう転がっているはずもない。
それほどの術者がいたとして、こんな田舎の村に執着し、一年半もの長期に渡って脅し続けている理由が想像できない。よそへ行って真っ当に詠術士をやるべきだろう。
(ま、理由は置いとくとして……術でブチ抜くのが不可能なら――)
例えば移動砲台などを持ち出したなら、さすがに壁を壊すことは容易だ。
しかしその場合、発射した砲弾が現場に残ることになる。壁のそばにそんなものが落ちていれば、村人も気付くはずだ。
壁が壊されるのは、決まってイシュ・マーニのいない闇夜。
夜目が利けば遠くから壁を壊すこと自体は可能だろうが、暗闇の中、放った砲弾をわざわざ探して回収しているとも思えない。それに砲台ともなれば、立派な兵器。そのあたりの悪漢が容易に入手できるような代物ではない。
「…………」
ディノは村の西を見やる。件の森があるはずだが、この場所からでは見えなかった。実際に行ってみれば早いかと思ったが、かなりの距離があるのかもしれない。
行くとして、どれほどの時間がかかるのか――
――と。勘案しているディノの前を、よぼよぼと歩く老婆が通りかかった。農作業の帰りなのか、鍬を肩にかけ、質素な服も土にまみれている。
「おう、ソコのオバーチャン。ちっと訊きてーんだが――」
具体的に西の森までどれほどの時間がかかるのか。それを尋ねてみようと歩み寄った瞬間、
「あぁんらまイイ男じゃないのォ! こげな歳んなって行きずりのイイ男に声かけられるだなんて、アタスも捨てたモンじゃねっへっへへへ! へーっへへへ!」
「!?」
ディノは不覚にも少しのけ反ってしまった。
「イヤ……ちっとばかし訊きてーコトがあん」
「あらやだ訊きたいことってなに! あんらまアタスの歳!? 歳ね!? いやだわぁ、いくつに見える!? いくつに見えんねもー」
老婆はバシバシとディノの腕を叩く。
「…………イヤ……聞けよ……」
結局聞き出すのに数分かかったが、この村から西の森までは徒歩で三時間ほどもかかるらしい。
遥か天空、朱色に輝く昼神インベレヌスはもう帰り支度を始めている。明日にするべきだろう。
「西の森は……悪いことは言わん。やめときんさいて。イイ男が、死に急ぐこたぁなかよ」
それまでの元気が嘘のような暗い声で言い残し、老婆はとぼとぼと歩いていった。
ディノは薄紅く染まり始めた空を見上げる。
どういう理由か、イシュ・マーニは一定周期でその姿形を変える。上空を漂う雲の量にもよるが、ここ最近の様子からして、今夜あたりにでも完全にその姿を消すのではないだろうか。
(こりゃ、ちょうどいいな)
ディノは踵を返し、宿へ向かって歩き出した。
夕食では、宿の老主人が饒舌だった。
今年は作物が不作だの、どこぞの家の娘が高慢かつ怠け者で皆から嫌われているだの、そういえばイェスタらと一緒にいたそうでだの、あの子たちが小さい頃は村も雰囲気がよくて云々だの、よくもまあ話題が尽きないものだと呆れるほど。
老主人は件の騒ぎが始まる数年前に、妻を亡くしているという。話し相手にも飢えていたのだろう。ディノが興味なさげな様子で食事をしていても、お構いなしに喋り立てていた。
時折、ふと眉根を寄せて黙り込む場面があったが、例の悪魔について話すべきか迷っていたに違いない。しかし結局、彼がその話題について触れることはなかった。
どうでもいい話題ばかりではあったが、昼間の少年――イェスタが語っていた以外の話も聞くことができた。
最初に行方不明となった元旅人のニールスという男は、最初に生贄となったティアッソという女性に想いを寄せていたという。交際を申し込むも断られ、半ば自棄となって周辺地域の調査に乗り出したらしい。
(……ま、心底どうでもいいな)
金や女を前に冷静な判断力を失い、ついでに自分の命も失う、といった者は裏の世界でも腐るほど目にしてきている。
食事を終えてフォークを置くと同時、老主人が窓の外へ目を向けた。大きく古びた窓からは、何の光も差し込んできていない。
「今夜は……イシュ・マーニは、おいでにならんのでしょうか……」
恐れを孕んだ、すがるような呟き。主人がやけに饒舌だったのは、恐怖を紛らわすためであったのかもしれない。
夜の女神が姿を消した晩、村の壁を叩きにやってくるという悪魔の存在。
「……女神不在……ってーコトは、『別のモン』が来る……のかねェ?」
楽しげなディノの呟きに、老主人は跳ね上がるほどその身を震わせた。
「お、お客さん……」
「チラッと小耳に挟んでな」
「……イェスタですか」
フッと笑えば、老人は漆黒に塗り潰された外を眺め、ぽつりと零す。
「イェスタの妹が……シレーナが年頃の娘となる頃には、平和な日々が戻っておることを祈るばかりですじゃて……」
ディノは無言でいた。
願い、祈るだけでは何も変わらないと知る青年は。
――地をも揺るがすほどの轟音が鳴り響く。
ディノは薄明かりの中で読んでいた本から顔を上げた。ふと懐中時計を確認すれば、二時を少しばかり回ったところ。草木も眠るとされる時間帯。
そんな眠るもの全てを叩き起こさんばかりの大音声に、壁や窓がビリビリと震えている。ともすれば地震と間違えそうな振動だが――
「ハッ……」
宿の主人からは悪魔が来るかもしれないとのことで部屋を出ないよう言われていたが、当然ながら大人しくしている『ペンタ』ではない。
ディノは獰猛に口角を吊り上げ、獣のように宿から飛び出した。
音は一度鳴り響いたきり。
外は完全な闇に包まれており、つい今しがたの衝撃が嘘のように静まり返っている。
辺鄙な村とはいえ、一人で駆け回るとなれば、さすがにその敷地は手に余るほど広い。果たして、襲撃者に遭遇できるか否か。
ディノは松明代わりの小さな火球を指先に点し、村の外周部へ向かって走り出した。
「ここか……」
壁伝いにぐるりと回り、昼間は崩れていなかった壁の一部がごっそりと砕け落ちているのを発見した。
派手に石が飛び散り、辺りへと散乱している。
(粉々か。破片が多いな)
そんなことを思いながら周囲を見渡すも、襲撃者の気配はない。索敵の術を展開してみるが、周囲数十マイレの範囲にはこれといった熱源反応も感知できない。
「……」
聞いていた通り、正体不明の何者かは本当に壁だけを壊して去ってしまったようだ。
直感にすぎないが、怨魔ではない。あの怪物たち独特の気配や臭気といったものが感じられないのだ。
かといって、人間の仕業なのかどうか。
音は一度のみ。つまり一撃で、これほどの破壊を撒き散らしている。
一番可能性が高いのは移動砲台による砲撃だが、やはり砲弾は転がっていない。ディノがここへたどり着くまでにかかった時間は五分ほど。闇の中、ディノが指先に点している炎以外に光源は見当たらなかった。撃ち込んだ弾を律儀に回収していったとは考えづらい。
(……どうやって壊してやがる……、っと、邪魔くせーな)
足の踏み場もないほどに転がっている石片の数々を跨ぎ、蹴散らして――
(……石の、破片……、)
ふと、頭の中でよぎる考えがあった。
宵闇の村は、すっかり静寂を取り戻している。誰ひとりとして村人が外に出てくる様子もなかった。
あれほどの轟音、気付かずに寝ているとは思えない。昼間イェスタが言っていたように、襲撃者を恐れて出てこないのだろう。
(ま、とにかくアレだ)
壁が破壊された。それはつまり、生贄を要求する悪魔の合図。
明朝になれば、村で何らかの動きがあるだろう。
ディノは宿へ戻り、朝まで眠ることにした。