144. 呪い
結論からいえば。
村の西部に広がる森に、悪魔が棲み着いたのだという。
今から一年半ほど前。夜空の女神が不在となったある夜、凄まじい轟音が村中に響き渡った。
何事かと村人たちが外へ飛び出してみれば、村を囲う壁の一部が、見るも無残に砕かれていた。人外の何者かによるものとしか思えない破壊の痕跡。
しかしどこにも異形の姿はなく、しかも当時は、村の壁にも魔除けと防護の術が施されていた。
村に何かが侵入した様子は見られず、住民たちにも被害はない。混乱と恐怖の渦へ叩き込まれた村だったが、それ以上は何も起こらず無事に朝を迎えた。
が。魔除けや防護をものともせず頑強な壁を砕いてみせた何者かに、村人たちは震え上がった。
しばらく怯えながら暮らす住民たちだったが、その後は何も起こらず――で終わることもなく、その次にイシュ・マーニが姿を消した晩、同じことが起こったという。
(……壁が虫食いになってんのは、そのせいか)
二度に渡る謎の襲撃を受けて、一人の男が立ち上がった。
「ニールスさんって人で……五年前ぐらいに村に来た人なんだけど、村では一番すごい神詠術が使える人だったんだ。一人で、ヴァンウィップ二匹をいっぺんにやっつけたこともあるって言ってたよ」
少年は拳を突き出しながら、自分のことのように誇らしげに言う。
「……ヴァンウィップって何だ?」
「えっ、知らないの!? 怨魔だよ! ランクCの、すっごいギザギザした牙のある、おっきい犬みたいな……おっかないやつ! ……まあ僕も、本でしか見たことないんだけど」
「ん……あー、アレな。あー知ってる知ってる」
実は心当たりがなかった。カテゴリーCの雑魚など、いちいち覚えていない。しかしそこは話を円滑に進めるため、思い出した体で頷いておく。
「で?」
「うん……それで……ニールスさんが、村のまわりを見回ったんだけど――」
南の川沿い。東の草原。北の沼地。いずれも、異常なし。
そして最後に、西の森へと向かい――
「そのまま帰らなかったワケか」
「うん……」
村には他に怨魔と闘えるような人間もいなかったため、一人で探索をしていたそうだ。
あえて言葉には出さなかったが、ディノにしてみれば迂闊だとしか思えなかった。
魔除けや防護の施してある壁を粉砕するような相手。その正体が怨魔であろうと人間であろうと、カテゴリーCの怨魔討伐が自慢になる程度の者では、立ち向かおうとすること自体が無謀にすぎる。
そのニールスは元旅人だそうだが、その割に危機感が足りなさすぎるだろう、とディノは呆れた。もっとも、勇敢と無謀を履き違えて死んでいく人間など腐るほどいるものだ。珍しいことではない。
ちなみに村に魔除けなどの施術をしていたのもこのニールスだそうで、彼がいなくなってしまったため、現在の村は何の術も施されていない状態となっているようだ。
簡素な術であれば使える者もいるとのことだが、そもそもニールスの術をものともせずに壁を壊している相手。使うだけ無駄ということで、もはや放置となっている。
「どっかデカイ街だとかに報告はしたのか?」
「ううん……助けてほしくっても、どうしようもなくて……」
「おっと。そりゃそうか」
そう。村人たちには連絡手段がない。
生まれてこのかた、王都を訪れるどころか、村を出たこともない者が大半のはず。仮に通信の術が使えたとて、場所も分からない街へ連絡を取ることは不可能。
元旅人かつ村一番の使い手であったニールスも、行方不明となってしまっているのだ。
仮に兵を呼び寄せる手段があったとして、王都や大規模な街から遠く離れた辺境。村としては、兵を呼ぶだけでも莫大な金がかかることになってしまう。おそらく、この村の規模でそれだけの金は工面できない。
「あと、それに……、助けてほしくても……」
「何だ?」
「…………、ううん、なんでもない」
少年はギリギリで思い止まったように口をつぐんだ。
(ま、ともかく――)
本来であれば、この村だけで自給自足から治安の維持から何から何まで、全てが滞りなく回って完結しているはず。そうでなくては成り立たない。生きていけない。僻地の集落とはそういうものだ。
他に助けを求めなければならない事態に陥っていることが、異常なのだ。
もっとも長い歴史を紐解けば、そういった村の力だけでは対処できぬ異常事態に陥り、ひっそりと消えていった集落など山ほど存在することだろう。
「でも、もうずいぶん前だけど……一回だけ、兵士さんたちが立ち寄ったことがあったんだ」
ニールスが消え、当然のように壁を打ち壊されること数度。
何らかの任務の行きか帰りか。本当に偶然、数名の兵士が村に立ち寄ったのだそうだ。
村人たちにとってはまさに救世主。依頼を受けて、彼らは西の森へ向かった。
そして兵士たちは行方知れずになることなく、無事帰還する。
しかし、何も見つけられなかった。
怨魔も。ニールスも。
体毛や糞など、それらしき怪物が棲んでいるような痕跡もなかったという。
村の皆はにわかに安堵した。西の森に棲みついていた得体の知れない何者かは、どこかへ去ったのだろうと。
しかし兵士たちが村を発って数日後、またも夜中に壁が粉砕されることとなる。まるで村民たちの思いを嘲笑うかのように。
「壊されすぎだろオイ。オレを笑かそーとしてんのか。ちったぁ見張りとか立ててねェのかよ」
「無理だよ……。あんな壁を壊しちゃうようなやつなんだよ。もし見張りしてて、そいつに出会っちゃったら……。それに、壁が壊されるのはいつも、夜の女神さまが見てないときだけなんだ。真っ暗になるから、なにも見えなくなっちゃうし……」
村には外灯の一本すら見当たらない。イシュ・マーニがさぼった日には、完全な闇に包まれてしまうだろう。ああいった照明器具なども、それなりの製造技術と神詠術の力がなければ造れない。外灯が存在しないという点だけを見ても、この村の技術の低さが窺い知れる。
少年の言うことにも一理あった。石壁をごっそり粉砕するような相手だ。確かに、見張りがいたところで――
「……オイ。その襲撃で……壁以外に被害はねェのか?」
「え? ひがい? うん……壁だけだね。家とかはだいじょうぶだよ」
「人死には出てねェのか?」
「うん……そうだね、村の中では。ニールスさんみたいに、森に行ったきり帰ってこなくなっちゃった人はいるけど……」
「ふーん……」
壁を砕くほどだ。村に点在している木造の家々が標的となったなら、容易く破壊されるだろう。人が襲われれば、それこそどうなるか考えるまでもない。というよりも、一晩のうちに村そのものが壊滅してもおかしくはないはずだ。
が、
(壊すのは壁だけ……か)
ディノが引っ掛かりを感じた間にも、少年は話を進めていく。
「それで、ある日……村に、旅の占い師さんがやってきたんだ」
「へぇ。占い師……ねェ」
世の中には、特殊な神詠術を扱う者が存在する。
一般に『先詠み』と呼ばれる能力も、その一つ。後に起こる未来の出来事を、漠然とではあるが知ることができるという。
そんな『先詠み』の使い手たちが、主に占い師と呼ばれ重宝されていた。彼らが告げる『預言』によって、政の方針を定めている国も存在するといわれている。
しかし『本物』は少なく、その希少性や神秘性を利用し、悪事を企む偽者が多い。
そのように稀な存在である占い師がこんな辺境の村へ来るなど、どのような気まぐれなのか。無論、本物であれば――の話だが。
「それで、占い師さんが言ったんだ」
『西の森にやってきたのは悪魔だ。奴は腹を空かせておる。壁を砕くのは、餌を求める合図。悪魔はこれまでの合図を無視され、兵を差し向けられ、怒りつつある。次の合図があったなら、翌日、若い娘をひとり西の森へ連れていき、生贄として捧げよ。さすれば、ひとまず奴の腹は満たされよう。無視することがあれば、村は襲われ滅びることになるだろう』
「……フ、ハッ……、ナルホドねェ、一応辻褄は合ってる――ってワケか? クク」
思わず鼻から笑いが漏れた。
随分と具体的だ。さぞ優秀な占い師なんだろうな、とディノは嘲る。
「……となりの家のおじさんも言ったんだ。『バカげてる、そんなことする必要はない』って」
その隣家の男はどこか大きな街へ助けを求めに行くと言って村を出ていったそうだが、それきり帰らなかったとのこと。
占い師によれば、外へ助けを求めようとしたことで、悪魔の怒りを買ってしまったのだという。
「悪魔の怒り、ねェ……。クク、バカにされた占い師が消しちまったんじゃねェのか?」
「そ、そんな! で、でも……占い師さんは、悪魔の仕業だって……」
冗談めかして言ってみたが、道中で獣やら野盗やらの餌食になった……というのが妥当なところだろう。
男が消えたことに多少の責任を感じた占い師は、西の森へ調査に向かうと言い出した。何か、生贄を捧げる以外の手立てが見出せるかもしれないと。
それなりの戦闘術にも長けている、様子を見に行くだけだ――と言っていたそうだが、占い師もまた、戻ることはなかった。
ともあれ、先ほど少年が「助けてほしくても――」と言いあぐねたのはこれだったに違いない。
外に救いを求めたならば、悪魔の怒りを買ってしまう。だから宿の主も村人たちもこの少年も、ディノに助けを請わなかった。
「んー……」
それはともかく、ディノは得た情報について沈思する。
ニールスという男がまず行方知れずに。調査しに向かった兵士たちは何事もなく帰還。そして、占い師がまたも帰らず。
向かった者が誰ひとりとして帰らなかった――ならばゴーストロアにもよくある話だが、この場合は違う。帰らなかった者と帰った者がいる。
森に棲むという悪魔は、なぜ兵士たちを襲わなかったのか。悪魔といえば、神と対をなす存在。怨魔の生みの親という説もある。まさか、兵士たち相手に怯んだ訳もないだろう(ディノとしては、本物の悪魔だなどとは思っていないのだが)。
それにしてもその兵士たちはなぜ、何の痕跡も発見することができなかったのか。
そもそも、占い師はなぜそのような『預言』を残したのか。偽者であれば、自分の利益となるようもっともらしい嘘をつくことが『基本』だが、占い師にはこの『預言』を示すことで、どんな利点があったのか。
まさか正真正銘、本物の占い師だったとでもいうのか。
「どうかした? 兄ちゃん……?」
「……イヤ。続けな」
そうしてある夜。イシュ・マーニが不在となった、宵闇の晩。
またしても壁が、破壊された。
もう、ニールスはいない。兵士たちが都合よく立ち寄ることもない。占い師もいない。
その占い師が残した、「西の森の悪魔に生贄を捧げよ」という言葉――。
無力な村人たちが取れる手段は、もはや一つしかなかった。
村の長が決断を下した。
「僕……今も、忘れられないよ。次の日、泣き叫ぶティアッソ姉ちゃんの声が聞こえてきて……いつも僕たちと遊んでくれた、優しい姉ちゃんだったのに……」
選ばれた若い女性が、生贄として捧げられた。
――そうして、崩壊が始まった。
生餌を催促し、壁を叩く悪魔。応じ、捧げる村。
自分の娘が生贄とされることを恐れ、家族ごと村を離れる者たちも続出した。しかし、王都まで馬車で五日の辺境。まともな神詠術が使えないため馬車を呼ぶこともできず、また金もない。皆、歩いて村を出ていった。
「出ていったみんなは、元気にしてるのかな……」
どこか羨ましそうな響きを含んだ少年の言葉にも、ディノは黙っていた。
辺境の村で生まれ育った、力も土地勘もない人間。本来であれば、村を出ることなく一生を終える者も少なくない。そんな者たちが外へ出たなら、どうなるのか。
街や集落の外は、力が全ての世界。無法者や猛獣、怨魔が跋扈する、暴力に満ちた世界。
この村の周辺地域には怨魔や賊などの脅威はないようだが、新天地を目指していったのなら話は別だ。
その後の顛末など、考えるまでもない。最初に外へ助けを求めにいった男と同じ末路をたどったことだろう。
そうして、一年半。
真の闇が訪れるたびに生贄が捧げられ、村の若い女性は、残りわずか六人にまで減っていた。うち二人などは恐怖に駆られて逃げ出そうとするも取り押さえられ、地下牢に囚われているという。
(ハッ……餌が餌を逃げねェように閉じ込めてるってワケだ)
滑稽だな、とディノは胸中で言い捨てた。
その六人の女を捧げ終わってしまったら、次はどうするのか。大人しく滅びを受け入れるのか。無理もないことなのかもしれないが、恐怖と混乱に支配され、まともな判断が下せなくなっている。
「僕は毎日、神さまに祈ってるんだ。だけど……」
表情を曇らせる少年に、ディノは素っ気なく言い放つ。
「神なんぞは助けちゃくれねェぞ」
「そ、そんな! で、でも……!」
「おにいちゃーん!」
そこで、快活な少女の声が響き渡った。
ディノと少年が同時に顔を向ければ、細い歩道を駆けてくる幼いの少女の姿。
「あっ。シレーナ!」
手を振る少年に呼ばれた少女は、速度を上げて一気に駆け寄ってきた。少年の隣に止まると、肩で大きく息をつく。茶色い髪と好奇心の強そうな瞳が、目の前の少年によく似ていた。
「……何だ、兄妹なのか」
「うん!」
兄は誇らしげに頷く。
「はぁ、はぁ……おにいちゃん、そろそろ帰ってお手伝いしないと……、……この人だれ?」
首を傾げる妹に言われて、兄がハッとする。
「そ、そういえばまだ名前も聞いてなかったよね! 僕はイェスタ。こっちは妹のシレーナだよ。兄ちゃんは?」
「……ディノだ。ディノ・ゲイルローエン」
「な、なんかかっこいい名前だね! いいなあ」
ディノは心中で苦笑する。最強として名を轟かせようとしていながら、少し辺境の地に来ればこんなものなのだ。己の知名度なんてものは。
しかし、いくら何でも相手は田舎の子供。知らないのも無理はない、と自分に言い訳する。
「じゃあ、僕たち行かなきゃ。うぅ……手伝い、やだなぁ」
「おにーちゃんは、ちゃんと練習しないからうまくならないんだよ。わたしはもう、おふろの火をつけるのもひとりでできる!」
「ぼ、僕が上手く火をつけられないのは、薪がちょっと濡れてるだけなんだって」
「……何だ。オメーら、火属性なのか」
「うん。僕もシレーナも火属性だよ。兄ちゃんは何属性なの?」
「オレも同じだ。炎ってのはな、一番優秀な属性だぞ。練習しといて損はねェってモンだ」
「う、うん……」
どうやらイェスタは神詠術の扱いを苦手としているようだ。
少し気落ちした様子を見せていたが、そこでぱあっと顔を輝かせた。
「そうだ兄ちゃん。なにか神詠術、使ってみせてよ!」
「あー? 見世物じゃねェんだが……ま、いっか。どうせ暇だしな」
そこからしばし、兄妹のために火を使った簡単な神詠術を披露した。
戦闘や仕事以外で術を使ったのは、久しぶりだった。
炎とは、最も使い手の多い属性でありながら、扱いが難しい属性でもある。制御に失敗すればその炎は己をも焼きかねず、周囲にも被害を及ぼす。
面倒といえば面倒だが、今のディノにとっては手足を動かすことと大差ない。
「わぁ、兄ちゃんすごいや!」
「すごいー、すごいー!」
ディノの周囲を自由自在に飛び交う小さな炎を見て、兄妹は嬉しそうに声を上げていた。
……まるで、幼い頃の『自分たち』のような。
(……チッ)
ふと、妹のシレーナと目が合う。すると、彼女は引きつったような無理矢理の微笑みを返してきた。人見知りなのか、決して柔和な人相とはいえないディノを怖がっているのか。
「……よう。この村、一緒に遊べるようなヤツも少ねェだろ。寂しくねェか」
何となしに、ディノはシレーナにそんなことを訊いていた。
一瞬だけきょとんとした少女だったが、しかしぎこちなさの消えた笑みを浮かべて答える。
「ううん。おにーちゃんがいるから、寂しくないよ!」
「悪魔だとかよ。怖く……ねェか」
「それは、怖いけど……おにーちゃんが守ってくれる! ね!」
「えっ!? う、うん」
まだ年端もいかない少女だ。すぐ生贄に捧げられるようなことはないのだろうが……。
しかし生贄を捧げられなくなり、村が滅びる段になってしまえば、待っている結末は変わらない。
「あっ!? そ、そうだ、おにーちゃん! お手伝いしないと!」
「あ! わ、忘れてた!」
曲芸めいたディノの術を見て喜んでいた兄妹だったが、家の手伝いのことをすっかり忘れていたようだ。そもそもシレーナがやってきたのは、兄を連れ帰るためだったはず。
慌ててディノにさようならと挨拶を残し、二人は並んで走っていった。
「…………、チッ」
そんな兄妹の後ろ姿を見て、知らず舌打ちが漏れる。
(まだメシまで時間もあるな。ただの……暇潰しだ)
そんなことを思いながら、ディノは腰掛けていた岩から立ち上がった。
悪魔とやらが残した痕跡について、調べてみるのも悪くないだろう。