143. 辺境にて
――時は、有海流護が初任務を受ける数日前に遡る。
「んじゃ、コレで一泊させてもらうぜ」
その言葉と同時。カウンターに札束が放り出されると、頭の禿げかかった初老の主は目を白黒させた。
「え? い、いや、え!? 一泊……え、えぇ~!? い、いくらあるんだべや……これは」
思いもしない大金に目が眩みそう――というよりは、ただ札束の厚さに驚いているといった様子。
金銭がさほど重要視されていないのだろう。基本的には、物々交換や自給自足で成り立っていることが窺える。
たどたどしく金額を数え終わった老主人は、やや呆然とした口調で言った。
「えぇと……こりゃぁ、半月は滞在してもらって問題ない金額でさぁ」
「ハハ。こんな辺鄙なトコに半月なんざ、こっちが願い下げだ。持て成しをそれなりのモンにしてくれりゃ、ソレでいい」
宿の主人は辺鄙と評されたことに多少ムッとしたようだが、驚きのほうが遥かに勝っているようだ。支払われた金と支払った男を交互に見比べる。
「は、はぁ……しかし本当に宜しいんですかい、こんなに……。もし行商人が来たら、あれもこれも買えちまうべさ」
「アレもコレも買ったらいいじゃねェの。ホレ、案内ヨロシク」
「わ、分かりもうした。……ですが……」
言いにくそうに、老いた主は口ごもる。
「お兄さんは、詠術士さんですかい」
詠術士さん、とはまた珍妙な呼称だが、そこは素直に頷いておく。
「ま、そんなトコだな」
「そう、ですか……で、でしたら――」
経験上、ピンとくる。困りごとがあって、手を貸して欲しい。助けてほしい。そんな目だ。
何か言いかけた主だったが、しかし「いえ」と弱々しく首を振り、
「できる限り、早いうちに……この村を出た方が、良いかもしれませんで」
「クク。払うモン払ったら、さっさと出てけってか? 中々に商売人じゃねェか」
「い、いえ! そ、そういうつもりでは! ……ただ……」
一呼吸置いて、老いた主は言いにくそうに告げた。
「この村は……呪われておるんです」
「ふーん」
意を決したような老主人の言葉だったが、ディノ・ゲイルローエンは気のない相槌を返していた。
山間にひっそりと佇む辺境の村。
見つけたのは全くの偶然だった。鍛錬の一環として、地図を参照しながら山中を通って大きな街へ向かおうとしていた矢先、この村を発見した。大雑把な地図だったため、小さな集落などの位置は記載されていなかったようだ。
しばらくは野宿となることを覚悟していたが、やはり村で休めるならばそれに越したことはない。
たどり着いてまず、目についた農夫へ宿の在り処を尋ねたディノだったが、にべもなく「んなもんねえべよ」と返されてしまった。結局野宿か、と舌を打ちかけたところで、思い出したようにここへと案内された。
宿と呼ぶには小さく飾り気もない、木造の平屋。宿泊施設というよりはここで村の寄り合いなどを行い、酒の入った者たちがそのまま泊まったりする場所として使われているようだ。
本格的な宿でなくとも、王都の裏手にあった、あのゴミ溜めみたいな安宿とは比べるべくもない。狭いが小綺麗に保たれた部屋に荷物を置き、ディノは外へと繰り出した。
適当に歩きながら、辺りを眺める。どこを見ても大きな畑が広がっており、夏風が土の匂いを運ぶ。
切り出された頑丈な石ではなく、脆そうな古木で造られた頼りない家々。防護の神詠術が施されているかどうかも怪しい。
兵士が駐在するような施設も見当たらない。王都から遠く離れた小さな村だ。法の加護が及んでいないのだろう。
こうなると、レインディール国土に存在してはいるものの、独自の規則を持っている『別の国』と考えても差し支えはない。そういう村は自警団を結成していたりするものだが、その類もなさそうだった。となれば、村の長あたりが絶対の権力を持っているはずだ。
そんなことを考えながらボンヤリと歩くディノだったが、
「オイオイ、崩れてんじゃねェか」
思わず呆れた声が出てしまった。
村をぐるりと覆う石壁は、所々虫が食ったように崩壊しており、そもそも集落を囲えてすらいなかった。
その壁の高さも精々、二マイレ弱。人が簡単に乗り越えられるほどの高さ。もっとも乗り越える必要すらなく、穴だらけになっている。魔除けの術も切れており、もはやこの石塊には何の防衛効果も期待できない。
ぐるりと見渡せば、村の半分を占めるだだっ広い畑を耕している村人たちの姿。年寄りや子供が多く、若者の姿はあまり見られなかった。特に、若い女性の姿がない。
ディノは適当な路傍の岩に腰掛けて、村を眺める。
ルムリー村という名前だそうだ。
人口、四十人弱。王都からは、馬車で五日ほどの距離。
単純に馬車で五日といっても、ディノがここへ到着するまでには様々な街や村を経由し、山やら谷やらも多数越えている。実際にはもっと近いかもしれないし、思った以上に遠いのかもしれない。
わざわざここを訪れようとする人間はそういないだろう。下手をすれば、村があることにすら気付かないかもしれない。ディノとて、知らず訪れたのだ。
レインディールの外れも外れ、辺境にある小さな集落。まさに、『吹けば飛ぶ』という表現がしっくりくるような佇まい。
二ヶ月前、レインディール各地に散らばったという怨魔ドラウトロー。そのうち、たったの一体でさえここへ来ていたなら、この村は人知れず壊滅していたのではないか。
そう思わせるほど小さく弱々しい人々の集まりが、ここにあった。
つい先頃、『銀黎部隊』の壁外演習があったはずだが、当然というべきなのかこの村には訪れていないようだ。こういった村々を巡回するのも、その目的の一つである。しかしやはり、この村はあまりに遠い。一週間の遠征において、ここまで来るのに馬車で数日かかるのだ。
兵の人手不足もあり、回りきれない部分が山ほどあるのだろうが、このルムリー村も間違いなくあぶれた村の一つだった。
むしろそれこそ、国ですらこの村の存在を知らないかもしれない、と思えるほど。
(ま、壁外演習ってのは……慰問より怨魔の駆除の方が主目的なんだっけか? どうでもいいか)
行き交う人々には、まるで覇気が感じられない。みすぼらしい恰好をした村人たちは、岩に腰掛けたディノの前をそそくさと通り過ぎていく。何か言いたげな顔でディノを見る者もいたが、実際に言葉にすることはなく、うつむいて去っていくだけだった。その表情は、宿の老主人と同じ。何か助けてほしいことがあるも、余所者に言い出せず飲み込む。そんな顔。
(……呪われてる、とか言ってやがったな)
――と。
「こんにちは!」
横合いから明るい声が響いた。
顔を向ければ、年端もいかない少年が笑顔で立っている。
十歳になったか否かといったところだろう。ボサボサに跳ねた、茶色く短い髪。生き生きとした瞳。半袖から伸びる腕に刻まれた無数の生傷と、物怖じせずディノに話しかけてくる様子から、活発な性格が窺える。
「…………」
まるで。小さい頃の――
「兄ちゃん、だれ? 旅の人?」
ディノが追憶に囚われたのも束の間、少年が話しかけてきた。
「旅人……か。ま、そんなトコだな」
ディノはつまらなげに答える。
「そっか……いいな。僕も、どこか遠くに行きたい」
「アテもなく放浪したトコで、野垂れ死ぬのがオチだぞ」
夢見るような少年に、ディノは身も蓋もない現実を突きつけた。
集落を出たなら、そこには弱肉強食の世界が広がっている。肉食獣。怨魔。野盗。
魔除けの施された街道を行ったとて、絶対に安全であるという保障はない。その街道を外れてしまえば、そのまま迷って二度と戻れない可能性もある。ディノですらここへ来るまで、立ち寄った街では必ず周辺地域の地図を購入していた。もっとも街道を外れるどころか、山中を突っ切って街まで最短距離を行こうとしていたディノが言えることでもないだろうが。
余談ではあるが、それら地域図を繋ぎ合わせてみると一枚の大きな絵のようにもなり、ディノであっても外の世界の広さに溜息が出るものだ。
「ココまでも結構な道のりだったしな。外ってのは、ガキが思うほど楽なモンじゃねェよ」
「それでも……この村に、いるよりは」
そう言う少年の顔は、子供とは思えないほど切羽詰っているように見えた。
「兄ちゃんは、詠術士なの?」
宿でされた質問と同じことを少年は尋ねる。
「ま、そんなトコだな」
同じようにディノも答える。
「それ、なら……」
何か迷うように逡巡する少年。これも先ほどの焼き直し、例の顔だ。
困っている。助けてほしい。
「……兄ちゃん。あんまり、この村に長くいないほうがいいよ。この村は……」
「呪われてる、ってか?」
「……う、うん」
少年は、神妙な面持ちでこくんと頷く。
先ほど宿で、主人がぽつりと漏らしていたことだ。ディノとしてはさして興味もなかったため、追及もしなかったが。
「何だ、呪いってのは」
しかし、予想以上に何もない村だ。暇を潰すのに苦労しそうなほどである。
退屈しのぎにと思い、話を聞いてみることにした。