142. 明日からは
薄暗い馬車の中。座席にぐったりと背を預けながら、流護は天井を見つめていた。
――まだ甘かった。
このグリムクロウズへ来た直後、ミネットのことがあって。ひどい世界だと打ちのめされた。
それでも、学院襲撃を何とか凌ぎ、暗殺者たちを退け、さらわれたミアを無事に助け出し、テロ対応にも貢献できた。そうして功績を重ね、遊撃兵となった。
学院も連休に入り、しばらく平和で穏やかな日々を過ごして……これからも何となく、上手くいくんじゃないか。
何の保証もないのに、漠然とそんなことを思っていた。
しかし、違うのだ。
ここは――生き続けることすら難しい、死と隣り合わせの世界。一歩間違えれば、死が顔を覗かせる恐ろしい世界。
理解していたつもりで、まだまだ足りていなかった。
認識が甘いまま、兵士となってしまった……。
そしてここは――何が起こるか分からない、地球の常識など通用しない世界。
コロシテヤル リューゴ
他の生物とは一線を画す、怨魔と呼ばれる存在。解明されていない点も多く、どんな怪物が出てきたっておかしくはない。しかしそれでも、常軌を逸した出来事のはずだ。
……喋ったこともそうだが、どうしてこちらの名前を知っていたのか。もはや訳が分からない。
「……痛っ……」
じくじくと右肩が痛んだ。
そういえば、あの怨魔の一撃がかすめていたのだ。
戦闘の興奮状態と初任務の緊張感が消え始めたせいか、今更になって肩が焼けるような痛みを発していた。
それでも。
今は、そんなことよりも。
「…………ベル子」
自分でもよく分からない焦燥感に駆られて、とにかく彼女の顔が見たかった。
ミディール学院の門を潜ると、誰もいない夜の中庭が広がっていた。
時間は夕飯時を少し過ぎたあたり。
いつもなら生徒の姿も多いはずだが、今は『蒼雷鳥の休息』の期間中。閑散とした明かりに照らされた中庭は、ただひたすらの静寂に包まれている。
流護は身体を引きずるようにして、学生棟へと向かう。
そして、
「リューゴ?」
出入り口の大きな扉の前に、彼女がいた。
「……ベル子……」
涼しげな、水色のドレス。優しげな、慈愛に満ちた表情。呆然と、ああ、こういう顔は母親のフォルティナリアさんに似てるな、なんてことを思う。
「おかえりなさい。ケリスデルさんから連絡があって、そろそろ着く頃かなって――」
当然のように。
ふらつくように歩み寄った流護は、ベルグレッテを抱きしめていた。
「――――――、え? ちょ、りっ、リューゴ……っ?」
困惑を返すベルグレッテだったが、拒絶はしない。
「そ、その、あの、リューゴ……困る……」
「……ごめん」
謝りながらも、離さなかった。
腕に感じる、身体に伝わる、少女の温もり。
ここで理解した。
帰りの道中で胸中に渦巻いていた、得体の知れない焦燥感。その正体。
それは、恐怖だ。
人が死ぬ様を目の当たりにして。兵士という仕事の現実を知って。もし自分やベルグレッテがあんな風になってしまったら、という恐怖。
そして、怨魔が言葉を発したという――それも自分に対して殺意を露わにしたという、得体の知れない現象に対する恐怖。
それらを前にして、いつもの安堵にすがりたくなって。
「……ごめん」
もう一度謝り、流護はベルグレッテから身体を離した。
「……ううん。話、少し聞いてる」
「そっか……」
「私も……いつも思うもの。あのとき、こうしてたら。あそこで、判断を違えてなかったら……って」
ベルグレッテは、流護の手を取った。
「だからがんばろ、お互いに。もっとたくさんの人を、助けられるように。毎日を、笑って過ごせるように」
「……ああ」
何とか、返事を絞り出した。
――と。
「やれやれですね」
闇の中から、涼やかな声が響く。
建物脇の暗がりから歩み出てきたのは――
「ク、クレアっ!?」
驚いたベルグレッテは、慌てて流護の手を離す。その様子にピクリと眉を動かしながらも、クレアリアは言葉を続けた。
「どうでしたかアリウミ殿、初めての任務は。同僚の死に打ちのめされて帰ってくるだなんてのは、熟練した兵士のやることですよ。新兵ならば、まずは自分が生き延びたことを喜ぶべきです」
「……クレアっ」
姉が窘める声を出すが、妹は引かない。
「貴方は強力な戦士に違いありませんが、指揮官でもなければ、人々を救う神でもありません。これからも任務の途上で、同僚や救えなかった人々の死を目撃していくことになる可能性だってあるでしょう。……いえ、目撃するだけではなく……貴方自身が、志半ばで斃れてしまうことだってあり得ます」
少女は、問う。
「遊撃兵になったこと……後悔していますか?」
少年は、答える。
「……まさか」
「よろしいです」
流護の答えを聞いて、クレアリアは満足そうに頷いた。
「クレア……?」
ベルグレッテが怪訝そうな声を出した。
なぜ妹が流護に対してそんなことを言い出したのか、分からないのだろう。答えを聞いて満足そうに頷いた理由が、分からないのだろう。
流護には理解できていた。
クレアリアは知っている。流護が、ベルグレッテに想いを寄せていることを。そして、察している。ベルグレッテと一緒にいたいという理由もあって、流護が遊撃兵となったことを。
だから彼女は、暗に告げているのだ。
「姉様のために遊撃兵にまでなっておいて、これで折れるつもりですか」と。
全くもって、男嫌いの妹さんは手厳しい。
しかし、正論だ。
好きな子と同じ学校に進学して、でも思っていたより勉強がつらくて、へこたれている。今の流護は、そういう状態だ。
誇りを持って騎士を務めているクレアリアからすれば、舐めるな新米と言いたくなるだろう。
「と、とりあえず……ご飯にする? お風呂にする?」
まるで新婚のお嫁さんのようなベルグレッテのセリフにも、
「……今日は、もう休むよ」
流護はかすれた声で呟いていた。
そして、
「……なんか、みっともないとこ見せて、ごめん。正直なこと言えば、今日はキツかった。でも……明日。明日には、いつもの俺に……戻ってるから」
決意して、絞り出した。
一晩寝て、気持ちを切り替える。いや、切り替えろ。こんなことで、やっていけるか。
「リューゴ……」
労るベルグレッテと、
「そうですか」
いつも通りのクレアリア。そして彼女はそのままの口調で、こともなげに言い放つ。
「では……不埒にも姉様を抱きしめたという行為に対する償いも、明日以降にしていただくとしましょう」
「ク!? ク、クレアっ……みっ、見てた、の……!?」
流護も少しびくりとしたが、とにかく大慌てとなった姉に、妹はジトッとした視線を送る。
「……大体、姉様も姉様ですっ。抵抗する素振りもみせず、されるがままになって……」
「それ、は……そのっ」
今すぐベッドに倒れ込みたい気分だったはずの流護だが、そんな二人を眺めていたら、少しだけ心が安らいだ気がした。
思考にも、余裕が生まれる。
「……あのさ、二人とも」
「う、うん? どうかした?」
「何ですか。謝っても許しませんが」
「…………、今回、闘った怨魔なんだけど……。……いや、でも、あれは……」
しかしやはり、口に出すにはあまりにも突拍子のないことのような気がした。
学校の帰りに宇宙人を見たんだけど、と吹聴するのに近いのではなかろうか。
「怨魔……? 未知の怨魔だったのよね。なにかあった? 気になることがあったら、なんでも言って」
「任務にかかわることでしたら、はっきりと言うことをお勧めします。情報の共有は大事ですから」
姉妹二人に後押しされ、口を開く。
流護の素性も知っている二人だ。ダメ元で、話してみる価値はあるだろう。
――そうして、話した。あの出来事を。包み隠さず。
「…………、は? 怨魔が……喋った……?」
それでもやはり、クレアリアの反応は猜疑に満ちたものだった。
「それは……その……、」
さすがのベルグレッテも、疑いを隠せていない。
しかし当然の反応だろう。
いかに常識の当てはまらない怨魔という存在であっても、言葉を話したとなれば、それはイヌやネコが喋ったことと同義のはずだ。
「……ええと……、他の者は、それを聞いていなかったんですよね。目の前で兵が討ち死にし、動揺していたせいもあったのでは」
おそらく初めてだ。クレアリアが、あからさまに流護を気遣っている。語った内容が、あまりに常識を外れていることの証明でもあった。
「俺も……気のせいだと思った。思おうとした。けど、あれは……鳴き声とか、聞き間違えとか、そんなんじゃなくて……」
血走った剥き出しの瞳。その裡に秘めていたものを放出したかのような、あの声。その存在の、確かな――意思の発露。
「……仮に。その怨魔が、人語を解していたとして」
「ね、姉様!?」
ベルグレッテは相も変わらず、この世界では稀有なほど柔軟な思考をみせる。
「その怨魔は、どうしてリューゴの名前を……?」
流護自身、引っ掛かっているのはそこだった。
今日初めて遭遇した、未知の怨魔。
百歩……千歩譲って怨魔が喋ったのはいいとして、なぜあの黒い怪物は流護の名前を知っていたのか。
確かにあの戦闘時、カルボロが流護の名を呼んだりはしていた。あの怨魔が高い知能を有しており、それだけで覚えたのだろうか。
しかし、大勢の兵士たちが入り乱れた戦闘だった。決定打や、止めとなる一撃を放ったのはケリスデルだ。そこで有海流護という個人に対しのみ、殺意を露わにしたのはどうしてなのか。
人類にとって脅威となる怪物たち。ただ「人間ヲコロシテヤル」ならば、まだ納得できない訳ではない。が、あの化物は流護を名指しでそう言った。
「気のせい……だったんかな……」
時間が過ぎ、二人の反応も相俟って、霞がかかったように自信がなくなってくる。
「ひとまず、明日……ロック博士に相談してみたほうがいいかも」
「そう、だな……そうするよ。ありがとう」
ベルグレッテとクレアリアの気遣わしげな視線が痛い。やはり、さすがに言うべきではなかっただろうか。
重い身体を引きずり、流護は二人に背を向けた。
疲れきった少年が学生棟へと入っていく様子を眺めながら、クレアリアはぽつりと呟く。
「しかし、不思議な方ですよね。あれだけの強さを備えていながら、まるで子供のような弱さも持ち合わせている。主義思想の異なる別世界から来たというのも、本当なのかもしれませんね」
ところで、と妹は姉に向き直る。
「未知の怨魔……というのが気になります。そもそも、壁外演習があったばかりだというのに」
「そうね……」
流護たちが遭遇したという、黒い怨魔。
王都やミディール学院、ディアレーの周辺には、カテゴリーD以上の怨魔は生息していない。それこそファーヴナールやドラウトローのように、遠くから流れてきた怨魔が被害を齎すという事例はあるが、基本的には安全な地域なのだ。
そこへどこからともなく現われた、ドラウトローをも上回る怨魔。細かいことをいえば現時点では未知の存在なので、怨魔と呼称してしまうのはおかしいかもしれない。保管書に該当する存在が確認できなければ、新種として認定され、名前もつけられることだろう。
農場が被害に遭い始めたのは二十日ほど前。つまりその頃、怨魔はいずこかからやってきた。そして、ディアレー郊外の林……洞窟に棲みついた。近くの農場から家畜を奪うことで、食料を調達していた。
ディアレーは街の規模も大きく、人口も多い。件の怨魔は洞窟と農場を頻繁に行き来していたことになるが、労働者以外に目撃した者がいない点が気にかかる。その労働者とて、家畜が忽然と消えていたことでようやく異常に気付いたのだ。目撃されないよう、注意を払いながら行動していたとでもいうのか。
そして何より、
「怨魔がしゃべった……かぁ」
「……信じるんですか? 姉様」
さすがに困惑した。
怨魔とは、あまりに未知の部分が多い存在ではある。研究が比較的進んでいたドラウトローですら、新たな習性が発覚したように。しかし――
「……アリウミ殿だからこそ、大目に見ましたが……場合によっては、査問になりかねない発言ですよ」
言葉と神詠術。
それらは、神が人間に与えた恵みだ。そんな『言葉』という恩恵を、おぞましい怪異である怨魔が操ったという。
「ひとまず……研究部門の調査結果を待つしかないわね。もしかしたら、言葉に似たなにかを発する器官を持ってるのかも」
「そう、ですね……」
高い知能を有し、罠や擬態を得意とする怨魔も存在する。それらと同系統の個体なのかもしれない。
漠然とした違和感。言いようのない不安。
そんな感情を胸に、二人は夜空を見上げる。
巨大な夜の女神が、地上を――姉妹を照らしていた。